山中温泉を後に訪れたのが加賀百万石・前田家の庭園「兼六園」です
私が此処を訪れるのは二度目ですが雄さんが行った事が無いと言うので立ち寄る事に致しました
兼六園は日本三大名園の一つで5代綱紀が蓮池亭を造り蓮池庭と称したのが始まりだそうです
現在の形に完成したのは13代斉泰の時代ですから1837年と言う事になります
藁縄での雪吊りをした松、徽軫灯篭(ことじとうろう)は
兼六園を紹介するパンフレットには必ず載っていますのでご存知かと思います
徽軫とは琴の糸を支える琴柱ですが似てますね
園内は広大です
順路が設定されている訳では有りませんが此処は足の向くまま気の向くままに楽しむ事に致しましょう
この松(根上がり松)は斉泰お手植えの松ですが迫力ありますね
根が剥き出しになっていますが、これは盆栽で良く見かける事が有ります
あらかじめ土を高く盛り根づいたら土を少しずつ取り除き
あたかも土が水で流された様に人為的に仕立てる方法
170年の歳月を経てドッシリと大地を踏みしめた立ち姿は壮観です
たわわに真っ赤な実を付けているのはウメモドキでしょうか
付近には散らばる木々や花をスケッチしている二十歳前後の女性を多く見かけました
美大生ですか?と尋ねますと
「違うんです、絵は描いた事が無いのにサークルで絵を描きに行こうと言う事になりまして・・・」
真っ赤な顔で応える彼女達にとって兼六園は、はて どう映った事でしょう?
滝を眺めながらお抹茶を楽しんだでしょう「夕顔亭→大名茶室(左)の細い路地では
大名と同じ目線で滝や池を眺めて頂けるよう忙しく抹茶をお運びする女性の姿が
時代を感じさせる足元の瘤の様になった根
その木々の向こうに加賀百万石の石垣が覗く小道は何時しか私を遠い過去へと誘ってくれる様でした
兼六園から石川橋を渡れば石川門は目の前です
橋の下は嘗て百掘りで満々と水を湛えたお堀でしたが今は車の往来も激しい道路です
この城は明治14年の火災で焼失し現存する物は石川門と三十間長屋のみですが
さすが百万石に相応しい敷地面積は城跡にも関わらず繁栄振りが目に見える様でした
この白は1583年、前田利家により本格的な建城が行われ
明治2年(1869年)まで加賀藩前田家の居城として置かれました
大手彫りを左に見て金沢の町へと繰り出す事に致しましょう
上の写真は大樋焼本家窯元のお屋敷
二枚目・三枚目の写真は金沢箔を扱う店舗内の「箔座ひかり蔵」黄金の蔵です
秀吉好みですね
浅野川に架かる浅野川大橋を渡り左に重厚な建物のお茶屋さんを過ぎ
少し進んで右に折れると古風な造りの旧東楼にでます
その前に、この浅野川大橋ですが大正時代に架けられたと言いますから100年近い歴史が刻まれており
国の有形文化財に指定されているそうです
3連のアーチに優雅な趣が有りますね
さて此処が東の花街「東茶番街」です
金沢には西、東、主計の三つの茶番街が有り紅塗rの格子戸と石畳が続く昔ながらの色町の景観が残されています
三味の音が何処からか聞こえ芸者さんのお座敷に急ぐ姿が見られる、そんな良き時代に想いを馳せてみても
とてもとても観光客の多さは、その雰囲気さえもかき消してしまう程でした
浅野大橋に戻り右に折れると主計茶番街が有りました
こちらは行き交う人も少なく今夜の客を迎えるまでの夕刻の静けさと共にヒッソリと戸を閉ざしていました
橋の名は「梅の橋」
川風を受けて粋な旦那衆がこの橋を渡り主計の格子戸を潜る
こちらでは、そうした光景が容易に想像できそうです
近くには泉鏡花記念館の看板も有りましたが通りから一歩入れば路地が入り組んでいる為
とうとう探し出す事は出来ずに終わりました
小京都とも言われる金沢の町は戦災を全く受けなかったため藩政時代の面影が町全体に残された訳ですが
こうして入り組んだ路地もその一つなんですね
(思わず韓国のシジャンと見紛う市場アーケードが金沢にも有りました)
西茶番街、武家屋敷が残されてしまいましたが、もうタイムリミットの様です
もともと半日で回ろうと言うところに無理が有ったのです
また訪れる事も有るでしょう
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