イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「映画で考える生命環境倫理学」読了

2019年08月09日 | 2019読書
吉川孝 横地徳広 池田喬  「映画で考える生命環境倫理学」読了

「環境倫理学」という言葉を辞書で調べると、『地球環境問題に対して倫理学的観点から考察する学問』となっている。そして倫理学とは何かということを調べてみると、『一般に行動の規範となる物事の道徳的な評価を理解しようとする哲学の研究領域』と書いている。そういえば、高校生の時、「倫理社会」という教科があったけれども、大嫌いな教科であった。ただ、あの頃もっとこれを勉強していれば、人生や社会に対する考え方も少し大人びて考えることができたのではないかと残念には思っている。というか、そういうことを考える能力が当時からなかったから「倫理社会」が理解できなかったということなのだろう。

この本はその環境倫理学を映画、特にSF映画を中心にして考えてみようとする内容になっている。
どうして映画を題材に求めているのかというと、映画というのは様々な問題をある意味極限状態、もしくはその主題だけを極端にクローズアップした形で作られていることが多い。そんなシチュエーションで主人公たちが取る行動を見ることで環境の変化が人々の心に与える影響、もしくはどのようにふるまうべきなのかという考察ができる。
とくにSF映画を取り上げているのは、哲学が求める、「存在とは何か、時間とは何か、そもそも人間とは何か、善く生きるとはどのようなことか、心と体はどのように結びついているか。」ということを極限の状態で考えるのに最適であると著者たちは考える。

それぞれの映画は確かに特殊なシチュエーションでの人々の行動を描くものだが、結局じゃあ、その時に人としては倫理的にどうあるべきかということは具体的に書かれていない。まあ、書いてもらったとしても僕が生きている間には何の役にも立たないだからどちらでもよいというもなのだけれども・・。

ただ、その一端はすでに表れてきているのだろうというのが僕の感想だ。特に大きかったのはインターネットの普及だろうか。あまりにも人と人のつながりが広範囲になったということに人はついていけていない。そしてインターネットのなかで世界があまりにも広がったことに人の判断力もついていけていない。様々なニュースがそれを示している。環境倫理学は今こそもっと力を発揮してもらわねばならないものであるはずだが残念ながらそれほど世の中に浸透していないようだ。

「人は分かり合えない存在である。」エヴァンゲリオンやガンダムのテーマである。それゆえに倫理学が必要になってくる。いっそのこと、エヴァンゲリオンで描かれる人類補完計画やガンダムのニュータイプとしてつながる人類の世界のようになればそんな難しいことを考える必要がない。だからだろうか、この本にはこの二つの物語が登場しない。倫理学の地平を超えてしまうからということなんだろう。人はそれで幸せになれるのか。そうなっても幸せになれないのなら人は永遠に幸せになれないということだろうか・・。
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「そして、ぼくは旅に出た。 はじまりの森 ノースウッズ 」読了

2019年07月31日 | 2019読書
大竹英洋 「そして、ぼくは旅に出た。 はじまりの森 ノースウッズ 」読了

著者は、アメリカ ミネソタ州にひろがる、「ノーザンウッズ」といわれる森林地帯を拠点にして撮影活動をしている写真家だ。
この本は、著者が写真家を目指すきっかけになった写真家、ジム・ブランデンバーグを訪ねるため、ノーザンウッズを生まれて初めて乗るカヌーで旅し、その後この場所で送った数か月間を綴った紀行文だ。

著者が写真家を目指すきっかけになったのは、ある日、オオカミの夢を見たことだった。一ツ橋大学在学中、ジャーナリストを目指すけれども、人々に恐怖や不安をあおる報道が多い中、ワンダーフォーゲルを通して知った自然の素晴らしさを伝えたいと思うようになった。そんなときにオオカミの夢を見た。すぐに図書館に行き、オオカミの写真集を手にした。その著者が、写真家であるジム・ブランデンバーグである。自分も写真家になりたいと思った著者はジム・ブランデンバーグこそその手本となるべき人だと思い立ちナショナルジオグラフィック社経由で弟子入り志願の手紙を書くけれども返事がなく、いっそのこと、直接会ってその気持ちを伝えようとミネソタ州イリーの町を目指す。

この町は最果ての町で公共交通もない。行けるところまで行った町のユースホステルでオーナーにそんな話をすると、それは“スピリチュアル・クエスト”だと励まされる。その後、このオーナーの助けや様々な人たちの助けによって出会いを果たす。
やはりそこはアメリカだ。これが日本なら、夢に出てきたことを信じてはるばるやってきたと言えば、「何を血迷ったことを言っているのだ、悪いことは言わないからすぐに帰った方がいい。」となるのがオチである。

著者はオーナーに車で送ってもらえればイリーまで行けるところをわざと遠回りをするように8日間のカヌーの旅をして目的地へ向かった。それはそうしたほうが自分の思いが写真家に伝わるのではないかと考えたからだと書かれている。そうしてますます自然写真家になろうという決意を固めてゆくのである。
果たしてそのとおり、そういう思いではるばるやってきた著者はとりあえず歓待を受け、また世界的な冒険家であるウイル・スティーガーを紹介され、そのふたりから写真家になるための心構えを学ぶ。
そのなかで、冒険家が言った、「put your boots on and start walking」という言葉は、きっと人生を無駄にせずに生きている人の象徴なのだろう。
おしんも同じようなセリフを言っていた。「月々決まったお給金をいただけるのはありがたいけれども、何かこう張り合いっていうのかな、そういうもの持ってないと人生つまんないんじゃないかと思ったの。」そういう生き方が理想なのはわかっているけれども、現実は“会社ゾンビ”になりさがってしまっているのだ。

この本を図書館で手に取ったのは、星野道夫のようなひとが本を書いているなと思ったからである。たしかに、この本には星野道夫や植村直己、レイチェル・カーソンについて、写真家と冒険家が実際に出会ったエピソード、カーソンについてはその書作について書かれている部分がある。
僕も3人の著作には感銘を受けた。“スピリチュアル・クエスト”というとおこがましいけれども、偶然にこの本を手にしたといのも何かの縁であったのかもしれない。

アメリカ北部のカヌー旅というと、数か月かけて千キロ以上もの長い川下りを思い浮かべるけれども、著者の辿ったルートを見てみると、ちょうど和歌山市を1週するくらいの広さだった。



アメリカの原生林とまではいかないけれども、半径10キロ、僕も臭い長靴を履いて小さな驚きを求める生活は続けてゆきたいと思うのだ。
数年後にしようと思っていた、軽の貨物をキャンピングカーに改造する計画を少しは前倒しをしてみようと思うのである。そして、掘り出し物があれば中古のシーカヤックを手に入れてその半径10キロを探検してみるのも面白そうだ。
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「金剛の塔」読了

2019年07月22日 | 2019読書
木下昌輝 「金剛の塔」読了


四天王寺の五重の塔は現在まで七度建て替えられ、現在は八代目だそうだ。そして、その八代目を除いて建築を受け持ったのが金剛組である。
仕事場が近かったのでよく四天王寺を訪ねた。この写真は去年の大晦日のものだ。



今の仕事場からは遥か遠いのでもう、そういうこともないだろう。


ウイキペディアを見てみると、
『日本の建設会社である。578年創業で現存する世界最古の企業である。
創業から1955年の法人化を挟んで2005年まで金剛一族が経営してきたが、同年11月より髙松建設(現髙松コンストラクショングループ)の子会社(現在は孫会社)へ移行している。』
とある。
2008年に解散するまで、1430年の歴史を刻んだ日本最古の会社組織だそうだ。そしてその初代金剛重光は聖徳太子の要請で朝鮮半島からわたってきた渡来人である。

ちなみに、現在の五重の塔は鉄筋コンクリート製なので金剛組の出る幕はほとんどなかったそうだ。そういうことが全国的なトレンドになって、伝統的な宮大工の仕事が激減したということも会社が立ち行かなくなった要因になってしまったそうだ。そういう意味では、この会社も時代に即して変化をしきれなかったということか。しかし、これだけ長い歴史を持ってくると、こういう会社を振り落した時代の流れのほうが悪いのではないかと思えてくる。

この物語は、初代を含めた8回の建設のうちの6回の建設場面の物語を、聖徳太子の絵が描かれた木札と東京スカイツリーのストラップが時空を超えて案内をするというものだ。
七つの短編がつながったような構成になっていて、技術的な面を強調していなくて、人情劇のような流れなのでなんだか講談っぽい。

ただ、それぞれの時代の大工たちがこんな感じで建設に情熱を傾けていたのだろうなとは想像ができるのである。


五重の塔は、戦や落雷で燃え落ちたことはあるけれども、地震で倒れたことはない。その大きな理由には、心柱の存在があるという。この心柱、塔の本体とは接しないまま五層目まで伸びていっているそうだ。だったら必要なさそうなものだが、なぜだか必要だそうで、東京スカイツリーもよく似た構造を持っているそうだ。(これは五重の塔を真似たものではなく、質量付加機構という構造で心柱とはまた別の論理で成り立っているらしい。)しかし、現在でもこの柱が構造上、どんな役割を担っているのかということがはっきりわかっていないそうだ。その理由が、本物を壊して実験することができないからだというのがこれまたおもしろい。
そして躯体に対しては大きな屋根も特徴であるが、この屋根は上の層を支えている柱の重みを使って梃子の原理で支えているそうだ。いわば巨大なモビールのような構造になっていてそれが地震の揺れを逃しているらしい。そして、大きな屋根が必要なのは雨が多い日本で本体を腐らせないために大きな庇が必要ということであの荘厳なスタイルができあがった。

この二つの構造は、雨が少なくて地震がない大陸での建設には必要のないものだ。この本にも、空想ではあるのだろうけれども、初代がそれに悩む場面が出てくる。そしてこれらの構造は日本の地に渡来してから考え出したものということになっている。
科学技術が発達したこの時代でもその原理がよくわからないものを、1400年も前の人たちがどうやって考え出したのだろうか・・・。
そんなことを考えると、本当に聖徳太子が時空を超えて彼らにその技を教えたのではないかと考えられなくもないのである。
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「そして、バトンは渡された」読了

2019年07月17日 | 2019読書
瀬尾まいこ 「そして、バトンは渡された」読了

この本は、今年の本屋大賞を受賞した作品だ。4月の初めごろに貸し出しの予約をしてやっと順番が回ってきた。

テーマは「家族とは・・」という感じだろうか。主人公は幼少のころ、母親の死をきっかけにして両親が合わせて5人も入れ替わるという経験をする。
しかし、そこには悲壮感というものは漂ってはこない。
主人公も周りの人たちもすべてよき人という設定だ。いうなれば「朝ドラ」の乗りである。
まあ、こんなにうまくすべてが運んでいくというということはありえないのではないかというのが素直な感想になってしまう。
文学とは「不条理」と「独白」だと思っている僕にとってはそんな感想になってしまう。
だから、なんだか、ケーキ屋さんが使うヘラのようなもので表面だけをす~っと切り取って、それを壊れないように慎重にトレイの上に置いたようなイメージなのである。

おそらくは“血縁”というものを排除したその先での家族の姿はどんなものだろうかという、「なつぞら」と同じテーマを追いかけているのだろう。
なっちゃんのセリフに、「なんでも言い合える家族なんだ。」というのがあったけれども、本当にそうなのだろうか、「人は心の中で思っていないことは言わない。」そうだ。人類補完計画が実現していないこの世界では家族といっても個々の人間だ。その一言で相手が何を考えているのかがわかってしまう。そしてそれが人の本質を非難するような言葉であったとするならそれでもすべてを許すことができるであろうか。

この物語の登場人物たちは言いたいことを言っているように見えて、じつはそれぞれが相手の気持ちを傷つけることに対して慎重になりながら言葉を選んでいる。「本質に触れずにうまく暮らしている。」と言われればそれまでだけれどもこの本は逆説的に家族にはそれが必要なのであると語っているような気がしたのである。

最後には大団円を迎えるわけだけれども、はたしてこの物語がテレビドラマになったとしたら、やっぱり主人公は広瀬すずに決まりで、最後に父親になる人はやっぱり若い頃の内村光良に違いないと思ってしまうのでこれは限りなく朝ドラっぽいのである。
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「人生複線の思想― ひとつでは多すぎる」読了

2019年07月11日 | 2019読書
外山滋比古 「人生複線の思想― ひとつでは多すぎる」読了

本好きがいよいよ読む者がなくなってくると、電話帳を読みなじめるという。本好きというような偉そうなことは言えないけれども、ぼくも手持無沙汰になったときなど活字がないとたまらなく寂しくなる。
この本も、目当てにしていた本の貸し出し予約の順番が近づいてきたのでそのつなぎにという感じで借りたものだ。

著者は「思考の整理学」という本の著者だ。

「新潮45」などに掲載されていたエッセイをまとめたもので、その内容は英文学者としての英語教育についての一言、戦時中、敵国語としての英語を勉強することの困難さ、年齢を重ねてからの様々なことに対する思いと多岐にわたっている。

特に、経験を積むことの意味、朝の効用についての独特の見解にはなるほどこういう考えもたしかにあるなと思わせられる。
「経験は最高の教師なり。」というけれども、お手盛りの経験ではダメなのだ。そう思っていたはずなのに自分経験不足の面があったことを、はたと気付かされる。
「朝の仕事は良質で見事な仕上がりであることが多い。」良質で見事な仕上がりではないにしても朝は気持ちがいい。僕の休日はいつも早いが、なにも釣りに行きたいがためだけではない。早朝というのは何かどこか日常とは異なる感覚があるのだ。けっして24時間営業のスーパーのパンが半額になっているからうれしいのではない。

タイトルにもなっている、「ひとつでは多すぎる。」そのあとには「ひとつでは元も子もなくなる。」と続くそうだ。逆説的に解釈すると、ひとつのことに執着していると失うものも多いということだろうけれども、これは本当に正しいのか、この意味のとおりなのか、それこそもっと歳を経ないとわからない。釣りの世界では、あれこれやっちゃうとどっちつかずになってしまう。僕は確かにそれに陥っている。しかし、寿命が長くなっているこのご時世、ひとつのことにこだわるには長すぎる。それは最後の最後にやっとわかることなのかもしれない。それを心に留めながら白秋から玄冬を生きてゆくということが必要なのだろう。

当時の「思考の整理学」感想を読み直してみると、勤務場所が近くなったら改めて読み直してみようと書いている。出たり入ったりで2回目の勤務になったのだから、蔵書のパッキンの中から探し出してもう一度読み直してみようかしらと思うのだ。
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「生物模倣―自然界に学ぶイノベーションの現場から」読了

2019年07月08日 | 2019読書
アミーナ・カーン/著 松浦 俊輔/訳 「生物模倣―自然界に学ぶイノベーションの現場から」読了

バイオミミクリー」「バイオインスピレーション」(生体模倣)という考えは、生物のからだの構造や行動を人間の生活に取り入れようという工学のことをいう。

思い浮かぶのは、液晶がイカの体表の色の変化の模倣。王将の餃子のたれのパックのビニールがまっすぐ手で切れるのもイカの体の構造の模倣。(そういう意味ではイカはすごい。この本の最初の章でも、コウイカの体表の変化速度と周りの景色に同化するレベルの高さから、それを参考にして高度な迷彩服の開発をしているらしいということが書かれている。)
新幹線の先頭車両はカワセミの嘴だったりあったりする。
しかし、この本はその先、分子レベルや社会性といった部分の模倣の可能性について書かれている。

結論からいうと、この地球上に生物というものが現れてからその99パーセントは絶滅している。それを考えると、バイオミミクリーというものが完璧なものであるとは言えない。ということだそうだ。
しかし、抜群のエネルギー効率ということでは生体模倣というものは遠い将来に向かって大きな価値を生むことは間違いがない。
ここでいうエネルギーとは熱量としてのエネルギーだけではなく、社会生活を営むうえでの作業効率というものも含まれる。印象に残ったのはシロアリの社会構造、そして植物の光合成(人工の葉の開発)というものだ。

シロアリの行動は個別の知能によって統合さているものではなく、だからといって女王アリが何かの指令を出しているわけではない。しかし、全体としては社会としての機能を維持している。これは単純なシロアリの反射行動が重なることで知能を持っているかのごとくの振る舞いをする。イワシの群れがまるでひとつの生き物のように動くというのも同じである。それをアルゴリズム化することで効率よく働けるロボットを作ろうという研究があるそうだ。

人工の葉はまさにエネルギー問題の解決。最終的には無機物(半導体)を使って炭化水素を合成しようというらしいけれども、人工光合成というのは確か大阪市大で研究しているというニュースを見たことがあるけれども今のところまったく役には立たないそうだ。そういう意味では確かにこの本は“現場”を取材している。

そう考えるとこの本に載っているバイオミミクリーはまだまだ端緒に差しかかったところなのだろうけれども、はたしてそれが実現した社会とはどんな世界なのだろうか。人間は蟻塚のような巨大なビルの中で何者かに操られるようにして生きているのだろうか。それが人間らしく生きていると言えるのだろうか。
人間は自らの寿命を伸ばすためにエネルギーを浪費しているというのは、「生物学的文明論」に書かれていたことだけれども、それでは効率だけを追い求める生き方は人間らしい生き方とは言えないということになる。もっというと、人間自体も自然界の中で生きている。それが生きのびるための行動の結果寿命を伸ばし、他から見ると効率的ではないエネルギーの使い方をしていると言われても、それは何と比べてなのかとなってくる。

だから僕は蟻塚のような巨大なビルの中であくせく働きたくはない。まあ、アリの巣のアリの2割は怠けているという研究もあるそうなのでその時は4割の方でいきたいと思うのだ。


そのバイオミミクリーは先に書いた通り、99パーセントの生物種が絶滅しているということからその進化は最適なものではなかった。この本には、進化には目的があるのではなく、今を生きるための「間に合わせ」があるだけだという。これはいい答えだと思う。先のことを思うから無駄なエネルギーを使っていると思ってしまう。今が間に合っていればそれでい。それ以上あくせくしない。そんな生き方ができれば一番いいように思う。
現実はそうとう難しいと思うのだが・・・。
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「京都 影の権力者たち」読了

2019年06月29日 | 2019読書
読売新聞京都総局 「京都 影の権力者たち」読了

この本は、いつも山菜採りでお世話になっている森に暮らすひまじんさんが新聞記者をされていたときに書かれた本だそうだ。複数の執筆者が書いているようで、きっとひまじんさんが指揮か監修をされたという感じだろうか。
「はじめに」の部分はひまじんさんの署名がされているが、その文体は、「森に暮らすひまじん日記」そのものだ。もう、これはひまじんさんが執筆したのに違いがない。

京都には、「白足袋にはさからうな。」という格言があるそうだ。白足袋を履いて仕事をする人たち、この本に出てくる京都の仏教界、花街、茶道、公家、伝統産業の旦那衆ことを指し、この人たちを敵に回しては絶対にことがうまく運ばないという意味らしい。聞くだけでも格式があり、一般人がうかがい知ることができないようなそんな世界を取材したノンフィクションになっている。
なんだかそういった世界は既得権を守り、どこからどうやってきたのかわからないお金があっちへ行ったり、こっちへ来たりするような、ある意味魑魅魍魎が跋扈しているような世界と思いがちである。確かにこの本でも仏教界や茶道界のお金の流れや花街と旦那衆と言われるひとたちとのかかわりが書かれているけれども、逆に、こういった数百年も続くような伝統、それも文化の極みにあるような世界をそれだけ長く保ち続けるためにはそれなりの費用がかかるのは間違いがないのであり、そういうところを人々はやっかみ半分でいろいろ言いたがる。
人々は覗き見が好きだから、えてしてその裏の部分を、もしくは裏の部分として見たがる。しかしそれを守るためにそこにいる人々がどれだけの情熱をつぎ込んでいるかという表の部分は見たくない。それは心の中で自分と比較したとき、そのエネルギーの無さにあまりにも自分がみじめになるからだ。物理の世界でも文化の世界でもエントロピーの法則が成り立つということを一般人はわからないのだ。

この本のタイトルは出版社の方が考えたそうだ。多分、一般の耳目を集めるため、裏側から見ました的な、「影の権力者」ということになったように思えるが、ひまじんさん側からの提案された、「〇〇生態学」というタイトルは、きっとその伝統を守るために情熱を傾け、時代の変化に対応しながら一所懸命に生きている人々の姿をたたえたものであったのではなかったのではないかと思うのである。

そして、それは自分たちの世界を守るだけでなく、京都の町全体を守ることであったということが共産党について書かれた最後の章に現れているのではないだろうか。共産党も、外から見ればどうも近寄りがたい活動をしているように見えるけれども、自分たちの町を自分たちの町らしく守っているのだという意味では白足袋の人たちと同じ気持ちではないのだろうかと思うのである。様々な人々がひとつの町(生態系)を作り上げている。だから“生態学”なのであろう。


まあ、会社も同じようなもので、全体を動かしている人たちというのはやはりそれなりの“格”を持った人たちのように思う。(僕の働いている会社だけかもしれないが・・)品があるとまでは言わないが、僕のようにびくびくしながら生きてはいないというか、それは育ちなのか生まれ持った性格なのか、一種何かにじみ出るような余裕がある人たちのように思う。ぶっちゃけ、聞けば名家の出身という人が多い。他の企業でもそういう人が上にいれば同じような“格”同士ではないと事は進んでいかないのだろう。すべての人がそうではないのだろうけれども、そんな中に入り込める平民はごくわずかで、大多数はそんな”格”を持った人たちで占められている。それを集めるのがコネというのなら、はやりそれが十分条件で、自分がやるんだという情熱が必要条件であるのだなとあらためて思うのだ。僕はどう見てもその両方の条件を持ち合わせていないわけで、会社の中に埋もれてゆくしかないのである。


僕もわずか三行だけれども、自分の書いた文章が本になったことがある。朝日新聞の書評欄に載った文章を集めて本になるときに一緒に載せてくれたのだ。一応、著作権の確認があったり、出来上がった本が送られてきたりして、なんちゃって作家気分を味わせてもらったけれども、自分がかかわった本が出版されるというのはどんな心持ちなのだろうか。
あこがれるな~。
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「ミズノ先生の仏像のみかた」読了

2019年06月24日 | 2019読書
水野敬三郎 「ミズノ先生の仏像のみかた」読了

本書は、どの仏様がどんな姿をしているか、どんな持ち物を持っているかということの解説ではなく、時代の変遷とともに変化した表情、作成法、使われた素材というものをインタビュー形式で解説している。著者は、仏像美術史学者という肩書を持っている人だそうだ。

美術品として仏像の様式は、鎌倉時代の運慶や快慶のころから以降は大きな変化がないそうだ。たしかに、江戸時代の仏像で、「これはすごい。」というものを聞いたことがなく、奈良や京都の仏像が紹介されることが多いのは、その後はあまり大きな変革というものがなかったからだということがわかった。話題に乗せようとしても大きなトピックスになるものがなかったということだから僕みたいな知識がまったくないものには触れる機会がなかったのは当然だ。

日本で造られた仏像で最古のものは法隆寺にある釈迦三尊像であるのだが、お顔を拝見している(写真でだけだが・・)とどうもアンバランスな感じがしていた。これは僕の思い過ごしではなく、仏像のデザインがガンダーラから東に伝わっていく過程でそれぞれの国の人々の顔の特徴を取り入れながら少しずつ表情が変わってきたのだが、それが日本に伝わったとき、鼻梁のはっきりした形やガンダーラ風のアルカイックスマイルの口元の表情が残ったけれども、目は日本人っぽく造られたというのがあのお顔だそうだ。西洋人は二重瞼の人がほとんどだが、日本人は一重まぶたの人が多い。法隆寺の仏様も一重まぶただそうだがそういうところにどうもその原因があるようだ。それでもやはりその荘厳さになんのほころびもないのだ。
その後、日本の国では様々な時代背景を経て定朝様ひとつの完成を見せることになる。丸みを帯びた輪郭とふっくらとした体つきは平和な時代と極楽浄土の世界を体現した。
時代は武士の時代になり、質実剛健さが加わる。そして密教では憤怒の像が加わりここで日本の仏像のデザインは固定され、のちの時代は円空仏のようなものを除いてはほぼすべてどの時代かのデザインを踏襲するようになる。
おおまかだが、こんな歴史があるそうだ。

その中で、定朝の時代の前、世の中の災いは怨霊や呪詛、疫神の仕業であり、そういう恐ろしい存在を鎮めるために厳しい表情の仏様が現れる。

僕は定朝よりもそんな表情の仏様に魅かれる。やはり仏様には世の中を厳しい目でみていただいてそして僕をそんな世界から救い出してほしいのだ・・・。
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「窓際OL 会社はいつもてんやわんや 」読了

2019年06月13日 | 2019読書
斎藤由香 「窓際OL 会社はいつもてんやわんや 」読了

しかし、この人が窓際というのなら、世の中のかなりのサラリーマンが窓際ということになるのではないだろうか。この人が窓際なら、僕なんか窓の下だ。それも屋外の・・・。そういう場所というのは上の窓からゴミしか落ちてこないのだ・・。

サントリーという超々一流企業の広報に在籍しているひとで窓際あつかいされている人というのはいないだろう。広報という部署は大概の会社は総務部門の一部門であるから会社の中枢であり会社の中でも限りなく役員たちに近い職場だ。この本にもそんな役員のことが面白おかしく書かれている。それだけを見ても窓際であるはずがない。職務上、有名タレントや作家と交流し、おまけにこんな本まで出版してしまうのだから“窓際”という冠にシンパシーを感じて読んでいるこっちが白けてしまうのだ。

著者は北杜夫の娘である。ということは斉藤茂吉の孫ということだから超サラブレッドだ。この本は当時(2005年ごろ)の週刊新潮に連載されていたものを1冊にまとめたものだそうだ。このころ、健康食品の拡販に力を入れていたサントリーが著者の知名度を使って今でいうステルスマーケティングを展開するために彼女を使ったというところが本音のところではないだろうか。「マカ」というサプリメントを持って企業や官庁のそれもかなり中枢の人々に直接接触して配るにはヒラ社員のほうが都合がよかったということだろう。配りに来る人が北杜夫の娘で斉藤茂吉の孫だとなると、「そうですか~。」となるというものだ。広告上手のサントリーのやりそうなことだ。

しかし、サントリーという会社はエリートというか、サラブレッドというか、すごい人たちと言っても過言ではない人たちが働いているようだ。著者は北杜夫の娘だが、この本の登場人物には宮本武蔵の末裔という人もいる。東大、京大はざらで首席卒業かもしくは大学院卒ばかりが登場する。

ここからは僕の友人の話だが、歴史がある会社というのはえてしてそうなのか、都市伝説のようにコネというものが会社の中に存在する。そんなものはうわさ話にすぎず、やっぱり仕事のできる人が偉くなるに決まっていると思っていたそうだが、あるとき、その当時の上司が「今度異動してくる人はこんな人。」とカルテのようなものを見せてくれたそうだ。
人事権を持っているわけではない彼はそんなものをその時まで見たことがなく、自分にもこんなデータがあるのかと過去の失敗や悪事も書かれているのかと恐怖したと同時に、「紹介者」という欄があったことに驚いたそうだ。この欄が人事にどれだけの威力を発揮しているのかわからないけれども、「コネがあると出世する。」という命題が真実であるとするならば、コネというのは会社の中では十分条件に限りなく近いものであるのだと肩をうなだれてしまったと言っていた。

ならばサントリーでもそうなのかと思うけれども、サラブレッドとなるとまた意味が違ってくるような気がする。ある才能が発揮されるためには遺伝子のスイッチが入ることが必要なのだそうだ。そして、そのスイッチが入るためには育つ環境が非常に重要である。とこの前のNHKスペシャルでやっていた。だから、歌舞伎役者の子供が歌舞伎が上手かったり、政治家の子供が政治家になって総理大臣になるというのもあながちコネや人脈だけではないらしいのである。
だとすると、文学者の子供はやはり文才があり、ビジネスエリートの子供は優秀なビジネスマンになるということか・・。そしていい会社にはそういう人たちが続々集まってきてさらに会社は繁栄する。そういえば、就職活動をしていた30年前の当時でも、サントリーにはよほどのことがないかぎり就職はできないと聞いたことがある。能力もしかりだが、きっとそういう家柄みたいなものがものをいう会社ではあるのだろう。非上場の会社だからそれはもっと顕著だったのかもしれない。この本にはサントリーと社屋が近いフジテレビの話もよく出てくるが、この会社には遠藤周作や宇津井健の子供が働いていたそうだ。庶民が働いてはいけない会社、もしくはそういうものが十分条件である会社というのは意外とたくさんあるのかもしれない。貴族の社会というものは現代でもちゃんと存在しているのかもしれないということだ。
そんなことも思いながら読んでいるとますますシラケテしまった。

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「朝ドラには働く女子の本音が詰まってる」読了

2019年06月08日 | 2019読書
矢部万紀子 「朝ドラには働く女子の本音が詰まってる」読了

タイトルに、「朝ドラ」と入っていると読まないわけにはいかない。
ただ、書かれている内容はあくまでも著者の個人的な感想ばかりで、時代や世相の移り変わりがどのようにドラマに影響を与えたかみたいな文化的、社会的な側面はほぼ皆無。著者も書いているが、友人との飲み会での会話のようだ。松本人志の「遺書」や「松本」の編集者だそうだが、個人的な感想で本を1冊出版してしまうというのはなんとも大胆に思える。タイトルは、「働く女子の本音が詰まってる」だが、これでは著者の本音しか詰まっていないような気がする。
その感想を読んでいくとなんとなくこの人の好みがわかってくる。どうも好きなのはヒロ、インが結婚や恋愛で苦悩する場面と、イケメンの脇役たちだ。だから、「カーネーション」と五代様と嘉納様の評価が高い。逆にヒロインがたくさんの幸運に恵まれて幸せになってゆくストーリーには手厳しい。きっと著者の人生は山あり谷ありだったのだと想像する。

まあ、ドラマなんて自分勝手に解釈して観ればいいし、それをとやかく言うつもりもないのでこれはこれでよしとしよう。

著者の分析では、ドラマの脚本家が言いたいことというのは、それぞれの脇役のセリフに現れているという。たしかに、朝ドラのヒロインは「明るく、元気に、さわやかに。」がほぼ絶対条件で動かしがたいものがある。となると、いかに脇役にそれを言わせるかということが脚本家の腕の見せ所ということになる。実在の人物の立志伝では流れが決まっていてヒロインの意思の強さや力強さで押し切ることもできるのだろうが、完全オリジナルの物語ではやはりそこが大切である。「ひよっこ」では宗男叔父さんがそういう役回りであったし、あまちゃんではやっぱり夏さんであろう、あの、たぶん大失敗であった「まれ」でも紺谷弥太郎の、「漆は嘘をつくげ。輪島塗は特に何遍も何遍も漆をっちゃ塗り重ねていくがや本物やけど、手抜きしてとりあえず上からきれいに塗ってしもうたら、ぱっと見はわからん。騙す思うたら騙せるけん。ほやからこそ、騙したらダメねん。見えんでも嘘をっちゃついたらダメや。」というセリフにはうなされる。「ごちそうさん」にはそんなにすごい脇役がいたという印象はないけれども、テーマが、「食べることは生きること」なのだからだれも文句をいうことができまい。
いま放送中の、「なつぞら」ではその役割を泰樹さんと天陽君が担っているような気がする。放送開始からの2週間の泰樹さんのセリフの数々は歴史に残ると言っても過言ではないのだろうか。しかしその後の泰樹さんの扱いはなんだか狂言回しのようで少し悲しい。これからの挽回を期待したい。
天陽君はやはりなつとの別れの時のセリフだろう。
「俺にとっての広い世界は、ベニヤ板だ。そこが俺のキャンバスだ。 何もなく広すぎて、自分の無力を感じるけれど、そこで生きる自分の価値は、他のどんな価値にも流されない。」
加えて今週、展覧会で入賞した時のスピーチだ。「僕の絵だけは何も変わらないつもり、社会の価値観とは関係ない、ただの絵を描いていきたい。」これはまさに人はこう生きるべきだという脚本家の主張だろう。
しかし、出演者みんなが美男美女だからどうも現実感に乏しい。いくら北海道が広いといってもあれだけいっぺんに集まっているわけはなかろう。天陽君のかぶっている防寒用の帽子の柄はデザインかと思ったけれども、貧乏な家庭の設定を思うとあれはきっとツギ当てなのだ。しかしながら、天陽君があまりにもハンサムだからそうは見えないのだ。富士子さんも、それは酪農家の奥さんにも美人はいるだろうけれども、そういう奥さんにかぎって、「私は酪農なんて嫌いよ、絶対に家業のお手伝いなんかやらないわ。」というスタンスのはずなのだ。家族と一緒に乳搾りはやらないのだ・・。

まあ、そんなことはどうでもいい。著者は最後に、そのヒロインたちにも必ず共通して示しているものがあるという。それは、「堂々とせよ。」であるという。ヒロインたちはすべてが人生のなかで成功をおさめているわけではないけれども、必ず「堂々と」生きている。それは世間の目を気にすることなく、自分の価値観を貫いているということだ。これは天陽君のセリフにもつながるところであり、なつが東京で派手な洋服を着続けているところもそんな一端を示しているのかもしれない。もっとも、なつのあの服装は、「それでも都会の絵の具には染まっていないのよ。」という逆説的な意味を持たせている側面のほうが強いような気もするのであるが・・。その証拠に、咲太郎が寝起きでリーゼントの前髪が普通に垂れていたのも、いきがってはいるけれども、内面はそうではないのだという表現なのだと思う。
そして、「朝ドラの話にのれる男子は女子のお友だち。」であるという法則が展開される。その、「堂々とせよ。」に共感できる男性であるかどうかということが、女子と仲良くなれるかどうかのリトマス試験紙だと著者は言うのだが、どうもそれには共感ができるようなできないような・・・。

やっぱり最終的には、著者の本音しか詰まっていないような気がするのであった。
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