イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

山菜採り

2018年04月09日 | Weblog
今日は加太に行きたいと思い準備を進めていたが朝の風の様子を見てみるとかなり北からの風が吹いている。



多分、行けないこともないし、今の時期は時間が経つと徐々に弱くなっていくことが多い。ただ、今日は潮が悪い。午前8時半から潮が緩くなっていく。しかも下り潮だ。そんなたくさんの言い訳を考えるのも、コゴミが気になって仕方がないからだ。森に暮らすひまじんさんの情報ではコゴミが採り頃らしい。

ということで、あっさり海を諦めて山に向かった。

目的地は秘密だが、近くにあらぎ島がある。早朝、誰もいない見晴台から慌ただしく見物して目的地へ。



ある、ある。たくさん生えている。ちょうど食べ頃の芽を1時間ほど摘み取るとスーパーの買い物かご1杯ほどにもなってしまった。

 

コゴミというと、ドラマ「北の国から」にその名前の登場人物がいる。演じていたのは児島美ゆき。懐かしいな~。
黒板五郎が通うスナックのホステスで、彼女に誘われてアパートを訪ねたシーンのこごみの台詞に、「今、カイコウケンとタカナカマサヨシに狂っているの・・・」という台詞がある。
いったい彼女は師のどの本を読んでいたのだろうか・・・。

次は生石山へ。今年の課題である斜面の最下部にあるタラノメにアクセスしてみた。
なんとかブッシュをかき分けて到達したけれどもまだ芽は固く、しかも高くて手が届かない。ここまで高枝切バサミを持って入るのは至難の業だ。う~ん、残念。



で、ここに行くまでに地面を見てみると、もうすでにワラビが出ている。



昨日は雪が降ったそうだが今日は穏やかな天気で気持ちがいい。多分釣りに行けそうな天気なのだろうが、それは知らなかったことにしておこう。



おかずの分を採ってひまじんさんのお宅へご挨拶。

家の周りでコシアブラとリョウブを採り、僕が採ってきたワラビがあまりにも貧弱なのでもっと大きいワラビがあるところを教えてくれるということで秘密のポイントに連れて行ってもらい、確かに軸の太いワラビを採り、今日はコゴミだけと思って出かけたのだが、思いもかけずにたくさんの種類の山菜を持ち帰ることができた。



今年初登場のリョウブだが、“令法”と書くそうだ。(法令で栽培が義務付けられていたのでこんな字を書くらしい。)昔は飢饉のときの救荒植物として利用されたとwikipediaには書かれていた。ご飯に混ぜて食べたらしい。今日は天ぷらにして食べようと思うのだが、お味はいかに・・・。
なにはともあれ、飢えることもなく春の味として食べることができるというのは幸せなことだ。


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「ソロモンの指環―動物行動学入門」読了

2018年04月08日 | 2018読書
コンラート ローレンツ 「ソロモンの指環―動物行動学入門」読了

コンラート・ローレンツは動物行動学という分野でノーベル賞を受賞した学者である。鳥は最初に見たものを母親と思うという「すりこみ」の研究で有名だそうだ。

この本は動物のコミュニケーションの能力の高さと本能として持っている行動パターンのすばらしい合理性や、学者の破天荒ともいえる動物との生活が書かれている。

学者は“観察”することで動物の行動についての様々な理論や学説を打ち立てたそうだが、観察するだけでノーベル賞を受賞したというのもすごいけれども実生活では家の中でさまざまな動物を放し飼いにしてそれをやっていたそうだ。犬はもとより、ねずみ、鳥さえも家の中と空を行き来していたそうだ。そうしないと動物の本当の行動を見ることはできないとはいえ、家の中はいったいどんな状態だったのだろうか。
まあ、そんなことはどうでもいいのだが、動物の行動というのは、親から受け継ぐ行動と生まれ持っている本能から来る行動がある。動物がもっている本能的な行動というのはいったいどこに記憶されているのだろうかとこの本を読みながら考えるのである。
福岡伸一によると、記憶というものは脳細胞の神経線維のネットワークという形で動物の中に保存されている。しかしながら、本能というのは卵から生まれてすぐの鳥でも持っている。そしてそれは同じ種類の鳥ならすべて同じ行動をする。ということはすでに細胞の中にその行動が記憶されていることになるけれども、そこには神経細胞のネットワークというものがないわけで、いったいどうやってそんな記憶を保存しているのだろうかと不思議が不思議を呼ぶのである。
魚は親に育ててもらうということはまずないのであるけれども、同じ種類であれば同じ求愛行動をするし、敵と遭遇したときには同じ戦い方をする。そんなことは当たり前だろうと思うけれどもやっぱり不思議である。

そして学者は鳥についての知能の高さというものにも長い文章を割いている。
鳥同士のコミュニケーション能力の高さもさることながら、記憶力の高さについてもいくつかの事実をもとに書いているのだけれども、ふと、僕の船の舳先に降り立ってくれた鳥船長のことを思い出した。
あの鳥船長たちはひょっとして同じ鳥だったのではなかろうかと思ったりするのだ。(ウミネコなんてどれも同じ柄で区別がつかなくて当然ではあるのだが。)
1枚目は2016年2月27日 



2枚目は2017年1月19日 



3枚目はついこの前



舳先には乗ってこなかったけれども、ずっと並走してくれていた鳥もあった






画像は小さいけれども、もとの写真を見てみるとなんだか似ているようで似ていないような・・・。もし、同じ鳥であったのならなんだかうれしい気がする。

動物たちのいろいろな行動は種として生き残っていくための手段として生まれ持ったものであるので、どんな動物でも相手を殺してしまう(=種を滅ぼしてしまう)行為はしない。格闘をしても負けそうになると相手に後頭部を見せるなどをして合図を送る。そこが急所であっても勝っているほうはそこに噛み付きはしない。
そうやって、本能が持つ行動と自分が持っている武器としての体の構造は長い時間のなかでバランスを取ってきた。
しかし、人間だけはそのバランスを失っていると学者は指摘する。高度に発達した知能で強力な様々なものを創ったけれどもそれとバランスを取れるだけの心の発達はできていない。その抑制も自ら作り出さなければならない。なぜならわれわれの本能にはとうてい信頼しきれないのだからと締めくくられている。なんとも皮肉な話である。

そう考えると、格差であったり、心の病気であったりということもそんなバランスの崩れから起こっていることではないのかと考えられる。檻の中に入れられた動物は別にして心が病気の動物というのもあまり考えたこともなく、ましてや、人間の世界ほど格差のある動物社会というのもこれまたあまり想像できない。
人間が直立しているということからしてアンバランスなことであると聞いたことがあるけれども、自分たちが作り出した文明に心が追いついていないということもあらためてなるほどと思える。
僕の知ったことではないけれども、人間たちはいったいどこに向かっていくのであろうか・・・。
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田辺湾釣行

2018年04月03日 | 2018釣り
場所:田辺湾 塔島
条件:中潮 7:21満潮 13:21干潮
釣果:チヌ 40センチ 1匹 ハマチ 1匹

今年もチヌの乗っ込みの季節がやってきた。僕はここ数年、3月の最終週から4月の中盤までの期間にだけ釣行することに決めている。だから、最近の釣果を確認することもなく、まったく根拠のない、「田辺に行けば必ず釣れる」という自信だけで乗り切ってきた。

しかながら、今年は様相が変わっていた。午前3時に家を出て、港に到着すると意外と釣り人が少ない。この時期、この上天気にしては少ないなと思いながらその人たちの装備を見ていると、生きアジを持ったひととぬか袋を持ったひとがいない。これは塔島のポイントを独り占めだ!と思ってみたが、乗船して廻りの人の話を聞いていると、ここ数日、まったく釣れていないらしい。磯渡しの介添えをしてくれる船長の息子に聞いてもやはり同じで、水温は15度台で安定しているけれどもまったく魚が釣れないらしい。

予定通り塔島のいつもポイントに座を構えて釣り始めると、午前6時に早々とチヌを釣り上げた。どうだ、やっぱり僕がやると釣れるんだ、といううぬぼれにも似た根拠のない自信がパンパンに膨らんでくる。今日も爆釣じゃないか?家に帰って魚を捌くのが大変ではないかしら・・。などと今思うと穴があったら入りたくなるような妄想も同時に膨らんでくる。

しかし、情報のとおり、その後はまったくアタリがない。エサ取りさえいない。潮はほとんど動かず、潮の高い間は左のサラシからの流れに上潮だけが押されている感じで、引き潮でそれがなくなってまったく動きがない。
風は穏やかでそれも後ろから来る風なのですこぶる釣りやすい状況だが、そんな水面上に反して水面下はかなり厳しい状況だ。

 

推理を巡らせるに、ここ数日、気温がグッと上がり水面付近の温度は上昇したが、海底の方はそうでもなく比重の重い冷たい海水がそのまま循環することなく居座ってしまったのではないだろうか。おまけに天気もいいものだから海水がかき回されなかったのではないだろうか。こんな浅いところで実際に海水の循環がしないのかどうかは定かではないが、目の前の海面直下ではたくさんのボラが回遊していたし、ハマチが掛かってきたのは仕掛けを回収している最中だった。よく見てみると、あれはチヌの群れではないのかというものもあった。だから、海面付近の状況というのはそこそこ良かったに違いがない。普通なら、撒き餌を繰り返しているとボラでもチヌでも底のほうに降りていってくれるはずだ。
まあ、これも推理というより、言い訳ではあるのだが・・・。

そのハマチが釣れたのが午前11時ごろ。そしてその直後に久々のアタリがあった。合わせたときは魚の重みを感じたがすぐに鉤がはずれてしまった。このときだけ、わずかに潮が左に動いていたように思う。ほんの20分ほどのわずかな時合だったのかもしれない。
ウキのトップがほぼ沈み込んだ状態でバレるということはあまりないのだが、これも魚の活性がわるいという証でもありそうだ(ボラでなければ)

その後は午後1時21分の満ち潮で潮の流れが変わるのを期待したけれども残念ながらまったく潮の動く気配はなく、いままで数回経験した最後の一投の奇跡と、根拠のない自信を信じて最後の迎えが来るまでダンゴを投げ続けたがそのまま終了となってしまった。

渡船屋の釣果情報を見てみると、それでもまだ僕はましなほうだったように思う。渡礁した人数と載っている人数を見比べるとおそらく3分の2はボウズか目的の獲物を手にしていないようだった。

去年は2回釣行したが、今年は1回だけで終わるつもりだ。気温が高くなってくると魚に少し臭いが出てくる。僕の船の近くの渡船屋の同級生は、船に乗って美味しい魚を釣ってくるのだからわざわざ遠いところに行ってしんどい目をしてチヌを釣らんでもいいのじゃないかというけれども、まだ寒の時期が終わった直後のチヌは臭いもなく、卵も大きくてこれはこれで美味しいのだ。大きな魚が釣れるのも魅力だ。しかし、今年の気温の変化を見てみるとそれも今週いっぱいが限度で、それに加えて僕は再び山を目指さなければならない。

春は忙しいのだ・・。

そして今年も買い物のあてもないのにダイワとシマノのカタログをゲット。残念ながらがまかつは手に入らなかったがどうせ何も買わないから同じことではあるのだが・・・。



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「たけしのグレートジャーニー」読了

2018年04月01日 | 2018読書
ビートたけし 「たけしのグレートジャーニー」読了

ビートたけしがホスト役となった、科学者との対談集だ。新潮45に連載をされていたものらしい。
ひとりの冒険家を除くと海外の辺境でフィールドワークをしながらひとつのテーマに打ち込んでいる科学者たちとの対談になっている。ダイオウイカの研究者、うなぎの産卵場所を探す学者、ゴリラから人間関係を学ぶ学者、シロアリの研究・・・。
研究室で遺伝子の研究をするのが今の生物学のトレンドだそうだが、この人たちはそれの逆を行っている。

そんな人たちのストイックさをビートたけしは尊敬の念をもって接している。ご本人も明治大学の工学部に在籍していただけあって科学系の話題には強いようだ。

100%文科系の人間にはひとつのテーマを数十年間も研究し続ける世界というのは理解ができないけれどもこの人たちの話を読んでいるとあこがれも出てくる。しかしながら、この本に出てくるすべての人はその研究で功をなした人たちであるわけだからそう思えるが、その背後には途中で挫折した人々が山のように存在しているはずで、そんなことを考えるとはやり憧れだけで十分だと思えてくる。そんなことを考えてしまう人間には功をなすことはできない。
失敗を恐れる人間には何もできないということだろうな~。


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