写真は、おそらく芋類の蔓。女性はこの先の市場に売りに行くところ。(2004年、雲南の広南にて。)その日の夕食には、その植物の蔓を入れた、塩と胡椒のみであっさりと味付けされたスープが出された。それほど固くもなく、食べやすい味である。ちなみにその翌日は地元のカボチャの乱切り塩味スープ。そこにはカボチャの蔓が入っていた。固めの毛が口の中で意外な歯触りを生んで、これまたおいしく感じた。
【どこよりも多い、黄色色素】
以前もブログで書きましたが、えんどう豆には、さやも含めて食べられる莢の軟らかいもの(スナップえんどうやさやえんどう、グリーンピースなど)と莢は固くて食べられないけど、乾燥させて豆は貯蔵できるもの、の2種類があります。
豌豆粉はこの莢の固い方の豆を使います。莢の固い方はヨーロッパでは白いポタージュに、インドではひよこ豆となってカレーの具材に使われます。これらユーラシア大陸のものは一般的には白豆です。中国も同様です。
ただ日本では、不思議なことに遣唐使がえんどう豆を持ちこんで以来、豆かんやみつ豆に使う赤豆、信州や山形のおやつの青豆などおやつ系が主流で食事としての白い豆は、現在まで広まりませんでした。
そして、雲南。
ご紹介した2005年のオーストラリアと中国の国際調査によって、雲南独自の種が多く存在し、それらには黄色い色素が多く含まれていることがわかったのです。
つまり、雲南の豆を使って豌豆粉を作ると、自然と黄色になってしまうというわけです。黒色が強いものもあり、それは麗江で有名な「鶏豌豆粉」の黒い豆腐のようなものを生み出します。
このような特色のあるえんどう豆が、なぜ、雲南には存在しているのでしょう?
その秘密を解き明かす記述を明、清代(1368年 - 1911年)の本に見つけました。
明代に南京の太常寺に勤務した進士(エリート役人)の王世懋(1536~1588年)は
「そら豆は初めに熟すると甘い香りがする。種は雲南からのものが飛び抜けてよろしい。」(『学圃雑疏』)
と書きました。南京在住の知識人が雲南のそら豆を絶賛しているのです。
また、清の時代に南京から雲南に出向した進士(エリート役人)の檀萃(1724~1801年)は、
「滇(雲南のこと:筆者注)では豆が重要である。煮て菜とし、雑糧は炊いて飯とし、洗って粉とする。そら豆はハルサメ(粉条)にする。豌豆も同じようなたぐいで、洗って粉とし、滇人はその蔓も食べる。名を豌豆菜という。」(『滇海虞衡志』)
と豆、なかでもそら豆とえんどう豆が雲南で食の中で重要だったことを指摘しました。食べ方も粉にしたり、ハルサメ状の麺にしたり、炊き込んだり、蔓まで食べるあたりも今の同じです。
つまり、口の肥えた首都に暮らす人々に一目おかれる豆が、日本の室町時代ごろの雲南にはあったのです。そして有難いことに、あまり変化を望まない雲南の農民によって現在まで受け継がれてきた、というわけです。
昆明に隣接する宜良県の県志では、
「そら豆は明の初期に江南地区から大量に移り住んだ屯田兵が持ちこみ、成功したものだ。雲南のものとは宜良を指す」
と推測しています。
(つづく)
*明けまして、おめでとうございます。今年はよい年になりますように!
【どこよりも多い、黄色色素】
以前もブログで書きましたが、えんどう豆には、さやも含めて食べられる莢の軟らかいもの(スナップえんどうやさやえんどう、グリーンピースなど)と莢は固くて食べられないけど、乾燥させて豆は貯蔵できるもの、の2種類があります。
豌豆粉はこの莢の固い方の豆を使います。莢の固い方はヨーロッパでは白いポタージュに、インドではひよこ豆となってカレーの具材に使われます。これらユーラシア大陸のものは一般的には白豆です。中国も同様です。
ただ日本では、不思議なことに遣唐使がえんどう豆を持ちこんで以来、豆かんやみつ豆に使う赤豆、信州や山形のおやつの青豆などおやつ系が主流で食事としての白い豆は、現在まで広まりませんでした。
そして、雲南。
ご紹介した2005年のオーストラリアと中国の国際調査によって、雲南独自の種が多く存在し、それらには黄色い色素が多く含まれていることがわかったのです。
つまり、雲南の豆を使って豌豆粉を作ると、自然と黄色になってしまうというわけです。黒色が強いものもあり、それは麗江で有名な「鶏豌豆粉」の黒い豆腐のようなものを生み出します。
このような特色のあるえんどう豆が、なぜ、雲南には存在しているのでしょう?
その秘密を解き明かす記述を明、清代(1368年 - 1911年)の本に見つけました。
明代に南京の太常寺に勤務した進士(エリート役人)の王世懋(1536~1588年)は
「そら豆は初めに熟すると甘い香りがする。種は雲南からのものが飛び抜けてよろしい。」(『学圃雑疏』)
と書きました。南京在住の知識人が雲南のそら豆を絶賛しているのです。
また、清の時代に南京から雲南に出向した進士(エリート役人)の檀萃(1724~1801年)は、
「滇(雲南のこと:筆者注)では豆が重要である。煮て菜とし、雑糧は炊いて飯とし、洗って粉とする。そら豆はハルサメ(粉条)にする。豌豆も同じようなたぐいで、洗って粉とし、滇人はその蔓も食べる。名を豌豆菜という。」(『滇海虞衡志』)
と豆、なかでもそら豆とえんどう豆が雲南で食の中で重要だったことを指摘しました。食べ方も粉にしたり、ハルサメ状の麺にしたり、炊き込んだり、蔓まで食べるあたりも今の同じです。
つまり、口の肥えた首都に暮らす人々に一目おかれる豆が、日本の室町時代ごろの雲南にはあったのです。そして有難いことに、あまり変化を望まない雲南の農民によって現在まで受け継がれてきた、というわけです。
昆明に隣接する宜良県の県志では、
「そら豆は明の初期に江南地区から大量に移り住んだ屯田兵が持ちこみ、成功したものだ。雲南のものとは宜良を指す」
と推測しています。
(つづく)
*明けまして、おめでとうございます。今年はよい年になりますように!