イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

『続・釣りの名著50冊 古今東西の「水辺の哲学」を読み解く』読了

2023年07月24日 | 2023読書
世良康 『続・釣りの名著50冊 古今東西の「水辺の哲学」を読み解く』読了

「釣りの名著50冊」の続編である。前回同様、それぞれの本をぜひとも読んでみたいと思うほどそそる書き方だ。著者はフリーのライターだから雑誌などへの掲載が多くて著作を調べてみてもあまり出てこないが、なんだかもったいない気がした。
あらすじの紹介もそうだが、それぞれの著者にまつわるエピソードやその本が書かれた背景などものすごいデータ量である。どうやったらこんな情報を手に入れることができるのだろう。
気になったエピソードは最後の方にまとめておきたいと思う。

そんなデータの紹介も魅力だが、50冊の著者がどうして釣りに向かうことになったのか・・ベタな表現では、「釣り師は心に傷があるから釣りに行く。しかし、彼はそれを知らないでいる。となるのだろうが、人生にとん挫したとき、釣りに出会い、または釣りを思い出し、臥薪嘗胆、雌伏の時を過ごし新たな光を見出して成功へと導かれてゆく。
そのストーリーが魅力でもある。

著者はあえて、一部の作者を除いてそでに物故している人の著作を取り上げている。確かに、現代の釣りを取り巻く環境では人生の支えとして釣りを描くのは不可能かもしれないと僕は思っている。道具、テクニック、効率・・、今の釣りはとかくドライな感じがしてしまう。人生の入り込む余地はないように見えてしまうのである。
これは、僕自身も釣りの本というと古本屋で漁ったものばかり読んできたということもあるかもしれないが、図書館の書架でも文学と言えるような釣り本が見当たらないので当たらずとも遠からずなのだと思っている。
加えて、今の日本では雌伏の時から芽を出そうにも格差が固定されてしまっている。底辺に居る人は底辺から這い出るすべはなく、高級クルーザーを駆る人は生まれながらに高級クルーザーを駆るべくして生まれてきているのだ。貧乏でもなんとか船を持って釣りをすることができている僕などは圧倒的なマイノリティである。それでも人生のすべてを船の維持に捧げることでやっとボロ船を維持できているのだからまあ、そんなものである。

しかし、現代でもいろいろな悩みを抱えながら釣りに頼っているひとがいることも確かのようだ。この本を読み始める前、NHKの「ドキュメント72時間」の再放送で24時間使える釣り公園にやってくる人たちのインタビューが流れていた。途中から見たのだが、引きこもりの息子をもつ親は唯一の共通の話題が魚釣りだったという理由で息子と釣り糸を垂れる。フリーになったイラストレーターは昼夜逆転した生活とプレッシャーから発作的に釣り具を買ってここに来たという。
この人たちにとって釣りとは一体何だったのであろうか・・。次のステップへ進むためのよりどころとなったのであろうか・・。
僕は釣りに対して一度もそういうイメージを抱いたことはなかった。嫌なことがあってもそれを引きずるだけ引きずって擦り切れて落っこちてしまうまで放っておくしかなかった。
もし、魚釣りが不遇を耐え忍ぶための材料であると思えることが成功するための十分条件なのだとしたら、僕はそういった条件を持ち合わせていなかったことになる。
でも、そのことで釣りというものが僕の中で別の意味を持ってくれているとするならばそれはそれでうれしかったりするのではある。

収録されているなかでブログに書いた本を挙げてみると。
森秀人「荒野の釣師」
榛葉英治「釣魚礼賛」
開高健「私の釣魚大全」
の3冊があった。ヘミングウェイ「二つの心臓の大きな川」はブログを書き始める前に読んだことがあるので合計は4冊だ。

ほかに、著者の別の本を読んだことのある作家は
伊藤桂一 
山本素石 
盛川宏 
福田蘭堂 
井伏鱒二 
佐藤垢石 
矢口高雄は本人の書作ではないがライターが書いた本を読んだことがある。
ほとんどの本は三国ヶ丘の古本屋で買い求めたものである。あの古本屋にはなぜか釣り本がよく並んでいた。いまでも営業してくれていればもっとたくさんの釣り本を手にすることができたと思うと残念だ。

注目の内容は、ポール・クイネットという臨床心理学者が書いた「パブロフの鱒」という本に書かれている、「フィッシャーマンとは正直者に生まれつき、それを克服した人々だ」という言葉だ。
これは、裏を返せば「フィッシャーマンは生まれついての嘘つきだ」ということになる。
著者はその理由は、「彼が自分自身に嘘をついているからだ」だそうだ。
「他人には釣れなくても、今日の俺様には必ず釣れる!」「秘蔵ポイントを知っている」「朝はダメでも夕方には釣れる。それでもダメなら明日がある。」と言い聞かせて釣りに行くというのである。
納得だ。


師と福田蘭堂とのかかわりは「フィッシュ・オン」にコ〇ドームの疑似餌についてのくだりがかかれているとあったので早速調べてみると本当に書かれていた。読んだことのある本だが、そんな記憶はどこかへ飛んでしまっていた。
もう一度読み返してみたいとは思うが、図書館で探せば見つかるかもしれないがやはり古さは否めない。それに、たくさんの本を読む方ではないので、これから先、何冊の本を読めるのかはわからないが、もうちょっと新しい本を読んでいきたいと思うのでなかなかそこまでたどり着けそうにもないのである。
そこが残念でもあるのである・・。

コメント
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