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通海の民族⑦モンゴル族

2014-06-21 11:32:26 | Weblog
写真は全国でも最貧県とされている雲南省南東部の文山州の西「田寿(で一字)」県の様子(2004年撮影)。雲南省では政府が道路などの設備を作っているため「扶貧県」と呼ぶ。
 赤ちゃんのための正方形のおぶい布と帽子には細かくて色鮮やかな刺繍が施されており、民芸的価値すら感じる。代々使われているものなのかもしれない。
 現金収入は少ないため、結婚費用も出せず、嫁をもらうこともできないので、村内のみでの婚姻が進むことが問題となっており「一族以外と結婚しよう」などとのスローガンがペンキで書かれていた。山に囲まれていて、一番近い市場からも車で1時間はかかる。
 ただ、家族が常に寄り添って歩いたり、畑仕事をしたりしており、子どもはとても大事に畑脇の籠に寝かせられたり、おぶわれたりしていて、勝手な通りすがりの視点なのだが、ほっとさせられた。

【「恨み」は世代を越えて・・】
 元朝末期にして明朝初期、明の太祖・朱元璋が中国大陸をほぼ手中に収め、残るは雲南という頃。モンゴル人の多くが雲南から北方の高原へと急ぎ逃げ帰る一方、少数ながら雲南入りするモンゴル人もいました。これには2パターンあります。典型的な事例を取り上げましょう。

たとえば元朝枢密院の「ホトティムール(虎都帖木児)」。大都(北京)で政治の中枢にいた彼は明軍に投降し、最終的に雲南入りに加わりました。その戦闘で功績があったため滇南臨安衛(建水)に命ぜられ、次に通海でも任について、一家あげて雲南に移住しました。

彼は寝返り組なので、世代を越えて居心地の悪さが付きまといます。

1368年(明の洪武元年)、明の幹部の大粛正の時。虎都帖木児の母方の祖父が中央政府高官だったため死は免れたものの、「虎会喫猪」(虎は豚を食らう)ということわざにひっかけて、「猪」は明の朱元璋の「朱」と同音であることから、「虎」姓が朱元璋一家に災いをなすとの迷信が流れ、追われる形で山西省の大同に。
あまりの根拠のなさに例の外祖父が朱元璋に訴えて首都の南京に戻ることができたのですが、明朝に反しない誓いを立てるため「虎」姓から「火」姓に変えて、ようやく復職できたのです。後に、雲南に派遣され、8代、雲南で任官できました。

さて、モンゴル族全体が冷遇された漢族主体の明朝が終わり、元朝と同じく異民族の満州族が統治したため、モンゴル族でもよい官職が得られる清の時代に入ると、彼の子孫はそのルートから外されてしまいます。明に忠誠を尽くしたかどで、任官できず、ついに農民に身を落としたのでした。

13代目には一族の一部は通海から文山州の硯山、さらに現在中国では最貧県の一つに数えられている硯山より山奥の西(田+寿)県に移り住み現在に至っています。

1984年にかれらの一部は漢族からモンゴル族に民族を戻したということです。

改革開放期に入って、漢族から別の民族に戻す動きが見られますが、これには少数民族だと子どもが1人以上、産めたり、大学入学時も特別枠などの優遇があったりすることとも関係しているのでしょう。私の知り合いには同じ両親から生まれても、長兄は少数民族のイ族、次兄は漢族などと散らして登録している人もいます。     (つづく)
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