外国で一時的個人的無目的に暮らすということは

猫と酒とアルジャジーラな日々

トルコで長年防災の啓発活動を続ける森脇義則氏のトルコメディアでの発言和訳(要約)

2023-02-20 21:03:22 | 中東ニュース

 

 

今回は、準大手ゼネコン「安藤ハザマ」のトルコ代表で、現地で防災の啓発活動を続ける一級建築士の森脇義則氏がトルコメディア(TV100)に出演した際の発言内容を和訳してみた。23分31秒と長めだったので、かなり取捨選択して要約させてもらった。

 

 

スクショ。どうしても美人アナウンサーの方に目が行ってしまうのは私だけ?(トルコ人女性は美人が多いと思う)

 

 

彼女は美人な上に優秀で、森脇氏の話を要領よくまとめ、要所要所で分かりやすく要約してくれていたので、森脇氏の話にその要約を加味した形で訳した。

 

 

アナウンサーはまず最初に、彼が以前出演した際に「行政処分免除」(トルコで安全基準に満たない建築物について、手数料を払うことで行政処分を免れることができる「恩赦」の措置)の問題について以下のように指摘したことを「忘れられない発言」として引用していた。その発言は以下の通り:


「人間に対する『恩赦』は、その人が反省して態度を変える結果を生むかもしれないが、建物はそうではない。違法建築に『恩赦』を与えてはいけない。そんなことしたら、その建物は我々の墓場になってしまう」

 

 

今回の出演での彼の発言の要旨は以下の通り:

 

(今回の地震でこれほど大きな被害が出た原因について)

今回の地震は規模が大きくて震源が浅かったから、当然大きな被害が発生しうる。しかし、しっかりした地盤に正しく建てられた建物は、どんなに大きな地震が来てもなんともない。ところが、トルコでは日本と違って、企業が建設業者になるのは非常に容易であり、建物のチェックもきちんとできないからこのような結果になる。建築エンジニア、建築士も4年学んだだけでなれる。トルコでも医者になるためには、大学卒業後2年間病院で研修する必要がある。医者が手術でミスを犯したら、その患者が亡くなるかもしれないが、建築エンジニア、建築士がミスをしたら、数百人が命を落とすことになりかねない。

 

(今後地震発生が想定される地域)

トルコには東アナトリア断層、ビンギョルから伸びる北アナトリア断層、イズミル方面の西アナトリア断層がある。北アナトリア断層は、1939年のエルジンジャン地震から始まって、次々に地震が起こり、1999年にマルマラ地方に地震をもたらした。マルマラ地方には、この時に断層が壊れなかった地域が3~4か所あるため、いつかは特定できないが、近々地震が発生することが想定される。ブルサ、ヤロヴァ、チュナルジュク、そしてシリウリの先にもいくつか小さい断層がある。別々に地震が起こればM7くらいの規模だろう。なお、イスタンブールに関しては、1999年の地震後、円借款で第1・第2ボスポラス橋とこれに関連して市内17か所でM7.5の地震を想定した耐震補強工事が行われている。

 

ハタイには今回の地震で被害が出たが、東アナトリア断層はカフラマンマラシュまで壊れたものの、ハタイではまだ壊れていない。断層はハタイから南方にいくものと、北キプロスに伸びているものがある。このため、ハタイとその周辺地域、そして、北キプロスで地震が起こりうる。北キプロスはそもそも、トルコより地震が多い。また、ビンギョルからムシュ、ビトリス、ワンにかけても地震が起こることが想定される。2011年のトルコ東部地震でワンから向こう側(東方面)の断層は壊れたが、壊れなかったこの地域で地震が想定される。イズミル方面では、地震があったとしてもM6より小さい規模だろう。

 

(最近3年間にトルコで地震が増えたことについて)

私はトルコに32年間住んでいるが、以前はそれほど地震が多くなかった。しかし、約3年前から増えた。全体的に言って、アナトリアプレート、アラビアプレート、アフリカプレート、これらにエネルギーが集まって、それを発散しようとしている感じがする。これに関して、地震の1か月前にカフラマンマラシュを訪れた時も、「アッラーが皆さんに警告している。大地震に備えよと」と伝えた。

 

(将来の地震への対策)

地震のリスクを減らすため、対策を講じる必要がある。政府も地方自治体も、学校でも会社でも家でも、皆が一緒になって対策を行えば、被害が7割減らせる。例えば、家では家具等を壁に固定する、非常用袋に飲料水や非常食を用意することなどができる。また、家屋の地盤がしっかりしているかどうかチェックする必要がある。地盤がしっかりしていれば、建物に問題があっても大丈夫だ。地盤が弱ければ、建物が無許可の違法建築でないかどうか調べる等が必要になってくる。(以上)

 

 

 

 

視聴回数が3日間で28万回に達している。「日本人の建築家・地震の専門家」に対する信頼もあるだろうが、動画へのトルコ人からのコメントに「彼はトルコ人よりもトルコを愛してくれている」「貴重な話をありがとう」といった賞賛や感謝の言葉が並んでいることから、トルコでの森脇氏への信頼が厚く、その発言が重視されていることが伝わってくる。今後ますますのご活躍を期待したいものである。トルコの人々のためにも。

 

私も森脇氏を見習って、ちょっと酒を控えてみようかな…(関係ない)

 

 

(参考)

森脇氏のコメントが記載された記事

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230215/k10013980751000.html

 

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR106WS0Q3A210C2000000/

 

 

(終わり)

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1999年のトルコ北西部地震で1人も死傷者を出さなかった町

2023-02-17 11:56:43 | 中東ニュース

 

 

回の記事で、今月6日のトルコ南東部を震源とする地震で被害がひどかったハタイ県にありながら、建物が1軒も倒壊せず、死傷者が1人もいなかったエルジン郡の郡長のインタビューを和訳(要約)した。

 

このエルジン郡長のインタビューをネットで見た時、私はすぐにタヴシャンジュル(Tavşancıl)を連想した。

 

トルコでは1999年にも北西部でM7.6の大地震(トルコ北西部地震、イズミット地震、トルコ・コジャエリ地震等と呼ばれる)があり、多くの犠牲を出したが、震源地に近かったのに一切被害が出なかった地域があったのだ。今回のエルジンのように。それがタヴシャンジュルだ。

 

今回は、私がタヴシャンジュルのことを知るきっかけとなった動画の内容を以下に和訳(要約)する。BBCトルコ語版が2022年8月17日に公開したものだ。

 

 

「タヴシャンジュル:1999年8月17日の地震で破壊されなかった町」

1999年8月17日の地震により、イズミット湾岸地域で多数の死者が出て建物が倒壊した。しかし、震源地に非常に近かったにもかかわらず、イズミット湾岸のある町は、ほぼ地震の影響を受けなかった。後に注目を集めることになったこの町は、タヴシャンジュルである。

 

タヴシャンジュルはなぜ地震の影響を受けなかったのか?

 

タヴシャンジュルは周辺の多くの地域とは違い、緑豊かで閑静な町だ。建物の階数が少なく、互いに距離があることが目を引く。この町が地震の影響を受けなかった理由は、これに直接関係している。これについて、よりよく理解するためには、1980年代に遡る必要がある。

 

 

 

 

1989年の地方選挙で、サーリヒ・ギュン氏がタヴシャンジュルの町長に選ばれた。ギュン氏は町の都市計画を準備するにあたって、コジャエリ大学の地質学の研究者らに調査を依頼した。彼らが作成した地質調査報告書は、地震のリスクに焦点を当てた内容だった。この町は北アナトリア断層上に位置しており、都市計画を策定するにあたって、地震のリスクを無視することはできなかった。

 

 

 

 

報告書の作成に参加したコジャエリ大学地球物理学科の元教授によると、この町が地震の影響を受けなかった理由は、地盤の堅固さと町で取られた措置だった。

 

 

 

 

ギュン氏は報告書を重視して都市計画を策定した。この計画に基づき、高層建築(4階以上)の規制を始めとする、様々な決定が実行された。

 

しかし当時、この計画に対する住民の意見は、賛否両論に分かれた。反発する人も多かった。しかし、町長は一歩も引かず、自身の親戚や町会議員にも手加減せず、高層住宅は建てさせなかった。自身の父親が家を一階分建て増ししたいと言い出した時も許可しなかった。ギュル氏の娘さんの証言によると、彼は「人命が失われるよりは、票を失う方がいい」といつも言っていたという。

 

1999年8月17日のトルコ北西部(イズミット)地震では、公式発表によると1万8,373人が亡くなり、36万4,905棟の建物が被害を受けた。イズミット湾の多くの場所で被害が出たが、タヴシャンジュルでは大きく揺れたものの、一切被害がなかった。死傷者も1人も出ず、損壊した建物は1軒もなかった。

 

住民たちによると、2000年代以降、建築に関する検査は以前ほど厳しくなくなった。ギュン氏は建築を厳しく制限していたが、彼の後を継いだ新しい町長は、基本的に違法建築を放置して、住民の好きなようにやらせた。ギュン氏の取った措置を評価している住民たちは、次に地震が起こったらどうなるかを恐れている。

 

(注:サーリヒ・ギュン氏は1989年5月~2002年11月までタヴシャンジュルの町長を務めた。2002年に共和人民党(CHP)から総選挙に出馬して、コジャエリの国会議員に当選。2022年1月、新型コロナの治療中に76歳で死去)

 

 

 

 

(参考)

Tavşancıl: 17 Ağustos 1999 depreminde yıkılmayan yer(動画が掲載されたBBCトルコ語版の記事)

https://www.bbc.com/turkce/haberler-turkiye-62570328?at_campaign=Social_Flow&at_custom1=%5Bpost+type%5D&at_custom3=BBC+Turkce&at_custom4=BDCD1732-2148-11ED-BE3B-311B933C408C&at_custom2=twitter&at_medium=social&at_campaign_type=owned&at_bbc_team=editorial&at_link_id=CB1F3818-A7D8-11ED-B325-9B3B16F31EAE&at_ptr_name=twitter&at_format=link&at_link_origin=bbcturkce&at_link_type=web_link

 

 

(終わり)

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トルコの地震で1人も死傷者を出さなかったハタイ県エルジンの郡長インタビュー和訳(要約)

2023-02-16 07:00:30 | 中東ニュース

 

ご存じのように、今月6日にトルコ南東部のシリア国境に近いカフラマンマラシュで発生したM7.8とM7.5の地震により、両国で多大な犠牲者が出ている。残念ながら、死者数はまだまだ増え続けることだろう。

 

トルコで最も被害が大きかったのはハタイ県だと言われ、建物の約半数が倒壊したという話も聞くが、そのハタイ県にあって、1軒も建物が倒れず、死傷者が1人もいなかった地域がある。それがエルジン郡だ。(Erzin İlçesi、トルコ語では「エルズィン」と発音されるが、ここでは「エルジン」と表記する。また、İlçeは郡または区と訳されるが、ここでは郡、その首長は郡長としておく)

 

ハタイ県でエルジン郡だけが無傷だったことがトルコで話題になり、メディア(FOX のトルコ版)で郡長のオッケシュ・エルマスオール氏がインタビューされたのをたまたま見て、控えめに淡々と話すその謙虚な姿に心を打たれた。「自分はメディアに次々と出演して自己アピールする必要はないが、これが人の役に立つかもしれないからと思って、インタビューに応じている」と前置きし、職務に早く戻らないといけないからとして、スタジオには行かずにエルジンから中継で出演し、椅子を用意すると言われても断って、ずっと立って話していた。

 

 

スクショ

 

 

 

ユーロニュース(欧州主要放送局の報道を伝えるニュース専門放送局)のトルコ語版のウェブサイトにこの郡長のインタビュー記事があったので、それを以下に要約して翻訳してみた:

 

「ハタイのエルジン郡はいかにして地震に持ちこたえたのか?エルマスオール郡長がその問いに答えた」

 

(郡長の話)

エルジンは人口4万2000人の郡。オスマニエからは15㎞で、アダナに非常に近い。(注:アダナも死者が多かった地域。オスマニエも被害が大きかった)それにもかかわらず、建物倒壊による死者は1人も出なかった。負傷者もいない。倒れた建物はないが、被害がなかったわけではない。しかし、重要なのは、ここでは死者が出なかったということだ。

 

私は自分がエルジンの郡長に就任してからの話だけをする。もちろん全ての建物が私の任期中に建てられたわけではないが、私の任期中には、違法建築を許さないことにかけては、出来る限りのことをしてきた。人々は、違法建築を政治家が見逃すことに慣れていて、それを期待している。私にも、選挙に当選するやいなや、それを求められたが、そんなことは決して出来ないと答えてきた。そういった要求に立ち向かっても、彼らはなんとかして違法建築をやろうと試みる。十分な数の職員がいなければ、それを100%監視することは出来ない。

 

しかし、私は「自分の任期中には出来る限り違法建築は建てさせない」と決意し、それをやった者には必要な罰金を科し、記録を残して検察庁にしかるべき通知を行った。そういう意味では、私にはやましいところはない。

 

都市開発に関しては、規則を文字通り適用する必要がある。国民が国家と一体となって、意識を変革する必要がある。国民側には、違法建築の行政処分免除への多大な期待がある。そういう期待を作り出してはいけない。規則を効果的に適用して、検査システムを見直さなければならない。国を統治する全ての人間がこの点において決意を示し、国民にそれを見せる必要がある。そうでなければ、誰が上に立っても、死者は出続けるだろう。今回の地震から教訓を得て、このような大惨事を繰り返さないようにしたい。

 

地方自治体の長が単独でそれを行うことは非常に難しい。政治家が違法建築を見逃すことへの人々の期待が残念ながら大きいからだ。全ての公的組織が一体となって行うことが肝要だ。

 

私のところでも、地震に対して100%準備が整っていたわけではなく、不十分なところ、やるべきことはあった。私たちは地質学上の調査に懸命に取り組んできたが、不備なところもあった。それは自己批判している。これも大きな教訓となった。この件に関して、今後も取り組みを続けていくつもりだ。

 

 

(地質学者の意見)

・地震学者のナージ・ギョルル氏(注:今回の地震を事前に予測した人物):

地震の絶えないこの国に住むからには、地震に耐える街づくりが必要であり、エルジンはそのお手本だ。そういう意味で、郡長の言っていることは正しい。但し、エルジンで建物倒壊がなかったことを、それだけに結びつけるわけにはいかない。地質学的な位置、テクトニクスの位置等も関係してくる。

 

・イスタンブール工科大学の元教授オカン・トゥイスズ氏(注:彼も今回の地震を事前に想定):

エルジンの近くの断層は動いていない。エルジンから30~40㎞のところに断層があるが、間に山塊が挟まっている。

 

 

(オッケシュ・エルマスオール氏の略歴)

1979年エルジン生まれ。マルマラ大学法学部卒。イスタンブールで弁護士業に従事した後、帰郷してエルジン議会議長、ハタイ弁護士会監査理事会委員等歴任。2019年3月31日の地方選挙に最大野党の共和人民党(CHP)から出馬して、エルジン郡長に当選。妻と娘2人がいる。英語がよく話せる。同氏の前任者は与党の公正発展党(AKP)所属のカスム・シムシェック氏で、2期務めた。(注:本人によると、エルマスオール氏の父親も郡長を務めた経歴がある)

 

 

 

 

(参考)

Hatay'ın Erzin ilçesi depreme nasıl dayandı? Belediye Başkanı Elmasoğlu yanıtladı (インタビューの元のトルコ語記事)

https://tr.euronews.com/2023/02/11/hatayin-erzin-ilcesi-depreme-nasil-dayandi-belediye-baskani-elmasoglu-yanitladi?fbclid=IwAR32Ror3IvBM34KJ1RvZG3co2I4EzaNN7VQF7HBhjOKwNjZuvF0hQkxb61c

 

トルコでなぜあれほど多くの建物が倒壊したのか 耐震対策は

https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-64592346

 

「パンケーキクラッシュか」トルコ・シリア地震 犠牲者3.3万人超 なぜ被害がここまで大きくなったのか?【解説】

https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/326527?display=1

 

 

(終わり)

 

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2022年イタリア・ヨルダン・トルコ周遊記(10)~ローマ3日目・トレビの泉と遺跡猫たち・後編~

2023-02-15 05:14:41 | イタリア

 

 

今回もまた、ずいぶん間が空いてしまったが、去年の旅行記を再開する。前回はローマでの3日目、トレビの泉などを経由してトッレ・アルジェンティーナ広場の保護猫施設を見た後、昼食を取ってからホテルに戻って休憩したところで終わっていた。

 

 

ローマ3日目の夕方、ホテルで昼寝などしてから、夕方また出かけた。

 

テルミニ駅地下のコナド(スーパー)で夕食を買って帰るだけのつもりだったが、ふと気が変わり、トッレ・アルジェンティーナ広場にもう一度行ってみることにした。広場の周りにいた人たちが、夕方になったら猫がそこら中をうろうろしていると言っていたことを思い出したからだ。

 

バスに乗るため、駅前のバスターミナルに向かって歩いている時、カラビニエーリ(Carabinieri 憲兵、以下カラビニ)の車両が何台か、サイレンを鳴らしながらすごい勢いですっ飛んで行った。何事かと思ったら、少し先のマクドの前に停車して、そこから降りたカラビニ数人が、先に来ていた同僚たちに合流していた。

 

 

 

 

なんか盛り上がってる。

 

 

周りに野次馬さんたち(イタリア人も観光客も)が群がっていたが、誰にも何が起こっているのか分からないようだった。カラビニがTシャツなどを押収している様子だったので、偽ブランドのTシャツを売る移民の行商人が摘発されたのかもしれない。よくあることだ。それにしては、やけに大がかりだった気もするが。

 


駅前からH40番のバスに乗ってトッレ・アルジェンティーナ広場に向かった。バスのチケットは乗降口付近に設置されている刻印機を通す必要があるが、機械が壊れていて、使い物にならないことが多い。この時もそうだった。チケットに日付・使用開始時間を刻印しなければ、無賃乗車扱いになるのだが…

 

 

車窓から見えたヴェネツィア広場とヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂

 

 

トッレ・アルジェンティーナ広場には間もなく着いた。前回も書いたが、この広場は中心部分が周囲より一段低くなっていて、古代ローマの神殿の遺跡があるのだが、現在は閉鎖されている。

 

 

広場をぐるっと回って猫を探そうと思い、ほんの少し歩いたら、下の遺跡のところをうろついている猫たちを発見。上のベンチのところでも、イタリア人のおじさんが猫数匹を餌付けしている所に遭遇した。

 

 

すでに満腹してくつろぎモードになっている猫もいれば、まだエサを待っている猫もいた。

 

 

近づいた女性は持ち物検査を受けていた。

 

 

夕方涼しくなってから出直したのは正解だった。うふふ…

 

猫おじさん(仮名)の邪魔をしないよう、広場を一回りして、下の遺跡の周りにたむろしている猫たちの写真を撮った。

 

 

分かりにくいけど、何匹かいる。

 

 

大体みんなだらだら寝そべっていた。保護猫施設でご飯を食べた後で眠いのかも。

 

 

 

 

 

しばらくしてさっきのベンチのところに戻ったら、猫おじさんの姿はもうなかったが、彼にエサをもらっていた黒猫はまだいた。

 

 

すみっこでくつろぎタイム

 

 

すでに満腹なはずだったが、私がカメラを取るためにカバンを開けたら、その音を聞いて「おっ、エサをくれるのか」とばかりに寄ってきて、おねだり態勢に入った。それをみて、他の猫たちも寄ってくる。みんなもう食事を済ませているはずなのだが。

 

 

「おらおらエサ出せにゃ~」(極道派)

 

 

「3日前から何も食べてないにゃ~」(演技派)

 

 

「エサがまだあるのは分かってるにゃ~」(透視派)

 

 

要求されるままに、ちゅ~るやちゅ~るビッツをあげていた時、イタリア人の母娘がそばに立って、こちらを眺めているのに気が付いた。中学生と小学生くらいの女の子2人と、おそらく私より年下だと思われる母親の3人連れだ。下の子にちゅ~るを1本譲ってあげて、一緒に餌付けした。将来の猫好きを増やすための啓蒙運動の一環である。

 

母親の話によると、彼女たちはかつてこの近所に住んでいたが、5年ほど前にアブルッツォ(自然豊かな州、田舎とも言う)の小さな町に引っ越していて、この時は親戚を訪ねてローマに来ていたという。ここに住んでいた頃は、この広場には30匹くらいの猫がうろうろしていたのに、ずいぶん数が少なくなったと驚いていた。保護猫施設で避妊・去勢手術を進めているせいかもしれない。みんな手術をした印に耳がカットされた「さくら猫」だし。そう教えたら、彼女は当惑した顔をしていた。その気持ちはよくわかる。

 

日本もそうだが、近年世界的に野良猫の避妊・去勢手術が恐ろしいスピードで進められている。野良猫が多くて、それが観光客を引き寄せる要素の一つとなっているトルコなど、中東諸国もその例外ではない。このままいけば、いずれ子猫があまり生まれなくなり、野良猫の数がどんどん減少して、地域によってはもう見られなくなるかもしれない。次世代の岩合さんは、世界ネコ歩きが出来なくなるかもしれない。そして、手術を進めているのは猫を愛する人達だ。「かわいそうな野良猫をなくすため」に。

 

かわいそうな野良猫をなくすことが、野良猫の減少・絶滅に繋がらない方法はないものだろうか…(難しい問題だ)

 

 

母娘が去った後、私もエサやりを終えて、またバスに乗ってテルミニ駅まで帰った。

 

 

 

 

屋根に監視カメラが2台

 

 

駅のコナドで夕食用にツナとトマトのパニーノ、赤ワイン、ビールなどを買い込む。ホテルに戻ったら、まずシャワーを浴び、ビールを飲んで一息ついた。

 

 

今回初めて飲んだイタリアビール。ビール味だった。(味を覚えていない)

 

 

テレビを観ながらパニーノを食べ(美味しかった)、ワインを飲んだ(普通だった)。私の好きなイタリア国営テレビRAI3の長寿番組「CHI L'HA VISTO」をやっていた。いつまで続くんだろう、この番組…

 

 

翌日は夕方の便でヨルダンに移動するので、体力を温存するために観光はせず、11時ギリギリにチェックアウトして駅のカフェでPC作業をし、早めに空港入りしようと考えていた。アンマン到着は夜9時半の予定で、そこからバスとセルビス(乗り合いタクシー)で旧市街に出て、ホテルに向かうつもりだった。さて、無事にたどり着けるだろうか…

 

 

(続く)


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