
角幡唯介 「空白の五マイル」読了
開高健ノンフィクション賞の作品を読むのは「インパラの朝」以来2作目だ。
世界最後の未踏地と言われるチベットのツアンポー渓谷を単独で踏破した記録が綴られている。
人が入ったことがない藪やジャングルをダニに悩まされながら、凍傷の危険にさらされながら、飢えながら、死ぬかもしれないと思いながら歩いてゆく。
ところどころに、「自分は一体何のためにこんなことをしているのか。」、「苦労してこんな地の果てまでやってきても楽しいことなどひとつもない。」というような愚痴なのか自分への問いかけなのかのような言葉が出てくる。
自分に振り返ると、仕事って何のためにやってるんだろう?
給料をもらうため?それ以外の何か使命感のようなもの?使命感が生きること?
自己実現?実現して何になる?そもそも実現することが生きること?
経営者というのは事業を拡大することが人生の目標なのだろうか?拡大しきったその先に一体何があるの?
考えれば考えるほど一体何が楽しくて生きているの?そもそも生きることは楽しいこと?
堂々巡りになってくる。
著者は冒険の中には生きてい意味を感じさせてくれる瞬間があると書いている。
いったいそれはどんな瞬間なのだろう。
冒険ができない僕たちは生きている意味を感じる瞬間がないのだろうか?
仕事は冒険の替りになりうるのだろうか?
やっぱり堂々巡りだ。
多分ずっと考えが堂々巡りをし続けるのだろう。
そして結論を出すには人の一生というのはあまりにも短すぎ、ほとんどの人々はそれがわからずに死んでいくのだろう。
師の言葉に、「釣り師はみんな心に傷があるから釣りに行く。しかし、彼はそれがどんな傷であるかを知らない。」と言っている。
生きる意味がわからないということが心の傷であるのならば、僕が釣りに行き続けるということにも何か意義があるのではないかと今日のところは悟ったふりをして明日からまた、堂々巡りの生活を送り続けるのだ。
開高健ノンフィクション賞の作品を読むのは「インパラの朝」以来2作目だ。
世界最後の未踏地と言われるチベットのツアンポー渓谷を単独で踏破した記録が綴られている。
人が入ったことがない藪やジャングルをダニに悩まされながら、凍傷の危険にさらされながら、飢えながら、死ぬかもしれないと思いながら歩いてゆく。
ところどころに、「自分は一体何のためにこんなことをしているのか。」、「苦労してこんな地の果てまでやってきても楽しいことなどひとつもない。」というような愚痴なのか自分への問いかけなのかのような言葉が出てくる。
自分に振り返ると、仕事って何のためにやってるんだろう?
給料をもらうため?それ以外の何か使命感のようなもの?使命感が生きること?
自己実現?実現して何になる?そもそも実現することが生きること?
経営者というのは事業を拡大することが人生の目標なのだろうか?拡大しきったその先に一体何があるの?
考えれば考えるほど一体何が楽しくて生きているの?そもそも生きることは楽しいこと?
堂々巡りになってくる。
著者は冒険の中には生きてい意味を感じさせてくれる瞬間があると書いている。
いったいそれはどんな瞬間なのだろう。
冒険ができない僕たちは生きている意味を感じる瞬間がないのだろうか?
仕事は冒険の替りになりうるのだろうか?
やっぱり堂々巡りだ。
多分ずっと考えが堂々巡りをし続けるのだろう。
そして結論を出すには人の一生というのはあまりにも短すぎ、ほとんどの人々はそれがわからずに死んでいくのだろう。
師の言葉に、「釣り師はみんな心に傷があるから釣りに行く。しかし、彼はそれがどんな傷であるかを知らない。」と言っている。
生きる意味がわからないということが心の傷であるのならば、僕が釣りに行き続けるということにも何か意義があるのではないかと今日のところは悟ったふりをして明日からまた、堂々巡りの生活を送り続けるのだ。
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