イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「ゴールデンスランバー 」読了のあとで再考

2011年10月02日 | Weblog
伊坂幸太郎 「ゴールデンスランバー 」読了

この作家は小説家というよりも、マーケティングの専門家かロールプレイングゲームのシナリオライターのような人ではないのだろうか。

自分が報われないのは、抗うことができない大きな力が自分に立ち塞がっているからだ。決して自分の能力の無さではないのだ。自分は孤独ではない。きっと自分を助けてくれるひとがどこかにいるはずだ。
まさに現代の人たちがきっと自己逃避の言い訳に考えていることをそのまま物語りにして読者の共感を得ようとしてるかのようだ。
支離滅裂な登場人物と場面がどこかでつなっがてゆく。ぼくはテレビゲームが苦手なのでまったく知らないが、ロールプレイングゲームというのはきっとこういう構成になっているのではないのだろうか。

タイトルにしても、物の名前をつける時には濁点のある文字を入れると安定感が出て好感がもてる名前ができるそうだが、前と真ん中と後ろに濁点のある文字を配したタイトルはまさしくマーケティング上大衆に受け入れられやすいものに違いない。

そういう意味ではこの作家は現代を見る目を持ってはいるが小説家ではないような気がする。
しかし、映画にすると確かに面白い内容だった。


この本は、僕の息子が買ってきたものを借りて読んだのであるが、主人公とその友人の会話で、「おまえ、あのアイドルとやったのかよ?」というくだりがある。
はたして、僕の息子は、この“やったのかよ”ということをどこまで理解しているのかというほうがものすごく気になってしまった。中学3年にもなると、当然そのようなことは知ってもらっていないと困りものだとうあ思うが、知っているとなるとこれまた困りものなのだ。

どちらにしても、困りものなのだ。


と今年の6月15日に長々書いてみたが、この小説の本当の核心は、「人を信じることはいいことだ。」ということが今日のテレビを見てやっとわかった。
本当にいい政治というのはそこに政治があるとわからないことだ。と聞いたことがあるが、いい小説も同じようなことが言えるのかもしれない。
読みが足らないな。

コメント
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