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雲南でさかんだった屯牛1

2015-12-13 13:09:50 | Weblog
雲南中東部の硯山の牛。ナス科の植物の葉をむしゃむしゃ食べていた。典型的な黄牛と中国で呼ばれる農耕牛だ。

【送り込まれる牛たち】
このように雲南が牛の境界地域となった理由はいくつかあります。

一つは、6000メートル級の山と深い渓谷、という環境面での多様性。また、様々な民族が谷間ごとに暮らしているという雲南ならではの事情。

家畜は人についていき、またその環境に適応していきます。

さらにはっきりとした歴史的原因があります。

明代に大規模に進められた屯田にともなって行われた、いわゆる「屯牛」です。

雲南が明軍に平定されて5年後の洪武20年(1387年)8月のある日、次のようなことが明朝の指示で行われました。

「丙寅の日、右軍都督僉事の孫茂に命じて2万2000錠のお金を持たせて四川に派遣して耕耘用の牛1万頭ほどを買わせた。

時まさに百夷を征伐しようとしているときで、軍の兵士を雲南に赴かせて屯田をさせ、食料を備蓄させようとするためである。」
(丙寅遣右軍都督僉事孫茂以鈔三萬二千錠往四川、市耕牛萬頭。時將征百夷欲、令軍士先往雲南屯田、預備糧儲故也。【明の太祖高皇帝実録・巻184より】)

右軍都督僉事とは、明の最高統帥機関である五軍都督府の一つ。

五軍は中・左・右・前・後で編成されていて、国を5つの地域に分けて統帥させていました。
右軍は雲南、四川、貴州、陝西、広西と、おもに南と西の周辺地域を統括。その右軍の中で四番目に権限のある都督僉事が命じられたのが「大量に牛を買うこと」だったのです。

しかし、それほど大量の牛が四川で売られていたのでしょうか。
(つづく)
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