記録的な暴風雨を伴って日本列島に上陸した台風19号の残した爪痕は痛ましく、河川の氾濫は多くの方々の尊い命を奪い、人々の生活の基盤を根こそぎにしました。この場を借りまして、犠牲になられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。また、行方不明の方々の一刻も早い救出を願ってやみません。
ここ数年来、異常気象と称される自然災害が世界各地で頻発しており、地球規模の気候変動の問題として認識されてきました。その多くは、温暖化ガス削減問題とリンケージされ、環境問題は、全世界が取り組むべきグローバルな政治課題の先端領域として位置付けられてきたのです。もっとも、温暖化の原因については科学的な見地から異論も多く、二酸化炭素の排出量を大幅に削減したとしても、異常気象が消えてなくなる保証はありません。太陽の活動を含む宇宙的な変動に原因があるならば、人の力は微々たるものであり、削減努力も全く無駄に終わってしまうかもしれないのです。
仮に真の原因が不明であるならば、異常気象の問題は、グローバルな課題ではなく極めて国内的な政治課題へと転じます。何故ならば、自然災害から人々の命や生活を護ることこそ、統治の基本的な役割の一つであり、国家の存在意義でもあるからです。国家が誕生した理由については、古来、多くの思想家たちが思索を続けてきましたが、あらゆる物事がそうあるように、存在意義を理解するにはその‘必要性’を探るのが一番の近道です。
人類史を振り返りますと、農業と共に文明が誕生し、小規模ながらも国家も出現します。狩猟採取という移動形態から定住形態への移行は、土地、あるいは、空間の維持・管理という必要性を人々にもたらすのです。永続的に農業を営むためには、多数の人々の労力と組織化を要する治水や灌漑等が必要不可欠な作業となりますし、水利に関する権利を調整する必要も生じます。また、人々が集住するに至ると、衛生管理のための施設や道路や橋などの交通インフラの整備をも要するようになり、やがて、これらの公共施設を基盤として商工業といった新たな産業も生まれてきます。言い換えますと、人々の生活を豊かにし、公共の問題を解決するためにこそ統治機能を要したのであり、およそ定住地と一致する社会空間を範囲として国家の枠組が形作られ、そして、これらの機能を果たすための公的組織としての政府が設けられたと考えられるのです。このように国家の誕生を簡単にスケッチしますと、民主的政体こそが、最も国家の存在意義と合致する国家体制であることが自ずと理解されましょう。独裁者による権力と富の独占とは公共物の私物化であり、人々から統治権を簒奪する行為に等しいのです。
今般の自然災害の頻発は、今日の政治の在り方にも警鐘を鳴らしているように思えます。グローバリズムの掛け声の下で地方のみならず国土そのものが蔑にされ、自然の猛威に晒されるままとなりました。政府にとりましては、自国経済の衰退や国土の荒廃を防ぐよりも、親自由主義を基調とするグローバリズムへの迎合こそが優先課題であったのでしょう。政策運営をみましても、国土の保全に予算を厚くするよりも、水道事業やエネルギー事業をはじめインフラ事業の民営化や自由化に躍起になっています。本来、公共性の高いインフラ整備・保全こそ国民に利益が均霑し、それ故に国費を費やすべき事業なのにも拘わらず…。一方、リベラルを任じる人々も、LGBTやジェンダー・フリー、グローバルな地球環境問題、移民や多文化共生といった、特定の分野にしか関心を示しません。何れの政治家も、国家や統治が人々のために存在していることなど頭にないようなのです。
台風19号の被害状況が明らかになるにつれ、地震災害にも劣らず水害からの復興にも長期的期間と多大な費用を要することが判明してまいりました。相次ぐ天災は、グローバル偏重の果ての国民並びに国土に冷たい政治を憂い、あるいは国民と国土を護る政治への回帰を促す天からのサインであったのかもしれません。そしてそれは、日本国のみならず、全世界の諸国にも共通して言えることではないかと思うのです。
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ここ数年来、異常気象と称される自然災害が世界各地で頻発しており、地球規模の気候変動の問題として認識されてきました。その多くは、温暖化ガス削減問題とリンケージされ、環境問題は、全世界が取り組むべきグローバルな政治課題の先端領域として位置付けられてきたのです。もっとも、温暖化の原因については科学的な見地から異論も多く、二酸化炭素の排出量を大幅に削減したとしても、異常気象が消えてなくなる保証はありません。太陽の活動を含む宇宙的な変動に原因があるならば、人の力は微々たるものであり、削減努力も全く無駄に終わってしまうかもしれないのです。
仮に真の原因が不明であるならば、異常気象の問題は、グローバルな課題ではなく極めて国内的な政治課題へと転じます。何故ならば、自然災害から人々の命や生活を護ることこそ、統治の基本的な役割の一つであり、国家の存在意義でもあるからです。国家が誕生した理由については、古来、多くの思想家たちが思索を続けてきましたが、あらゆる物事がそうあるように、存在意義を理解するにはその‘必要性’を探るのが一番の近道です。
人類史を振り返りますと、農業と共に文明が誕生し、小規模ながらも国家も出現します。狩猟採取という移動形態から定住形態への移行は、土地、あるいは、空間の維持・管理という必要性を人々にもたらすのです。永続的に農業を営むためには、多数の人々の労力と組織化を要する治水や灌漑等が必要不可欠な作業となりますし、水利に関する権利を調整する必要も生じます。また、人々が集住するに至ると、衛生管理のための施設や道路や橋などの交通インフラの整備をも要するようになり、やがて、これらの公共施設を基盤として商工業といった新たな産業も生まれてきます。言い換えますと、人々の生活を豊かにし、公共の問題を解決するためにこそ統治機能を要したのであり、およそ定住地と一致する社会空間を範囲として国家の枠組が形作られ、そして、これらの機能を果たすための公的組織としての政府が設けられたと考えられるのです。このように国家の誕生を簡単にスケッチしますと、民主的政体こそが、最も国家の存在意義と合致する国家体制であることが自ずと理解されましょう。独裁者による権力と富の独占とは公共物の私物化であり、人々から統治権を簒奪する行為に等しいのです。
今般の自然災害の頻発は、今日の政治の在り方にも警鐘を鳴らしているように思えます。グローバリズムの掛け声の下で地方のみならず国土そのものが蔑にされ、自然の猛威に晒されるままとなりました。政府にとりましては、自国経済の衰退や国土の荒廃を防ぐよりも、親自由主義を基調とするグローバリズムへの迎合こそが優先課題であったのでしょう。政策運営をみましても、国土の保全に予算を厚くするよりも、水道事業やエネルギー事業をはじめインフラ事業の民営化や自由化に躍起になっています。本来、公共性の高いインフラ整備・保全こそ国民に利益が均霑し、それ故に国費を費やすべき事業なのにも拘わらず…。一方、リベラルを任じる人々も、LGBTやジェンダー・フリー、グローバルな地球環境問題、移民や多文化共生といった、特定の分野にしか関心を示しません。何れの政治家も、国家や統治が人々のために存在していることなど頭にないようなのです。
台風19号の被害状況が明らかになるにつれ、地震災害にも劣らず水害からの復興にも長期的期間と多大な費用を要することが判明してまいりました。相次ぐ天災は、グローバル偏重の果ての国民並びに国土に冷たい政治を憂い、あるいは国民と国土を護る政治への回帰を促す天からのサインであったのかもしれません。そしてそれは、日本国のみならず、全世界の諸国にも共通して言えることではないかと思うのです。
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