外国で一時的個人的無目的に暮らすということは

猫と酒とアルジャジーラな日々

パレスチナぼんやり回想(2)~ISMのトレーニング~

2023-12-22 20:34:45 | パレスチナ

 

 

エジプトのターバ国境から、国境検問所のイスラエル側での執拗な尋問をなんとかクリアして入国した後は(過去記事)、リゾート地エイラートのなんとなくうさん臭い宿で1泊してから、バスで北上してエルサレムに出て(到着したのが金曜夕方のシャバット開始後だったので色々苦労した)、旧市街のムスリム地区にあるこ汚い安宿に泊まった。確か、ネットで見つけた「アル・アラブ」とかいうホステルだったと思う(たぶんここ)。そこを拠点に家探しをしていて、たまたま東エルサレムのオリーブ山の自宅の1階を間貸ししているパレスチナ人のタクシードライバーに出会い、彼の家に住むことになって、新しい生活が軌道に乗り始めた。(過去記事

 

少し現地の生活に慣れてきたタイミングで、ISMのトレーニングに参加することにした。

 

ISMというのは、「 International Solidarity Movement」(国際連帯運動)の略称で、イスラエルの占領による抑圧に抵抗するパレスチナ人を支援する非暴力の国際ボランティア団体だ。パレスチナ人も運営に関わり、世界各国から来た外国人ボランティアが現地の人々と協力しながら、デモに参加したり、オリーブ摘みを手伝ったり、パレスチナ人の子供たちがユダヤ過激派の入植者の嫌がらせを受けないよう、通学に付き添ったりしするなど、様々な活動を行っている。

 

ISMといえば、その活動に参加していたアメリカ人ボランティアのレイチェル・コリーさんが2003年、ガザでイスラエル軍のブルドーザーの前に立ちはだかり、押しつぶされて死亡したことで知られている(参考)。その話を聞いて、アメリカ人でも殺されるんだ…とビビった記憶がある。私にはそんなこと、とても出来そうにない。

 

レイチェル・コリーさん(23歳で死亡)

 

 

私は当時ISMのことをよく知らなかったのだが(今も「あれ、ISMだっけ、IMSだっけ?」となる)、私より先にパレスチナに滞在したシリア留学仲間が、ここのトレーニングに参加して良かったと言っていたので、私も行ってみることにしたのだ。そもそも私がパレスチナに住んでみたいと思ったのは、イスラエルの占領下でパレスチナの人々がどのような暮らしをしているのか、自分の目で確かめてみたかったからなのだが、なにしろ引きこもり体質で人との深い付き合いを避ける傾向があるため、どこに行ってもなかなか現地の人たちと仲良くなれない。だから、こういう団体に参加したら、多少なりとも人と接する機会が増えるのではないかと思ったのだ(実際増えた)。

 

トレーニングは1泊2日の合宿形式で、ISMの拠点がある西岸地区ラーマッラーで行われた。ネットか電話(パレスチナのSIMを携帯に入れた)で予約して、参加費は当日払ったような気がする(うろ覚え)。ラーマッラーはパレスチナ自治政府の中心的な都市で、エルサレムの北10㎞の地点にある。エルサレムからバスで30分もかからないのだが、イスラエルの検問所で足止めを食ったら1時間以上かかったりする。占領地ですから。

 

トレーニングはISMの理念や活動についての理論的な講義から始まって、イスラエル軍がデモ隊に対して使う爆弾についての解説(音響爆弾、催涙ガス、ゴム弾等を実弾を見せて説明)や、デモに参加していて誰かが軍に拘束されそうになった時に阻止するための対処の仕方(皆で手をつないで地面に寝転がる)などの具体的な講習に進んだ。小型とはいえ、爆弾を見たのはこれが初めてで、もう爆発しないと分かっていてもビビってしまったが、周りの人たちは全然平気そうだった。みんな、なんでコワくないの…?

 

ISMの理念の「非暴力主義」について、講師の男性が「非暴力主義に基づく活動は、イデオロギーによるものではなくて、戦略的な選択だ」と言っていたのが印象的だった。つまり、イスラエル軍や入植者の暴力に対して、非暴力の平和的な抗議活動をするのは、そうすることが効果的だからであって、平和主義を理想としているからではないということだと私は解釈した。つまり、状況が変わって、非暴力主義が効果的ではなくなったら、違う戦略を取る可能性があるのではなかろうか。私は常々、平和主義ではどうにもならない時もあると考えている。特に、最近のイスラエルのパレスチナ人に対する凄まじい悪意、圧倒的な暴力を見ていると。

 

トレーニングの参加者は、欧米人の若者が多かったが、中には韓国人の女の子2人組もいて、泊りがけで2日間一緒にいるうちにアジア人同士仲良くなって、後日一緒に街を歩いたり、うちに泊まりに来たりした(過去記事)。彼女たちは韓国でパレスチナ支援団体を運営していて、毎年のようにパレスチナに来て活動していると言っていた。その後もソウルに旅行した時に会ったり、日本に旅行に来た時にうちに泊まってもらったりして、今も時々連絡を取り合っている。アメリカのミシガンから来た年配の女性2人組とも連絡先を交換し、後に彼女たちの借りているアパートに泊まらせてもらって、一緒にオリーブ摘みのボランティアをやったことがある(過去記事)。その後、この2人組のうちの1人、いつもおっとり微笑んでいた気のいいサンディーが、デモに参加していた時にイスラエル兵に腕を折られ、病院送りになったと聞いた。あんな見るからに人畜無害で、見るからにアメリカ人な、孫のいる年齢(60代くらい)の女性の腕を折るとか、どういうことやねん…

 

 

ISMのトレーニング会場の外にいた子猫たち

 

 

ISMのトレーニングでは、出国の時にイスラエルのチェックに引っかからない方法も教えてくれた。出国で引っかかると、将来的に再入国できなくなる可能性が高いからだ。空路で出国する場合は、余裕をもって空港に行って、監視カメラを意識せずに何気なく振舞うこと、パレスチナ人の連絡先や彼らと交わしたメッセージなどは携帯から消去しておくこと、デモで撮影した写真のデータはコピーを取って、パレスチナグッズなどと共に出国前にあらかじめ自国に郵送しておくこと、カメラのメモリカードの方には普通の観光客が撮るような写真を数枚を残して、後は消去しておくこと、云々。非常に具体的なアドバイスだった。

 

出国の時、私は陸路でヨルダンに出た。陸路の場合、空路での出国よりもチェックが緩いと聞いていたが、念のためカメラのデータのコピー(大して撮らなかったけど)やアラビア語の本などは日本に郵送しておいた。国境検問所(アレンビー橋、ヨルダン側はキングフセイン橋)では、荷物チェックが全然なく、ほぼ素通りだったから、ちょっとがっかりした。

 

国境検問所で出国審査の列に並んでいる時、後ろから横入りしそうな動きをするマナーの悪い欧米人の若い女性がいたので、ムッとしてそちらを見たら、イタリアのパスポートが目に入った。う~む、こんなところでイタリア人に会うとは。しかも横入りされそうになるとは。

 

私が険しい顔で「私の方があなたより先ですからね!」とイタリア語で言ったら、彼女は特に慌てるふうでもなく、「あら、そうなの?じゃあいいわ、お先にどうぞ」と悪びれずに言って愛想笑いした。やれやれ、何がお先にどうぞだよ…

 

 

エルサレム旧市街の猫さん「マナーは大事にゃ~」

 

 

 

と言うわけで、今回は「ISMのトレーニングは役に立つ」という話でした~(大雑把なまとめ方)

 

 

(続く)

 

 

 

 

 

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パレスチナぼんやり回想(1)~前書き~

2023-12-18 20:05:42 | パレスチナ

 

 

最近は私は、時間があれば(誰よりもいっぱいある)アルジャジーラやぺけ(旧ツイッター)を見て、ガザの最新情勢をチェックして過ごしているのだが、先日ふと、かつてパレスチナに滞在した時に書いたブログを見直していて、書いてないことがいっぱいあることに気づいてしまった…当時すでにくたびれた無気力なおばちゃんだったので、大して活動していないのだが、やはりパレスチナという特別な場所で3か月生活していたのだから、向こうで経験したことや考えたことをもう少し記録に残すべきだったのではなかろうか。もうあんまり覚えてないけど、今からでもなんとか思い出して、ちょっとぐらい書けるかも…?

 

というわけで、去年の旅行記は後回しにして(いつ終わるねん)、今から何回かに分けてパレスチナブログを追記しようと思う。しかし、当時は日記もつけず、写真もろくに撮っておらず、わずかな写真も「…なんでこれ撮ったん?」と自問したくなるようなものが多い(しかも大体ボケている)ので、現在の私のアルコールにまみれた弱々しい脳では、正確な再現は困難だろう。それゆえ、おぼろげな記憶を繋ぎ合わせて、ぼんやりした回想録を書くことしかできないが、あしからず…

 

 

エルサレムの黒猫さん「言い訳はいいから早く書けにゃ~」

はい、すんません…

 

 

私がパレスチナに滞在したのは2010年9月末から12月下旬。約1年半過ごしたシリアのダマスカスを2010年1月末に出て、トルコのブルサで2か月、エジプトのカイロで6か月過ごし、エジプトから陸路でイスラエル(パレスチナ占領地)に入った。パレスチナの後はヨルダンに抜けてアンマンで1か月過ごし、さらにトルコに戻ってイスタンブールに3か月滞在した後、2011年5月に帰国した。シリアから帰国する前に、住んでみたかった国を全部回って、最低1か月滞在してみようと思ったら、けっこうな大移動をすることになったのだ。本当は一筆書きのルートで移動したかったのだが、トルコに未練が残って2回行くことにしたため、一筆書きではなくなってしまった。まあ、別にいいんだが…

 

パレスチナでは東エルサレムに下宿し、ビザなしで滞在できる約3か月の間に、西エルサレムのヘブライ語コースに通ったり、西岸地区で反入植地デモに参加したり、グリーンライン内のアラブ系住民の割合が多いハイファやナザレなどに短い旅をしたりした。ガザにも行きたかったのだが、当時はすでにイスラエル(とエジプト)に封鎖されていて一般の旅行者は入れなかった。「ハマスが掘ったトンネルでエジプト側からこっそり入れるかもしれない」という話もあったが(都市伝説的に)、さすがにそういうわけにもいかず、あきらめた。その後エジプトがガザとの境界に無数に掘られたトンネルを破壊して海水で満たし、使えなくしてしまった。

 

なお、パレスチナ滞在に関して書いた過去の記事は、このブログのパレスチナのカテゴリーの所に入っているので、興味がおありになればご覧下さい。次回からは、それ以外で覚えていることを書くことにする。なるべくサクサクっと書き進めようと思うが、サクサク詐欺になる気しかしない…まあ気長に見守ってやって下さいませ~

 

 

(続く)

 

 

 

 

 

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2022年イタリア・ヨルダン・トルコ周遊記(27)~トルコ・シワスからエラズーに移動~

2023-12-13 20:03:21 | トルコ

 

 

アンカラからバスでシワスに入って1泊した翌日は、またバスに乗ってエラズーに向かった。私は原則的に1か所に2泊以上するのだが(1泊で移動するのはしんどいから)、シワスは中継地点として泊っただけなので、例外なのだ。

 

 

エラズー(Elazığ)はシワス(Sivas)の右下(東南ともいう)

 

 

シワスからエラズーは比較的近く、バスで5時間程度なので、朝はゆっくり起床するつもりだったが(早起きして観光するという選択肢は私には存在しない)、なぜか7時に目が覚めた。前日のバスでけっこう寝たせいかもしれない。部屋のWi-Fiは、PCでは使えなかったが、なぜかスマホでは使えたので、ツイッターの更新などをする。通りに面していない部屋で、周りの部屋からの物音も聞こえず、穏やかな気分で作業が出来た。

 

荷物をまとめてから10時頃に朝食会場に行く。朝食は10時半までだが、もう他の客の姿はなかった。当たり前か…

 

どうしようかと入口で立ち止まっていたら、給仕係の女性が、「まだ大丈夫ですよ、どうぞ」とにこやかに迎え入れてくれた。他のホテル同様セルフサービス形式で、定番のきゅうり、トマト、オリーブ、茹で卵、パン、ジャムやバターなどに加え、フライドポテト、メルジメッキ・チョルバス(レンズ豆のスープ)やスイカ、サクランボがあった。

 

 

朝は食欲がないので、ちょっとずつ取った。きゅうりが飾り切りで技あり。

なお私は、オリーブの漬物は黒オリーブ派だ。(誰も聞いてない)

 

 

さくっと食べ終わって部屋に戻り、荷物を持ってチェックアウトしに行くと、フロントの男性が私を見て、朝食は食べたか、食べていなかったらお手伝いするから、今からでも食べたらどうかと気を遣ってくれた。朝食に行くのが遅かったから、食べそびれたと思われたらしい。食べたから大丈夫だと答えたら、安心した様子だった。このファーティフ・ホテルは、値段の割に設備が良くて、スタッフも優しくて居心地が良かった。もしシワスにまた来ることがあったら、必ずここに泊まろうと思う。そういう機会があれば、そしてその時にこのホテルがまだ存在していればの話だが…

 

 

スーツケースを引きずって外に出たら、小雨が降っていたが、すぐに止んだ。オトガル(長距離バスターミナル)行きのバスの停留所を探したが見当たらず、その辺にいた人たちに聞いたが、誰も知らなかった。何人か目にようやくバスはあそこに来ると明言する人が現れたので、停留所らしき印は何もなかったが、そこに行って待つことにした。

 

 

本当にバスが来るのか不安だったので、きょろきょろしていたら、その様子を見たおじいさんが道の向こうからこちらにやってきて、何を探しているのかと聞いてくれ、「オトガル行きのバスだったら、ここに来るから大丈夫だ。ここで待ちなさい」と言って去って行った。シワスの人、親切すぎないか。

 

 

バスはなかなか来ず、タクシーに乗ろうかと考え始めた頃に、ようやくやって来たので乗り込む。

 

 

シワスのカササギさん、さようなら~

 

 

シワスのバラさん、さようなら~

シワスの街には花盛りのバラの花壇が多くて、本当に綺麗だった。

 

 

オトガルにはすぐ着いた。トカット・ユルドゥズ(Tokat Yıldızı )という会社の12時発ワン行きのチケットをエラズーまで買う。230リラだった。トカットは黒海地方にある地域なので、その辺りに強いバス会社なのかもしれないが、一応全国展開しているようだ。ユルドゥズは「星」という意味なので、トカットの星社か。

 

 

トルコの長距離バスは大体メルセデスベンツ

 

 

所要時間が短かったせいか、飲み物やお菓子は出なかった。マラティヤで20分のドライブイン休憩があったので、トイレに行ってからチャイを飲んだ。トイレは有料で2.5リラ。

 

 

マラティヤのドライブイン

トイレはもちろんトルコ式で、紙がなかった…

 

 

途中の風景

この黄色い花をつけたホウキっぽい草が多かった。

 

 

同じ形の新しい住宅が並んでいた空き地

この土台で住宅地ってことはないだろうから、どこかに運ぶ予定なのだろうか?

 

 

トンネルの中を通った時、後ろの席に座っていた小さな女の子が、「わあ、すてき~夜みたいね」とはしゃいで声を上げ、父親が穏やかな声で「そうだね」と答えていた。父娘でどこかに行く途中だったようで、道中ずっと2人で楽しそうにおしゃべりしていた。

 

 

マラティヤとエラズーの間に湖があった。

 

 

エラズーの市内に入る前に検問があり、憲兵がバスに乗り込んできたが、身分証を出させたりはせず、乗客をチェックするふりをして車内を往復しただけで終わった。こういう「なんちゃって検問」もあるんだ…シワスの時の検問では、外国人の私以外の乗客には身分証を出させていたので、地域や担当者によるようだ。

 

 

間もなくエラズーのオトガルに到着

 

 

バスを降りてから、周りの人々に聞きつつ市バスの停留所に辿り着き、そこでバスを待っていた若い女の子に、市内中心部に行くバスはここに来るかと尋ねたら、ちょうどやってきたドルムシュ(乗り合いミニバス)の運転手に確かめて、これに乗りなさいと言ってくれた。エラズーの人も親切なようだ。運転手に中心部の安ホテル街で降ろしてほしいと頼んだら、終点で降ろしてくれた。周りには市場があり、安ホテルがありそうなメインストリート(ヒュリイェット通り)に近い。

 

 

ドルムシュのターミナル

 

 

ヒュリイェット通りで小さいホテルを見つけ、フロントで空きがあるか聞いてみたら、女性用の部屋はないと言われた。女性用の部屋ってなんにゃ~

 

 

他に安ホテルはあるかと聞いてみたら、近くの「ヴァラン・ホテル」(Varan Hotel)というところを教えてくれたので、そこに行ってみたら、よさそうな部屋が予算内だったからそこに決めた。

 

 

 

 

 

 

広くて綺麗な部屋だったが、チェックインしてから改めてよく見たら、色んなものが足りなかった。机とか冷蔵庫とかグラスとかハンガーとかバスマットとか。その場で気が付かないなんて、さすが私、うっかり者だ。Wi-Fiは強かったので、まあ良しとしよう。

 

 

窓の下の風景

 

ズーム

 

 

このホテルのある通りには、おじさん・おにいさん御用達のカフェが並んでおり、私が歩くと路上の席に座っている男性陣の視線が集まった。さらに少し先には酒屋や飲み屋街があって、カラオケの声が外にまで響いていた。夜間に出歩くのは微妙かもしれない。酒は買いやすそうだが。

 

 

部屋で少し休憩してから、買い出しに出かけた。日曜日だから市場はお休みで、市場以外にも閉まっている店が多かったが、スーパー・ミグロスを見つけたので問題なかった。エラズーには2泊するので、ワインを買う。シワスは一泊だったので、ワインを買っても飲み切れない可能性を鑑み、ビールだけにしておいたのだ。そういう点でも、1か所に2泊以上するのが望ましい。

 

 

ミグロスは酒類が比較的安いから、私のお気に入りだ。

 

 

商品の写真を撮っていたら、写真は禁止だとお店の人に怒られた。しょんぼり…

 

 

「気にするにゃ~」

 

 

夕食のサンドイッチは、入り口に猫がいる店で買った。

 

 

「ここでサンドイッチを買って、通行料に少し具を置いていくのにゃ」

 

 

塩分やスパイスが入ってなければあげるんだが…

 

 

鶏肉の細切れをトマトや玉ねぎと一緒に炒めてパセリと共にパンに挟んだものを選んだ。

 

 

他にも入口に猫が待機している店があった。

エラズーはシワスより街中に猫が多かった気がする。

 

 

買い出しが終わったので、ホテルに戻って夕食にした。

 

 

いつもの地味な夕食風景

 

 

見苦しいけど、中身も見せちゃう(やめとけ)

エキメッキ(トルコのパン)2分の1本分のサンドイッチは多すぎた…

 

 

ミグロスで買った赤ワインも飲んだ。安いけど美味しい。

 

 

 

窓の外から流れてくる、パブのカラオケの声を聴きながら食べた。トルコの物悲しい演歌をおじさんと女の人がデュエットしていた。風情があるようなないような、トルコの夜の歓楽街のホテル。

 

 

翌日はエラズーから日帰りで、近郊の観光地ハルプットに行く予定だった。ハルプットはワンと同様、今回のトルコ旅行の主要な目的地だった。シワス以上に観光スポットのないエラズーに2泊もすることにしたのは、ここを拠点にしてハルプットを訪れるために他ならない。体調を整えるため、ワインはほどほどにして、早めに寝た。

 

 

(続く)

 

 

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2022年イタリア・ヨルダン・トルコ周遊記(26)~バラの花咲く優しい町シワス~

2023-12-07 20:58:33 | トルコ

 

 

トルコでは、まずアンカラに2泊してから、バスで7時間ほどかけてシワスに移動し、一泊だけしてエラズーに向かった。

 

 

シワス(Sivas)はアンカラの真右

 

 

本来シワスに行く予定はなかったのだが、アンカラからエラズーにバスで直接行こうとすると11時間半かかり、夜行バスに乗る以外の選択肢がない。私は年齢も年齢だし、もともと体力がないので、夜行バスに乗るときっと寿命が縮む。というわけで、夜行バスを避けるため、中継地点のシワスで一泊することにしたのだ。その分交通費も宿泊費も余分にかかるが、旅行中の健康維持のためには止むを得ない。もう無理が出来ないお年頃ですのでね。

 

 

この日は、夜中までワインを飲みつつツイッターなどをやっていたせいで、3時間半しか眠れずに8時過ぎに起床。友人が8時45分にロビーに来てくれる約束だったので、朝食を取る時間はなかった。せっかくいいホテルに泊まれたのに、結局2日とも朝食を取り損ねた。美味しい朝食だったに違いないのに、もったいなかった…でも、しょうがない。どこに行っても夜型人間なのでね。

 

 

急いで身支度をして荷物をまとめ、ロビーに降りたら、間もなく友人がやってきた。彼女に導かれて、バスとアンカライ(地下鉄)を乗り継いで、オトガル(バスターミナル)に向かう。

 

 

アンカラ猫さん、さようなら~

 

 

オトガルには10時前に到着したが、シワス行きのバスが出たのは11時だった。

 

 

綺麗で現代的な建物だが、トイレはトルコ式

トルコ式や和式のトイレって、足の悪い人や高齢者やお相撲さんは大変だと思う。

 

 

待ち時間が長かったので、カフェで朝食を取ることにした。友人は食べてきたのでチャイだけ。

 

 

トルコのスープが飲みたかったので、エゾゲリンチョルバス(=花嫁のスープ、参考レシピ)という赤レンズ豆をベースに米やブルグル、トマトペースト、乾燥ミントなどを加えたスープを頼んだ。パンは料理を頼むと付いて来る。

唐辛子が入っていて、ピリッと辛くて濃厚な味で美味しかった。

 

 

やがてバスが来たので乗り込み、友人と別れた。彼女には今回、本当にお世話になりっぱなしだった。まあ出世払いで~(来世?)

 

 

シワス方面が専門のローカルなバス会社の便を選んだ。

 

 

車体はメルセデスベンツで、一列の席だったので快適。車掌さんも親切だった。

 

シートカバーもベンツアピール

 

 

走り出してしばらくしてから、アイスクリームが出てきた。

 

 

トルコの長距離バスには、飲み物やお菓子のサービスが付き物だが、アイスクリームが出てきたのは初めて。普通に美味しいバニラアイスだった。食べ終わった頃、車掌さんがコロンヤの瓶を持って歩き、手に振りかけてくれた。

 

 

アイスの後も飲み物のサービスがあったが、私はパスしてひたすら寝ていた。しかし、窮屈な姿勢なので眠りが切れ切れになり、熟睡は出来なかった。

 

 

ドライブインで30分休憩があったので、トイレに行き、チーズとハムのホットサンド(Karşık Tost)を食べて、チャイを飲んだ。

 

 

トイレはやはりトルコ式。ツタンカーメン型

 

 

ホットサンド、パサパサしていまいちだった…

 

 

休憩時間が終わる前に、早めにバスに戻った(バスが見つからなくて迷うことを想定)。他の乗客も全員戻り、予定時刻に出発。このバスの乗客は皆マナーが良くて、静かで快適だった。車掌さんがまたコロンヤを振舞ってくれる。

 

 

18時頃にシワスに到着した。市内に入る前に検問があり、一旦バスが停止。警官が乗り込んできて乗客の身分証をチェックして回った。私もパスポートを出したが、素通りされた。外国人観光客はスルーされることがある。

 

 

シワスのオトガルから市内に出るセルビス(長距離バス会社が運行するシャトルバス)はないということなので、車掌さんに市バスの乗り場を聞いて、そちらに向かう。

 

 

シワスのオトガル

 

 

オトガルの正面左手に遊園地があり、その近くにバス停があった。

 

 

フリスビー、コワそう

 

 

やってきた市バスの若い運転手さんに行先を聞くと、市内中心部に行くと言うので、試みに安いホテルがある辺りで降ろしてほしいと頼んでみたら、地球の歩き方にも出ているファーティフ・ホテル(Otel Fatih)の最寄りのバス停で降ろしてくれ、ホテルへの行き方まで教えてくれた。なんと親切な運転手さんであろうか。タクシーみたいだ。

 

 

ファーティフ・ホテルの隣りにも小さいホテルがあって、その前にいた呼び込みの男の子が近寄ってきたので、値段を聞いてみたらシングルは200リラだと言われた(当時のレートで1600円くらいだと思う)。とりあえず保留にさせてもらって、ファーティフ・ホテルの方に入って値段を聞いたら、200リラのところを170に負けておくと言われたので、こちらにした。テレビ、エアコン、Wi-Fi、冷蔵庫、トイレ・シャワー、朝食付き。さらに18時から24時の間は、チャイのルームサービスが無制限で無料だという。私は利用しなかったが、トルコ人にはこのチャイのサービスは嬉しいに違いない。

 

 

 

 

落ち着いた色調でまとめられた部屋

 

 

 

 

安ホテルにしては設備がよく、清潔でおススメだ。シワスに観光に行く物好きな人がいればだが…

 

 

窓の外は駐車場ビュー

 

 

下の廃屋っぽい建物のトタン屋根の辺りにオナガが止まっていた。トルコのオナガさん~(実はオナガではなくカササギだったことが後で発覚)

 

 

少し横になって休んでから、Wi-Fiを使ってみたら、電波が弱くて安定せず、あまり使い物にならなかった。このホテルの唯一の欠点だ。アンカラを出てからイタリアのSIMカードが繋がらなくなっていたので、ホテルのWi-Fiが使えないと困る。

 

 

外でWi-Fiが使えるカフェを探そうと思い立ち、PCをカバンに入れて出かけたが、そんなものは見当たらなかった。小さな町だからしょうがないか。

 

 

その代わりに、歴史の古そうな建物を見つけたので、入ってみた。

 

 

 

 

シワスに観光に来たという陽気なイラン人のおじさんにトルコ語で話しかけられたが、あまり聞き取れず、上手く意思疎通できなかった。アゼリー語(アゼルバイジャン語)だったのかもしれない。

 

 

彼はこの噴水を指さして、何か言っていた。

この写真では分からないだろうが、吹き出し口の周りに双頭の獅子の頭部が付いている。

 

 

後で調べたら、この建物は19世紀後半に建てられた「タシュハン」(Taşhan)という名前の歴史的な建造物だった。「タシュ」は石、「ハン」は隊商宿と言う意味だ。隊商宿として、切石を使って建てられたそうで、上の噴水も当時からあったらしい。現在は様々なショップやカフェが並んでおり、地元の人も観光客も訪れる憩いの空間になっている。

 

 

                      タシュハンの動画。最初の方に噴水が写っている。

 

 

2階に上がってみたら、そちらにもカフェが並んでいた。

 

 

何軒かあるカフェのうち、雰囲気の良いところでコーヒーを飲むことにして、外の通路に置いてあるテーブルに座る。

 

 

ここ

 

 

テーブルがタウラ(バックギャモン)のゲーム盤だった。

 

 

トルココーヒーは、綺麗な色のロクムが付きだ。器からも素敵オーラが出ている。

 

 

近くのテーブルに座っていた店の主人らしき女性も、給仕してくれた若い女の子もフレンドリーで感じがよく、かつて日本人がこの店を気に入って通っていたという話をしてくれた。なんと、シワスに長期滞在する日本人がいたとは…

 

アンカラより少し寒かったので、そう言ったら、彼女たちは「シワスに夏はないのよ」と言って笑っていた。気温の低い土地柄らしい。せっかくシワスに来たんなら、セルジュク朝時代のメドレセ(マドラサ)(参考)をぜひ見て行ってね!と勧められたが、もう夕方で閉館する時間だから間に合わない。翌日の午前中に行くことも可能だったが、移動前に観光するような根性はないので、結局行かずじまいになった。

 

考えてみたら、私がシワスを訪れたのはこれが初めてではない。かつてアンカラから黒海沿岸のトラブゾンにバスで旅した時にも、中継地点として立ち寄ったことがあったのだ(今思い出した)。その時は真冬で雪が積もっており、しかも夜遅く到着して翌朝出発したので、観光どころか街歩きもしないままに終わった。もし次にここに来ることがあれば、その時は2泊してちゃんと観光したいが、そんな日が来るかどうかは不明である。

 

 

観光はもう諦めモードだったが、カフェを出て適当に街を歩いていたら、由緒ありそうなモスクに遭遇した。入口に「ウルジャーミイ」(Ulu Camii=大モスク)と書かれている。

 

 

ウィキペディアによると、シワスのウルジャーミイは1196年にセルジュク朝の君主によって建設されたという、古い歴史を持つモスクだ。1196年と言うと、日本では鎌倉時代が始まった頃だ。まあ、平安時代より後に建てられたわけだから、それほど古いとは言えないわね、ふっ…(古い建物を見ると、突然京都風を吹かせて上から目線になる私。京都市内出身じゃないくせに)

 

 

モスクに入るのは遠慮して、外から眺めるだけにした。古めかしくて武骨な感じのミナレットがカッコよかった。

 

 

ホテルに帰る前に、ATMでお金を引き出し、夕食とビールを買って帰る必要があったので、ATM(使い慣れている銀行のもの)と酒屋を探して夕暮れ時の街をうろうろする。

 

 

途中で通りかかった果物屋さん

アンカラの市場で見かけたシェケルパーレという種類のあんずを250gだけ買った。ビタミン補給。

 

 

ケバブ屋でチキンサンドも買った。旅行中は食費節約のため、サンドイッチ類で食事を済ますことが多いが、安食堂やファーストフード店には普通ビールがないので、テイクアウトしてホテルで部屋食することになる。

 

 

酒屋はけっこう多かった。「TEKEL」と書かれた美しいブルーの看板が目印だ。

 

 

トルコの酒屋のビールコーナーはキラキラしていて、心がときめく。

 

 

しばらく熟考した結果、「VARIM」(=私は存在する)という自己主張の強い名前のわりに一番安いビールと、エフェス・エキストラ(アルコール度7.5%のやつ)を買う。だんだんカバンが重くなってきた。もともとPCが入っているのに。

 

 

ATMを見つけてお金も引き出し、もうホテルに戻ろうと思ったら、案の定道に迷って、重いカバンを抱えてさらに歩き回ることになった。方向音痴って大変だ…

 

 

でもそのおかげで、バラの茂みの中に佇むシワス猫さんに出会うことが出来たから、よしとしよう。

 

 

少女漫画のように満開のバラを背負った猫さんが~

 

 

かわいいアピールの舌出し~

 

 

シワスはバラの花壇が多く、ちょうど花盛りで乙女チック(死語?)な雰囲気だった。

 

 

なかなかホテルが見つからないので、途中で何人もの人に道を聞いたのだが、どの人も親切に教えてくれた。シワスに着いてから、親切な人にしか会っていない気がする。

 

 

ホテルに辿り着いた時は21時半くらいになっていた。疲れ切っていたが、力を振り絞ってシャワーを浴びてから、夕食にする。このホテルのシャワーはお湯の温度が高くて水圧も高く、なかなかよかった。

 

 

清々しいほど地味な夕食

 

 

デザートにあんずも食べた。シェケルパーレ、やはり甘くてとても美味しかった。

 


PCで日記をつけてから寝ようと思ったが、Wi-Fiが使えず、テレビも映らなかったので、早めに寝ることにした。翌日はまたバス移動だ。がんばろう~

 

 

(続く)

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2022年イタリア・ヨルダン・トルコ周遊記(25)~アンカラのシリア人街~

2023-12-01 07:12:14 | トルコ

 

 

アンカラ滞在2日目、現地在住の友人に連れられて旧市街ウルスで市場やその周辺地域を見物した後は、バスでシリア人街に出かけた。けっこう距離があって、30分くらいかかった気がする。

 

 

アンカラのシリア人街は、アルトゥンダー郡(Altındağ İlçesi)のオンデル地区(Önder Mahallesi)というところにあり、近くに有名な家具屋街(Siteler)がある。私たちはその中のセルチュク通り(Selçuk Caddesi )という商店街を散策した。埃っぽい道路の両側にシリア人経営の商店や飲食店が連なっているが、端から端まで歩いても大して時間がかからない長さだ。平日の午後の中途半端な時間だったせいか、人通りはさほど多くなかった。イスタンブールのシリア人街のような賑わいや、キラキラした感じの高級菓子店などはなく、一見普通のトルコの商店街と変わりはないが、よく見たらアラビア語の張り紙があったり、シリアの食材が並んでいたりするのでそれとわかる。

 

 

「Şam tatlıları」は「ダマスカスのお菓子」という意味

ダマスカスの職人が作るお菓子は、洗練されていて美味しいことで知られている。

 

 

お肉屋さん。「sakatat」は動物の内臓や頭や足のこと。

「特価 ラム肉 キロ75リラ 」と書いてある。

 

 

トルコの商店の看板は、文字の4分の3以上がトルコ語でなければならないと法律で決まっているので、シリア人の店でも看板はほぼトルコ語だが、こうやってアラビア語の張り紙があることが多い。

 

 

薬局

 

 

 

商店街のとっつきに、飲み物を売る屋台があり、人が集まっていた。子供が多い。

 

 

写真を撮っていたら、売っているおじいさんに次々とコップに入った飲み物を差し出された。シリアの道端の屋台などでよく売られていて、特にラマダンの日没後に飲むドリンクとして人気のある「アラクスース」(甘草エキスのドリンク)、「タマルヒンディ」(タマリンドジュース)、「トゥートゥ」(桑の実ジュース)の全部で3種類。アラクスースを飲んだのはシリア以来なので、ものすごく久しぶりだったが、甘さと苦みが混ざり合って、いつ飲んでも妙な味だ(苦手)。タマルヒンディとトゥートは美味しかったが、言われるままに全部飲んだら、お腹がタプタプになった。合計10リラ。

 

そばに立っていたお店の人かお客かよくわからない若者に、近所に良い食堂はないかと尋ねたら、知り合いのやっているサンドイッチの店に案内してくれた。ランチには遅い時間帯だったせいか、他に客はいなかった。

 

 

 

 

私は鶏レバーのサンドイッチ、友人はシャワルマサンドを食べた。味はまあ普通。ファラーフェルも取ってシェアしたが、これはインスタントのファラーフェルミックスのような味がして、あまり美味しくなかった。ヨルダンの美味しいファラーフェルを食べ慣れた後なので、余計そう感じたのかもしれない。あるいは、さっき甘い飲み物を飲みすぎて、あまりお腹が減っていなかったせいかも。

 

ここではアイランを飲んだ。ピクルスはセットで付いて来る。

アイランはシリアにもあり、トルコ語とほぼ同様に「アイラーン(عيران)」と呼ばれる。ヨルダンでは「シャニーネ(شنينة)」と名前が変わる。

 

さっきのジュース屋さんの辺りにいたシリア人の若者は、アラビア語で話しかけてもトルコ語で返してきたが、このサンドイッチ屋の人達は普通にアラビア語で会話してくれた。

 

一般に、アラブ人の若者は、こちらがアラビア語で話しかけても英語やその他の外国語で返してくる率が高い気がする。彼らは外国人にアラビア語で話しかけられた際、自分が外国語が出来ることを見せたくて、英語が出来る場合は英語、そうでない場合も、知っている外国語を話そうとする傾向があると思う。こっちもアラビア語にそれほど自信があるわけでもないので、相手に合わすことになる。まあ、英語でもアラビア語でもトルコ語でも別にいいしね~

 

 

食べ終わって店を出て、ゆっくり商店街を歩き、食料品店やケバブ屋などに入って、写真を撮らせてもらった。

 

 

食料品店の前に山積みの薄くて大きいシリアのピタパン

 

 

お店の人がザアタル(ドライタイム主体のスパイスミックス)を振るいにかけていた。

ザアタルって、ふるいにかけるものなんだ…

 

 

暑い日はソフトクリームが美味しいね~

 

 

紙おむつをばら売りする店があった。

紙おむつは安くないから、まとめて買えない人がいるのかもしれない。

 

 

カアク(胡麻付きのカリッとした棒状のビスケット)

カアクは紅茶やホットミルクに浸して食べると美味しいし、歯に優しい(よぼよぼ)。

 

 

塩辛いチーズ

こういうチーズは塩抜きしてキュウリやスイカに合わせると美味しい。

 

 

シリア菓子店

シリアのバクラヴァ(アラビア語ではبقلاوة バクラーワと発音)はトルコのものよりシロップ少な目で長持ち

 

 

いい匂いに釣られて入ったケバブ屋さん

ここで夕食用にクッベ・マシュウィーエ(كبة مشوية 焼いたクッベ)をテイクアウトした。(友人が)

 

クッベが焼けるのを待つ間、お店のお兄さんと少し話した。彼はアレッポ出身だと言っていた。この界隈の住民は約9割がアレッポ出身のシリア人で、残りの1割はトルコ人だという。彼は約8年前、シリアの内戦から逃げてトルコにやって来たそうだ。滞在許可証(ikametイカーメット)はなくて、一時保護身分証(kimlik キムリッキ)しか持っていないが、子供は学校に行けるし、店を開いて働くこともでき、状況は悪くないということだった。トルコ全体でシリア人排斥ムードが年々高まっているが、アンカラのこの辺りでは大きな問題はないそうで、トルコ人の住民ともうまくいっているようだった。

 

このオンデル地区でも、前年の2021年にシリア人とトルコ人の衝突があったというニュースをネットで見かけたが、少なくとも私たちが行った界隈のシリア人は、それなりに満足して暮らしているようだった。イスタンブールやガジアンテプのシリア人は、トルコでの暮らしが大変だと言う人が多かったが、アンカラはまた違うのかもしれない。ほんの2,3人に質問しただけなので、よくわからないが。

 

 

ハーブなどの香油を売る店

 

 

片隅にいたすずめ

 

 

食料品店の店員に話しかけてみたら、彼もやはりアレッポ出身で、政府軍とロシア軍に東アレッポが封鎖されて激しい攻撃を受けた末、停戦合意が成立して(2016年12月)外に出られた時、トルコに逃げてきたと言っていた。この地域に住むシリア人には、同じ時期に避難してきた人が多いそうだ。シリアに残った家族もいるが、あちらは仕事もなく、物価も高くて生活が大変だから、トルコから送金しているという。経済制裁のため銀行は使えないから、アレッポを拠点とする送金システムを利用しているとのことだった。

 

シリアでは不景気や物価高に加え、停電や断水も多いというし、停戦中といっても地域によっては今も散発的に政府軍やロシア軍の攻撃があるので(クルド人勢力の支配地域にはトルコ軍の攻撃がある)、安全で安定した暮らしとは程遠いだろう。トルコも物価高だが、安全面や公共サービスなどの点で、内戦が終わっていないシリアとは比較にならない。

 

商店街を一通り歩いたので、またバスに乗って中心街まで戻り、そこからタクシーで友人宅まで行った。乗ったタクシーの運転手さんが話し好きで、色々質問に答えているうちに、いつの間にか宗教の話になり、彼がイスラムについて説明して、私が無神論者の立場からそれに反論して議論が白熱し、友人が引きながら黙ってその様子を見守るという状況になった。トルコ人(特に男性)と会話していると、宗教論争になることがよくある(私だけ?)。アラブ人はそうでもないが、トルコ人は人生論や宗教論が好きな人が多い気がする。論争になって、私がかなり突っ込んだことを言っても、気分を害する人はおらず、穏やかに粘り強く話し続ける人ばかりだった。めんどくさいと言えばめんどくさいが、トルコ語の練習にはなる。

 

 

その夜はまた友人宅で夕食(テイクアウトしたトルコ料理)をご馳走になった。結局2日間の滞在中、お世話になりっぱなしだった。しかも、手土産までいただいてしまった…

 

 

この小皿セット

 

 

イズニックタイルの有名な作家、メフメット・ギュルソイ氏(Mehmet Gürsoy)の作品だそうだ。素敵じゃないですか?? これは今、うちの玄関の靴箱(=食器棚)の上に飾ってあるが、壁紙が剥がれまくったボロアパートの中で、そこだけ異国情緒が醸し出されて、微妙な感じのインテリアになっている。

 

 

次回は、アンカラを離れてバスで東のシワスに向かった時の話。これについては11月中に書こうと思っていたのに、もう師走になっちゃったわね…(狙った訳じゃないです)

 

 

(続く)

 

コメント (2)
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