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『自由論』

2024-06-05 13:15:30 | 読書。
読書。
『自由論』 ミル 斉藤悦則 訳
を読んだ。

民主主義のなかでの「自由」とは、どのように扱われ、どのように踏まえ、どう装備していったらいいのか。社会と個人との関係性を重視しながら、「自由」について深く考察した論考であり、19世紀に考えられ書かれていてもなお新しさがまばゆい古典です。

民主主義による「画一性の傾向」とその具体的な現出である「多数派の専制」を危ぶみ、そういった現象に陥らないように多様性がどんなふうに社会にとって良いのかについて説いています。

こう書くと自明なんだけど、他者への迷惑になる自由はだめだよ、ということであり、それ以外は個人の範囲内で許される、というのが大まかにですが自由の制限についてのところでした。あと、国家から個人への干渉については必要最小限までというような論説でした。

また、行政という機関についてもその硬直性や支配性をミルは指し示し、その抑止として、行政に就く者たちと同等以上の知性でもって、その外部(民間の側)から監視し意見することが述べられていました。ほんとそうだと思います。

それでいて、ところどころ、処世訓というか世知というか、そういったものの大事さが述べられもするのです。賭け事だとかちょっと悪いことをしても、世間的に評判がよかったり、仕事で実績があることをみんながわかっている人がやるのだったら世間はなにも言わないけれども、これが世間的にあまり認められていないような人がやると、悪評が立ちやすいしとやかく言われがちだと。だから、慎重に行動したほうがいいのだ、というような、実際的な知恵をJ.S.ミルは大切にしているところがあります。

『自由論』は学生の頃に図書館でぱらぱらと読んだような気がしていたのだけど、ほんとうに読んでいたのはおそらく経済学のほうの著作だなと気づきました。レポートを書くのに読まなきゃならなかった本だったのでした。

さて、ここからは勉強モードで引用とそれへのコメントの方式で綴っていきます。


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すなわち、多数派が、法律上の刑罰によらなくても、考え方や生き方が異なるひとびとに、自分たちの考え方や生き方を行動の規範として押しつけるような社会の傾向にたいして防御が必要である。社会の慣習と調和しない個性の発展を阻害し、できればそういう個性の形成そのものを妨げようとする傾向、あらゆるひとびとの性格をむりやり社会の模範的な型どおりにしたがる傾向、これにたいする防御が必要である。(p20)
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→ここではつまり、世間や世論が個人の自由を抑圧することを述べていますね。また、このあとの部分にあるのですが、規則、規律、規範といったものは時代ごと、国ごとに違った答えが出されるものなのに、そのただなかにいる人たちは、それは人類が一貫して同意してきたもののように考えてしまう傾向がある、ということでした。不変の真理だと捉えてしまいがちだということです。
これは現代でもいろいろ思い当たります。もはや空気のように身近で、かつ特別に意識もされないような規範が、日本独自のもの、時代独自のものだったりするんだろうなあ、と静かに考えごとをしているときななんかに気付くことってないでしょうか。



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自由の名に値する唯一の自由は、他人の幸福を奪ったり、幸福を求める他人の努力を妨害したりしないかぎりにおいて、自分自身の幸福を自分なりの方法で追及する自由である。人はみな、自分の体の健康、自分の頭や心の健康を、自分で守る権利があるのだ。
人が良いと思う生き方をほかの人に強制するよりも、それぞれの好きな生き方を互いに認めあうほうが、人類にとって、はるかに有益なのである。(p36-37)
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→これは大原則。でも、こういったことに反する生き方をしている人はかなりいるのではないでしょうか。他人の幸福を奪う人もいるし、努力の妨害もあるし、健康を守ろうとする人の権利を妨げる人もいます。こういった、万人がふまえていていい大原則って、子どものうちから折あるごとに教育し、なおかつ、大人も自己学習を通したりなどして身に付けていくことで、社会的に根づくと思うのですけれども、なかなかそうはならないのは、権力を持つ側の利害に反するという事情があるからだったりするのかなあ、とちょっと斜め読みしてしまうところです。J.S.ミルは、意見の強制、押し付けは支配者のみならず市民であってもすることだと後で述べています。人間の本性に付随する感情の、最良の部分と最悪の部分の両者にわたったところから強く支えられているから、これを抑制するには権力を弱めるしかない、としています。でも権力はどんどん強まっていて、じゃあどうすればいいかというと、道徳的な信念で防壁を作ることだ、と締めています。



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すなわち、人間は自分の誤りを自分で改めることができる。知的で道徳的な存在である人間の、すべての美点の源泉がそこにある。(p53)
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→人間の長所を述べていますね。このために人類はおおきく道を逸れたりしないでこれた、と前段部分にあります。そして、人間に対するいちばんはじめの信頼であり、最後の希望でもあります。



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自分達が大事にしている信念を認めない人間は、迫害してもよいという意見や感情をひとびとは抱いている。そのためにイギリスは思想のない国になっているのである。(p78)
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→これは同調圧力の話ではないでしょうか。現代日本の国民性も、ここで言われているような19世紀イギリス国民の傾向と同じようなところがあると思います。日本には思想がない、と言われますが、こういった国民性が思想を育てないのだ、という論理にもなります。行動原理が、「思想」とは別に「同調性」にある、という論理です。



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しだいに信仰は、決まり文句を二三覚えるだけでよいもの、あるいは、ただのっそりと頭を下げるだけでよいものになっていく。黙ってそれを受け入れさえすればよく、もはやはっきりと信仰を自覚する必要もなく、また、自分の体験によって信仰を確かめる必要もないものになっていく。そして、信仰は、ついには人間の内面生活とほとんど関係ないものになってしまう。(p100)
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→信仰が定着した後についての箇所です。日本の神道や仏教の存在を思い浮かべると、類推が利きます。神棚があって、元日などにはお神酒を供えて、でも、無宗教だと言ってのける日本人の姿って、ここで言われていることと符合してはいませんか。



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どんな問題でも、全員が賛成してもよさそうなときに、なぜか反対する人がいたりする。そんなとき、たとえ多数意見のほうが正しくても、かならず反対意見にも耳を預けるに値する何かが含まれていることはありうる。反対の声を封じたら、心理のうちの、その何かが失われるのである。(p118)
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→議論の大切さを何度も説く著者です。その理由がこういったところにもあります。勢いのある意見には真理が含まれているけれども、100%の真理はあり得ない、反対意見や少数意見のなかにその足りていない真理が含まれているので、議論してすり合わせていったり、アウフヘーベン(両者をより高い段階で統一する)していくようなことが大切なのでした。これに対して、セクト主義というものは反対意見を認めず抑圧するのでよくない、とあとで述べています。



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一般に、世間で当たり前とされていることに反対する意見を言うときは、つとめて穏やかな言葉づかいをし、無用の刺激を与えないよう細心の注意を払わなければ、話を聞いてもらえまい。この線から少しでも逸れたら、かならず足場を踏みはずす。(p132-133)
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→前述しましたが、これがJ.S.ミルの現実的で実際的な処世訓のひとつです。SNSで声高に、強い調子で反対意見を主張する人がたくさんいるようで、僕のTLにも流れてきますけれども、ミルの言うような振るまいであれば、もっと建設的に議論となっていくんでしょう。



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洞察力、判断力、識別力、学習力、さらには道徳感情をも含む人間の諸能力は、選択を行うことによってのみ鍛えられる。何ごとも慣習にしたがう者は、選択を行わない。最善のものを見分けたり、最善のものを望む力が、少しも育たない。(p142)
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→これ自体がすごい洞察力です。人生は選択の連続ですが、それを自分自身が主体的に決めていけば、おのずとこういった能力は磨かれていくのだと思います。それと、創作活動をすると選択の連続にいやがおうでも接することになるのを、僕は音楽作りや小説書きの経験上知っています。よって、そういったクリエイティブな活動をお勧めしたくなるのでした。ミルによると、人生の設計を自分で選ぶのではなく、世間や自分の周辺のひとびとに選んでもらうのであれば、猿のような模倣能力のほかには何の能力も必要ない、そうです。アイロニーが効いてます。



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現代人は、このように、精神が束縛されている。娯楽でさえ、みんなに合わせることを第一に考える。大勢の人にまぎれたがる。何かを選ぶ場合にも、世間でふつうとされているもののなかからしか選ばない。変わった趣味や、エキセントリックな行為は、犯罪と同様に遠ざける。自分の本性にしたがわないようにしていると、したがうべき本性が自分のなかからなくなる。人間としての能力は衰え、働かなくなる。強い願望も素朴な喜びももてなくなり、自分で育み自分自身のものだといけるような意見も感情ももたない人間となる。(p149)
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→ここで言われている現代人は19世紀イギリス人のことですが、現代日本人にも通じるなあと思えるところがあります。まあ、この当時に比べるとずっと個人の趣味は多様化して「変わった趣味」を持ちやすくなっているでしょうけれども、それでも、ちょっと外れてしまうと犯罪と同じように遠ざけられてしまうようなところはあるかもしれません。また、後半部のところは、いわゆる「ひきこもり」の人に合致する見解だ、と読むことができました。これは精神的危機なので、本人は相当もがきますし、周囲も気づくべきです。



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ある人にとっては、その人間性を高めるのに役立つことが、別の人にとってはその妨げとなる。ある人にとっては、心を弾ませ、行動する力とものごとを楽しむ力を最高に保たせる生活様式が、別の人にとっては、心理的な負担となり、内面の生活を停滞させ、あるいは破壊する。(p165)
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→このあいだ読んだパーソナリティ心理学に通じるのですけれども、人ってほんとうにいろいろな人がいるから、そこのところをちゃんとわかろうよ、ということですね。家族内でまったく違うパーソナリティの人たちが共同生活するのがすごく酷なのがわかりますし、そうじゃない場合でも、棲み分けって大事な解決策だなあと感じるところでもありました。



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国家の価値とは、究極のところ、それを構成する一人一人の人間の価値に他ならない。(中略)たとえ国民の幸福が目的だといっても、国民をもっと扱いやすい道具にしたてるために、一人一人を委縮させる国家は、やがて思い知るだろう。小さな人間には、けっして大きなことなどできるはずがないということを。すべてを犠牲にして、国家のメカニズムを完成させても、それは結局なんの役にも立つまい。そういう国家は、マシーンが円滑に動くようにするために、一人一人の人間の活力を消し去ろうとするが、それは国家の活力そのものを失わせてしまうのである。(p275-276)
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→産業革命以来の、効率や合理性重視で人間を型にはめるやり方が一般的になっていますが、そういった体制全般への批判じゃないかと僕は読みました。国家も、経済を最優先させますから、その結果、人間が型にはめられることになります。20世紀中の大発展が技術革新などからもたらされましたが、それでも度が過ぎていくと、ミルのいうように、人間が疲弊していって国も疲弊してくのだと思います。最近の世の中からは、その片鱗が見受けられるような気がします。



以上でした。なにか力やヒントになるような箇所があればいいな、と書いていきました。また、この『自由論』に興味を持ってもらえていたなら嬉しいです。新訳版の本書は読みやすかったです。


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