雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

二度目のロンドン57 ポートベローのサマーフェス(ノッティングヒルのフリーマーケット)1

2024-11-24 14:47:52 | Weblog
写真はノッティングヒルの高級住宅地の人だけが入れる共有庭園に貼られていたポートベローサマーフェステバルについての張り紙。大勢の人が訪れることを警戒して「あなたの安全のために抜き打ちで荷物検査を行うことがあります」と書かれている。祭りのにぎわいと治安とのバランスは高級住宅地ならより一層、悩ましい問題なのだろう。

【ポートベロー通りのマーケット】

「二度目のイギリス⑦」の回で触れていたhttps://blog.goo.ne.jp/madoka1994/e/c850579c776c2263ddaa186d73212631でポスターにあったノッティングヒルの青空マーケットに行きました。

 ガイドブックによると、ロンドン各所で行われている青空マーケットのなかでも最大クラス。とくに骨董市が立つ土曜日は2000以上の店がひしめき合い、身動きが取れないほど、とのこと。でも今回でかけたのは通常の土曜日ではなく、ポスターにあった2019年7月21日の日曜日の「ポートベローサマーフェスティバル2019」です。

 10時半ごろに家のあるベイズウオーターからノッティングヒルエリアを目指して歩きます。どこまで行っても静かな日曜の朝です。あれ、おかしいな、と惑いつつ地下鉄ノッティングヒルゲート駅まできたとたんに雰囲気がいっぺん、同じ方向に向かう人々でいっぱいになりました。

 いずれもわくわくした足取りで、確信に満ちています。駅から10分ほどの距離をその人たちに付いていくと、にぎやかなマーケットが見えてきました。

 街区の中心から周辺へと同心円状に描かれた道路の一つであるポートベロー(Portobello Road)通りに沿って小さな露店が約1キロにわたってひしめき合っています。道がもともともっている歴史的な風貌とよくマッチしていて、予想通りおしゃれな雰囲気です。家にあった古本から、使い込まれたさまざまな洋食器、絵はがきに古着、手作りのアクセサリーなどなど。店先を見ていると、出店者の好みがくっきりと見えてきて楽しい。

【透かし模様だった!】

洋食器を並べた台をじっくりと見て

「これ、さわっていい?」

と台の後ろに立つ、抜けるように白い肌にクリンクリンの豊かな金髪の若い女性たずねると

「どうぞ。この食器はおばさんが使っていたの。ずいぶん前のものらしいわ。」

と、一つひとつ丁寧に説明してくれました。この日曜日は近所の人たちのガラクタ市的性格だとポスターに書かれていた通りでした。

 家から持ち運んだだけ、といわんばかりに、どの品も、もうちょっと磨きこめばいいのに、と心配になるほどの状態。触れると手にほこりはつくし、優雅な模様のへこみには長い年月による黒ずみが入り込んで模様を色付けしています。
 白地に細かく植物紋の透かしが入った上品な平皿が気に入りました。皿をひっくり返すと「Wedgwood」の文字。ブランド品です。でも本来なら、より豪華にみせていたであろう縁に描かれた銀色は、ところどころ剥げ落ちていました。

 値段交渉するまでもなく

「2ポンドでどう?」

 というので、即決。娘のみやげにしました。

 帰国後、買ったお皿を丁寧に洗剤に付けて洗ったら、あら不思議。灰色の植物文様と思っていたものは、透明の透かし彫りに変身。



もともと高級住宅地にある立地なので、近所の人が主体のマーケットは、なかなかに掘り出し物があふれていました。

※参考
Events — Portobello Road Market

                              (つづく)
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二度目のロンドン56 おもむきのあるソールズベリー大聖堂④

2024-11-17 14:55:08 | Weblog
【世界最古の現役時計】
もう一つの目玉が現役で時を刻む世界最古の機械式時計です。1386年に製作され、いつの間にか放置されました。復活したのは20世紀になってから。

1928年に「時計学」マニアのT. R. ロビンソンに発見され、1956年に修理されて再稼働しました。高さ1.24m、 幅は 1.29 m、奥行は 1.06 mと大きなもの。現代人が思い描く、時計盤があって、時間が即座にわかるものというものではなく、、時間が来たら鐘がなる、という仕組みのものです。

だから、大聖堂の片隅にあるこの時計の前に来た人は、たいてい、ふわーっとみて写真をとって、それから首をかしげて、スーッと立ち去る、という動き方が続いていて、廊下でぼーっとみていて、ちょっとおかしかったです。

http://asait.world.coocan.jp/kuiper_belt/time/salisbury_cathedral_clock.htm


【どの角度からも大聖堂が見えて迷うことなし】
大聖堂が現在の地に移転するとともに街も徐々にここに移転しただけあって、大聖堂の周りは中世から抜けでたような街並みが続いています。そして寒い私を暖めてくれる服も売っていました。
 山用品のコーナーには、セールの札が下がっていて、必要に迫られて深く吟味せずにくしゃくしゃのジャンバーを買って帰ったのですが、これがすぐれものでした。イギリスで購入した服は、いずれも日本に帰ってからちょっとおしゃれで、品があって、素材もよく、たいへん重宝しております。

安く買ったものほどその傾向が強く、元値が高くてうんと値下げされていても、そもそも高い製品の服は、いまではタンスのこやしに。普段使いのものがいいようです。

製品はメイドイン「チャイナ」が圧倒的に多かったのですが、デザインや目利きのこだわりがどんな格安製品にも平等に働いているのでしょう。

このようにステキなお店がかわいらしい風情で並んでいました。街には水路が多く、いずれもゆったりと流れています。緑はあくまで濃く、湿度もたっぷりでとても趣きがある街。どこを歩いても聖堂が見下ろしているので、迷うこともありません。そして聖堂から10分も歩くとソールズベリー駅。歩いて楽しい散歩の街でした。

【ロンドンから交通至便】
これだけいろいろ楽しんで夕方に電車に乗ると夕飯にはロンドンに戻れるという距離感もまた魅力的です。でも、いつか『日の名残り』の主人公のように、この街に泊まって、もっとゆっくりと時を過ごしてみたい。
 そんな魅力にあふれていました。
(ソールズベリーの章、おわり)
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二度目のロンドン55 おもむきのあるソールズベリー大聖堂③

2024-11-10 16:20:56 | Weblog
写真はソールズベリー大聖堂にあるマグナカルタが置かれた小部屋。大英図書館で「原本」をみた知人は、ソールズベリー大聖堂にあるのはレプリカか、それに準じたものだと勘違いしていた。


【4つの原本】
ソールズベリー大聖堂の目玉の一つが、「マグナカルタ」の原本の展示です。現在、4つの原本があるなかでもっとも保存状態がいいもの、とのこと。

現物を見ながら口々に「これがマグナカルタね」と興奮気味に話している金髪の方々を見たので、つい私も「これが世界に存在している唯一の原本なんだ」と感激していたのですが、よく考えると原本が4つ、というのは、不思議です。

調べてみるとマグナカルタはラテン語の「文書」で、1215年、1216、1217、1225年の4回にわたって、少しずつ内容が変更されながら写本されイングランド各州に配布されました。そのうちの1215年のものを「原本」と呼び、当時、13種の「原文」をつくって国中に送ったなか、現存するのが4つだけになったということでした。一つはここ、もう一つがリンカン大聖堂、あとの二つが大英図書館(一つはカンタベリ大聖堂にあったものを収蔵)にあります。

参考文献 朝治啓三:講演:デイヴィッド・カーペンター「マグナ・カルタ―その歴史的意義,新視角,新史料」及び,セミナー「ヘンリ世治世 1216-1272年」―翻訳と解釈 file:///C:/Users/madok/Downloads/KU-1100-20190318-02.pdf
關西大學『文學論集』第68巻第号

※つい最近まで30度以上の気温が連呼されていたのに、いまや10度以下、場所によってはもっと低い気温になる今日この頃。一昔前の日中18度なら「ちょうどいい」か「ちょっと涼しい」くらいだったはずなのに、35度以上に耐えていた身体にとっては、急に20度ほどの気温差でびっくり。
 以前とは違う激変気候に身体は気づいていたのに、頭が気づかず風邪を引いてしまいました。
 症状は一瞬39度をかすめ、以降は平熱になるも、咳が出て、声が出ない。これがしつこい。
みなさまも、あたたかくしてお過ごしください。
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二度目のロンドン54 おもむきのあるソールズベリー大聖堂②

2024-11-03 15:21:12 | Weblog
ソールズベリー大聖堂では、不思議な彫刻がそこかしこに見られる。リアリティあふれる苦悶の表情を浮かべる男は何者? 少なくとも彫刻家の身近にモデルはいただろう。それが何を模していたのか…。

【大聖堂のお引越し】
ソールズベリー大聖堂には、聖堂の歴史が丁寧に解説されたパネルが展示されていました。それを読むと、「オールドセーラム」にあった大聖堂がこの地に移転した理由の一つには王と教会との対立があったようです。展示をヒントに歴史を調べるとおおよそは以下の通り。

プランタジネット朝のジョン王(在位1199年~1216年)はフランスとの戦に負け続け、さらに1209年には教皇から破門され(1213年には教皇からの要求を呑む形で破門を解かれる)弱り目に祟り目状態。さらに戦費調達を貴族らに強いたことから、貴族らが自らの権利を守るために1215年につくった「マグナカルタ(大憲章)」を受け入れる事態となりました
(国王の権利に制限を設けたことなどを定めた文書。のちに英国憲法のもっとも基本的な部分を担うものとなり、アメリカ合衆国憲法にも影響を与えました。私の個人的な思い出としては高校で世界史を学んだ時、意味はわからないけど印象的な単語の筆頭格でした)

そのころのオールドセーラムの司教リチャード・プーアは大聖堂の拡張を願ったものの、王は許可せず。そこで王を飛び越して教皇からの許可を取り付けて、ジョン王の次のヘンリー3世の時代に、プーア自身の領地に大聖堂を建てて移転したのです
(1220年より新大聖堂の基礎工事、開始。1226年に旧大聖堂は正式に解散。)

それにともなって、住民も新しい大聖堂のほうへと移動し、今日までソールズベリーの街として続いています。

もう一つの移転理由は、オールドセーラムが不便だったから。風が強く、深い井戸を掘らないと水も入手できない。さらに丘の上にある要塞なので街の拡張もできない。

「(オールドセーラムの」発掘調査で多数の井戸が発見されましたが(ノルマン砦内の井戸を含む)、それらが非常に深かったため、川から上って水を運ぶよりも使用が面倒であったことが示唆されています。」

Baldwin, R. (1774). A Description of that Admirable Structure, the Cathedral Church of Salisbury. London, GB. Retrieved 3 January 2015 – via Archive.org. SUBTITLE With the 
Chapels, Monuments, Grave-Stones, and their Inscriptions. To which is prefixed, an Account of Old Sarum(英語wikipedia「old sarum」より)

との発掘調査も。

そのほかにも、ウェストミンスター寺院(1245年~14世紀末)やリンカン大聖堂(1185年以降~1311年)などが同じ時期に再建設されているので、大聖堂建設ラッシュの時代だったともいえます。司教の力が強く、王の権限が制限されたことで、建設できるほどに安定した時代となったわけです。
                             (つづく)

参考資料:
朝治啓三:講演:デイヴィッド・カーペンター「マグナ・カルタ―その歴史的意義,新視角,新史料」及び,セミナー「ヘンリ世治世 1216-1272年」―翻訳と解釈 file:///C:/Users/madok/Downloads/KU-1100-20190318-02.pdf
關西大學『文學論集』第68巻第号

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