なんとなくつかめなかったりつかみにくかったりする
フワフワしたものをそのままにしておくと、
ぼやーっとして人の言いなりになってしまっているみたいな、
生きるポリシーを欠いた状態になる。
この気持ちは何だ、この事柄は何だ、
そういう思いをうっちゃってしまって言葉にしないでいると浮ついた精神状態になる。
日々の生活から生まれるものを、受けとめそこなっているんです。
一方で、なかなか一日のあれこれ(対人関係のことやアイデアなどなど)を
言葉にできず、きちっとキャッチできずに就寝してしまったりすると、
その後、それが積み重なって収拾がつかない状況になることがあるなかで、
暴挙とも言えるだろう「いいんだ、俺がいいっていうんだから」
と自分の道をつき進む強引さも大事だと思ってる。
それって、ひとつの推進力なんじゃないか。
合意形成して進めていくためには言葉を交わしていくことは大事で、
そのために普段からあれこれ言葉にしてストックしておきたい、
あるいは即興で言葉にする力を養っておきたいものですが、
やはりそれでも、うまく説明は出来ないんだけど俺はこうする、
っていう勝手さもときに出てくるしそんな推進力を肯定してる。
どうして自分勝手さも認めるかっていうと、
言葉以前に感覚でわかっているだろうことを信じているから。
もちろん、間違うことだってある。
だけど論理よりも直感のほうがはやいだとか、
物事があってから論理がつくられるといったように、
論理って遅いものだから言葉で説明するっていうのも時間がかかるものだ。
自分の道を、論理じゃなしに言葉じゃなしに気持ちだけで進む場合、
ちょっと不安もあるけれど、それで転んでも自分が痛いだけのこと。
他人を転ばせて痛がらせるわけじゃない。
他人に転ばされて痛がるわけでもない。
そこがいい。
ただ、寛容さっていうものは大事な気持ちの持ちようだと思うけれど、
他人に転ばされて(いらぬお節介、世話焼きなど)
痛い目にあっても許せるかっていう寛容さは持っていたいかなと思う。
そりゃ怒ったりするけれど、ケースによっては、なのかなあ。
いろいろ考え抜いても転ぶことはあるし、で。
考えてやった方が失敗した時の学びは大きいかもしれないですね。
ただ、なんていうか、ひとのせいにせずに自分で受け止める気持ちの部分って、
考えてても考えてなくてもあるわけです。
考えてないで失敗したときほどひとのせいにしたがるような気がしませんか。
そういう、自分で受けとめる・引き受けるってところを気をつけたいなと思います。
ただ、あまりに自分で引き受ける人に対して、
自身の過失すらうやむやにしてなすりつける人もいる気がする。
あいつ、なんでも自分のせいにするから、これもあいつのせいにしたろ、っていう。
そういう危険を感じる時がある。
そのことの対応については、精神面の成熟さが大事になってくるから、
若い人はたいへんなんだろうと思う。
不動の心を持ちながら、これは自分のせいだろうか他人のせいだろうかを判断する。
その場合、いちいち感情的になって、心が右往左往しないことが求められる。客観的に。
そして、疑わしきは罰せずじゃないけれど、疑わしきは他人のせいにせず、で、
そういう場合の責任の取りぶんは自分のほうに傾いているほうが本当なのではないか。
と、まぁ、ちょっと生煮え的な思索ですが、
こういうのもですね、
読んでくれたひととのあいだに化学反応が起こるなんてこともなきにしもあらず、
ということで。
フワフワしたものをそのままにしておくと、
ぼやーっとして人の言いなりになってしまっているみたいな、
生きるポリシーを欠いた状態になる。
この気持ちは何だ、この事柄は何だ、
そういう思いをうっちゃってしまって言葉にしないでいると浮ついた精神状態になる。
日々の生活から生まれるものを、受けとめそこなっているんです。
一方で、なかなか一日のあれこれ(対人関係のことやアイデアなどなど)を
言葉にできず、きちっとキャッチできずに就寝してしまったりすると、
その後、それが積み重なって収拾がつかない状況になることがあるなかで、
暴挙とも言えるだろう「いいんだ、俺がいいっていうんだから」
と自分の道をつき進む強引さも大事だと思ってる。
それって、ひとつの推進力なんじゃないか。
合意形成して進めていくためには言葉を交わしていくことは大事で、
そのために普段からあれこれ言葉にしてストックしておきたい、
あるいは即興で言葉にする力を養っておきたいものですが、
やはりそれでも、うまく説明は出来ないんだけど俺はこうする、
っていう勝手さもときに出てくるしそんな推進力を肯定してる。
どうして自分勝手さも認めるかっていうと、
言葉以前に感覚でわかっているだろうことを信じているから。
もちろん、間違うことだってある。
だけど論理よりも直感のほうがはやいだとか、
物事があってから論理がつくられるといったように、
論理って遅いものだから言葉で説明するっていうのも時間がかかるものだ。
自分の道を、論理じゃなしに言葉じゃなしに気持ちだけで進む場合、
ちょっと不安もあるけれど、それで転んでも自分が痛いだけのこと。
他人を転ばせて痛がらせるわけじゃない。
他人に転ばされて痛がるわけでもない。
そこがいい。
ただ、寛容さっていうものは大事な気持ちの持ちようだと思うけれど、
他人に転ばされて(いらぬお節介、世話焼きなど)
痛い目にあっても許せるかっていう寛容さは持っていたいかなと思う。
そりゃ怒ったりするけれど、ケースによっては、なのかなあ。
いろいろ考え抜いても転ぶことはあるし、で。
考えてやった方が失敗した時の学びは大きいかもしれないですね。
ただ、なんていうか、ひとのせいにせずに自分で受け止める気持ちの部分って、
考えてても考えてなくてもあるわけです。
考えてないで失敗したときほどひとのせいにしたがるような気がしませんか。
そういう、自分で受けとめる・引き受けるってところを気をつけたいなと思います。
ただ、あまりに自分で引き受ける人に対して、
自身の過失すらうやむやにしてなすりつける人もいる気がする。
あいつ、なんでも自分のせいにするから、これもあいつのせいにしたろ、っていう。
そういう危険を感じる時がある。
そのことの対応については、精神面の成熟さが大事になってくるから、
若い人はたいへんなんだろうと思う。
不動の心を持ちながら、これは自分のせいだろうか他人のせいだろうかを判断する。
その場合、いちいち感情的になって、心が右往左往しないことが求められる。客観的に。
そして、疑わしきは罰せずじゃないけれど、疑わしきは他人のせいにせず、で、
そういう場合の責任の取りぶんは自分のほうに傾いているほうが本当なのではないか。
と、まぁ、ちょっと生煮え的な思索ですが、
こういうのもですね、
読んでくれたひととのあいだに化学反応が起こるなんてこともなきにしもあらず、
ということで。