万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

資本主義と自由主義は別もの?

2019年10月09日 15時40分55秒 | 国際経済
10月8日付の日経オンライン版に、ソフトバンクの孫正義氏のインタヴューが掲載されておりました。そのタイトルにおいて目に留まったのは‘ビジョンファンド、夢はヒーローたちの指揮者’というフレーズです。この表現が気になった理由は、それがあまりにも矛盾に満ちているからです。

 交響曲等を奏でるオーケストラを想起すれば誰もが気が付きますように、同形態の楽曲演奏では、‘ヒーロー’の役回りは一般的には指揮者であって個々の演奏者というわけではありません。舞台の前面中央の指揮台で白いタクトを振る指揮者が、楽団員全員に対して各パートの演奏を細かに指示してこそ全体がハーモナイズされ、一つの作品として仕上がるのです。このため、オーケストラによる演奏曲目は、‘○○指揮×△交響楽団による□☆交響曲’といった表現がなされています。その一方で、‘ヒーロー’にその行動を指導する指揮者が存在していたのでは様になりません。‘ヒーロー’とは自ら決断し、誰に命じられることなく自発的に、かつ、勇敢に行動してこそ‘ヒーロー’なのであり、‘ヒーロー’が同時に数十人もいては‘ヒーロー’らしくもないのです。

 同インタヴューを読み進めますと、孫氏は、投資家として情報化時代をリードする革新的なビジネスを支援し、AI企業集団(オーケストラ?)を造り上げたいとする自身の‘夢’を語っているようなのです。しかしながら、その発想自体にどこか違和感があるのは否めません。この違和感、どこから来るのかと申しますと、おそらく、同氏の発想に‘ソフトな全体主義’の影が見え隠れするからなのでしょう。北朝鮮といった全体主義国では、独裁者の一声で参加者に配られたパネルが瞬時に切り替わり、全体の図画が一変するマスゲームが好んで行われていますが、これ程までに厳格ではないにせよ、全体を統括する指揮者の存在を認め、その地位にありたいとする孫氏の個人的な願望が、ある意味において、個々による自立的、かつ、自由な経済活動を認める自由主義経済にとりまして脅威となるのです。つまり、その孫氏の経済観は、経済独裁、あるいは、経済全体主義と表現できるかもしれません。

 戦後、長らく続いたイデオロギーを軸としたアメリカ対ソヴィエトの政治的な対立は、経済分野にあっては資本主義対共産主義の対立として読み替えられてきました。そして、共産主義が政府による経済統制を是としたことから、その敵となる資本主義は、自由主義経済と凡そ同義とされてきたのです。しかしながら、グローバル化と情報化の同時進行を背景として登場してきたIT大手の思考パターンを見ておりますと、資本主義と自由主義は、別ものなのではないかと思うようになりました。

おそらく、上述した孫氏の経済観は投資家、特に、金融財閥を形成している投資家一般に共通しており、資本を有する投資家が経済全体を自らの望む方向に導き、投資先の個々の企業活動をもコントロールし得ると考えているのでしょう。資本主義というものが、一私人に過ぎない投資家が牽引する経済システムを意味するのであるならば、それは、政治的な民主主義とは両立しないに留まらず、真の意味での経済的な自由主義とも違っています。自由な活動主体であり、決定主体であるはずの企業を‘お金’で縛ってしまうのですから。

本来、社会には様々なニーズがありますし、科学技術の分野においても、資本家の関心を引かない人々に恩恵をもたらすテクノロジーは多々あります。また、彼らが切り捨てた、あるいは、潰すべき‘邪魔者’と見していても、人類全体にとりまして宝となる才能を有する人材も少なくないはずです。今日の投資家は、自らの描いたSFチックな未来像に沿ってITやAI分野に投資を集中し、企業に対しても、設備投資や研究開発費を同分野に注ぐように誘導し、かつ、自らのビジョンに賛同する人々しか支援しませんが、こうした利己的な態度はむしろ歪みであり、人類の可能性を狭めているのかもしれません。人類が目指すべきは、少数の資本家が経済のみならず人類の未来社会を決定する資本主義ではなく、個々が自立しており、かつ、指揮者が存在せずとも調和している、自然の生態系により近い形での自由主義経済ではないかと思うのです。

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