森秀人 「荒野の釣師」読了
「荒野」とは、ヘラブナ釣りを主とする著者が釣り堀の対極として呼ぶ野釣りであって、そのなかでも有名なポイントばかりを釣り歩くのではなく自ら新しい釣り場を開拓したそんな場所をそう呼んでいる。
そしてそんな荒野に身を置き、釣果は二の次でたとえば全力を尽くすことに意義を覚えたり、魚との対話を重んじる。
ウォルトンの「釣魚大全」の訳者でもある著者ならではの見解だ。愛は惜しみなく奪うが、何も与えたまわない。そういうことだろう。
それが釣りへの愛ということなのであろう。そうでなければ眠い目をこすりながら寒い屋外に出て行く気にもならないということだ。
釣りとは「瞑想的人間のレクリエーション」である。とウォルトンは大全のなかで書いている。そして、静かなることを学べとも。
しかしながら僕は妄想的人間だ。魚は釣れなければ困る。それもコストをかけずに簡単に。クーラーがいっぱいになるまで・・・。
こういう本を読むたびに本当に魚釣りが好きなのかどうかということも自分でわからなくなる。釈迦は欲望がすべての苦悩の元であると説いている。それならば魚を釣りたいという欲望を捨てるほうが心穏やかでいられるはずではないのか・・・。
しかし、あの不意に襲ってくる魚のアタリを一度味わってしまうともうダメだ。これは麻薬のごときものなのかもしれない。すべてのものを捨て去ってもそれに溺れてしまう。
だから愛があろうがなかろうが、柳生一族の陰謀の名セリフ、
「裏柳生口伝に曰く、戦えば必ず勝つ。此れ兵法の第一義なり。
人としての情けを断ちて、神に逢うては神を斬り、仏に逢うては仏を斬り、然る後、初めて極意を得ん。
斯くの如くんば、行く手を阻む者、悪鬼羅刹の化身なりとも、豈に遅れを取る可けんや」
てな具合に、悪魔に魂を売り払ってもいつでもどこでも魚を釣ることができるような釣師になりたいと切に願うのだ。
「荒野」とは、ヘラブナ釣りを主とする著者が釣り堀の対極として呼ぶ野釣りであって、そのなかでも有名なポイントばかりを釣り歩くのではなく自ら新しい釣り場を開拓したそんな場所をそう呼んでいる。
そしてそんな荒野に身を置き、釣果は二の次でたとえば全力を尽くすことに意義を覚えたり、魚との対話を重んじる。
ウォルトンの「釣魚大全」の訳者でもある著者ならではの見解だ。愛は惜しみなく奪うが、何も与えたまわない。そういうことだろう。
それが釣りへの愛ということなのであろう。そうでなければ眠い目をこすりながら寒い屋外に出て行く気にもならないということだ。
釣りとは「瞑想的人間のレクリエーション」である。とウォルトンは大全のなかで書いている。そして、静かなることを学べとも。
しかしながら僕は妄想的人間だ。魚は釣れなければ困る。それもコストをかけずに簡単に。クーラーがいっぱいになるまで・・・。
こういう本を読むたびに本当に魚釣りが好きなのかどうかということも自分でわからなくなる。釈迦は欲望がすべての苦悩の元であると説いている。それならば魚を釣りたいという欲望を捨てるほうが心穏やかでいられるはずではないのか・・・。
しかし、あの不意に襲ってくる魚のアタリを一度味わってしまうともうダメだ。これは麻薬のごときものなのかもしれない。すべてのものを捨て去ってもそれに溺れてしまう。
だから愛があろうがなかろうが、柳生一族の陰謀の名セリフ、
「裏柳生口伝に曰く、戦えば必ず勝つ。此れ兵法の第一義なり。
人としての情けを断ちて、神に逢うては神を斬り、仏に逢うては仏を斬り、然る後、初めて極意を得ん。
斯くの如くんば、行く手を阻む者、悪鬼羅刹の化身なりとも、豈に遅れを取る可けんや」
てな具合に、悪魔に魂を売り払ってもいつでもどこでも魚を釣ることができるような釣師になりたいと切に願うのだ。