イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「荒野の釣師」読了

2015年08月15日 | 読書
森秀人 「荒野の釣師」読了

「荒野」とは、ヘラブナ釣りを主とする著者が釣り堀の対極として呼ぶ野釣りであって、そのなかでも有名なポイントばかりを釣り歩くのではなく自ら新しい釣り場を開拓したそんな場所をそう呼んでいる。
そしてそんな荒野に身を置き、釣果は二の次でたとえば全力を尽くすことに意義を覚えたり、魚との対話を重んじる。
ウォルトンの「釣魚大全」の訳者でもある著者ならではの見解だ。愛は惜しみなく奪うが、何も与えたまわない。そういうことだろう。
それが釣りへの愛ということなのであろう。そうでなければ眠い目をこすりながら寒い屋外に出て行く気にもならないということだ。

釣りとは「瞑想的人間のレクリエーション」である。とウォルトンは大全のなかで書いている。そして、静かなることを学べとも。
しかしながら僕は妄想的人間だ。魚は釣れなければ困る。それもコストをかけずに簡単に。クーラーがいっぱいになるまで・・・。
こういう本を読むたびに本当に魚釣りが好きなのかどうかということも自分でわからなくなる。釈迦は欲望がすべての苦悩の元であると説いている。それならば魚を釣りたいという欲望を捨てるほうが心穏やかでいられるはずではないのか・・・。
しかし、あの不意に襲ってくる魚のアタリを一度味わってしまうともうダメだ。これは麻薬のごときものなのかもしれない。すべてのものを捨て去ってもそれに溺れてしまう。

だから愛があろうがなかろうが、柳生一族の陰謀の名セリフ、

「裏柳生口伝に曰く、戦えば必ず勝つ。此れ兵法の第一義なり。
人としての情けを断ちて、神に逢うては神を斬り、仏に逢うては仏を斬り、然る後、初めて極意を得ん。
斯くの如くんば、行く手を阻む者、悪鬼羅刹の化身なりとも、豈に遅れを取る可けんや」

てな具合に、悪魔に魂を売り払ってもいつでもどこでも魚を釣ることができるような釣師になりたいと切に願うのだ。

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水軒沖釣行

2015年08月15日 | 2015釣り
場所:水軒沖
条件:大潮 6:18満潮
釣果:ボウズ

翠勝丸の出撃は半月ぶりだ。8月も台風の波や世間の波のおかげでなかなか海にでることができなかった。
そんな時を過ごしているあいだに熱帯夜はおさまり、東の空の真ん中あたりにはすばるが輝いていた。
空気は秋で星空はすでに冬に向かいつつある。

この時期に2週間も船に乗らなければ、船底に新しい生態系が生まれ速度が異常に落ちてしまう。チョクリに行こうにも燃料の消費量が著しい。キス釣りに行こうにも今日はインターハイのヨット競技がポイント近くでおこなわれる。
ということで去年行きそびれたカマスを狙ってみることにした。
午前4時過ぎに港に行ってみるとリタイヤ3人組の船がすでに出港していた。これはひょっとしてカマスが釣れるのかと期待しての出港だったが、結果はまったくカマスのアタリはなく小さなマルアジが食ってくるだけだった。
オジイヤンズの船は水軒沖には見えず、どこか別のところで仕掛けを下ろしていたようだ。
情報不足ではやはりこんなものだろう。

まあ、朝のひととき、清々しい時間帯の散歩代りのクルージングだと思えばこれはこれで納得できるとしよう。
それにお盆だから殺生も慎まなければならないし・・・。



波風はまったくないものの、たくさんの流木が海面を漂っていた。
紀ノ川から流れてきているのだろうか?
和歌山市内はずっといい天気が続いているが上流のほうでは相当な雨が降っていたのだろう。このおかげで紀伊半島は水に困ることがないとしたらこれはこれでありがたいものだ。

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