私達が見学したのは赤丸 黄丸は急斜面を登らなくてはならなかった為「いいかっ!」と言うわけでパス
西の方の言葉をお借りすれば「へたれ者」です
先ず、黄丸の「南陽寺跡庭園」と「諏訪館跡庭園」ですが説明によりますと
「前者は初代朝倉氏の母(光徳院)の居住跡で後に3代貞景が新たに建立
後者は義景の4人目の側室の居住跡地」
何れも庭園が残っているだけですが諏訪館の庭園は
回遊式林泉庭園で日本でも第一級の豪華さを誇ると言われているそうです
では発掘調査で明らかになった歴史の町に足を踏み入れる事に致しましょう
越前の守護代に任命された朝倉氏は近江、美濃、加賀まで視野に入れ勢力を拡大しながら
ここ一乗の尾根筋に城と「北の京」とも呼ばれる一大城下町を築きました
この城下町は1・7キロの谷間に形成されていた一部を復元したものですが
残された礎石や文献からほぼ当時の姿で蘇り谷に溶け込んでいました(町並みの想像図は前回に掲載)
町並みを歩いていますとボランティアさんでしょうか、当時の着物姿の町人が各所で雰囲気を盛り上げていました
「一枚、宜しいですか?」と言いますと皆さんVサインこそしませんでしたが直立でズラリ
「すいません、何かやってて頂けますか?」と注文して写したのが、この一枚です
こちらは上級武士の館
どちらが優勢か将棋に門外漢の私には分かりませんが二人の若武者が将棋に講じている最中でした
発掘で出土した駒の数174枚 その駒を注意してみますと私達が良く目にする駒よりも半分位の薄さでした
駒の動きも酔象という駒は後ろ以外どちらにでも動かす事の出来る頼もしい駒の様です
黄金の鎧
これは本物の鎧なのでしょうか
朝倉氏が身に付けた物なのでしょうか
ただ大野に温見金山、周辺にも幾つかの金山が有り帰りに寄った博物館ではかなりの金製品が飾られていましたので
強ち嘘でも無いのでしょうが鎧に関しては信じられない部分も無きにしも非ずと言ったところです
さて500年前の戦国の世への門を潜ります
礎石が残る場所には一部、庭園を当時のレベルから眺められるよう床が張られておりました
一見、坪庭の様な感じですが、急斜面を利用しつづら折りに流れるよう工夫がされた人口の滝や石組みなど
なかなか格調高い庭園で有った事を伺わせるものが有りました
館跡から一寸しんどい坂を上った所には義景の墓が有ります
(義景は大野を本拠地にしていた景鏡を頼って落ち延びますが裏切られ大野で自害したと言われています)
いずれにしても戦国の世を華々しく飾った武将
墓前の花が造花と言うのは頂けませんね
(クリックで拡大します)
此処は湯殿跡、館を見下ろす位置に有ります
つい私は言ってしまいました
「館に帰るのに湯冷めしないのかしら?」
これ程の館、寒い日の為の内湯だって有るさ・・・ですよね
下の写真の石は亀石なのだそうですが・・・??
湯殿から俯瞰する景色は心が落ち着きます
ゆったり流れる小川
緑豊かな丘陵
そして町民の家並み
多分、500年前と変わらない空気が漂っていたのでしょう、一乗谷
未だ上が有りました
中の御殿跡(諏訪館) 「もう、いいか」と行くのを止めにした場所です
当時の遺構を伝える物はまだまだ有りました
当時のままに残された石段や石垣
篭を亀を小脇に抱え下りたで有りましょう水汲み場
気が付けば戦国の世を彷徨っている私が其処におりました
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