前回書いたように今回の沢は結構落差があり深い谷でした。途中道路で分断されていなければ山頂付近まで続く、素晴らしい渓流だったんでしょう。このような沢は島中に数多くあり、そのおかげでこの島は西表に負けない西表とチョット違う自然豊かな生態系築いていたんですが、開発こそ島の発展と考える人が意外や年配の方にも数多く、今持って観光開発という名の自然破壊が加速度的に進行しています。
沢(山)が多いという事は生きていくのに一番大切な水も豊富で、昔からお米を作り沢沿いには棚田が沢山ありました。ただこの島の棚田は「細かい段差で沢山作る」と言うのが特徴だと文化財課のAさんに教わりました。今回調査している地域の幾つかの沢にも棚田の跡が残り、6~70年代の空撮を見ると当時の様子が良くわかります。沢筋を中心にその脇の斜面を段々に整地し、この画像のように大きい岩の後ろに細かい石を沢山積めた畦を何段も築きます。棚田があった場所は平面になっているので今回の調査でも棚田跡を歩く時は「沢歩き」という感覚とチョット違った感じでした。
こんなキノコも見る事が出来ましたが、人が手を入れて自然の形態を一度壊されてるせいか、本来山で見かける植物でも何でも物凄く少ないです。沢沿いの棚田が放棄されてから3~40年たったくらいじゃ、本来の自然には戻れないんですね。
高さ数メートルの滝の上から下で調査している様子を撮りました。今回の参加者は10人以上! 色んなスペシャリスト達が一度に集まって、水中の生物、動植物、地質などを大まかに調べていき記録していきます。
こんな山の中、たいした面積の田んぼが作れる訳でもないのに何故ここまでして棚田を作っていたんでしょう? オイラ達が考えたのは「人頭税」の名残です。とにかく酷い税金(年貢)の取り立てで、当時の人達は悲惨な思いをしていました。だってお米を作っても全て納めないといけない、自分たちで食べる事が出来ないんですから。そんな時代にお悪人の目を盗んで山深い沢沿いに田んぼを作り自分たちの食料にしていたんじゃないか?もしくは少しでも収量を増やす為そこまでして田んぼを作らなければ足りないくらい人頭税が厳しかったのか?!、です。その時代(人頭税1903年廃止)に作った山中沢沿いの棚田を6~70年代まで使っていたのか?その辺りはもうちょっと調べて見ないといけません。
そんな調査も踏まえ、地元の方にはそのうち「自然・文化観察会」として、棚田があった沢のどれか手頃なのを歩いて、見て、感じで貰おうと考えています。棚田や薪拾いなどに利用した古き良き時代の「里山」だったのか、人頭税に苦しみ苦肉の策として編み出された棚田だったのか・・・、