外国で一時的個人的無目的に暮らすということは

猫と酒とアルジャジーラな日々

アンマンの思い出

2011-07-27 17:47:42 | ヨルダン(猫中心)
アンマンの街角、建物の上のプチエッフェル塔


アンマンといっても、冬が近づくとコンビニのガラスケースのなかで湯気を立てて私たちを激しく誘惑する、白くてふかふかで、中にずっしりと甘いあんこが入っている、あの食べ物ではない。ヨルダン王国の首都、アンマンの話である。ちなみにヨルダン王国は中東に位置し、北でシリア、南でサウジアラビア、西でイスラエル・パレスチナ自治区、東でイラクと境を接する。私は去年の年末から年明けにかけて、そこに1ヶ月ほど滞在した。乾燥して暖かい気候で、冬なのにコートを着ると汗ばむ陽気の日が多かった。

アンマンというのは印象の薄い、無個性な街だというのが、この街を訪れた人の多くに共通した意見である。ダマスカスのように風情のある歴史的な建物があるわけじゃなく、エルサレムのように民族的・政治的・宗教的な重要性を背負っているわけでもない。ベイルートのようにお洒落でもなく、カイロのような活気もない。観光名所がほとんどないので、観光客はだいたい素通りしていく。野良猫だって少ない。要するに、これといった特徴がなんにもないのだ。「キャラが弱い」のがその人の「キャラ」だ、という人がいるが、アンマンはまさにそんな感じの場所である。

街自体が新しくて人工的で、無個性なビルやマンションばかり立ち並んでいるので、散歩していてもあまり面白くない。さすがに旧市街のスークあたりまで行くと、古くからのお店が立ち並んでいて、いつも人通りが多く、アラブらしい活気が感じられるが、それでも他のアラブの街のスークに比べると、明らかに賑わいが足りない。思うに、これはアンマンの人たちが無口なせいではないだろうか。普通アラブ人は、目の前に外国人がうろうろしていたら、条件反射的に「ハッロウ、ウェアアーユーフロム?」だの、「ウェルカムトゥどこどこ(その国の名前)」だの、「ワッツユアネイム?」だのと声をかけてしまうものだが(英語が出来ない人はアラビア語で喋りかける)、アンマンではほとんど誰も話しかけてこなかった。外国人に話しかけないなんて、アラブ人にあるまじきことである。一体これはなぜだろう。アンマン人は恥ずかしがりやさんなのかしら?それとも外国に対する好奇心が薄いのかしら?これがアンマンという街に特有の現象なのか、それともヨルダンという国家全体がそうなのかは、アンマン以外の地域にあまり足を踏み入れたことがない私にはよくわからない。でもヨルダンってそもそも印象が薄い国だよな。

最初のうちは「なんて個性のない街だろう、なんて愛想のない人たちだろう」とあきれて、文句ばっかり言っていたが、しだいにこの街に慣れてきて、「まあ、これはこれで悪くないか。長く住むにはこういうところのほうが楽かも」と思うようになった。アンマンの人たちは無口でそっけないけど、実は優しくて親切で、しかもさっぱりしていて押し付けがましくない、ということもだんだん分かってきた。アラブ的なくどさがないので、接するのが楽なのだ。このときは1ヶ月だけの短い滞在だったし、しかも友人宅に居候して引きこもっていたので、アンマン人と関わることもあまりなかったが、長く住めば、また印象も変わってくるのだろう。

そんなわけで、アンマンの街に関してあまり思い出がないのだが、ひとつだけ、あの街のことを思い返すとき、脳裏にふっと浮かんでくるものがある。それはエッフェル塔だ。

私にとって、アンマンといえばエッフェル塔である。
エッフェル塔というのはもちろん、フランスの首都パリにあるアレ、生粋のパリジェンヌには疎んじられているけど、観光客はみなそこに登りたがるという、あの名物タワーのことです。アンマンの街を歩いていて、ふと顔を上げると、よく建物の屋上にテレビアンテナが立っているのが見えるが、これがどう見てもエッフェル塔以外の何者でもない形をしている。最初は気のせいかと思ったが、それにしてはあまりによく似ている。立ち止まってしばらく観察した結果、これは間違いなくエッフェル塔を模倣した建造物だという結論に達した。デザインした人が花の都パリの熱狂的なファンで、パリをしのぶよすがとして、自分の街に無理やりエッフェル塔のミニチュア版を作ってしまったのだろう、と私は勝手に推測しているが、実はただ単に、性能の良いテレビアンテナを作ろうとしたら、結果としてあの形になった、という可能性もなきにしもあらず。ともあれ、細部まで凝っていてなかなかお洒落な造りである。日本のラブホテルの屋上にあるやつなんかより、ずっと気品があることは間違いない。

このプチエッフェル塔は街のいたるところにあり、「あ、ここにもエッフェル塔がある、あ、あそこにも!」てな感じで、建物の屋上を見上げながら散歩するのは、アンマンの街歩きにおける数少ない楽しみのひとつだといえる。個性のない街をさりげなく彩る、小さなエッフェル塔アンテナたち。みなさんもアンマンに行く機会があれば、上を見上げながら街を歩いてみてはどうでしょうか。


アンマンのゴミ箱に住む猫たち




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帰国者の戸惑い(4)日本の物価

2011-07-25 23:17:25 | 日記
友人が撮ったナポリの八百屋さん


帰国してから初めてスーパーマーケットに行ったとき、私は野菜売り場でうっとかたまってしまった。トマトが並べられた一角に、「トマト1個100円」という札を見つけたからだ。えっ、トマト1個100円?1個100円って、1個100円って、どういうこと?これ、1キロの値段じゃないの?どきどき。

少し気を取り直して周りを見渡せば、他の野菜にも「きゅうり特価1本48円」とか、
「なす2個100円」とか書かれた札がついている。1束100円のホウレンソウなんて、ほんの数枚しか葉っぱが入ってない。青森産ニンニクなんて、「1個198円」!
なんてことだ。これはあんまりなんじゃないだろうか。他のお客さんたちは、別に文句をいいもせず、取り乱しもせず、冷静にお買い物をしている。

しばらく野菜売り場をうろうろして仔細に点検して回ったのち私は、はああ、と深いため息をついた。日本の物価は高いと思ってたけど、これほどとは予想してなかったのだ。私の認識が甘かったです、いや恐れ入りました。日本の物価水準に脱帽です。

エジプトやシリアなどの、安さの殿堂みたいな国と日本を比べてもしょうがないけど、比較的物価が高いトルコでも、トマトは1キロ150円いかなかった。モノによるけど、トルコの物価は、日本の半分から3分の2くらいなイメージである。もちろんイタリアの物価はもっと高くて、日本と大して変わらなかったが、それでも野菜はもっと安かったという記憶がある。ユーロの値段にもよるけど。

そもそもトマト1個何円、ピーマン1パック何円という価格表示自体が、私には不可解である。トマト1個の重さは個体により異なるし、ピーマン1パックの値段が安いのか高いのか、他の店のものと正確に比べられなくて、消費者にとって不便じゃないですか!

私がいままで住んだ国は、どこも野菜はキロ売りだった。トマト1キロ40円とか、タマネギ1キロ20円とかいった具合である(これはシリアの値段)。1キロあたりの価格が表示されているので、他の店と比べて安いか高いか、一目瞭然。だからって別に1キロ単位で買わなきゃいけないわけではなくて、少量ずつ買っても、ちゃんと重さを計って値段を計算してくれるのだ。

イタリアのスーパーでは、お客が自分で野菜を好きなだけナイロン袋に入れて、店内に設置された自動計量器にのせてボタンを押し、打ち出されたラベルを袋に貼り付けて、レジで支払うシステムを取っている。これはとても効率がいいやり方だと思いませんか。お客が自分で野菜を1個ずつ選べるし、店側としても余計な人件費がかからないし、出荷する側も、パック詰めの手間が減る。もちろん野菜だけでなく、肉も魚もオリーブの漬物もチーズもハムも、色んなものが量り売りされている。

日本でも穀物や肉類は量り売りなのに、どうして野菜はそうじゃないのだろう。4個何円とか、1パックいくらとか、消費者をごまかすためにやっているとしか思えないのだが。市場の自由競争を促すためにも、これからはぜひ野菜も1キロ単位で売っていただきたい。

日本の価格体系に革命を起こそう!でももちろん無血革命よ。


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帰国者の戸惑い(3)2本の細い棒を操って食事をするということ

2011-07-19 16:41:09 | 日記
フィレンツェの知人宅での和食パーティー。豪華でしょ。


もちろん、ほんの数年海外で暮らしたからって、箸が使えなくなるなんて話は聞いたことがない。子供のころに習得して、長い間毎日実践してきたこの伝統技術を、人間はそう簡単には忘れないようにできているらしい。
でもほら、使い方がヘタになっちゃった人はいるかもしれないよ。私みたいに・・・

そもそも私は左利きなせいか、手先が不器用で、子供の頃から箸を使うのが上手くなかった。特にご飯粒と豆類が苦手である。というのも、ちょっと気を抜くと箸から逃げて、お皿や茶碗にぽそっと落ちるからだ。落ちたやつをさりげなく(のつもり)拾って、また口元に持っていこうとすると、再びぽそっと落ちる。このように何回もふりだしに戻ってしまうので、非常にいらいらする。
あの柔らかいお豆腐を破壊せずに箸ですくうのも、私にとっては集中力を要する作業である。卵豆腐などはつゆに浸かっているので、普通の豆腐以上に逃げやすく、壊れやすい。そして一度破壊してしまった豆腐を箸ですくうのは、もはや不可能。スプーン様の助けを借りるしかない。
こわれてしまった豆腐は二度と元には戻らない。それはまるで恋心のよう・・・。

外国暮らしの間も、自炊してご飯を炊いたり、友人宅でご馳走になったりして、わりに頻繁に和食を食べてはいた。今どき、外国で和食材を手に入れるのはそんなにむつかしくないのだ。どこの国でも、アジア食材店か、大きなスーパーのアジア食材コーナーに行けば、必要最低限のものは手に入るし、しょうゆにいたっては、イタリアでも中東でも、そのへんの普通の商店で買えるのだ。エジプトでは納豆さえ手に入るらしい。


でもいつの頃からかしら、私にとって箸が「台所に飾ってあるアジア風装飾品」に成り下がってしまったのは。

思うに、それはイタリアのフィレンツェに住んでいた頃だった。
和食器など持っていなかったので、和食を作ったときは、サラダ皿にご飯を入れ、パスタ皿におかず(野菜炒めなど)を盛っていた。味噌汁はマグカップである。
サラダ皿に入れたご飯を箸で食べたことはありますか?
あれはかなり難しい。というのは、お茶碗で食べるときは、茶碗の側面を利用しながらご飯をすくえるが、浅いサラダ皿ではそうはいかないからだ。私はやがて箸をあきらめ、フォークで代用するようになった。そうすると、おかずを食べるためだけに箸に持ち変えるのも手間なので、常にフォークだけを使うようになってしまった。必要なときはナイフやスプーンで補う。
そして、いつしか箸の存在を忘れてしまったのだった。

そんなある日、日本人の友達に誘われて、和食屋に行くことになった。
フィレンツェには日本人が経営しているラーメン屋がある。そこで私はチャーシュー丼を選び、友達はラーメンと餃子のセットを頼んだ。私のチャーシュー丼は、当然割り箸と一緒に登場した。大ぶりの自家製のチャーシューが、ご飯の顔が隠れるほどに所狭しと敷き詰められていて、とてもおいしそうである。
私は割り箸を割って、いただきま~す、と食べ始めた。

ところがたれに濡れたご飯を箸で口まで運ぶというのは、思いのほか難しかった。たれのせいで、ご飯粒がばらばらになりやすいからだ。しょうがないので友人に笑われながら、恥を忍んでフォークを頼んだのだが、フォークが到着してから食事を再開すると、今度は別の問題が発生した。
フォークを使うとご飯は簡単に食べられるのだが、逆にチャーシューが食べにくくなるのだ。チャーシューの大きな一切れを、フォークで突き刺して口に運ぶと、噛み切るときに口の周りがたれまみれになり、非常にみっともない。箸だったらチャーシューを折りたたんで上品に口に入れられるのに。

友達に相談すると、じゃあナイフも頼めばいいんじゃない?と助言してくれる。
日本人がヨーロッパの和食屋で、ナイフとフォークでチャーシュー丼を食べる・・・
明らかに妙な絵面である。一体私は何者なんだ?
しかも考えてみるに、ナイフとフォークを適切に動かしてチャーシューをカットするためには、安定した平たい土台が必要である。柔らかいご飯の上に乗っかったチャーシューをナイフとフォークで切るのは無理がある。
丼物というジャンルの食べ物は、非常にアジア的な食べ物であって、ナイフとフォークを使って食べるべきではないことを、私はこのときにはっきりと認識した。

結局その場はナイフを頼まず、フォークだけを使って乗り切ったが、みっともない食べ方だったのには間違いがない。

その日以来、私が箸修行に励んで、一人前の日本人として自在に箸を操れるようになったかというと、その逆で、ますます避けて通るようになった。「苦手分野を克服するために努力する」という概念は、私の性格に相反する。無理しなくていいのよ、楽できるところは楽すればいいじゃないの、面倒なことは忘れておしまいなさい、なるようになるさと、私の心に住んでいる地中海のおきらくな黒猫がささやくのだ。
それだからといって、別にナイフやフォークがエレガントに使えるようになったわけではなく、熊のようにぎこちない所作でしか使えないのだった。不器用な人間って、そういう生き物である。

2ヶ月前に帰国してから、毎日和食を食べることになり、なんだかんだいっても箸のみを使って食べることにも慣れてきた。しかし自宅で豆腐や納豆ご飯を食べるときは、やはりスプーンを使っている。だってそのほうが簡単だし、合理的としか思えないもん!
しかしふと周りを見渡せば、みんなあの先の尖った細い2本の棒をすいすいと自在に操り、涼しい顔でごはんを食べている。これはまったくもって「東洋の神秘」である。




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帰国者の戸惑い(2)ゴミ出し問題のぬりかべ その2

2011-07-11 00:19:19 | 日記
私が置いた猫餌に群がるヒトたち、江の島


前回書いたように、日本のゴミ出しの複雑さは、私を途方にくれさせ、ファンタジーの世界に逃避させている。
私が以前住んだことのある国々でのゴミ収集は、もっと簡単でラクだった。
その国々のやり方を以下に挙げてみよう。

イタリア(フィレンツェ市):
街のあちこちにふたつきのゴミコンテナーが設置されている。
「非分別ゴミ用」、「瓶・缶・ペットボトルなど用」、「古紙用」の3種類。「有機ゴミ」用のコンテナーがある地域もある。
各自、家の近くのゴミコンテナーに、好きな時間に捨てに行く。ふたつきなので猫があさったり、ひどく臭ったりする心配はない。ゴミ収集車は週何回かやってきて、このコンテナーをトラック設置のクレーンで機械的に持ち上げてひっくり返し、中味をさらえていく。
週1回(2回だったかも)、巨大な電気掃除機のような清掃車が夜中に道路を掃除していく。

トルコ:
各アパートの入り口に、ふたつきのゴミバケツがあり、住民は好きな時間にそこにゴミを捨てる。あるいは、道端のあちこちに設置されたコンテナーに入れる。ふた付きのものも、ふたなしのものもある。基本的に分別なし。

シリア、パレスチナ:
道端のあちこちに設置されたゴミコンテナーに、好きなときに捨てに行く。分別なし。コンテナーにふたはなく、常に野良猫が何匹か陣取っていて、ゴミをあさっている。ゴミコンテナー周辺もあふれだしたゴミでいっぱいある。道端にゴミを捨てる人たちもいるので、ゴミがたくさん落ちていて歩きにくいが、乾燥した気候のお陰か、匂いはさほどでもない。

エジプト:
屋外のすべてが広大なゴミ捨て場である。分別という概念はそこには存在しない。
みんな道端の好きなところにゴミを捨てる。行商人たちが店をたたんだ夕方、通りは彼らの捨てたゴミでいっぱいになる。猫たちも餌を探してちょろちょろしている。
トラックのゴミ収集業者が夜やってくるので、朝の路上は比較的すっきりしている。
手押し車を押した清掃業者は昼間やってきて、ほうきでゴミを集め、どこかに持ち去る。
シリアやパレスチナ、エジプトで集められたゴミが、どこでどのように処理されているのか、考えるのがコワい。


こう見ていくと、アラブ人は汚いのが平気で、掃除を全くしない人たちだと勘違いしそうだが、彼らは実は綺麗好きで、掃除好きである。はっきりいって、アラブ人は日本人よりもはるかに真剣に掃除をする。ただしそれは自分の家の中だけの話で、家の外がどんなに汚れていても頓着しない。これはイタリア人にも言えることである。
トルコ人も綺麗好きで有名で、トルコの街は一般に清潔で歩きやすい。ただしときどき、街を歩いていると、通り沿いのアパートの窓からゴミが降ってくることがあるので、油断大敵。

これらの国の中では、一番文明的なゴミ収集が行われていのはイタリアだ。さすが、曲がりなりにもヨーロッパの国である。ただしこれはフィレンツェの話であり、南のナポリなんかに行くと事情は全然違うが。
逆にエジプトがナンバーワンのゴミ無法地帯である。革命後、事態はさらに混迷を極めているらしい。日本在住のエジプト人が、日本のゴミ分別にどのように対処しているのか、はなはだ興味深い。一度掘り下げてみたいテーマである。
環境のことを思えば、日本の分別収集はとても地球に優しい、ということになるのであろう。でもあまりに複雑で融通が利かなすぎて、合理性を欠いているのでは、という気もする。環境先進国のドイツなんかではどうなっているのだろう。

日本でもせめてイタリアのように、ふた付きコンテナーを道端に設置して、好きな時間に捨てられるようにしてくれないだろうか。マンションの住民だと、専用のゴミ捨て場に好きな時間に捨てられるのかもしれないが、うちは一戸建てなんである。
朝はゆっくり寝かしてほしい、私の願いはそれだけなの・・・


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帰国者の戸惑い(2)ゴミ出し問題のぬりかべ その1

2011-07-10 23:06:20 | 日記
退屈そうな猫、江の島。


最近一人暮らしを始めた私の前に、妖怪ぬりかべのように立ちはだかったのが、この「ゴミ出し問題」である。

日本のゴミ出しは難しい!海外帰国者にとってはなおさらである。
住んでいる自治体のホームページを調べたら、どうも「燃えるゴミの日」(週2回)「燃えないゴミの日」(週1回)と「缶の日」(月2回)と「瓶・ペットボトル・発砲トレーの日」(隔週木曜日)と「古紙回収の日」があるらしい。古紙回収の予定日は明記されていないので、いつかわからない。

ここまで調べて、私は大きなため息をついた。
燃えるゴミと燃えないゴミと缶と瓶とペットボトルと発砲トレーと古紙に分類する?
種類が多すぎる!私に出来るのか?

そもそも私には、なにが「燃えるゴミ」でなにが「燃えないゴミ」なのか判断がつかない。燃やしてみれば分かるかもしれないが、全部のゴミをいちいち燃やすわけにもいかないし。
この問題に関して、私を深い混乱に陥れるのは「プラマーク」である。ありとあらゆる食品包装袋には、この「プラマーク」がついているが、「プラゴミ」というカテゴリーはいったいなんなのでしょう。「プラスチック製だから燃えないゴミに入れてね!」という意思表示かとおもいきや、実際にはそうでもないようで、私の周りの人はこれを「燃えるゴミ」に入れたり、逆に「燃えないゴミ」に入れたりしている。
どうもテキトーに分別して、迷ったら「燃えるゴミ(または燃えないゴミ)」に入れる、などと個人的なルールを決めるのが問題解決の早道のような気がする。これが環境のためにいいか悪いかはまた別の問題であるが。

「燃えるゴミ」と「燃えないゴミ」の分別に比べたら、「瓶」や「缶」、「ペットボトル」などの分別は、赤子の首をひねるように簡単(まだひねったことはないけど)かと思いきや、ここにも落とし穴があるらしい。瓶は瓶でも、色つきの瓶は燃えないゴミに入れよ、などの例外規定が存在するからだ。ゴミ出しのルールは、英文法に似ている。そのココロは、原則以外にも無数の例外が存在するってこと!しかも自治体ごとにルールが微妙に異なるというからややこしい。

混乱して途方にくれた私にとどめを刺すかのように、
自治体のホームページのゴミ収集日程表には、次のように書かれてるのだった。
「ゴミは朝9時までに出しましょう」!
朝9時と言えば、私にとっては夜中みたいなもんである。
私は夜中3時、4時ごろに布団に入り、昼過ぎに起きるのを習慣としているからだ。
すると、ゴミを出すためだけに、わざわざ朝9時前にいったん起きないといけないの?
そう考えるだけでどっと疲れを感じた。くらくら。

日が経つにつれ、ゴミ出しにも少し慣れてきて、最近はまがりなりにも分別を行い、
朝8時半には起きてゴミを出し、その後二度寝するようになった。格段の進歩である。
だけど時々私は夢想する。
ああ、突然私の目の前に白馬に乗ったさわやかな王子様が現れて、
家の中に溜まったゴミを一切合財持ち去ってくれないかしら・・・もちろん分別なしで!
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