外国で一時的個人的無目的に暮らすということは

猫と酒とアルジャジーラな日々

パレスチナぼんやり回想(10)最終回~エルサレムは世界で唯一無二の街~

2024-07-03 21:15:00 | パレスチナ

 

 

今回で2010年10月~12月のパレスチナ滞在記の追記は終わり。区切りよく10回で終われて嬉しい。10回だけなのに、やけに時間かかったけど、まあいつものことよね…

 

記念すべき最終回は、エルサレムについて書く。暑さと気温の激変に脳みそがやられているので、大したことは書けませんがね。(今ちょっと書いただけで、もう疲れてきたぞ…がんばれ私…)

 

タイトルに書いたように、エルサレムは世界で唯一無二、比類なき街だと思う。滞在中、街を歩きながら時々ふとそんな風に感じ、何か深い感慨に全身が包まれたような、不思議な気分になったものだ。

 

 

なぜエルサレムは特別なのか。

 

それは、2つの全く異なる世界がひとつの街の中に同居しているからだと思う。東エルサレムはアラブ世界、西エルサレムは西欧世界だ。目に見える境はなく、普通に行き来できるが、その違いは明確に感じられる。そして、その2つの世界が重なり合うところ、街の中核をなす旧市街は、アラブのムスリム地区・キリスト教徒地区、ユダヤ人地区、アルメニア人地区から構成され、世界的に重要な聖地が集まる形で、いくつもの小世界が狭い空間に共存している。こんなところ、他にあるだろうか?

 

もちろん、東西のエルサレムの分割は、イスラエルによるパレスチナ占領の結果生まれたものなので、平和的共存ではない。占領によるパレスチナ人への抑圧は、どんどん激しくなるばかりだ。しかし、政治的視点を脇に置いて、一人の旅人の目線で眺めてみると、エルサレムが特別な街、訪れる機会を持ったことに感謝すべき場所であることに変わりはない。

 

 

東エルサレムは、西岸地区の諸都市と同様、中東のアラブの街そのものだ。イスラエルの占領下で、インフラ整備がおろそかにされた街並みは貧相だ。道路脇に石がごろごろしていて、たまに「無許可建築」を口実にイスラエル当局に破壊された家の残骸を見かける(イスラエル当局はエルサレムのパレスチナ人に住宅建築許可をほぼ出さない)。

 

 

破壊されたパレスチナ人の住宅

 

 

岩だらけの空き地に君臨する黒猫さん

 

 

道端のゴミコンテナには残飯をあさる猫たちが常駐

 

 

私の住んでいた東エルサレムのオリーブ山周辺では、イスラエルが建てた分離壁をよく見かけた。西エルサレムのイスラエル人のNPOが、分離壁を巡るツアーを催行していて、一度参加したことがある。分離壁はパレスチナ西岸地区を取り囲んでイスラエル領から切り離すだけでなく、入植地建設・拡大と並行して、西岸地区と東エルサレムを切り離す形で建てられており、将来的に東西のエルサレム全体を「不可分な首都」として、イスラエル側に取り込もうとする準備だとみられる。

 

 

分離壁には落書きが多い

 

 

身体能力の高いパレスチナ人の子供や若者が越えられないよう、鉄条網がめぐらせてある。

 

 

延々と伸びる分離壁の向こうは入植地

 

 

入植地とイスラエル側を繋ぐ道路は入植者専用で、パレスチナ人は通行できない。

 

 

一方、西エルサレムの街並みは、ほぼヨーロッパだと思う。建物や道路の造りが東エルサレムとは全然違う。しっかりした鉄筋コンクリートの団地、お洒落でキラキラしたショッピングモールや商店街、高価な飲食店、整備された道路、お酒のあるスーパー、市電やピカピカの大型の路線バス…

 

猫も西と東では違う

 

 

旧市街のユダヤ人街に隣接した西エルサレムのオシャレなショッピングモール

 

 

こういうオブジェがヨーロッパっぽい(気のせい?)

 

 

西エルサレムの繁華街

 

 

「イランバザール」という名の店があってびっくり

イスラエルの宿敵イラン関連の店があるとは思わなかったぜ…

 

 

 

エルサレムの中核をなす旧市街も、様々な小世界がぎゅっと濃縮された不思議なところだ。

 

毎日新聞の記事の地図

 

 

旧市街は城壁に取り囲まれていて、いくつか出入口があるが、ダマスカス門は、その中でも表玄関のような存在だ。

 

 

 

その外側の広場は階段状になっていて、いつも大勢の人々が座って、屋台でお茶を買って飲んだり、おしゃべりしたりして、時間を過ごしている。物売りも多い。イスラエルの警官がしょっちゅう巡回して来て、パレスチナ人の若者たちを尋問したりもする。

 

ダマスカス門周辺やムスリム地区では、正統派ユダヤ教徒の姿もよく見かける。奥に嘆きの壁があるしね。

 

 

これは別の門の近く

 

 

ダマスカス門を入ると、ムスリム地区の古いスーク(商店街)が伸びている。狭い路地にアラブ菓子屋やスパイス屋、土産物屋など、様々な店が並んでいて、見ているだけで楽しい(私はお金がない上に物欲が薄いので、あんまり買い物しない)。ムスリム地区は安宿やインターネットカフェなどもあって便利だ。

 

スークはキリスト教徒地区の方にも伸びている。そちらには酒屋があるので、私は時々ビールやワインを買いに行っていた。

 

これは、ヴィア・ドロローサの行列を見に行った時の写真

 

 

ヴィア・ドロローサ(Via Dolorosa=「苦難の道」)は、イエスが十字架を背負って総督ピラトの官邸から刑場のあるゴルゴダの丘(現在の聖墳墓教会がある場所とされる)まで歩いた道筋のことで、毎週金曜日の午後3時(サマータイムの期間は午後4時)になるとフランシスコ会の修道士らが先導して、十字架を担いでこの道のりを行進しているのだ。(参考

 

 

「ヴィア・ドロローサ」の標識(ウィキペディアから拝借した写真)

 

 

行程は第1留から第14留まである。

 

 

これは第6留(المرحلة السادسة )

 

 

第8留

 

 

ヴィア・ドロローサの終点(第14留)には、聖墳墓教会がある。この教会は、イエスの墓があった場所に建てられたとされ、ベツレヘムの聖誕教会と並んで、キリスト教徒にとって非常に重要な聖地である。

 

入ったところにある、イエスが十字架から降ろされた後、聖骸に香油を塗ったとされる赤大理石の板

 

 

聖墳墓教会の中は、いつも巡礼者や観光客で混んでいる。内部は薄暗くて、非常に厳かな雰囲気。聞いた話では、この教会を訪れた時に、「はっ、もしや私は、特別な使命を受けた神の使者なのかも」などと、インスピレーションを受けてしまう人が時々いるらしい。聖墳墓教会シンドロームだ。私は何も感じなかったが。

 

旧市街のムスリムの聖地と言えば、もちろん「アルアクサ―・モスク」だ。これは、モスクという名前で呼ばれているものの、金色のドームで有名な「岩のドーム」や、それより地味な銀色のドームの「アルキブリー・モスク」など、複数のモスクやその他の建造物を含む敷地一帯を差す(ユダヤ教では「神殿の丘」と呼ばれる)。イスラムの聖地だが、ユダヤ過激派が大挙して押し寄せたり、イスラエル警察が突入してモスク内で礼拝者を襲ったりすることもある。モスクに入る礼拝者の年齢を制限することもしょちゅうある。

 

ムスリムにとってのアルアクサ―・モスクの重要性について説明するロイターの動画(英語)

 

 

観光客は、当時午前中しか見学できなかったので、私は1度しか行っていない。非ムスリムは建物内部には入れないので、外から眺めただけだったが、岩のドームは外観が綺麗なので、外から見るだけでも十分価値がある。

 

 

岩のドームは青空によく映える

 

 

うっとり…

 

敷地を影のように横切る女性

 

 

アルキブリー・モスク

 

 

木陰で楽しそうに語り合うムスリムのおじ様たち

 

 

アルアクサー・モスクで猫や鳩を日々餌付けし、「子猫たちのお父さん」と呼ばれていた男性の動画

 

残念ながら、彼はコロナで亡くなってしまったらしい。

 

 

アルアクサー・モスクの外壁の一部が、ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」だ。ここはイスラムの聖地でもあり、「ハーイト・ブラーク」(حائط البراق、「ブラークの壁」)と呼ばれる。「ブラーク」は、預言者ムハンマドを「夜の旅と昇天」の際にマッカからエルサレムに運んだ天馬の名前で、預言者がブラークをこの壁に繋いだとされる。

 

 

 

 

ユダヤ人地区は、古いながらもムスリム地区やキリスト教地区よりも小ぎれいでお洒落な店が多い印象だった。

 

当然猫もキレイ

 

休憩中の女性兵士たちも見かけた。

 

 

 

 

旧市街のアルメニア人地区も一度散策したが、わりと閑散としたイメージだった。聖ヤコブ教会(聖ヤコブ主教座聖堂)が良かったが、何が良かったかはもはや記憶にない。

 

聖ヤコブ教会、この絵の写真しか撮らなかった…

 

 

そういうわけで、エルサレム旧市街は、歴史的、宗教的、民族的、政治的にも非常に濃密な空間であり、旧市街を取り巻くエルサレム全体がそうであると言えるので、あまりパレスチナ・イスラエル問題や宗教などに興味がない方も、機会があれば、一度は訪れてみてはいかがだろうか。人生が変わるような特別な体験が出来るかもしれない。出来ないかもしれない(なんやねん)。

 

まず、イスラエルのセキュリティーを突破しないと入れませんけどね。普通の観光客は問題ないでしょうが…

 

 

そういうわけで、パレスチナ滞在記の追加分はこれで終わり。ここまで読んで下さった気の長い方、どうもありがとうございました~

 

次回からは、一昨年の旅行記の続きに戻る。一昨年って、前世みたいに昔のことのような気がするけど、どこまで書いたっけな…

 

 

 

(おまけの観葉植物写真)

キャンドゥ―のミニトマト栽培キット、間引きした分を別の鉢に植え替えた。(ダイソーの土と鉢)

 

もう実を収穫するのは諦めた。生きていてくれればそれでいいよ、君たち…

 

 

(終わり)

 

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パレスチナぼんやり回想(9)~東エルサレムのシルワン地区(とシェイフ・ジャッラーハ地区)のこと~

2024-06-15 21:01:08 | パレスチナ

 

 

6月に入ってから、日本は真夏日が続くようになってきたが、皆様はいかがお過ごしだろうか。うちは昼間の室温が32度に達し、身の危険を感じ始めた今日この頃だ(しばらく我慢してから、こりゃヤバいと思ってエアコン付けた)。でも、窓から見える公園では、子供たちが元気に遊び、お母さんたちがベンチに座っておしゃべりしている。ベンチは日陰だとしても、けっこうな温度だと思うんだが。なんという勇者たちであろうか。

 

32度でも厳しいのに、エジプトでは日が沈んでも40度あったりするそうだし(そして1日2時間、計画停電がある)、トルコもヨルダンも猛暑だというし(きっとシリア、レバノン、パレスチナあたりも同様)、みんな、どうやって生き延びてるの?脳みそ煮えない??私はだいぶ脳が煮詰まってる気がする・・・

 

ガザの人達なんて、暑くてもエアコンどころか家すらないし、食料不足で栄養失調だし、飲み水だって全然足りないというのに・・・(イスラエルによる破壊と封鎖のため)

 

 

さて、今回は2010年10月~12月のパレスチナ滞在記の続き。エルサレム旧市街に南東で接するシルワン地区に行った時の話だ。

 

シルワン地区はパレスチナ自治区の東エルサレムにあるのだが、ここがその昔ユダヤ民族のダビデ王がエルサレムを建設した地だとみなされ、遺跡なども発見されたことが、パレスチナ人住民にとって災厄だった。イスラエル当局はこの地区の広範囲のパレスチナ人の家屋を破壊し、土地を取り上げて、「ダビデの町」という名の国立公園として観光開発に力を入れると共に、周辺地域へのユダヤ人の入植を進めているのだ。私の大家さんの奥さんの実家がシルワンに持っていた土地も、この国立公園計画のために強制収用されてしまったという。もちろん無償で。

 

なお、大家さんの妹さんは、シルワンと同様にユダヤ人の入植とパレスチナ人の強制立ち退きが進められている東エルサレムのシェイフ・ジャッラーハ地区に住んでいたが、入植者に家をのっとられてしまったので、今は別の場所にアパートを借りて住んでいるそうだ。シェイフ・ジャッラーハ地区には、イスラエル当局に自宅から追い出され、路上で暮らしているパレスチナ人の家族がいて、彼らを支援する団体等が座り込みをやっていたので、見学しに行った。

 

 

入植者が占領したパレスチナ人の住宅

 

 

 

自宅から追い出されて、路上で生活しているパレスチナ人の家族

 

シェイフ・ジャッラーハ地区では、強制退去に応じないパレスチナ人の住民へのイスラエル当局の圧力が近年強まり、封鎖されて報道陣や支援者が入れなかったり、入ろうとすると攻撃されたりする等、状況が激化していたが、今はどうなっているんだろう…

 

 

さて、シルワン地区に話を戻そう。

 

シルワン地区には2回行った。初めて行った時は、なんとなく様子を見に行っただけで、2回目は金曜のデモを見学しに行ったのだ。

 

シルワン地区は、街中に警備の厳重な入植者の住宅があり、不穏な空気が流れていた。歩いていたら、観光客が列をなして入って行くところがあったので、無料だというので入ってみたら、階段の下の石壁に囲まれた細長い水場に出た。「シロアムの池」といって、新約聖書に載っている池らしい。シロアムは、シルワンのことを指す。

 

こういうとこ(ネットで拾った写真)

 

 

この辺りも、パレスチナ人の土地を没収して発掘・観光地化したのかな…

 

 

辺りを歩いていたら、土地の強制収用・家屋破壊に抗議する座り込みのテントがあったり、絶対出て行かないと表明する垂れ幕があったりして、ああ、ここはシルワンなんだなあと思わせた。

 

 

 

「名誉を志す者は残り 卑屈な者は去るが良い 我が愛しのシルワンよ」

 

 

シルワンでは、心なしか猫の顔つきも引き締まっているように見えた。パレスチナの猫だ。

 

 

そろそろ帰ろうかなと思った頃、下校途中の小学生の一団に遭遇した。みんな楽しそうで、引率の先生も笑顔だったので、なんだかホッとした。

 

 

 

みんなかわいい~

 

 

アラブの学校は普通、小学校から男女別々の学校なんだが、ここは珍しく共学だった。

 

 

この日はその後、家に帰ったが、後日もう一度シルワンを訪れた。イスラエルの家屋破壊・土地強制収用に抗議するデモを見学するためだった。デモは毎週金曜日に行われていたが、この日は通常より規模が大きいということだった。

 

私が到着した時は、既に大勢の人が集まっていた。

 

 

テルアビブから大型バス数台でやってきたイスラエル人の団体が、パレスチナ人に連帯して参加していた。そのため、規模が大きくなっていたのだ。リベラル派のイスラエル人が、パレスチナのデモに参加することはよくある(主にテルアビブから)。ビリン村でも見かけたし、ナビー・サーレハ村にも来ていた。

 

地元のパレスチナ人の子供たち

 

 

デモ行進は平和的に行われたが、完全武装したイスラエル兵らが行く手を阻み、やがて石を投げるパレスチナ人の若者たちと、催涙ガス弾を発射する兵士らの追いかけっこになって、周り一帯に不吉な臭いの白いガスが充満し、視界が効かなくなった。ああ、やっぱり…

 

その頃にはもう夕方近くなっていたので、イスラエル人の団体は、テルアビブに帰るべく、バスに乗り込み始めていた。その中の一人の親切な男性が、催涙ガスの嵐にビビっている私を見て一緒にバスに乗せてくれ、ダマスカス門辺りで私を下ろすように運転手に頼んでくれた。やれやれ、助かった…

 

乗るべき人が全員揃うまで、バスはしばらくその場で待機し、それからゆっくりと動き出した。その間、私は助けてくれたイスラエル人男性の隣りに座り、彼に色々質問した。どうしてパレスチナ人のデモに参加しているか、イスラエル政府の占領政策についてどう思うかなどだ。

 

彼は、「僕達の政府(イスラエル政府)がパレスチナ人に対して酷いことをしているから、自分はイスラエル人としてこうやってデモに参加しているんだ」と言いつつ、「でも、パレスチナ人側にも問題あるよ。どっちもどっちなんだよね」といたずらっぽく微笑んだ。

 

それを聞いて私は、「ああ、『リベラルなイスラエル人』の問題意識は所詮この程度なんだな」と、少しがっかりしたような、でもなにか腑に落ちたような気がした。

 

もちろん、パレスチナ自治政府(PA)や、同胞のアラブ諸国の政権には問題がある。PAを率いるマフムード・アッバース大統領やその側近たちは、選挙も実施せず長年権力の座に居座って私腹を肥やし、彼らと敵対するハマスが支配するガザでイスラエル軍が虐殺を行っても、口で非難するだけで何もせず、イスラエルとの治安協力を続けている。大半のアラブ諸国の政権も同様だ。

 

しかし、長年不当にパレスチナを占領して住民を追い出し、残った人々を虐げている側であるイスラエル人には、それを批判しする権利はないと思う。対等の立場にない2者を「どっちもどっち」などと喧嘩両成敗的に評することはできないし、それが当事者の一方であれば、なおさらだ。

 

もちろん、中にはイスラエル政府による西岸や東エルサレムでの占領政策やガザでの虐殺に徹底的に反対しているイスラエル人・ユダヤ人たちも存在する。彼らは全体の中ではごく少数派なわけだが、だからこそ貴重な存在だといえるだろう。

 

ちなみに、この時私を助けてくれたイスラエル人男性は、後に日本にしばらく滞在していた(私は会ってないが)。今は別の国にいるらしい。そういえば、イスラエル人の旅行者は世界のどこにでもいると、ウルパンのヘブライ語の先生が言っていた。

 

私の友人は、「昔、東京の路上でアクセサリーを売ってるイスラエル人と仲良くなったけど、彼は自称モサドだったよ~」と言っていた。東京の路上でアクセサリーを売って、自ら正体をばらすモサドのエージェント、案外ありかな・・・(ないない)

 

 

(参考記事)

パレスチナで密かに進む「ユダヤ人入植」の手口(渡辺 丘 朝日新聞元エルサレム支局長)

https://president.jp/articles/-/31341?page=4

 

3月30日 パレスチナ・土地の日に寄せて【前編】(JVCパレスチナ)

https://note.com/jvcpalestine/n/n3a9015f9dea5

 

 

 

(おまけの室内園芸写真)

 

けなげに育ってきたミニトマトちゃん~

 

 

(続く)

 

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パレスチナぼんやり回想(8)~西岸地区の諸都市・マルコポーロ風~

2024-05-25 21:22:07 | パレスチナ

 

 

今回は、2010年10月~12月にパレスチナ自治区・西岸地区の諸都市を訪れた時の話。

 

東エルサレムの下宿を拠点として日帰りか一泊でさらっと見て回っただけだし、例によってぼんやりとした記憶しかないので、大したことは書けないのだが、それを補うために、というわけではないが(なんやねん)、今回はちょいとマルコ・ポーロの「東方見聞録」風に書いてみようと思う。私は少し前から、マルコ・ポーロの「東方見聞録」を原文でちびちび読み進めているのだが(原題は「il Milione」)、これが滅法面白いのだ。古いイタリア語で書かれているが、文章が短く簡潔にまとめられているので、比較的読みやすい(でもたぶんせいぜい6~7割しかわかってない)。

 

というわけで、今回はマルコ(とジェノヴァの牢獄で彼の話を書き取ったルスティケッロ)の霊に取り憑いてもらったつもりになって、パレスチナ西岸地区で訪れた街のことをそれっぽくまとめてみる。まあ、マルコみたいな面白い話は出来ませんがね…写真に付ける説明などは、適宜非マルコ文体でいくのでよろしく。混同しないよう、マルコ文体(自称)の部分の文字は強調しておこう。

 

 

パレスチナ西岸地区の地図

 

 

ナブルス(نابلس)

エルサレムを出発して、馬で北に向かって1日進むと(50~60㎞)、山間のナブルスという街に着く。ここは、「(ヨルダン川)西岸地区」と呼ばれる地方にある。ナブルスはその地方の中で最も大きな街の1つ。モスクや住宅が相当ある。この地方はマフムード・アッバースという名の人物が統治しているが、実際にはこの地方を取り巻く壁の向こうにいるユダヤ教徒のイスラエル人らの支配下にあり、その軍勢が壁を越えて折々攻めてくる。壁のこちら側にも少しいる。ナブルスの住民はサラセン人(イスラム教徒)。キリスト教徒も少しいる。この地方の人々は、アラビヤ語を話す。町外れに美しい教会があり、そこにヤコブが掘ったと言われる井戸、「ヤコブの井戸」がある。山の上にはサマリア人がいて、そこにはワインがある。ナブルスの街中にはワインはない(酒屋が見つからなかった)。人々は茶とコーヒーをを飲み、パンと肉を食べる。牛乳を腐らせたものもある(ヨーグルト)

 

 

ナブルス郊外のフォティニア教会。ヤコブの井戸は地下にある。(写真なし)

 

教会にいた猫たち

 

同行したパレスチナ支援団体のアメリカ人女性と猫たち

 

 

この街は石鹸の産地で、商人があちこちから買いに来る。ここの石鹸はオリーブの実を絞った油から作られる。古い市場もあり、なんでも売っている。ナブルスではクナーファというお菓子が作られる。細長い綿糸を寄せ集めたような小麦粉の生地に澄ましバターをかけ、チーズを挟んで、焼いて蜜をかける。橙色をしている。ピスタチオをかけることもある。素晴らしく美味で、驚嘆すべきお菓子だ。

 

 

(ネットから拝借したナブルスのクナーファ屋の写真)

 

(こちらもネットで見つけた写真)

 

 

 

石鹸工場(の入口)

黄色い張り紙に「私にやましいところはない。うちの店は入植地の製品やサービスによって汚されていない」と書いてある。イスラエルの入植地ボイコットの表明だ。

 

 

ネットから拝借したナブルス石鹸の写真

小ぶりの土レンガっぽい外観。色白。アレッポ石鹸より安い。

 

 

旧市街で見かけたかわいい車

 

 

さて、次はナブルスから西に進んだところにある、カルキリヤという街について説明しよう。

 

 

カルキリヤ(قلقيلية)

ナブルスから西に少し行くと、カルキリヤという町に着く。ナブルスより小さい。ここも西岸地区という地方の一部。住民はサラセン人。モスクや商店や家がある。この町は西岸地区の端にあり、前述のイスラエル人らが築いた壁に囲まれている。住民は壁の向こうには行けない。イスラエルの軍勢はしばしばカルキリヤに攻め入る。

 

 

国連(OCHA)の地図

カルキリヤの町は少し出っ張っていて、壁の間際にある。

 

約4か月前にイスラエル軍がカルキリヤに突入した時の動画

 

 

立ち入り禁止の柵

 

 

分離壁に近づくと危険

 

 

カルキリヤには、世界中から連れて来られた動物を集めて、檻に入れて見せる場所がある。この地方では、ここにしかそのような場所はない。人々は動物を見に行き、そこで食事もする。非常に賑やかな場所である。

 

 

カルキリヤの動物園

 

 

 

 

 

私は同郷の友と共にそこに行った。私たちは動物を見ていたが、人々は私たちを見ていた。この町には外国人は滅多に来ないので、動物よりも珍しいのだ。

 

さて、カルキリヤの話はこれで終わりにして、次はエルサレムに近いベツレヘムという街の話をする。

 

 

ベツレヘム(بيت لحم "バイトラハム”と発音)

エルサレムを南に少し行くと、ベツレヘムと呼ばれる町がある。前述のイスラエル人らが建てた壁でエルサレムと隔てられており、特別の出入口(検問所)を越えないと出入りできない。

 

ベツレヘムは歴史ある高貴で美しい街で、教会や修道院、石作りの建物が多い。住民はキリスト教徒とサラセン人。ここは、イエス・キリストの生誕の地に建てられたと言われる聖誕教会があり、世界中からキリスト教徒が巡礼に来る。聖誕教会のそばには、古い市場もあり、様々なものを売っている。ベツレヘムの近くの修道院では、ワインが作られる。この地方のワインは美味しい。

 

 

エルサレムとベツレヘムを隔てる分離壁には、イスラエルの占領政策に対するパレスチナ人の抵抗をテーマに描かれた壁画が多い。

 

 

バンクシーのものもある。

パレスチナ人の少女がイスラエル兵をボディチェックしているモチーフ。いつもと立場が逆転した構図だ。(ベツレヘムの分離壁等の壁絵とバンクシーについてはこちら

 

 

ベツレヘムの街の中心の広場

 

 

聖誕教会前の広場

クリスマス前で、ツリーにライトアップしていた。

 

聖誕教会

 

教会の見学者はムスリムも多かった。

 

教会の地下

 

 

 

聖誕教会のそばのミルク・グロット教会 

 

 

 

ウィキペディアの説明:

ミルク・グロット

パレスチナ地方の都市ベツレヘムにある教会。 幼子イエスを抱えたヨセフとマリアがエジプトに脱出するまで、ヘロデ王の兵士から身を隠したとされる洞窟がある場所に建つ。 マリアの乳房から母乳が滴り落ち、岩が白く染まったという伝説がある。

 

 

民俗博物館的なところ

 

この場所の名前が思い出せない。ここかもしれないが、違うかも…

 

 

旧市街の市場の謎の店にパキスタン産のダチョウオイルがあった。

リューマチや神経痛、関節痛などに効くらしい。

 

 

ラーマッラーやジェニンについても書こうと思ったが、ラーマッラーは他の都市に行くときに通ったり、ISMのトレーニングに行ったり、家探しをしたりした時に通った程度なので書くことがない。西岸地区の首都的な大きな街で、酒が飲めるお洒落なカフェなどもあるとしか言いようがない。ジェニンも、商店街を見て回って、何も買わずに帰ったことがあるだけなので省略。というわけで、西岸地区に行った時の話はここで終わり。

 

なお、ベツレヘム辺りから文体が完全に非マルコ文体になってしまったことをお詫びしておこう。まあ、それ以前の文も、それほどマルコではなかったが・・・

 

 

(おまけの室内園芸写真)

 

キャンドゥで買った栽培キットのミニトマト、無事に出芽した~

 

 

(続く)

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パレスチナぼんやり回想(7)~イスラエル領内への旅・後編~

2024-05-17 19:09:38 | パレスチナ

 

 

今日はお天気が良くて、風が爽やかだけど肌寒いというほどでもなく、昼寝していて幸せな気分になった。穏やかで完璧な幸福感。起きたら、一瞬で過ぎて行ってしまったが。幸せって、そんなものよね…ふっ(目を覚ませ)

 

最近なるべく午前中に起きるようにしているのだが(活動時間を増やすため)、2時間くらいしたら眠くなるので、午後はお昼寝タイムになるのだ(結局活動時間短い)。昼寝するために朝起きているのかもしれない、という気さえする。夕方まで寝ていると、当然昼寝は出来ないのでね。昼寝は朝起きる人(そして暇な人)の特権ですね。気候のいい今のうちに、せっせと昼寝しなければ…(出かけるという発想はない)

 

さて。

 

前置き(?)はこれくらいにして、今回はイスラエル領内への小旅行の話の続き(前回のお話)。ハイファ観光を終えて、ナザレに移動するところからだ。

 

 

テルアビブ、ハイファ、ナザレ、西岸地区の位置関係はこんな感じ

 

 

ハイファからナザレには、バスで行った(ような気がする)。所要時間は2時間くらい(たぶん)。旧市街で修道院が経営しているゲストハウスに宿を借りた。受胎告知教会のすぐそばだったと思うので、ここかもしれない。違うかもしれないが…

 

広い部屋にいくつかベットが置いてあるドミトリーには、誰もいなかった。とりあえず真ん中の辺のベットに荷物を置いて、受胎告知教会を見学に行くことにした。

 

ナザレはアラビア語で「الناصرة」(アンナーセラ)と呼ばれ、イスラエル領内(グリーンラインのイスラエル側)の街だが、住民の大半がアラブ人だ(ウィキのアラビア語版には「全員アラブ人」とまで書いてある)。ムスリムの方が多いが、キリスト教徒も比較的多いことで知られている。ここはイエスが少年時代を過ごした地であることから、キリスト教において非常に重要な聖地とみなされ、世界各地から巡礼客が訪れる。(なお、イスラムでもイエスは預言者の一人とされ、「عِيسَى」イーサーと呼ばれる)

 

そんなナザレの見どころと言えば、「受胎告知教会」だ。(他に見どころあるんかな)

 

ウィキペディアの説明:

「受胎告知教会は、イスラエル北部・ガリラヤ地方の町ナザレの、カトリック教会の伝承で受胎告知が行われたとされる、マリアの少女時代の家があったと伝わる場所に建てられている」

 

例によって、ちゃんと写真を撮らなかったので、ウィキペディアから拝借した受胎告知教会の写真をご覧くださいませ。

 

 

 

 

やっぱり他人が撮った写真は美しいねえ…

 

なんしか、広かった気がする。(そんな感想しかないんかい)

 

私が撮った写真はこちら。

日本から送られた聖母子像(長谷川路可の「華の聖母子像)

 

 

こちらは韓国の聖母子像

 

各国から送られた聖母子像は、それぞれのお国柄が出ていて興味深かった。

 

教会見学を終えたら、辺りを適当に散歩し、見つけたスーパーで夕食の買い出しをした(食費節約)。ナザレはアラブ人の街とはいえ、イスラエル領だけあって、西岸などよりもずっと街が整備されていて綺麗で、スーパーもいくつもあった。ここもハイファと同様に、平穏な空気が流れていたが、ちょっと不穏なものも見かけた。

 

受胎告知教会のすぐそばにあった看板

「イスラム以外の宗教を望むものは、神に決して受け入れられず、来世に敗北者となるだろう」(コーランの一節)

 

これ、ナザレのアラブ人のキリスト教徒や世界中から巡礼に来るキリスト教徒に喧嘩売ってるやん…こういうのは止めていただきたい。コワいから…

 

 

散歩の後は宿に戻り、適当に食事して早めに寝た。寝る時は相変わらず広いドミトリー(女性用)に私一人だったが、夜中に誰か入ってきた。その人は、しばらく荷物を取り出したりして、ごそごそしていたが、やがて静かになった。

 

翌朝目を覚まして起き上がったら、少し離れたベットから、誰か近づいてきた。夕べ入ってきた人だ。彼女はなんとなく南米っぽい外観の小柄な女性で、穏やかな表情で私に微笑みかけて、「あなたにとって、今日が良い一日になりますように」というようなことをスペイン語で言ってから、スーツケースを引いて出て行った。巡礼に来たキリスト教徒だろう。彼女の微笑みは、なんとなく私の中に余韻を残した。特にいい一日にはならなかったが。

 

少し旧市街の商店街などを見てから、エルサレムに帰るため、西岸地区に向かうバスを探したが、そんなものはなかった。

 

私はナザレから西岸地区の北端の街ジェニンに南下する直行便のバスがあると思い込んでいたのだが、よく考えたらそんなものがある訳なかった。西岸地区は分離壁に囲まれているので、検問所を越える必要があるし、一般のイスラエル人は西岸の都市には入れないのだ。ジェニン難民キャンプは、2002年にイスラエル軍が突入して激しい軍事作戦を行い、キャンプを瓦礫に変えて多くのパレスチナ人を殺害したことで知られている。最近でも、イスラエル軍はジェニンを始めとする西岸地区各地の難民キャンプをしばしば攻撃しており、それによるパレスチナ人の死者が増えている。

 

とりあえず、ジェニンに最も近いアフラという街まで行くバスを見つけて乗った。すぐ着いたので、バス停の近くにある商店で水を買い、店の人達にジェニンの方に向かうバスがあるかどうか聞いた。そんなものはないと言う。歩ける距離かと聞くと、無理とのことだった。

 

12月なのに、良く晴れて気温が高い日だった。体力のない私が、無理やり長距離歩くと行き倒れるかもしれない。でも、イスラエルでタクシーに乗るようなお金はないし、そもそもタクシーなど走っていない。

 

しばらく考えた結果、ヒッチハイクしてみることにした。私は慎重というか臆病というか、なるべくリスクを排除して旅をするタイプなので(ホントなのか)、今までヒッチハイクはしたことがなかった。しかし、他に手段はなさそうだから、試してみるしかないだろう。中年になって、人生で初めてのヒッチハイクとやる羽目になるとは。長生きはするもんじゃな…

 

お店の人に教えてもらったジェニンの方角を目指して歩きつつ、車が来たら手を上げて合図した。不審がられるのか、何台も素通りして行ったが(そりゃそうだよな)、やがて1台止まってくれた。

 

運転手はフレンドリーな(チャラいとも言う)若いイスラエル人男性だった。ジェニンの近くまで行くというので乗せてもらったが、会話しているうちに、「ジェニンになんか、なんで行くんだ。それは止めにして、どこかに遊びに行かないか」などと言い出したので、丁重にお断りして降ろしてもらった。やっぱりヒッチハイクは面倒だよな…

 

その次に乗ったのは、アラブ人の車だったが(どんな人だったか失念)、西岸地区には行かないということで、検問所の手前で降ろされた。ジェニンの検問所は徒歩では通れなかったので、もう一回ヒッチハイクして、アラブ人の若者2人の車に乗せてもらって、検問所を通過した。やれやれ…

 

その2人は気の良さそうな人たちで、これからエリコ(ジェリコ)に帰るところだと言って、一緒に来ないかと誘ってくれた。エリコはメジャーな観光地の割には、公共交通機関が発達していなくて行きそびれていたから、一瞬心が動いたが、結局やめておいた。この人たちは問題なさそうだったが、そもそも親しくない人と長時間車に乗ること自体が面倒だったからだ。

 

そんなわけで、ジェニンから乗り合いバスを乗り継いで、ラーマッラー経由で東エルサレムの下宿に帰った時には、すっかりくたびれていた。慣れない旅をすると疲れるねえ・・・

 

 

これにて、イスラエル領内の旅の話は終わり。あとは、西岸地区の諸都市を訪れた時の話と、エルサレムについて書いたら、パレスチナブログは終了する予定だ。がんばろう~

 

 

(おまけのガーデニング写真)

キャンドゥで220円で買ったミニトマト栽培セット

 

出芽するかな~(どきどき)

 

 

(続く)

 

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パレスチナぼんやり回想(6)~イスラエル領内への旅・前編~

2024-05-15 19:56:44 | パレスチナ

 

 

今回は、いわゆる「イスラエル」(1949年の停戦ライン=グリーンライン=国際社会で認知されているパレスチナとイスラエルの境界線、のイスラエル側の地域)を旅した時の話。ほんの小旅行だし、例によって、もうろくに覚えていないんで、大したことは書けないが。

 

私は2010年9月末から12月下旬までの約3か月間、東エルサレムの下宿を拠点として、西エルサレムでヘブライ語講座を受けたり、西岸地区のデモに参加したりしていたのだが、やることがなくて一人で暇をもてあましていることも多かった。もともと引きこもり体質なので、昼過ぎに起きて家でだらだらしていることも多かったが(外国暮らしの中年の引きこもり)、遠出することもたまにはあった。せっかく苦労してイスラエルの執拗な尋問を突破して入国したんだし、一度出たら二度と戻れない可能性もあるしね…

 

重い腰を上げて旅に出ることにしたのは、ヨルダンへの移動に先立ち、入国ビザを取る必要があったからだ。日本人は基本的に観光目的でのヨルダン入国の際、事前にビザを取得する必要はないのだが、第三国(私はエジプト)からイスラエルに入り、その後キングフセイン橋(アレンビー橋)経由でヨルダン入りする時は、事前に入国ビザを取得しておく必要があるのだ(参考)。キングフセイン橋は西岸地区のパレスチナ人がヨルダンに出入りするための検問所で、正式な国境検問所ではない位置づけなので、パスポートにスタンプも押されなければ、ビザも発行されないのだ。

 

というわけで、テルアビブのヨルダン大使館まで出かける用事が出来たので、ついでに他の街も見ておくことにした。といっても、イスラエル側で観光するのはあまり気が進まなかったし(政治的理由)、あちらは物価も高いので(経済的理由)、テルアビブは用事を済ませたらさっさとおさらばして、アラブ(パレスチナ)系住民が多いことで知られるハイファとナザレのみをさっと回ることにした。ルートとしては、エルサレム(スタート)→テルアビブ→ハイファ→ナザレ→西岸地区(通っただけ)→エルサレム(上がり)という感じだ。

 

なお、エルサレムから近い西岸地区のラーマッラーにもヨルダン代表事務所があり、そこでビザが取れるかもしれないという話だったが、場所も業務時間もよくわからなかったので、確実に取れそうなテルアビブのヨルダン大使館に行くことにした。ネットで調べたら、ラーマッラーの方でヨルダン入国ビザを即日発行してもらった人もいるようだが、取ろうと思う人は事前に電話して確かめた方がいいだろう。

 

エルサレムからテルアビブには、バスで移動した。1時間くらいで着いたと思う。案外近いのだ。バス乗り場やバスのチケットの値段などは忘れてしまったが、調べようとして検索すると、イスラエル観光をキラキラ推してくる有象無象の邪悪なページが出てきてストレスが溜まるので、イスラエル観光情報が気になる方は、ご自分で調べて下され…

 

テルアビブは噂通り、高層ビルが立ち並ぶ都会だった。さすがイスラエルの首都だ(強調)。まあ、東京ほどの大都会じゃ全然ないけどね、ふっ…

 

ヨルダン大使館に一歩入ると、そこはヨルダンだった。ヨルダンの温和な顔つきの担当者がフレンドリーに対応してくれて、アラビア語で会話できる癒し空間だった。やっぱりヨルダン、いいよね・・・のんびりしているかと思いきや、事務手続きはけっこうスムーズで(その辺もヨルダンっぽい。イタリアよりよっぽど事務手続きが早い)、即日発行してもらえたので(1時間くらい待ったと思うが)、その日のうちにハイファに移動することにした。

 

私がテルアビブで撮った唯一の写真

買わなかったけど。お腹減ってたんかな…

 

 

テルアビブからハイファは鉄道で移動した。駅で金属探知機のチェックを通過する必要があり、行列が出来ていたが、誰も文句言わずに並んでいた。バスターミナルでもそうだった。やはり占領地は普段から厳重な警戒態勢を敷いているのね。ヨルダンのショッピングモールやエジプトの鉄道駅のなんちゃってセキュリティゲートとは違う(音が鳴ってもスルーされる)。

 

ハイファに着いた時は、もう夕方近かった。(テルアビブから電車で1時間半くらい)

 

泊ったのは「PORT INN」というホステルだ。ロンリープラネット(ミドルイースト版)に載っていたと思う。欧米人の利用客が多かった。観光に便利な立地で、キッチンが使えて、中庭のテーブルセットで食事出来て、全体的に綺麗で明るい雰囲気だった。(ような気がするがよく覚えていない)

 

門番が犬

 

 

ここに2泊したが、到着した日は近所を散歩して夕食をとっただけだし、3日目は午後ナザレに移動したので、ハイファを観光したのは実質1日半くらいだった。その短い時間を利用して私が訪れたのは、バハーイー教本部の庭園だった。ハイファの観光スポットといえば、バハーイー教本部じゃないですか?(「ハイファと西ガリラヤのバハーイー教聖地群」は世界遺産)

 

ウィキペディアの「バハイ信教」の項目より:

「バハイ信教とは、19世紀に創始された宗教であり、すべての宗教の本質的な価値とすべての人々の一体性を説く。バハオラによって創始され、当初はイランと中東の一部で発展したが、創始以来、継続的な迫害に直面している。この宗教の信者は500万人から800万人と推定され、バハイとして知られ、世界のほとんどの国と地域に広がっている」

 

私はバハーイー教自体には興味はなかったが、庭園が見事だと聞いていたので、観に行ってみることにしたのだ。

 

 

ハイファの地下鉄

 

 

落書き?元々の壁絵?

 

 

バハーイー教本部の敷地の入口はカルメル山にあって、登るのが大変だった。入口の所に観光客の一団が集まっていた。彼らと共にしばらく待って、例によってセキュリティーチェックを受けてから入った。

 

がんばって登った甲斐があった。

独特の配色・構成の広い庭園が上から下まで伸び、下方にはハイファの街と港が広がっている。

 

 

変な色合い…

 

上からだんだん下に降りて行って、一番下にある出口から出て終わり。

 

外に出てから少し歩いて、アラブ系住民のやっていると思しきミニスーパーで飲み物やお菓子を買った。ハイファはアラブ系住民が比較的多く(人口の約1割)、中でもキリスト教徒のアラブ人が多いらしい。ほんの2泊しただけで、ろくに人と会話しなかったのだが、たまに見かけるアラブ系住民は、イスラエルに溶け込んで、穏やかに暮らしているように見えた。

 

帰りはバスに乗って、ホステル付近に戻った。バハーイー教本部の庭園は、ランドマーク的に街中からよく見えていた。目立つよね。

 

 

翌日の午前中は適当にバスに乗って適当に降りて散歩するという、暇な人にしか出来ない遊びをして過ごした。

 

そして、たどり着いたところはここ。

 

 

アフマディーヤ(アフマディ教団)のモスクだった。本人たちはイスラムの一派だと主張しているが、一般のムスリムからすると「異端」というか、「別物」として扱われている教団。日本にも支部あるよね(参考)。

 

モスクには誰もいなかった。(入口から撮影)

 

付近に墓地もあった。

 

この地域は、アフマディーヤの信者のアラブ人とユダヤ人が住んでいるらしい(ウィキ情報)。

 

結局、ハイファではバハーイー教の庭園とアフマディーヤのモスクを観光して終わった。意図したわけではないが、宗教マイノリティのハシゴっぽくなった。この日の午後にはナザレに移動した。

 

 

前回の予告では、「イスラエルや西岸地区の街を旅した時のことを書く、エルサレムについても書けたら書く」などと風呂敷を広げたが、実際に書いてみるとやたら長くなってしまい、結局イスラエルでの旅の記録だけでも前編・後編に分けることになってしまった。なんでこんなに説明がくどくなるんや・・・

 

 

(おまけのお菓子写真)

 

ハイファで撮ったイスラエルの揚げパン「スフガニオット」

 

 

(続く)

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