新品のルームシューズで台所へ行った。ご飯粒を踏んだ。
忘年会のとき、どういう話の流れか「数学が苦手だ」という話題になった。
その場に居合わせたほとんどの人が目を輝かせて
自分がどれだけ数学が出来なかったかという自慢(?)が繰り広げられた。
まず、どこから分からなくなったかというと
『一次関数』『グラフ』『証明』『因数分解』『二次方程式』・・・
忘れかけていた数学の単元が続々と。
「Xが~のときYは何か。なんだっていいじゃんねぇ」
と発言すると皆が
「でも数学出来そうだよね」などと言ってくれるからおかしくって仕方ない。
だってわたし、高校のとき『1』取ったんだよ、数学で。
国語も英語も『10』だったのに(自慢)!
『1』って赤字で書いてあるの。後にも先にも初めてもらったおかげで知ったわ。
滅多に取れるもんじゃないでしょう・・・
わたし、あの頃やる気なくしてたんだわ。
学校はやめたいけど何の展望もなくて、高校ぐらい出なきゃ、なんて逃げ打ってる自分が嫌で。
あの頃、数学が得意で国語が苦手な友達が
「数学は簡単だよ、答ひとつだもん。
国語は『このとき太郎はどう思ったか』なんて無茶聞くじゃん」
と言っていたのだが、ホントそうだよね。
数学者になるならともかく『数Ⅰ』程度にみんなが苦しむってのは教え方が悪いんだな。
・・・なんて、みんなが『1』取るわけじゃないのだわ。
で、今はどうかというと、2割引の計算も税込みの計算も早いっすね。
わたしの仕事に必要なのは加減乗除だけ。
だからといって『一次関数』や『証明』が無意味だなんて思わない。
機会があったらもう一回やり直してみたいと思っている。
今なら理解出来そうな気もするし、パズル感覚で楽しめそう。
その場に居合わせたほとんどの人が目を輝かせて
自分がどれだけ数学が出来なかったかという自慢(?)が繰り広げられた。
まず、どこから分からなくなったかというと
『一次関数』『グラフ』『証明』『因数分解』『二次方程式』・・・
忘れかけていた数学の単元が続々と。
「Xが~のときYは何か。なんだっていいじゃんねぇ」
と発言すると皆が
「でも数学出来そうだよね」などと言ってくれるからおかしくって仕方ない。
だってわたし、高校のとき『1』取ったんだよ、数学で。
国語も英語も『10』だったのに(自慢)!
『1』って赤字で書いてあるの。後にも先にも初めてもらったおかげで知ったわ。
滅多に取れるもんじゃないでしょう・・・
わたし、あの頃やる気なくしてたんだわ。
学校はやめたいけど何の展望もなくて、高校ぐらい出なきゃ、なんて逃げ打ってる自分が嫌で。
あの頃、数学が得意で国語が苦手な友達が
「数学は簡単だよ、答ひとつだもん。
国語は『このとき太郎はどう思ったか』なんて無茶聞くじゃん」
と言っていたのだが、ホントそうだよね。
数学者になるならともかく『数Ⅰ』程度にみんなが苦しむってのは教え方が悪いんだな。
・・・なんて、みんなが『1』取るわけじゃないのだわ。
で、今はどうかというと、2割引の計算も税込みの計算も早いっすね。
わたしの仕事に必要なのは加減乗除だけ。
だからといって『一次関数』や『証明』が無意味だなんて思わない。
機会があったらもう一回やり直してみたいと思っている。
今なら理解出来そうな気もするし、パズル感覚で楽しめそう。
夜に足の指の爪を切ることがある。
切りたくないが、足の指の爪が伸びているのに気付くのは大抵、夜だ。
最初に気付いたときは明日、切ろうと思ってやめておく。
でも次の日になったら忘れている。
次に気が付いたときは相当に伸びている。もう切らねばならない。
ただでさえわたしは足の指が長いので靴下に穴が開きやすいのだ。
で、罪悪感を抱きながら夜、爪を切る。
信じてないのに『親の死に目に遭えないかもな』と考える。
しかし、と考え直す。親の死に目に遭いたいか?
「死に目」と言うからにはもうすぐ死ぬ状態なんでしょう?
意識なんてもうないであろう、死に向かっている親を見続けたいか?
否、である。
よく、芸能人を「親の死に目にも遭えない因果な商売」みたいに言うけど逆じゃないのかな。
意識があるならば最後のお別れを、というのも考えられるがそれだって辛い。
それよりなによりやっぱり死に行く様を見守るのは辛い。
安らかになった顔と対面する方が精神的にはいいような気もする。
死に目に遭うよりも生きているうちに出来るだけ会っておく方がいいんじゃないかしら。
だっていくら死に目に遭えたってそれが三年振りの再会では仕方ないだろうから
。遠い所に住んでいるとか色々な事情はあるだろうけど
会えないのならばまめに連絡を取ったほうがいいと思う。
死に目に遭えなくても後悔したりしないくらいに。
切りたくないが、足の指の爪が伸びているのに気付くのは大抵、夜だ。
最初に気付いたときは明日、切ろうと思ってやめておく。
でも次の日になったら忘れている。
次に気が付いたときは相当に伸びている。もう切らねばならない。
ただでさえわたしは足の指が長いので靴下に穴が開きやすいのだ。
で、罪悪感を抱きながら夜、爪を切る。
信じてないのに『親の死に目に遭えないかもな』と考える。
しかし、と考え直す。親の死に目に遭いたいか?
「死に目」と言うからにはもうすぐ死ぬ状態なんでしょう?
意識なんてもうないであろう、死に向かっている親を見続けたいか?
否、である。
よく、芸能人を「親の死に目にも遭えない因果な商売」みたいに言うけど逆じゃないのかな。
意識があるならば最後のお別れを、というのも考えられるがそれだって辛い。
それよりなによりやっぱり死に行く様を見守るのは辛い。
安らかになった顔と対面する方が精神的にはいいような気もする。
死に目に遭うよりも生きているうちに出来るだけ会っておく方がいいんじゃないかしら。
だっていくら死に目に遭えたってそれが三年振りの再会では仕方ないだろうから
。遠い所に住んでいるとか色々な事情はあるだろうけど
会えないのならばまめに連絡を取ったほうがいいと思う。
死に目に遭えなくても後悔したりしないくらいに。