イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「世界史を変えた新素材」読了

2019年10月07日 | 2019読書
佐藤健太郎 「世界史を変えた新素材」読了

「歴史を変えた“新”素材」というタイトルなのだが、読み始める前はこれからの歴史を変えるような新素材の紹介なのかと期待していたのだが、確かに「変えた」という過去形の物語であった。
しかしながら、読んでいると、きっとそうだったんだろうなと思うようなところはある。
ただ、素材が歴史を変えたというよりも素材を生産する技術が歴史を変えたというほうが正しいのではないだろうか。
鉄について興味深い書かれ方をしていて、「人間は鉄を利用して文明を発展させてきたというより鉄の性質に沿って文明が発展してきた。」そう言えるだろうけれどもそれは大量生産がもたらした変革ではなかっただろうか。

金や、陶器(陶器が素材と呼べるかどうかは別にして。)、絹といった素材は量産できない貴重さが人の欲望をかきたてて世界の情勢を変えたというところは納得できるが、これとて、輸出品として量産した国(日本もそうなのだろうが)が国力を蓄え、世界へのかかわりを変えてきたという意味でははやり素材もしかりだが、はやり技術が世界を変えてきたと僕は思うのだ。

しかしながら、釣りの世界ではやはり素材がその歴史を変えてきたと言ってもいいのではないかと思う。まあ、釣り師は使うだけでそれを作らないから技術革新は横に置いといてというだけかもしれないが・・。
僕の世代ではすでにナイロン糸は普通にあったのでそれは除くとしてこれが釣りを変えてきたというものを取り上げると、蛍光塗料、カーボンロッド、PEライン、GPS、GPSは素材ではないけれどもこの四つは確かに釣りの世界を劇的に変えたのではないだろうか。
蛍光塗料なんてとうの昔からあったじゃないかと思われるかもしれないが、ぼくが幼稚園くらいのころは、棒ウキはただ白いだけで、クジャクの羽を白く塗っただけのものだった。そういえば、もう、クジャクの羽も釣具屋で見なくなった。父親が使うチヌ釣り用の玉ウキも黒か茶色をしていた。髙松の長屋のようなところにあった釣具屋さんで父親はそれを買っていた。小学生になったころに、父親が蛍光塗料の玉ウキ(木製からセルロイド?に変わっていた。発泡ウキはもう少し後に出てくる。)を買ってきて、「よ~見えるど~。」と言っていた。
カーボンロッドはその細さと軽さに驚いた。高くてなかなか変えずに、グラスより少し軽い、ポリグラスの竿というのがあって父親は僕にそれを使わせてくれた。我が家にやってきた最初のカーボンロッドは、オリムピックの「世紀」というやつであったが今の竿から比べるとかなり持ち重りがしたけれどもそれでも軽かった。このブログを始めたころはまだ使っていたのではないだろうか。田辺の磯で、「にいちゃん、えらい古い竿、使ってんな~。」と言われた思い出がある。
PEラインとGPSは僕だけでなく船で釣りをする人はすべて、これがないともう、釣りにならないのではないだろうか。ウチにはまだ、びしま糸があるけれどもあれを加太で使えと言われると絶対無理だと思うのだ。父親が船を買った頃、これを使わされたけれども、まったく底が取れなかったことを覚えている。ただ、これを使った釣りはものすごく面白いらしいのでひそかにいつかは挑戦してみようかと思っているのである。

これからは情報の時代だということで、この本にも磁石がもたらした、紙から磁気媒体そしてシリコン化合物へという記録の変革について書かれている。情報も変革の波に乗って世の中を変えてゆくのだろうが、製品としての素材はどういうふうに世界を変えてゆくだろうか。
現代はまだ、鉄の時代だそうだ。鉄というのは地球の重さの30%を占めていて、地表付近で人間が利用できる範囲にも、クラーク数という値で4.7%、ランクで第4位だそうだ。そういうことで当分は鉄が中心の時代が続くはずだそうだ。その先には何があるのだろうか?
カーボンナノチューブという素材が実用化されると地球と宇宙を結ぶ軌道エレベーターができるそうだ。宇宙がグッと近くなる。コンピューターの心臓部はシリコンだから、鉄の次は炭素とケイ素の時代が待っているということか。
しかし、どうだろう、そんな時代を待たずに、世界は情報だけが残るだけになって、そういう、インフラを構成するような素材は必要なくなっていたりしないのだろうか。
美空ひばりをAIで復活させるというドキュメントが放送されていたけれども、それを見ていると、もう、過去も未来も現在もいっしょくたになって仮想の世界だけが残るのではないかと思えてきた。
と、いうことはケイ素だけの時代になるのだろうか。このケイ素は、原子の周期表では同じ列のひとつ下にあったということを初めて知った。(受験勉強では大体カルシウムくらいまでしか覚えないのだ。)ということは炭素とケイ素はよく似た性質であるということだ。知能の主役が炭素化合物(=人間)からケイ素化合物にとって代わるということはあながち空想ということでもないのかもしれない・・。知らんけど・・。

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「昆虫食と文明―昆虫の新たな役割を考える 」読了

2019年10月01日 | 2019読書
デイビッド・ウォルトナー=テーブズ/著、片岡 夏実/訳 「昆虫食と文明―昆虫の新たな役割を考える 」読了

何かのコラムで、地球の食糧危機を救うのは昆虫食だと読んだことがある。それに、「イッテQ」に出てくるタレントたちはほとんど全員、虫を食べた時の感想が“美味しい”と言っているので、虫を食べることでバラ色の世界が開けるのだろうかとこんな本を読んでみた。

しかしながら、やはり虫には嫌悪感を感じる。SF映画では突然人を襲ってくる動物というのはだいたい昆虫型をしているし、伝染病を媒介する。農産物に被害を及ぼして地球を食糧危機にさらす可能性をもっているのも昆虫だ。モーセがエジプトに災いをもたらしたのもバッタだ。だから、人間というのは基本的に昆虫に対しては親近感よりもむしろ嫌悪感の方が勝っている。はずだ。
ただ、節足動物の一角を占める昆虫はやはり同じ節足動物であるエビやカニと味が似通っているらしく、森三中もイモトアヤコも、「エビだ。」「カニだ」と言っている。僕も山形でイナゴの佃煮を食べさせてもらったことがあるけれども確かに美味しかった。そのときに言われたのが、ハチノコはもっと美味しいということだった。そういえば、イモトアヤコは芋虫を食って、濃厚なミルクのようだと言っていた。そうなってくると、人と一緒で、見た目というよりも慣れなのかもしれない。
しかしながら、エビやカニは水中にいて空気中に置いておくといずれは死んでくれるけれども、虫はそうはいかないんじゃないだろうか。いつまでも箱かビンのなかでモゾモゾやっていると思うとやっぱり抵抗がある。

栄養価は高く、カイコの蛹は人間の食用に適するタンパク質の世界保健機関(WHO)の要求を満たすアミノ酸組成だそうだ。(釣り餌のさなぎ粉を食いながら生きてゆけるということか・・)当のコラムには、生産効率もなかなかで、家畜を育てるよりもはるかに効率がいいと書いていたが、この本ではそれほどでもなく、水の使用量だけが少ない程度だという。じゃあ、無理して昆虫を食べなくても牛や豚を食べればいいじゃないかと思うのだが、著者はそのメリットのひとつとして、害虫である昆虫を食べるということは、害虫が減るので殺虫剤を使うことなく農産物を害虫から守ることができるというのだ。
う~ん、これが理にかなっているのかどうかというとなんだか疑問に思うのだけれども、実際そんなことを実践して害虫が減ったという例もあるそうだ。

いっぽうで世界の人口が持続的に食料を確保するためには昆虫食はどうしても必要であると主張する人は多く、現在でも数億人の人口が昆虫を常時口にしている事実から、欧米の文化圏の人たちも昆虫を食べるべきだと啓蒙する団体は、やはり、先入観を捨て去れば食べることができる。生の魚を食べる日本の文化も1世代も過ぎないうちに定着したのだからできないことはないという。しかし、魚と虫を一緒にされても困るのではあるけれども・・。

しかしながら、昆虫食が普及してゆくとして、そこには様々な問題が発生してくると著者は予想する。たとえば、生産を増やすためには人工的に増殖をしなければならないけれども、そこには環境汚染という問題がついてまわる。また、市場が成熟してくると、アフリカや東南アジアで子供や女性といった腕力のない人たちの収入源となっている昆虫の採集が他者に取って変わられるということが出てくる。また、倫理的な観点からは、「虫をどうやって苦痛なく殺して食材に加工するか。」というような、牛や豚なんかの家畜に対する倫理観と同じようなものを当てはめて考えなければならないというのである。
しかし、虫は痛みを感じるのだろうか・・。

食べるものすべてが虫になるということはないのであろうけれども、食料の20%が虫で賄われるとすると、5日に一度は虫を食べるということになる。ハンバーグが出てきて、この肉はバッタ製ですなんて言われると躊躇してしまうのだ。
そんな時代がすぐに来ることはないのだろうけれども、そんなにしてまで生きる必要があるのかなどと思ってしまう。東南アジアの国々は多分ずっとそんな生活が続いているのだろうけれども、そこはやっぱり生きてきた文化の違いだから仕方がない。しかし、どこの遺跡でも、ウンコの化石からは当時の人たちは昆虫を食べていたという痕跡が出るそうだ。そう考えると、ご先祖様たちに叱られてしまいそうなのである。

著者も、食が多様になっていく中で、昆虫食が普通の献立になればいいと書いている。それくらいでいいのである。どうやら、昆虫を食べると素晴らしい未来が開かれているというよりも、食べたい人は食べればいいし、そんな文化を持っていなかったらわざわざ食べる必要もないのじゃないかというありきたりのような結論が僕の中で出てくるのである。

これはあくまでも珍味の範疇でいてほしいと願うのだ。


著者は疫学者で詩人だそうだ。もともと翻訳された本というのは文化的な背景の違いもあるのか読みにくいと思いながら読んでいるのであるけれども、おまけに詩人が書いたとなるとほとほと読みにくい文体になっていた。翻訳者の癖というのもあるのだろけれども、教養のない一般人にも分かるような文体とちょっとした解説入れておいてくれないものだろうかと思うのである。
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「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」読了

2019年09月22日 | 2019読書
奥野克巳 「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」読了

小さいころは学校に行き、その後就職し収入を得る、お金が生活の基盤になる。選挙があって、議員たちがあれこれ話し合って様々なインフラが作られる。自分たちが生きてゆくうえで必要なことが意に沿うかどうかにかかわらず決められるとはいったいどういうことなのか・・・。
現代社会で一般常識と考えられていることは本当に当たり前のことなのか。文明の極みであるロサンゼルスからメキシコの奥地を目指して旅してきた文化人類学者である著者は目の前で行われている様々なことに疑いを持つようになった。

そういった一般常識が社会の問題を複雑化させるのではないかと考えた著者は、ボルネオ島に住むプナンと生活を共にしてその一般常識について深く考えてみようとした。プランテーション農業が入り、文明社会になじんでいるとはいえ、いまでも狩猟採集という、おそらくは人間が文明を持つ以前の生活様式をおこなっている人々は現代社会に生きる我々とは異なった価値観を持ちそれが人間本来の価値基準ではないのか、それと現代人が持っている価値基準と比較することによって人間の根元的なやり方や考え方について考えてみることはできないだろうかという思いを実践してみた考察が綴られている。


プナンの人たちは、食べ物を手に入れること以上に重要なことは他にない。「生きるために食べる。」人たちである。彼らはまず、「〇〇のために生きる。」いう言い方をしない。対して現代人は、生きるために食べなければならないという人間的・動物的現実を他のものへと作り変えてしまっている。私たちは、生きること以外の目標を設定して生きることを自らに課している。プナン流の生き方が、私たちの生き方を照らし出してくれる。と著者はいう。

プナンは反省をしないし謝りもしない。借りたものを壊しても謝らないし、逆に、誰かが失敗したり迷惑をかけられたりしても攻めもしない。そして、得たものは必ず均等に分配し、贈られたものは再び誰かに贈り手元に残さないということが美徳とされている。それが当たり前と考えられているから、「ありがとう」という言葉がない。
プナンの死者に対する感覚は、亡くなった人を極力忘れようとする。遺品をすべて廃棄し、肉親の名前までも帰ることで忘れようとし、亡くなった人の名前を呼んだり思い出したりもしてはいけないとされている。

これを読みながら、これはいつか読んだ「正法眼蔵」、道元禅師の考え方にそっくりではないかと思った。その本には、人生とは瞬間、瞬間の積み重ねであってそれにはつながりがない。だから“今だけ”をしっかり生きなさいと書いてあった。

プナンの生き方というのはまさにそれを実践しているように思う。筆者はニーチェの「永遠回帰」「大いなる午後」という考え方になぞらえている。

こう書きながら、正法眼蔵もニーチェもいま三つくらいわからない。
プナンの生活の描写から想像するに、『 “今”というものが一番大切で、過去を悔んだり、未来を悲観するのは無駄なことである。そして隠し事をしてはいけないし、集団は公平に遇されるべきである。すべてはお天道様が見ているぞ。』という感じだろうか。

しかし、世の中をすべて看破したような人たちの最終回答がヒトの一番最初の生き方に近いものであったということはこれこそまさしく「永遠回帰」ということだな。
とわけもわからず感心するのだ・・。
著者はそれが人間らしい生き方と断定はしていない。しかし、こうやって本に書くということはなにか息が詰まりそうなこの世の中よりもプナンのほうがいいのではないかと考えているのだろうが、なかなかそれが難しい。プナンの世界でも物欲というものは子供のころからの生活の中で矯正されてゆくらしい。まあ、あくまでもこれがヒトのいちばん初期の生き方ではなかったのかと見ているだけである。

新聞の書評欄で、今でも売れている本ということで紹介されていた本なのだが、確かに考えるべきものが多い本ではあった。
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「黙殺  報じられない“無頼系独立候補”たちの戦い」読了

2019年09月14日 | 2019読書
畠山理仁 「黙殺  報じられない“無頼系独立候補”たちの戦い」読了

いつもニュースを見ていて不思議に思うのが、政治家の方々というのは、あれだけマスコミや街頭の人たちに悪口を言われてやっていてバカバカしくならないのだろうかということだ。不倫をしたり使い込んだりしましたとなるといろいろ言われてしかりだけれども、総理大臣までもいろいろ言われている。かの国では写真が踏みつぶされたり焼かれたり・・。
そしてもうひとつ不思議なのが国政選挙や知事選なんかに出てくる不思議な人たちだ。奇抜なかっこうをしたりとんでもない政策をぶち上げてほとんど得票することなく消えてゆく、いわゆる「泡沫候補」という人たちなのだが、おふざけをするにしても供託金を数百万も出してもったいなくないのだろうかといつも思うのだ。

この本は、そんな泡沫候補、この本では敬意を表して「無頼系独立候補」と呼んでいるけれども、そういう人たちがどういう思いで選挙戦に臨んでいるのかということを2014年と2016年の都知事選を中心に取材をしている。
2017年第15回開高健ノンフィクション賞受賞作なので、候補者をゲテモノ扱いしているというものではない。候補者たちの思いは、マスコミはどの候補者も公平に扱うべきだ。そして、すべての候補者は少なからず、世の中をよくしたい、不公平や不満を解消したい。この二点を広く知ってもらいたいという思いで戦っているのだということを読者に語っている。
前半はけっこう有名なマック赤坂への密着取材、後半は2014年16年の都知事選での無頼系独立候補者への取材内容という構成になっている。
朝日新聞の内部文書では大体、3ランクくらいに分けて報道するそうだ。当選が有力視される一般候補、とりあえずまじめなミニ政党などの準一般候補、それ以外の特殊候補。これには、売名や営利、自己のマニア的欲求を満足させるために立候補したと思われる候補者と書かれている。一般候補は頻繁にとりあげられて報道されるけれども、特殊候補にいたってはほとんど報道されず、ひとくくりで、「独自の戦いを繰り広げています。」なる。2016年の民放主要4局の泡沫候補に割かれた選挙報道はわずかに3%だったそうだ。

マック赤坂は同じ供託金を納めているにも関わらずそれは不公平だと奇抜なコスプレや有力候補者の街頭演説に割り込んでいくなどという奇策を案ずる。タレントやスポーツ選手などは知名度があるから何もしなくても十分目立つけれども、悲しいかな、それ以外の人たちはそうでもやらないと誰も振り向いてくれないのが今の世の中であり、制度であるそうだ。マック赤坂も、スーパーマンのコスプレで、「人は売名行為だというけれどもこうでもやらないとだれも自分の声を聞いてくれないのだ。」としみじみ言う場面が悲しい。

マック赤坂はロールスロイスを広報車に使うくらいだからかなりのお金持ちのようだがもっと知名度のない候補者たちはアルバイトで貯めた貯金を使い、また、サラ金から借金をしたり別荘を売ったりして選挙に臨む人もいる。それはひとえに今の社会に不満があり、少しでも世の中をよくしたいという様々な公約を掲げて選挙戦に臨む。それでも街頭演説ひとつしない候補者もいるというのが不思議だ。
この都知事選のころは東京オリンピックや築地市場の移転問題が話題になったころだ。その他、待機児童や最低賃金についてこれはもっともだという公約を掲げている候補者もいるけれども、恋愛特区を作るだとか、独身税、肥満税だとかいうようなトンデモ公約みたいなものも出てくる。ちなみに恋愛特区案はマック赤坂の公約だったそうだ。玉石混交というのも仕方がないとは思うけれども、それがあまりにバカバカしいものになってくると、無頼系独立候補はみんなトンデモ公約ばかりを主張していると思われてきてしまうのが悲しい。しかし、逆に考えると、こういう候補者たちは我々にもっと政治リテラシーを持ちなさいと言っているのかもしれない。そいう僕も、選挙公報なんてほぼ読まない。後々になって当選した知事が採用したと(いうかパクった?)思われる公約もあったということだからやはりすべてがトンデモというわけではなさそうだ。

どちらにしても、有力候補者の公約でも、それ、ほんとにできるの?お金はどうなるの?と思えるようなものもあるのだから、有権者はもっと政治に関心をもって世の中を見ないといけないと思うのだ。一般人が選挙に無関心だというのは制度にも問題があるらしく、立候補に必要な供託金は世界と比較して日本は突出して高いそうだ。これは戦前、共産党排除のために設けられた制度がそのまま尾をひているのだと著者は言っているけれども、そのほか、他国ではもっと選挙期間も長いそうだ。その間に有権者は候補者の考えをじっくり審査できるという。アメリカ大統領の選挙もそういえば1年間続く。最終の候補者は一人に絞られるが、じつは有名無名合わせて数十人規模で立候補しいているそうだ。それだけ門戸が広いということだ。そういうことは見習わないといけないのだろうなと思う。

しかし、人の上に立とうと志すものなら、品位も必要だろうと思う。全裸の選挙ポスターやスーパーマンのコスプレで尊敬を集められるわけがない。この前の参院戦でも人をバカにしたような政見放送があったけれども noblesse oblige という言葉を彼らは知らないのだろうか。それを見て投票する人間もその品位を疑われる。政治はその国の民度を表すそうだが、この国の民度はそんなところだろう。きっと。
ただ、この人たちの言葉がすばらしい。マック赤坂は、「自分が正しいと思ったことをしろ。やりたいことをやれ。そうすれば底に責任が生まれるし、逃げ道もなくなる。だからこそ真剣になれる。」供託金が270万円足らなかった候補は、「有権者はなぜ立候補しないのか。民主主義とか選挙制度って、これまでの人たちが命をかけて得てきたものです。これを守り続けるためには文句を言ってるだけじゃダメ。」たとえ勝ち目がなくてもそれを社会に身をもって示しているのだ。

そして、民度というと、2016年の都知事選に落選したあと、地方議会の議員になった人と国会議員になった人がいる。2013年にインターネットでの選挙運動が解禁されたことで世間ではもっぱら、その拡散力が民意を掬い取ったのだと評価されているけれども、はたしてそうだろうか、SNSの世界は極論がもてはやされる、とにかくセンセーショナルな言葉を打ち放てばみんな喜ぶ。そして何かひとつのものを叩けば叩くほど一部の人間は躍起になって喜ぶ。そして広がる。
おそらくそんな人はどこかで高転びをして消えることになり、それを権力に押しつぶされたというのだろうけれどもそれは品位の問題だとはきっと自覚しないのだと思う。

変なことをしないと目立たない。そして変な行動がすべてを変なものとして認識させてしまう。そしてまっとうな小さな意見は日の目を見ない。きっとこの国はそんなことにしかならなない国になってしまったのだろう。
著者はどんな候補者にもそれなりの思いがあるというけれども、どんな思いも好き勝手にやっていいわけではないと僕は思うのだ。
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「絶滅危惧の地味な虫たち」読了

2019年09月11日 | 2019読書
小松貴 「絶滅危惧の地味な虫たち」読了

NHKで香川照之が扮する「カマキリ先生」が、昆虫の数は30年前と比べると80%減っているというデータがあると言っていた。
環境省が発行している生物絶滅に関するレッドリストでは865種類の昆虫が絶滅危惧種としてリストアップされているそうだ。そのうち、160~170種は蝶やトンボ、大型の甲虫類で、残りの700種類足らずは見るからにどうでもいいような風貌のハエや蚊、ハチにアリ、カメムシ、ハナクソサイズの甲虫といった地味な虫によって占められている。
これが多いかどうかというのはわからないけれども、確かに自分の周りの虫は少なくなったような気がする。
この本はそういうレッドリストに掲載されている地味で、絶滅したとしてもだれも絶滅したことさえもわからないような、とるに足らない、小さくて生息域もごく限られているような虫たちに愛をそそいで書かれている。
それをこういう言葉で表現し、また人間たちを揶揄している。
「これらの昆虫は、一般人の同情を誘うような外見ではないため、大して保護されることもない宿命を負っている。」「小さな洞窟に住む暗くて湿度が高い場所を好む虫は、そこが観光開発されてライトが点けられコンクリートで歩道が作られると人知れずそこから消えてゆく。そこに住むコウモリなどの生態については説明のパネルがあるけれども、かつてそこにいた虫のこと、そしてそれを観光開発のせいで絶やしてしまったことに関して説明するパネルはひとつも見当たらない。」

これは著者の責任ではないけれども、愛があるわりには、「メクラチビゴミムシ」とか、「アオスジミゾドロムシ」とか、「クロモンマグソコガネ」とか、どう見ても愛情が感じられない名前が多い。名前をつけた人たちも、おれはどうしてこんな虫を相手にしているのかと半分やけになって名づけたようにしか思えない。しかし、それも味方によっては名付けたひとの愛?を感じることができるような気もする。

前に読んだ本のところでも書いたが(上記カマキリ先生のリンク)、小さいころはご多分にもれず虫が好きであった。夏になるといつも虫かごと安い補虫網を持ち歩いていたような気がする。住んでいたところは、今、船を係留している港からほんの少しのところで、海辺はすでに貯木場として埋め立てられてはいたもののだだっ広い広場が続いていて雑草が生え放題で大きな水たまりもあり、バッタやトンボがたくさん飛んでいた。コウロギなんて山のように捕れたものだ。足首くらいの深さしかなかったけれども水たまりにはヤゴが泳いでいたりして、捕まえてはアゴを伸ばして遊んでいた。まだ、蓮池というのもところどころにあって、そこではごくたまにミズカマキリやタイコウチを見つけることができた。さすがにタガメというのは見ることがなかったけれども、鉤のようになった前足にはドキドキしたものだ。
家の中にもたくさんの虫が入ってきた。コメツキムシはよくいじくって遊んだし、直径10センチはあろうかというクモなんかもよく畳の上を歩いていた。

家の近所ではどの家も仏壇用の花を植えていて、アゲハチョウやなんとかシジミというような蝶がたくさん飛んでいた。アゲハチョウだけでなく、クロアゲハやアオスジアゲハなんていうのも普通に飛んでいた。虫の死骸や飴が落ちているといつもアリが群がっていたし、犬のフンには必ずギンバエがたかっていた。

アメンボは小学校の近くにあった、あれは養護学校かなにかだったのだろうか、蓮の浮いた小さな池が並んでいる中庭にいくとたくさん浮かんでいた。この本を読んでいて、そうそう、あれはマツモムシっていう名前だったとカヌーみたいな小さな虫を思い出した。

受験勉強中は窓からたくさんの虫が飛んできてノートの上に落ちてきた。蚊は当たり前だし、周りに田んぼが多かったせいか、緑色のヨコバイというやつが僕の勉強をよけいにわからなくしてしまうのだ。わからない数学の問題を解いていると腹が立ってきて、まち針を取り出して串刺しにしたりしてしまった。

そういう思い出があるけれども、本当に最近は虫を見ない。老眼が進んで見えなくなってきたというのもあるだろうけれども、アリもハエもしかり、家の周りでアゲハチョウなんてついぞ見ることがなくなった。港の周りにも何もいない。空地は工場になり、除草剤や殺虫剤が撒かれて消えてしまったんだろう。ハンミョウが走り回っていた、わずかに残っていた砂浜もとうの昔に消えてしまった。
セミは相変わらずうるさいほど鳴いているけれども少なくとも僕の生活圏では間違いなく昆虫は減っているようだ。

僕が唯一自然と交わることができる場所は生石山だけになってしまった。行く時期は春先で緑も少ない時期だけれども、まだあそこだったら盛期になればたくさんの昆虫たちが飛び回っているに違いないような気がする。しかし、それは昆虫たちの世界としてそってしておいてあげよう。
僕ひとりがそっとしておいてあげてもあげなくても何の変りもないことなのだが・・。

はたして、今度の内閣改造で環境大臣になったホープはこういった虫たちに愛を注いでくれるほどの器量はあるだろうか・・・。

惜しむらくは、この本、カラーのページがほとんどない。せっかくたくさんの虫が紹介されているけれどもそれをはっきり見ることができない。と、思っていたら、この本に出てくる虫たちをネットで調べていると、おそらく著者か書いているだろうと思われるブログを見つけた。

http://sangetuki.blog.fc2.com/

ここには地味とは言いながらそこにはきれいな虫たちの画像が掲載されている。ぜんぜん地味ではない。こんな造形を作り出した自然はやはりすごいと思うのである。
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「西洋哲学の10冊」読了

2019年09月04日 | 2019読書
左近司 祥子 著, 編集 「西洋哲学の10冊」読了

僕の今までの人生でインプットした資源量と、アウトプットした資源量(=社会に貢献した度合)を比較すると、それはもう明らかにインプットした資源量が圧倒している。要は、社会貢献というものがまったくできなかったのだ・・。人生も第3コーナーを回りきって第4コーナーにさしかかろうかという頃に差し掛かると、それに対してなんとか言い訳をしなければならないと考え始めるのだ。

仏教の本を読んでいると、「諦めること」が肝要であると書いているけれども、それは日々をそう生きていると心が安寧になるということで、人生に対する言い訳ではないような気がする。そして、僕がほしい言い訳の答えが心理学や哲学にあるのではないかと検索をしていたらこんな本を見つけた。
哲学の入門書で、しかも分類は児童書となっているけれどもほぼ中身はわからなかった。僕の知能は高校生以下のようだ。

この本には10人の哲学者が書いた書物の解説が掲載されている。その解説がさっぱりわからない。
なんとかいくらかの部分を拾い出してつなぎ合わせてみる。
まず、人はなぜ哲学をするか。それは、「この世に不満を感じないでいることができるのであれば哲学は必要ない」からである。それでは不満を感じないということはどういう状態であろうか。アリストテレスは、「それは幸福になること。」であるという。
しかし、ハイデッカーは、「不安は常につきまとう。」という。それに加えて、「問い続けることが人間としての存在そのものである。」とも言っている。

ああ、哲学も僕の疑問には答えてくれない。それどころか、“問い続けることが・・・”なんて言われると、永遠に堂々巡りをしていなさいと言われているようなものではないか。
しかし、ラッセルはこうも言っている。「不幸自慢をしている人もそれはそれで幸福なのだ。」今週の「おしん」もそんな心境なのだろうか。少しは心強くなる。

2500年も前から延々と人々が悩み続けていることをたった1冊、それも児童書で理解しようとしたということがもともと無理なことであると、それだけは理解することができたのだ・・。
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「酒呑みに与ふる書」読了

2019年08月30日 | 2019読書
キノブックス編集部 「酒呑みに与ふる書」読了

図書館の書架の間をうろうろしていたらこんな本を見つけた。この手の本は、だいたい似たようなジャンルの作家の文章を集めた編集が多いように思うけれども、この本は多岐にわたっている。取り上げられている作家の活躍した年代も幅が広いし、詩人、俳人、歌人、評論家、漫画家も入っている。ペラペラとめくって、師の文章を見つけたので借りてみた。

幅広く集めたといえばそうだけれども、なんだかまとまりを欠いているような気がする。はやり、こういう本はやはり文学者が編集しないとこうなってしまうのだろう。ただ、すべての文章が、お酒にまつわる直球の文章ばかりではなくごく少しだけしかお酒が入っていないという文章もあるというのは面白い。

師の文章は、いままで何度か目にした文章だった。旅をしていて、素晴らしい地酒に巡り合う幸福感を書いている。そんな経験は僕にはないので貧乏人の器に関する感想を少し・・・。

お酒というのは、やはり雰囲気が大切であるというお話である。
日本酒を飲むときはいつもぐい飲みを使って冷やしたお酒を飲むのだが、ロードサイドのインテリアショップで税抜88円というぐい飲みを見つけて買ったことがある。これも数のうちだろうとひとつ買ってみたのだが、やはりこれが100円もしない器だと思うと、どうもお酒が美味しくないような気がする。じゃあ、もっと高級な器で飲むと美味しいのかといっても、ほかの器も、1,000円、600円、100円とこんなものだ。しかし、それぞれの器は、奈良の骨董屋で買ったものや、漆器市で見つけたものだから、お酒を飲みながら、ああ、これはあそこで買ったのだなと少しはそんなことを思いながら飲めるのである。こだわりではないけれどもなにか自分の足で見つけてきたというような思いがある。それに比べて、かわいそうだが88円の器はコストを極力削り落とした、デザインはまあまあ今風だけれどもという商品たちと共に10個ほど同じものが並んでいたうちのひとつだったから何の思い入れも見いだせない。
だからそれに注ぐいだお酒は、これまた、よくても醸造用アルコール添加であるけれども、それが、アミノ酸、糖分も添加したようなちょっとベタッとしたお酒の味がしてしまうのである。

お酒は質よりストーリーだ。
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「水中考古学 - クレオパトラ宮殿から元寇船、タイタニックまで」読了

2019年08月28日 | 2019読書
井上たかひこ 「水中考古学 - クレオパトラ宮殿から元寇船、タイタニックまで」読了

「昆虫」考古学に続いて今度は「水中」だ。
これはなかなかロマンがある。遠い昔、海に沈んだ船や建造物を探し出してそこに眠る遺品を陸上に引き上げて調査しようというものだ。
トルコはボドルムの海に沈んでいる、エジプト時代の貿易船、16世紀のイギリス軍艦メアリー・ローズ号、処女航海で1300メートルだけを航行して沈んでしまったスウェーデン海軍のバーサ号、元寇船、東インド会社のガレオン貿易船、14世紀の中国、韓国の貿易船、クレオパトラの海中宮殿などなど。エルトゥールル号、タイタニック号の話題も含まれている。

特に貿易船のお宝は考古学者でなくとも興味をそそる。おそらく、鋼鉄製の船が建造されるまでは、外洋を航行する船にはすべからく高級なお宝が積まれていたはずだ。当時の庶民の生活はそれこそ半径3キロメートルくらいで完結していて、それより遠くのものを手に入れたい人たちというのは権力者や金持ち。危険を冒してもたらされる物はすべてお宝だ。
エジプト時代の貿易船には青銅の原料になる銅と錫やガラス細工の原料になる色とりどりのガラスの塊、それに本物の金貨。東インド会社や中国、韓国の貿易船には日本製の陶磁器や香木、べっ甲、香辛料。そしてそれらは海底の砂に埋もれて低酸素状態が保たれているので船体も含めてかなり良い状態で保存されていることが多いそうだ。

もう、それらを眺めているだけでうっとりしちゃうんじゃないだろうか。できればそんなお宝のひとつの金貨などを小銭入れのなかにしのばせておいて、たまに眺めるというのがすごく楽しそうで憧れる。

沈没というと、最近やたらと自分の船たちが沈んでゆく夢を見る。これはまぎれもなく去年の台風のトラウマなのだろうけれども、今の港じゃないどこかに係留をしていて、なぜだかそこは浅い岩場でその岩に引っかかって船が傾いているのだ。夕べも、つい最近戦艦大和内の快適生活というテレビを見ていたせいかそんな夢を見た。
そして、その夢の途中で、「こんな場所は見たことがない、これはひょっとして夢かもしれない。ああ、やっぱり夢だった。」と目を覚ましてトイレに行ってまた寝るのだ。

僕の船なんて、ガラクタしか積んでいないんだから、セイレーンの魔女は無視してくれておいていいんだからね。といつも願っているのだ。
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「安彦良和の戦争と平和-ガンダム、マンガ、日本」読了

2019年08月23日 | 2019読書
杉田俊介 「安彦良和の戦争と平和-ガンダム、マンガ、日本」読了

NHKで機動戦士ガンダムの放送開始40周年記念ということで、「ファーストガンダム」と呼ばれている本放送の前記譚を放送していた。アニメを見て何を考え込む必要があるのかと言われるのであろうが、登場人物のセリフの、「どちらも戦争をしたがっているのだ。」「人と人はわかり合えない」というものになぜだかひっかかった。
この前記譚の原作者はこの本のなかで著者からインタービューを受けている安彦良和なのであるが、60年安保の時代を全共闘の闘士として過ごした人だ。そんな人がこのSFアニメにいったいどんなメッセージを込めたのか、そして、戦争というものに対するどんな考え方を持っているのかを知ることができるのではないかと読み始めてみた。

内容は戦争に対する普遍的な考えを述べるものではなく、ガンダムを含めて安彦良和が描いてきた作品の登場人物の心理描写(戦うことに対する考えも含めて)をどう描いてきたかということが中心であった。
安彦良和にはマンガ作品として、4作の日本近代史を扱った作品がある。習慣がないのでこのマンガを読んだことがないのだけれども、シベリア出兵のころから、満州国が崩壊する敗戦までを実在の人物を登場させながら描いているそうだ。
日本は「五族協和」「八紘一宇」をかかげて大陸に侵攻していった。社会主義や西欧列強からアジアを守るというのがその建前だけれども、純粋にその言葉のとおり、お互いを理解しあいながら発展しましょうという理想と戦争というものが僕の中ではうまく整合性を作りだせない。
敵対するそれぞれの側にそれぞれの正義がある。それだけでなく、同じ側にいる人たちでさえ戦争、もしくは戦うことに対して持っている考えがそれぞれで異なっている。ということがそれぞれの作品のなかに克明に描かれている。そのことから、「人と人はわかり合えない」ということは導き出せるのであるけれども、はたして、「どちらも戦争をしたがっているのだ。」という部分はどうなのだろうか。
なぜ軍隊を動かしてまで支配したくなるのか。攻撃は最大の防御だからなのか、それとも理解できない相手は気持ち悪いから叩き潰そうとするのが人間が持っている基本的な性質なのだろうか。資源の獲得ということもあるのだろうけれども、やはり後者の理由のほうが大きいのではないだろうか。1945年以降、北半球で起こる戦争はほぼ全部が宗教問題がかかわっているようだが、「わかりあえない」ことの典型であるようにも思える。

そこから逃げ出したい人はどうすればいいのだろうか。
8月15日はなっちゃんの誕生日であるとともに、(「なつぞら」を見ていない方々、よくわからなくてすみません・・。)終戦記念日であるので、テレビではさかんに太平洋戦争に関する特集が放送されていた。その中で気になったのは「国防婦人会」に関する特集だった。
それは誰かが利用して強大な組織と強制力を持ったものであったのかもしれないけれども、その発端は些細な群集心理だったのかもしれない。「国のため。」という一言の前に何も言えなくなる。そしてそれに従わない人たちを排除するのではなくそこでは生きてゆけないところまで追い込む。
そしてそれが人々の自由を奪ってゆく。異を唱えられなくなる。しかし、これは、集団でしか生きられない(そうでないかもしれないけれども。)人間というものの宿命ではないのだろうか。同調圧力というものは恐ろしい。

よく考えてみると、会社というものがまさにそんな集団のように思えた。上の意をくんでその指示に忠実に動かねばならないというのが会社の基本的な構造で、もちろん、そうでなければ会社というものは立ち行かなくなる。そうでなければ自分を押し殺してうわべだけでもそれに従い続けねばならない。それの拡大版が国家というものなのならあきらめるしかないのであろうか。どうも逃げられないようだ。それこそ、アラスカでひとりで生きることを選ぶしかなくなってしまう。

しかし、資源は効率的に使われねばならないという観点から考えると、そうやって自由よりも統率された世界でなければこの先どうなるかがわからないのも現実である。
ゴミがあふれかえり、食品の廃棄が一日に数万トンという国がある一方で毎日数百人の子供が餓死している世界が正常だとは誰にでも言えない。
自由な状態でいれば資源を食いつくし、統率に対しては反発をしないといられない。人間とはなんとやっかいなものなのだろう。そうなると、最終的には資源を食いつくして滅びるしかないのじゃないか。それを防ぐためには粛清しかない。これはネオジオンを興したシャアの思想に近いのかもしれないけれどもいつかどこかでそういうことを企てる人間が現れるのではないだろうか。

そうであるならば、人と人はわかり合えないから争いはずっと続くということが演繹的に導き出されてしまう。
戦争とまでは言わなくても、家族でさえも分かり合えないのだという実感の中、もっと多数の人々の思惑が錯綜する大きな集団になればなるほど分かり合うことはできない。
しかしながら、その“分かり合えない”ことが様々な文学や音楽を生み出してきた原動力になってきたのではないかとも思うのだ。

そう考えると、ひょっとしたら、「人々が分かり合える世界」というのはほとほとつまらない世の中なのかもしれない・・・。
分かり合えない相手を自分のまわりにたくさん抱え込んでいるというのもほとほとつまらないことではあるけれども・・・。
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「世界昆虫神話」読了

2019年08月13日 | 2019読書
篠田知和基 「世界昆虫神話」読了

暑い日が続いていて本を読んでいてもボ~っとしてくるのであまり頭を使わなくてもよいような本を選んでみた。

このシリーズ、魚編もあるそうなのだが図書館には蔵書がなく、かわりに昆虫編を借りてみた。まあ、夏は昆虫の季節でもあるのでちょうどよい。本の内容は昆虫にまつわる神話や民話、小説、俳句、短歌など様々な文学を断片的に取り上げている。特に神話や昔話なんかはもともと文脈らしいものがないからボ~っとしていても、そんな話なのかと思うだけでよい。

師は長い旅に出るときには必ず聖書とレストランのメニューを携えていたそうだ。旅の途中はそれ自体が刺激的なので読み物はあまり考え込まなくてもよいものという意味で選んだものだそうだが、クーラーの効いていない夏の昼間の部屋の中でもあまり考えるということをしたくないものだ。
この本もそのとおりで、現実の世界からは程よく遠い世界のお話である。

昆虫の中では蜜蜂というのは一番古くから、蜂蜜をもたらしてくれるという意味で人間にとって直接的に有用な昆虫であったので人類の歴史が始まる以前から神話や絵の中に出てくるというのはまあ、よくわかる話だ。
著者が集めた物語にはそれ以外にもたくさんの昆虫が出てくる。霊を運ぶ昆虫、危機を助ける昆虫、道案内をする昆虫、はたまた人を惑わせるもの、その他もろもろの場面で蝶や蜻蛉、飛蝗などが登場する。しかし、特にたくさん出てくるのは蚤、虱、蜘蛛という、どうもあまり人には好かれていない虫たちだ。それが人間の味方になったり邪魔者になったりしながら登場する。これはどうしてなのだろうか。常に気を配っていないと病気のもとになるからという意味でもあったのだろうか。ほかにももっときれいな昆虫もいるのに不思議なものだ

小さいころは虫が好きでこの時期はいつも虫かごをもってウロウロしていたものだけれども、年かさが増すにつれて虫を見つけることができなくなってくるように思える。日頃の生活にあくせくしすぎてじっくり茂みを凝視することができなくなってしまったからなのだろうか。それとも、身長が伸びてくると目の位置と茂みの距離が離れてくるので虫が見えづらくなるからなのだろうか。単純に45年前と比較すると虫の数が少なくなってしまったからのだろうか。そういえば、香川照之が扮するカマキリ先生はドイツでの調査ではこの30年間で8割の昆虫がいなくなったと言っていた。
調べてみたら、最後にカブトムシを取りに行ったのはもう11年も前の夏のことになっていた。
もう、あそこのクヌギの木にもカブトムシはいなくなってしまったのだろうか。多分、もう二度と行くことのない小さな林に少しだけ思いをはせるのだ・・。
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