外国で一時的個人的無目的に暮らすということは

猫と酒とアルジャジーラな日々

日付不明まとめ書き日記 2012年3月

2012-03-31 23:11:05 | グルメ
懐かしきホンムス・・・




3月某日
閉店間際のスーパーで、半額になったぶりのアラを買って帰り、ぶり大根を炊く。
食べていて思ったけど、私がぶり大根で1番好きなのは、生姜だ。

3月某日
家の前を、アエイオウおじさんが通りかかる。
このおじさんはときどき、「ア~エ~イ~オ~ウ~」と大声でゆっくり発声練習しながら、うちの前を通りかかるのだ。
いつも家の中から声を聞くだけなので、おじさんの姿を見たことはないし、発声練習の目的もナゾのままである。
実はおじさん声の女子高生(演劇部所属)とかだったら、どうしよう?

3月某日
近所の猫溜まりに行って、エサをあげる。
4匹ほど集まってくるなかに、バッシャール(目つきと性格の悪い三毛猫、シリアの某大統領に似ている)もいた。
しかし今回、身体が大きくて強そうな、灰色と黒の縞模様の猫が初登場し、バッシャールを押しのけてエサを食べていた。
バッシャールの権力もこれまでか、ふふっ。

3月某日
東大寺二月堂に、お水取りのお松明を見に行く。
お松明の炎で、私の心の奥の暗闇に棲む、魑魅魍魎を焼き殺してもらうのが目的である。
暗い舞台のうえで、あかあかと燃える巨大な火の玉がくるくる回り、火の粉を雨あられと降らせながら進んでゆく。
その度に、舞台の下から大きな歓声というか、悲鳴があがる。
どうも、焼けたのは魑魅魍魎などではなく、舞台の真下の観客たちのコートや髪の毛だけではないか、という気がする。
それでも、終わったら清々しい気分になった。また来年来たい。

3月某日
家でひとりで、「立ち呑み屋ごっこ」をやる。
お水取りを見に行った帰りに寄った、近鉄奈良駅構内の立ち呑み屋の雰囲気が気に入ったので、自宅で再現してみようと思ったのだ。
台所で立ったままビールを飲んで、ツマミを食べるのだが、ツマミを作りながらビールを飲むという、カウンターの内側と外側の一人二役を演じなければいけないので、非常に忙しい。

3月某日
スーパーのお酒コーナーでじっと思案する。
私が買いたいのは、最低価格の本格麦焼酎・1升パックである。
同じ酒造の製品が2種類売られている。片方が、アルコール度25%で1180円、もう片方が、20%で980円。
さて、どちらがお得だろうか?
私の心の中には、以下のような考えがぐるぐるめぐる。
「・・・アルコール度で単純計算したら、25%のほうがおトクだろう。しかし、物事はそう簡単に割り切れるだろうか。25%でも20%でも、お湯で割るときの比率はあまり変わらない(私はだいたい半々で割る)気がするし、それなら単価が安いほうがおトクとも言える。それに、あまりアルコール度数が高いと、飲み過ぎた時(だいたい毎晩飲み過ぎる)危険だし・・・しかし酒好きとして、どうせ買うなら、強い方を買うべきではないだろうか?いやでも・・・」
こんな具合である。別段急ぐ理由もないので、いつまでもいつまでも迷う。

3月某日
夕飯にお好み焼きの豚玉を作ることにする。
小麦粉、卵、水、ニラ、キャベツ、かつおぶしを混ぜて生地を作る。
フライパンにゴマ油を熱して生地を流し、しばらく焼いてから引っくり返す。
上手に引っくり返せたので、しばらく自分の実力にうっとりしていたが、ふと、豚肉をのせるのを忘れていたことに気がつき、ショックを受ける。
しょうがないので、フライパンの隙間に無理やり豚肉を押し込んで、焼く。
焼き上がったお好み焼きに、焼き上がった豚肉をトッピングし、その上からとんかつソースとマヨネーズとすりゴマをたっぷりかけて食べた。
こんな作り方なのに、それなりに美味しかったのは、豚肉という食材の実力によるものか。

3月某日
家の押入れでミキサーを発見したので、これを使って、ホンムス(ひよこ豆のペースト・アラブ料理)を作ろうと思い立つ。
ホンムスは、ホブズ(アラブのパン、つまりピタパンのこと)につけて食べると、とても美味しい。
私はときどきこれが食べたくてたまらなくなり、ぎゅっとこぶしを握りしめる。
材料は、ひよこ豆(水煮缶)、練りゴマ、ニンニク、レモン汁、塩、クミンパウダー(配合は適当でいいと思う)。
全ての材料をミキサーに入れて、ペースト状にするだけなので、とても簡単なはずだった。
しかし、練りゴマの瓶のフタがどうしても開かない。
「開かない瓶のフタ」の対処法についてネットで調べたら、様々な方法が出てきた。
「開かない瓶のフタを開けるための、ゴム製の専用道具がある」とか、
「自転車屋のおじちゃんに頼めば、開けてくれる」とか、
「ゴム手袋をすれば、簡単に開けられる」とか、
「ガラス部分を冷やしたまま、フタだけを温めれば開く」とか。
さっそく瓶のフタ開け専用道具を買いに行くが、近所の店には売っていない。
次にゴム手袋をはめて試してみたが、全然ダメ。
最後に、フタの部分だけをお湯にしばらく浸してから、回してみたら、いとも簡単に開いた。
ネットで調べればなんでもわかる、便利な時代に自分が生きていることを、初めてはっきりと認識する。
でもなんだかもうクタクタで、ホンムスを作る気力が残っていない。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ルーチョ・ダッラ追悼

2012-03-25 02:35:00 | 日記
ルーチョ・ダッラ(Lucio・ Dalla、ボローニャ出身、1943.3.4ー2012.3.1)はイタリアポップス界を代表するシンガーソングライターのひとりだが、この3月1日、69歳の誕生日を目前にして、心臓発作のため突然亡くなった。彼への追悼の意を表して、彼の代表作のひとつ、「L'anno che Verra'」(新しい年)を訳してみたので、ここに載せます。私は昔この曲をよく聴いたものだが、何回聴いても、後半の盛り上がるところで、うっと泣きそうになったものだ。結局泣かないんだけど。


 
「L'anno che Verrà」(新しい年) ~Lucio・Dalla ルーチョ・ダッラ~


親愛なる友よ 君に手紙を書く 
これが僕のささやかな気晴らし
遥か遠くの君に伝わるよう、気持ちを込めて書こう
君が旅立ってから、大きな変化が起こった
古い年はもはや終わりを迎えたが
まだその名残はここに居座っている

夜外出する人の姿は少ない 休日でさえも
窓の近くに砂袋を置く人もいる
会話のない日々が何週間も続き
言いたいことが何もない人たちは
時間を持て余す

けれどテレビは予言した 
新しい年は変化をもたらすだろうと
だからみんな今から、それを待ち望んでいる
クリスマスが3度来て、一日中楽しむだろう
全てのキリストは十字架から降り
鳥たちも戻ってくるだろう

一年中食べ物と光にあふれ
口が利けなかった人たちも話し始めるだろう
耳の聞こえないやつらはもうとっくにやっているが

誰もが自由に愛し合い
神父でさえも結婚できるようになるだろう
ただし年齢をわきまえて
こっそりと姿を消すのは
たぶんどの世代にもいる
ずるい連中と愚か者たち

親愛なる友よ わかってくれるかい 
僕の綴る想いを 僕の言葉を
今この瞬間、ここにいられてよかったと、僕が心から思っていることを
親愛なる友よ わかってくれるかい
僕たちが夢みたいなことを思いつくのは
あとで笑いとばすため
希望を見失わないため

今年も瞬く間に過ぎてしまうとしても
親愛なる友よ わかってくれるかい
僕が今この瞬間、ここにいることが、どんなに大切なことか

新しい年も一年後には過ぎ去ってしまうけれど
僕はその準備をしている 
そして、これこそが変化なのだ

(おわり)


彼がコンサートでこの歌を歌っている、古いライブ映像。
http://youtu.be/CfGARFfRZdc
う~ん、何度見てもへんな顔・・・。
でも今さっきこれを聴き直してて、やっぱりちょっと、うってなった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

料理本研究 イギリスパイとみそ汁

2012-03-17 14:59:22 | グルメ
羊飼いのパイ、残り少なし



料理本を読むのは私の趣味であるが、買うことはめったにない。だってお金がないんだもん。本屋で立ち読みするか、図書館で借りてくるかのどちらかである。

最近読んだ料理本は、「ミセス・ギフォードのイギリスパイとプディング」(ジェーン・ランザー・ギフォード著 文化出版局)である。
これは図書館で借りたものだ。この本はタイトルのとおり、イギリスのパイやプディング類のレシピ本である。「甘くないパイ」の章と、「甘いパイとプディング」の章の2つに分かれていて、前者では「豚肉とハムのパイ」、「羊飼いのパイ」、「ムール貝とかきとえびのスープパイ」などの塩味の料理が、後者では「レモン入り蒸しプディング」、「アップルパイ」、「ジンジャープディング」などのデザートやティータイム用のお菓子が紹介されている。写真を見ると、とても美味しそうだけど、どれも炭水化物とバターたっぷりで腹にたまりそう。そして作るのがたいへんそう。

私は子供の頃、うちの本棚に何冊かあった、イギリスの子供向けの本(主にファンタジー)を読みながら、話の中に登場する料理の名前の響きに憧れ、どんな食べ物なのか想像しながらうっとりしていた。例えば、「羊飼いのパイって、どんな味のパイかな? 羊飼いが中に入ってるとか? ああうっとり、おいしそう!」という具合に・・・というのは冗談ですがね。そんな子供いややし。

この本の著者であるミセス・ギフォードは、出版当時日本に住んでいて、駐日イギリス大使館でフード&ドリンクアドバイザーをしていたという。
この種の食べ物に対するイギリス人の思い入れの深さについて、彼女はまえがきで熱く語る。

「イギリスでは、パイとプディングに対しては特別な思い入れがあります。なぜかというと、イギリスの天候―とりわけ冬が、こういった温かくてエネルギーの出るような料理を要求するからです」
「キッチンに入ると、パイを焼くかぐわしいにおいが広がっている、それをかぐだけでイギリス人は言いようもない、理屈では説明できない懐かしさといとおしさにとらわれ、パイを一口かじるたびに、過ぎ去った日々のいろいろな思い出に浸るという誘惑にかられます」

そして日本の読者のために、彼女は補足説明している。

「同じような目的の、同じような食感と内容の日本の食べ物に、おにぎりとたこ焼きがあります」

おにぎりとたこ焼き!
パイ・プディング組と、おにぎり・たこ焼き組の間には、百万光年の距離がある
と思っていた私は、これを読んで少なからず仰天したが、彼女の言い分では、おにぎりやたこ焼きは「大量の炭水化物に少量のおかずがくるまれており、安価で腹持ちし、持ち運びも可能な伝統料理」だという点で、パイやプディングと似ているらしいのである。そういう見地からみると、確かに一理あるような気もしないでもない。でもどうだろう、日本人はおにぎりやたこ焼きにそこまでの思い入れを持っているだろうか。おにぎりなんてコンビニでも買えるから、ありがたみなんて全然ないし、たこ焼きにいたっては、地球上から消滅してしまっても、別段なんの問題もない。関西人にあるまじき発言かもしれないが・・・。

イギリス人にとってのパイ・プディングは、日本人にとっての何にあたるのか?

この命題に関して、自称料理本研究家の私は、しばし沈思黙考してみた。

・・・・・・チーン。(音が小さい)

素材や形状や食事における役割などを度外視して、純粋に「日本人一般に郷愁を呼び起こす、伝統的な家庭料理」という観点から考えると、それはみそ汁じゃないだろうか。
寒い冬の朝、いやいや布団から出て台所に行くと、みそ汁の鍋から湯気が上がっていて、いい匂いが漂っている。お母さんはこちらに背を向けて、まな板でトントンとなにか刻んでいる・・・これが日本人の郷愁の典型だと思うのだが、いかがだろうか。鍋物も近いように思うが、こちらだと冬季限定になってしまうのが惜しいところだ。
なにかもっと適切な答えを思いついた方は、ぜひコメントを入れて下さいね。参考にしますから。(なんの?)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラジオスペイン語講座礼賛

2012-03-10 23:40:06 | 日記
「ここで私たちはスペイン語を話します」って書いてある。ベタなイラストやわあ・・・



去年の10月以来、私の世界はラジオスペイン語講座を中心にまわっている。スペイン語講座が太陽だとすると、私はそちらに顔を向けてじっとしているガラパゴス・リクイグアナ。太陽の熱で身体が温まり、血液が循環し始めてから、よっこらせと、おもむろに活動を開始する、それが私の一日である。

私が聴いているのは、NHKラジオ「まいにちスペイン語講座」の、午後2時45分からの再放送。月曜日から金曜日まで、週5日間放送される。今期は入門編と応用編の区別がない。

ふだん私が目を覚まして布団からでるのは、だいたい午後2時前くらい。着替えたり顔を洗ったり、昼食(私は1日2食。お昼はたいていパンとコーヒーですます)をとっているうちに、携帯のアラームが鳴る。うっかり聞き逃さないよう、2時44分にセットしてあるのだ。アラームが鳴ったら、他に何をしていても手を止め、いそいそとラジオをつけてテキストを広げ、息を止めて(まじで)スタンバイする。放送時間はたったの15分間なので、集中力がかんじんなのだ。実は聞き逃しても、翌週にインターネットのNHKのホームページで聴けるのだが、私がその事実を知ったのは、ごく最近のことである。それを知ってからもつい習慣で、息を止めてスタンバイしてしまう。平日の3時までに家から出ることは、めったにない。図書館に行くのも、買い物に行くのも、たまに実家に出かけるのも、3時過ぎてからである。

講師は廣康好美さん、パートナーはスペイン人のファン・カルロス・モジャーノさんである。レッスンは毎回、ファン・カルロスさんの「オラオラオラ!!!コモ・エスタイス?!ジョ・ソイ・ファン・カルロス・モジャーノ!!!」(やあやあやあ!お元気ですか?私はファン・カルロス・モジャーノです!)という、威勢のよい挨拶で始まる。この「オラオラオラ!!!」を聞くと、私は毎回つい笑い出してしまう。や~ん、「オラ」って3回も言ってるう。ステキい・・・。陽気なファン・カルロスさんは、まるで地中海の太陽そのものなのだ。彼はテキストの執筆にも関わっているようで、スキットに出てくる登場人物は、全員彼の知り合いである(高校生の時の同級生とその彼女、別の友達とその家族などなど)。

スキットは面白いし、盛り込んである文法内容も私にはちょうどいいレベルだし、廣康好美さんの教え方も素晴らしく明快だし、非の打ち所がない番組なのだが、中でも私が一番楽しみにしているのは、ファン・カルロスさんと廣康好美さんが番組の最初と最後に繰り広げる(真ん中でもちょこっとやる)、スペイン語のボケツッコミである。ファン・カルロスさんがボケで、廣康さんがツッコミ。彼はいつもサッカーの話ばかりしては、「またサッカーですか、そればっかりなんだから」と廣康さんにたしなめられている。「DEJAR(=貸す)」という動詞を習った時は、例文と称して「ヨシミ、財布貸してくれる?」と言い、「いいえ、財布なんて絶対貸せません」と断らわられていた。現在進行形を学習した回では、ふいにグラスに液体を注ぐ効果音がしたかと思うと、廣康さんが「ファン・カルロスっ!あなた何してるの?!」と叫び、ファン・カルロスさんが、「何してるって、僕はワインを飲んでいます」と澄まして答える、という具合である。あ~、なごむ・・・。あとで廣康さんが日本語に訳してくれるので、聞き取れなくても大丈夫。でも、これが聞き取れるようになりたい!という願望のもとに、私はせっせとお勉強するのである。

同じNHKラジオ講座でも、イタリア語講座では(入門編・応用編とも)、日本人講師とネイティブスピーカーのパートナーがイタリア語で会話をすることはない。雑談をするときは、日本人講師が日本語を話し、イタリア人のパートナーがイタリア語を話す(内容は講師があとで日本語に訳す)という、シュールな二ヶ国語会話が繰り広げられるのである。これは一体なぜなのか、私は常に不思議だった。もしや、この講師はちゃんとしたイタリア語が話せないのか、あるいは自分の発音に自信がないのか?と疑ってしまう。この結果、スキットの外で自然なイタリア語会話が聴けず、日本語ばかりが耳に入ってくることになる。これは語学学習上、あまりよろしくない。イタリア語講座だけではなく、たぶん他の語学講座も同様で(ラジオ講座だけではなく、テレビ講座でも)、廣康&ファン・カルロス組がむしろ例外だと思う。あと、「ラジオ英会話」講師の遠山顕さんも、パートナーの2人とよく英語で軽口を叩いている。彼らを見習って、他の講師たちもあとに続いてくれればいいんだが。

そんな私の最愛のスペイン語講座も、今月末には終了してしまう。出会いあれば別れありである。4月からの新講座の先生たちは、むろん別の人たち。どうしよう?!私は4月から、何を心の支えにして生きていけばいいの?今さら入門編からやり直す気にもならないし、応用編は木・金だけだから物足りない。それに、あの2人以外の人たちのレッスンなんて、聴く気になれないわ・・・もんもんもんと悩んでいるとき、「なんやったら、フランス語でも始めたらどうや?」と、私の心の中に住んでいる陽気なおじさん悪魔が、ふと私の右耳に囁いた。彼は約半年前、私にスペイン語学習を始めさせた張本人である。「これ以上新しい言語に手を広げてどないすんの、あんたが今まで手を出した外国語、どれも使い物にならん中途半端なレベルやのに」と、陰気なおばさん天使が、すかさず左耳に忠告する。やがておじさん悪魔とおばさん天使は、オロオロする私を尻目に激しい口喧嘩をはじめ・・・結局今回は、おばさん天使が勝利を収めた模様である。フランス語はやめておこう。でも、じゃあ何をすればいいの?急に太陽がなくなったら、リクイグアナの私は動けなくなっちゃう!

いつまでも悩んでいる私に、おじさん悪魔が、先日また囁いた。「中国語っていうのは、どや?」 おばさん天使は「あんたにはもう、呆れて物が言えへんわ」とつぶやきながら、近所のスーパーめがけて飛んでいってしまった。タイムセールの時間なのだ。

中国語・・・?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

料理本研究家宣言

2012-03-04 17:06:57 | 日記
自作のピタパン、ベーコンとルッコラのせ。ルッコラは庭でちぎったもの。味付けには、トマトペーストとアリッサ(チュニジアの唐辛子ペースト)とマヨネーズを使った。「おうちカフェごっこ」は楽しい。



吾輩は料理本研究家である。名前はまだ無い(=無名)。ふっ・・・

料理のレシピ本を読むのは、私の趣味のひとつである。
料理本を読むのは楽しい。これまでの人生で幾多の料理本を読みあさってきたし、これからも読むだろう。
でも、読んだレシピを参考にして、料理を作ることはめったにない。レシピ通りに料理するのってメンドクサイし、あんまり好きではないのだ。
そういう直截的な実用目的のために読むのではなくて、あくまでこれは「読書」なのだ。

美しい写真付きで紹介される、世界各国の料理、日本各地の郷土料理、才能ある料理研究家たちの創作料理のレシピ。そして料理を通して眺めた、その国や地方の歴史や文化、社会習慣などの解説、料理研究家の幼児期の思い出や料理観、ひいては人生観や世界観・・・良質の料理本にはそういうものがきゅっと詰まっている。

これまで読んだレシピの数々は、私の記憶の中で互いに混ざり合って輪郭を失い、星雲のようにぼうっと輝いている。台所に立って夕食の準備をしている際中、ふとした拍子にこの星雲から小さな星がはらりと流れ落ちて、思いもかけぬ閃きを放つ時がある。そういうとき、最初に考えていたのとは一味違う、面白い料理が出来上がるのだ。これが料理本研究の、幸福な副産物である。

(などと、色々理屈をつけてみたけど、実は私は単なるくいしんぼうで、四六時中食べ物のことを考えていて、つい美味しそうな写真が載っている本に手が伸びているだけなのだ。しかも料理本を読んではいるけど、別に研究しているわけではないので、ホントは「料理本読書家」を名乗るのが正しいのかも。あれこれケチをつけることも多いから、「料理本評論家」でもいいけど・・・まあ、細かいことは気にしないでください。楽しくやろうぜ)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする