イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「にぎやかな天地(下)」読了

2023年10月09日 | 2023読書
宮本輝 「にぎやかな天地(下)」読了

下巻では登場人物の過去が明かされてゆく。
伝統的な製法とそれによって作られた食品が紹介された本の制作を依頼した謎の老人は過去に妻と長男夫婦、孫を一度に交通事故で亡くしていた。
重度のうつ病に陥り、事業も手放したけれども家族の思い出の残った不動産を手放すことはなかった。家族の死から得た教訓は狂乱的に札束が舞う世の中はまっとうではないということだった。ありきたりだが、おカネでは買えないものがあるということだろうか・・。そんなことは続くはずがないと考えバブル崩壊を切り抜けた。

ベーカリーの嫁の実父が作成を依頼した楽譜集は実父夫婦の不仲の元にもなっていた。実父は画家の楽譜を高価な1冊の本にしたのだが、夫婦と画家はちょっと風変わりな関係であり、後になって自分の嫁の仲を疑い始めたのではないかというのである。嫁はそのことがわだかまりとなり手元に置くことをためらっていたが、実母の死亡により娘がそれを持つことにわだかまりがなくなった。

料理人の父親と心中した女性は新進気鋭の詩人であった。その女性は自分の息子のために百数十編の詩を残していた。その詩は料理人の父親の元に残っており、夫の忌まわしい遺品として母が処分したはずの詩が土蔵の箪笥の中から見つかった。料理研究家は18歳の時に今では酒蔵を経営する息子に会いに行き、今も交流を続けている。母の死を卑下しながら生きているのではないかと考えている料理研究家は、息子を残して逝った母親の本当の思いを伝えるためその詩を集めた本の作成を主人公に依頼する。
この酒蔵は酢も造っていて、この小説のラストシーンの舞台ともなっている。
タイトルに「にぎやか」という言葉が入っている意味が明かされる。

主人公は父の死のきっかけになった男性の墓参を決意し、その家族に会うことになる。家族からは怒りを買うかもしれないと思ったけれども、そうはならなかった。むしろ、家族からは感謝をされることになる。また、男性の家族も、主人公たちの家族の本当の思いを知ることになる。
主人公はその家族の娘に好意を抱いたようだがその後の進展については語られない。

主人公はまた、ベーカリーの主人に対しては自分の祖母があなたの母親であったということを打ち明ける。そのことがきっかけとなり母とベーカリーの主人は兄妹としてはじめての対面を果たす。

それぞれの人たちは過去の厄災を、長い時間をかけたのちそれを乗り越え新たな幸福に転換して受け入れる。カタルシスとも少し違うのかもしれないが、著者があとがきで書いているように、『大きな悲しみが、五年後、十年後、二十年後に、思いもよらない幸福や人間的成長や福徳へと転換されていったとき、私たちは過去の不幸の意味について改めて深く思いを傾けるであろう。』ということを物語の中におおいに盛り込んでいる。

その過程を著者は、長い時間が必要とされる発酵食品の発酵過程にメタファーとして重ね合わせていたのである。しかし、人が自らに降りかかる厄災を転換しようとするときに必ず必要となってくるのが「勇気」であるとも語っている。それは、「ゆるし」=「世の中のいろんなことを大きく思いやる心」であるのだ。


本来なら憎むべき相手、悲しみの元になっているものを乗り越えてゆくには、相手を許す勇気が必要であり、そのためには長い時間を要するというのである。
もちろん、それには自分の心の本質が「不治の病」に罹っていないということが必須条件でもあるのである。
その心を「本物」と言いかえるのなら、本物の発酵食品を造り上げるのと同じように、それぞれに見合う時間が必要であるというのである。即席では無理なのであるということだ。
そう、ここに出てくるものの共通点はすべて「本物」だ。僕は自分の仕事を通してブランドというものの胡散臭さというものを思い知ったけれども、「本物」というのはラベルのみのものではないということだ。発酵食品もそれぞれの食材ごとに職人の本物の技とこだわりがある。主人公が携わっている豪華限定本もそうである。そこにも様々な工程を受け持つ職人の本物の技がなければ造りだすことはできない。そこにラベルは必要ない。ストーリーにはほとんど関係していないが、新宮の浮島の森の案内人のエピソードが盛り込まれているのはそういったことを強調したいという著者の思いなのだろうと理解した。


最近観た、「ラーゲリより愛をこめて」という映画の主人公はまさにそういう「勇気=本物の心」を持った人なのだったとこの本を読みながら思ったが、そんな人たちと自分を比べてみると、目下のところ、僕は発酵に失敗した方に入るのだと思ってしまう。腐った糠床は捨てるしかないそうだが、そんな状況なのである・・。
コメント
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