イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

『われわれは仮想世界を生きている AI社会のその先の未来を描く「シミュレーション仮説」』読了

2023年07月08日 | 2023読書

リズワン・バーク/著 竹内薫/監修 二木夢子/訳 『われわれは仮想世界を生きている AI社会のその先の未来を描く「シミュレーション仮説」』読了

著者はMIT出身のビデオゲームパイオニアにして投資家だそうだ。
内容はというと、タイトルの通り、この世界は本当に実体を持っているのかということに対する考察である。
著者は、この世界は映画の「マトリックス」のように高度に発達したコンピューターの中に構築されたシミュレーションの世界であると考えている。テレビゲームの中のプレーヤーのようなものだというのである。
もともと、「シミュレーション仮説」という考え方は昔からあったことはあったらしく、著名な物理学者や心理学者もこういった仮説を支持していたそうである。著者はこの考え方をさらに拡大して、「グレートシミュレーション」という言葉を使っている。
この時点で、なんだかおかしな本だと思い始めたのだが、一応、科学読み物の書架に並んでいたのだからある程度の信ぴょう性はあるのだろうと思い読み進めた。しかし、これはSFとして読んだ方がよかったのかもしれないとわけがわからなくなってきたので、これはもう、甘いんだかしょっぱいんだかわからない北三陸名物の「まめぶ」のようなものじゃないかと思うのである。

まずおかしいと思ったのは、コンピューターの計算能力が飛躍的に伸びたのはおそらくここ20年くらいのことだろう。3Dの世界を自由自在にレンダリングできるようになったのはもっと最近であるように思う。それまで僕たちはどこにいたのか・・?僕は子供の頃からちゃんと3Dの世界を生きてきたのだ。しかしこの本は、量子物理学が示す奇妙な世界、宗教がもつ精神世界の説明すべてが、我々がシミュレーションの世界に生きていると考えると解決してしまうというのである。

まず、コンピューターの性能の問題だが、この世界のシミュレーションをおこなっているのは、シミュレーション中にいる我々よりもはるかに文明が発達した超文明だというのである。
超文明がなんでこんなシミュレーションをやるのかというと、過去の世界をシミュレートすることで歴史の検証をおこなっているというのである。どんな文明でも過去を振り返って、あの時、この事件が起きていなければその後の歴史はどうなっていただろうと想像するものらしい。たしかに、NHKBSの「英雄たちの選択」は面白い。

そのほか、物質の最小単位が量子という粒子であることや、不確定性原理(厳密には量子の非決定性)、量子もつれ、多世界理論という物理学における普通に考えると不思議な現象もすべて説明できるという。
また、宗教や精神思想にあるような輪廻、臨死体験というようなものも説明できるというのである。
ひとつひとつの説明を見てゆくと、すべての物質が粒子でできており、光さえも光子という粒子だというのは、コンピューターが作る画像データはピクセルで表現されているからであるという。
観察者が観察するまでは対象物の状態は確率の雲の中にいて確定されていないというのは、たとえ超文明のテクノロジーをもってしても全宇宙の状態をすべてシミュレーションできない。だから、プレーヤー(ここでは観察者)が見たところだけをデータベースから視覚化している。データベースに世界が収納されている限りそれは確定的ではなく不確定的であるというのである。
量子もつれついても同じくデータベースが関係している。位置的に遠く離れたところとされる場所でも、同じデータベースから情報を取り出してレンダリングされた世界は同じになる。これが量子もつれであるというのである。
多世界理論はそのまんま、シミュレーションゲームにいろんなステージが分岐して存在しているのと同じであるという。
確かにな~とは思うが・・・。
輪廻についてはというと、ゲームを1回するとき、一度やれてもライフが3回くらい付いていてやり直しができるということと同じというのだが、お釈迦様の輪廻転生をゲームに例えるのはいかがなものかと思うのである。
また、臨死体験や幽体離脱というのは、ゲーム上のアバターにキャラクターの設定をインストールするのと同じで、データを出し入れしたり入れ替えることで臨死体験や幽体離脱を再現できるというのだ。
う~ん・・。

言われてみれば確かにうまく説明できているように思う。でも、何か誤魔化されているような気にもなってくる。なんだか都合のよいところだけを切り取って説明に使っているような感じにもなるのである。
我々をシミュレートしている超文明をシュミレーとしているのは一体誰なのかという疑問は親亀の上に乗った子亀の上にさらに孫亀が乗っているように永遠に続いて行くような気にもなってくる。
しかし、AIが高度に発達していったり、量子コンピューターが計算速度を飛躍的に伸ばしている現代、人間がコンピューターの中に世界を創り出してしまうかもしれない。そうなってくると我々も誰かに創り出されたものだと言われても不思議ではないのかもしれないと思えてくる。すでにシミュレーションさてれいるとはいわなくても、将来は僕の意識もデータストリームの中に浮かんでいるのかもしれない。

結局、なんだか堂々巡りのように思考が回っているような気になってくる。

監修をした竹内薫という人もなんだか胡散臭さそうな人だが、解説の中で、
『実際、失敗したり、不運が続いたりすると、私は、私というプレーヤーを動かしている(外部の)プレーヤーに毒づくことにしている。
「そろそろヒットッポイントを補充してくれないと頑張れませんよ」
「本腰を入れてプレーしてくれないと、対戦相手にやられっぱなしじゃないですか」
そして、この宇宙、すなわち情報空間を統括しているデーモンには、手を合わせてお願いをするのだ。(ここに出てくる「デーモン」とは、コンピューターサーバー群を統括する役割の人のことで、この人がいないとこのサーバーが壊れた時コンピューターの中にある世界も崩壊してしまう。だから絶対的な力をもった神のような存在なのである。)』
というようなことを書いているのだが、これくらいに思っているのが程よいと思うのである。

前に読んだ、「火星のモニュメント」のようにただのトンデモ本なのか、誰も知らない真実を語っているのか、もっと先の未来でなければその答えは出ないのかもしれない。
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「ヒトという種の未来について生物界の法則が教えてくれること」読了

2023年07月06日 | 2023読書

ロブ・ダン/著 今西康子/訳 「ヒトという種の未来について生物界の法則が教えてくれること」読了

生物が世代を重ねて生きてゆくことができるための法則とその法則が導く未来を語っている。著者は応用生態学という分野の科学者だそうだ。訳者は僕が初めて図書館で借りた本の共訳者だそうだ。

生物の多様性については、環境の変化に対応するためには必要であるが、人間が考えているような多様性は絶対的に必要なものでもない。生物の種類は「アーウィンの法則」からすると、人間が推測している種類よりもはるかに多くの種類がある。「アーウィンの法則」とは、昆虫学者のテリー・アーウィンが熱帯地域での昆虫の種類調査の結果によるもので、1本の樹冠に生息する昆虫の種類から推測できる昆虫の種類が従来の50万種に対して300万~400万種あるのではないかという考え方だ。とにかく目に見えないところに驚くほどの数の種類があるのである。人間が知らないだけであるというのである。これだけの種類の生物がいればすべての生物が生き残れなくともかならず残ってゆく生物がある。人間の想像以上に生物相多様性の層は厚いのである。

ということは、逆に言うと多様性が乏しいほど生物が絶滅する確率が高いということになる。そしてそこには、「種数-面積関係の法則」というものが存在しているという。島を例にとると、島が小さいほど生物種と個体数が少なるのでそこに生息する種の絶滅率は高くなるのである。
これは島に限ったことではなく、都市部を見てみると、道路やビルで分断された自然環境は小さな島が点在した状態に似ている。そうったところではコリドーを作ってやることで生物の移動が生まれ、多様性が維持される。

病気による絶滅に対しては「エスケープの法則」がある。これは生物の移動が捕食者や感染症、寄生体、または環境の変化から生物種の絶滅を守っているというのである。
人間もかつては逃げる側の立場にあった。捕食者から逃げ、感染症や寄生体から逃れるために高温多湿の地域から飛び出し、乾燥した場所、寒冷な気候の場所に広がった。
中東の砂漠で暮らす人や北極圏で暮らすイヌイットたちはなんであんなに暮らしにくい場所で生きるのだろうと思っていたが、こんな事情があったということだ。コリドーを作るということも、「エスケープの法則」を利用した多様性の維持の方法法のひとつなのである。

しかし、人間は移動の代わりに知能というものを武器に捕食者を駆逐し、感染症にも対抗してきたのである。
知能のある生物、人間はもちろん、知能が高いと言われるカラスなどは移動をする代わりに発明的知能によって気温の変化や食料が枯渇に対処しているという。これは「認知的緩衝の法則」と言われている。
対して、それぞれのニッチに特化した進化を見せるのは自律的ノウハウと呼ばれる。そこには脳の介在というものはない。ある環境では完璧な対応をすることができるが、その場所の環境が変化してしまうと対応することができない。絶滅をするか自分自身の体を変化させるか「エスケープの法則」にしたがって移動をするかという選択肢を選ばなければならない。

生物の多様性が必要なもうひとつの理由は「依存の法則」にあるという。人間の腸の中には人間の細胞の数以上の細菌が棲んでいるというが、他の生物でも、白アリをはじめほとんどの生物の消化管の中にたくさんの微生物を棲まわせて栄養分の吸収に役立てている。これが「依存の法則」だ。生物と細菌だけでなく、ミツバチと花の関係も依存の法則だ。様々な生物がお互いを支え合うという構図があるから生物は生きてゆける。
そして、その微生物であるが、地球上の生物種の大半は微生物であるという。その中には人に害を与え、人類がそれに対抗しようとすればさらに耐性を高めて対抗しようとしてくるものもあるけれども、それさえも自然界の多様性(バクテリオファージというもの)を使って乗り越えられるのではないかと著者は考えている。

地球温暖化や環境汚染は悪であり、直ちにやめるべきであるというのがどんな書物やメディアでも語れることであるが、著者はそうではない。紹介されている法則に則って多様性を維持していれば生物は生き延びてゆくのだと著者は考えている。
暑くなれば涼しいところへ、湿度が高すぎれば低いところへ、それぞれの生物が好むニッチへ移動する。必要があれば少しだけ人間が手助けすればよい。また、多少頭脳が明晰な人間やカラスはその場所で知恵を絞ってニッチを維持しようとする。ただ、それだけのことである。

著者の論旨の特徴は、ここにある。地球の生物界は人間が存在しようがしまいがそこに存在する。人間が住まない世界は自然環境が破壊されてしまった死の世界だというのはまったく放漫な考え方であるというのである。それは「人間中心視点の法則」に陥ってしまっているからだというのである。そうなのである。「生物」は絶対に生き延びるのである。人間が生き残るかどうかというのはまったくここでは問題にされていないのである。
ここからは著者の妄想なのかもしれないが、人間の絶滅後、他の霊長類が知性を持って地球を支配するのか、それとも賢いカラスなのか、それとも自己複製するコンピューターなのか・・。いやいや、アリやミツバチのような分散型知能なのか・・。
そして最後はこんな文章で結ばれる。
『しかしやがて、宇宙に何らかの異変が生じ、地球の環境条件が微生物すら生存できないほど極端なものになる。こうして、地球は沈黙に包まれて、再び物理と化学の法則だけで動く惑星に、つまり、生命を支配するさまざまなルールはもはや適用されない惑星に戻るのである。』
なんともクールだ。人間だけが特別ではないということなのだろう。
大体、こういうテーマの本を読むと、「人類が生き延びるためには。」とか「こうなると人類は絶滅する。」というように人間中心主義で書かれていることが多いが、この本はそうではなかった。内容としてはどこかで読んだり見たりしたことがあるようなものであったが、人間中心主義というしばりを外すとまた違った見え方がするというのが面白かった。
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初島沖釣行

2023年07月02日 | 2023釣り
場所:初島沖
条件:大潮 4:14満潮 11:22干潮
釣果:ボウズ(エソとサバフグは釣れたが・・)

梅雨の最後の時期だ。鬱陶しい日が続いている。昨日は予報のほうは雨だったが大して降らなかった。おかげで散髪とバイクのオイル交換ができたのだが、この時期の天気予報はスーパーコンピューターをもってしてもうまくは当たらないらしい。どちらにしても今日は風も穏やかなようだ。
大潮の日だと気づいたのは港に戻ってからだった。えらく潮が引いていたので、そういえば今日は月初だ。曇っていたので気付かなかったが月齢調べてみるとはほぼ満月だった。だから昨日の夜、加太に行こうか初島に行こうか迷いながら潮流表を見ていたら上りの潮はいまいちだったので初島に向かったのだが、大潮なら加太に行っておけばよかったと港内を走りながら思ったのであった。

夏至は過ぎたとはいえ、今日も午前2時半に起床。ただ、昨日の曇り空を引きずっているので夜明けは遅い。



そして魚が釣れているのかどうか、今日は渡船屋は満員御礼だ。



そしてこんな日はよからぬことが起こる。いちばんのよからぬことは最後に書いておこうと思う。

先に書いてもよいよからぬことは海の中の浮遊物だ。港内で1回。船の下で「ガガガン!!」と音が鳴ったと思ったら船が振動を始めた。スロットルを上げるとさらに振動が激しくなる。これはヤバい。外はまだ真っ暗で海面下はまったく見えない。懐中電灯で照らしてみても何も見えない。エエぃ!とギアをリバースに入れてスロットルを上げてやったらなんだかゴミは取れてしまったようだ。これはありがたいと沖へ向かった。そして次は沖ノ島までの中間地点だった。潮目を通ったことに気がつかなった。また「ガガガン!!」と大きな音がして港内よりもさらに振動が激しくなった。船尾からスクリューの辺りを覗き込むと、ジーザス・・。ロンギヌスの槍が刺さっている・・。



これは簡単に引き抜けたものの、まだビニールシートのようなものやホンダワラが絡まっている。ボートフックでこちょこちょやってやっと脱出。



沖ノ島への到着は午前5時半になっていた。



海の様子はどうかというと、かなり濁りが残っている。それでもベイトの反応は時々ありときたまは鉤にも乗ってくる。しかし本命は来ない。忍耐力のない僕はすぐに嫌になってくる。そして今日もタイラバを始めてしまった。
こっちはいきなりアタリがあった。おお、いい感じじゃないか。よく引く。魚の姿を見た時はこれはマコチじゃないかとおもったがタモに入ったのはエソだった。しかし、このエソものすごく大きい。エソってこんなに大きくなるのかと思うほど大きい。間違いなく自己新記録だ。



でも、エソの新記録といってもうれしくもなんともない・・。

その後はベイトも少なくなってきたので本格的にタイラバを使ってアマダイかコチかホウボウを狙ってやろうと沖ノ島の北側に移動。タイラバにはまったくアタリはないがここにベイトが現れた。ベイトが現れると飲ませサビキの仕掛けに持ち替えるというあわただしい行動を続けていたがまったくダメだ。午前8時までは頑張ろうと思っていたので残りの時間はなぜだか出来上がっている船団の仲間に入ってみた。



どうしてこんな場所に船団が出来上がっていたのかというと、10メートルほどの落差のありかけ上がりのある場所であった。みんな釣れる場所をよく知っている。そして僕にもいきなりアタリがあった。鉤には乗らなかったけれども、アタリがあると帰るわけにはいかない。1時間の延長戦。それでもアタリはなく午前9時に初島をあとにした。

しかし、このまま帰るのももったいないのでダメ元でアマダイポイントに向かった。



そしてここでも一発目でアタリがあった。おお、アマダイかと思ったがサバフグだ。



今日は本命かと思うたびに肩透かしをくらう。ほかに獲物があれば持って帰って唐揚げにでも思うがこれだけ持って帰ってもむなしいだけである。3匹も釣ってしまった。
去年、一昨年とサバフグがいたるところに湧いていたが今年もそうなんだろうか。まあ、僕はこれまでもそれほど迷惑をこうむった記憶がないのでどうでもいいのだが・・。

午前10時になったのでこれ以上粘る必要もないのでここで切り上げた。
しかし、7月になったとたんに日差しも変わったような気がする。これからは朝一だけの釣りにしないと体が持たない感じがする。




港に戻って無造作に停められた車の間からバイクを引っ張り出そうとすると、よからぬものを見てしまった。



いちばんのよからぬことはこれなのである。日本人のマナーは世界一などとサッカーのワールドカップの時に評価をされてはいたが、それはまったくのウソであり、もちろん世界の人の手本になるような人もいるのだろうが、人が見ていないと何でもやってしまう輩も大勢いる。
こういう行為をするとき、本能が勝っている場合、外敵を警戒するから前を向く。理性が勝っている場合、羞恥心のために後ろを向く。
今日の場合、物体の方が左にあったので、行為者が右利きだと仮定すると彼は羞恥心のほうが勝っていたようだ。
どちらにしても僕の港であり植物学のフィールドである場所がまた汚されてしまったのである。渡船屋がトイレを閉鎖したままにしているからだというのもあるが、今時、コンビニはどこにもあるのだから、弁当を買ったついでに済ましておけと言いたくなる。
今年はこれで2回目だ。あまりにも腹が立ったのでSNSにアップしてやった。このSNSは渡船屋の船頭も見ることができるのでそれを承知でアップしたのだ。
客のやることに渡船屋の責任はないというものの、こういうものを見せられるこっちも気持ちが悪いのである。せめて注意喚起ぐらいしてくれという思いだ。
面と向かっていうと角が立つし、喧嘩を売るほど勇気がない。だから、船頭よ、目覚めてくれと画像を放ったのである。彼らも自分の仕事場にウ〇コが落ちていたらいい気持ではないだろう。

海中の異物と陸上の汚物に悩まされた1日であった。

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