先日、埼玉県のクルド文化協会主催のクルド料理講習会に行ってきた。
料理講習会に行ったといっても、目的は料理の習得ではない。クルド料理とかトルコ料理とかアラブ料理とか、あの辺の地域の料理は、作るのにすごく手間と時間がかかるのだ。材料を揃えることを考えただけで、すでにメンドくさい・・・
私の目的は、写真を撮って、食べて、在日クルド人の方々のお話を聞くことだった。当然、材料配合や料理手順などは記憶に残っていない。
料理写真は撮ったのだが、それを載せるのは後日にして、今回は講習会で美味しい料理を作ってくれたクルドの女性陣のひとり、Nさんの話をご紹介したいと思う。食事の時に私の隣に座ったNさんに、トルコでクルド人が置かれている状況について拙いトルコ語で色々質問したら(クルド語は全然できないので)、オスマン帝国時代から将来の展望にいたるまで、実に熱心に話してくれたのだ。忘れないうちに、ぜひここに書き留めておきたい。何しろ、記憶力がメジロ並みなんで・・・(メジロに失礼か)
話の順序を適宜入れ替えたり、内容を多少取捨選択したりしてまとめたが、基本的には聞いた話をそのまま載せている。「ひとりのトルコ南東部出身の在日クルド人女性の視点で見たトルコのクルド情勢」だということを念頭に置いて、読んでいただければ幸いだ。内容を逐一検証する余裕はなかったので。なお、必要だと思われる部分にはカッコ付きで注釈をつけ、また関連記事のリンクを貼った。
しかし、こんなやたら長くてマニアックな話を読んでくれる人っているんだろうか…
まず、Nさんの現況など:
Nさんはトルコのガージーアンテプ出身の女性。4人の子供たち(16歳~9歳)と共に約2年前に来日した。一足先に来日した夫は、空港当局に拘束され、その後9ヶ月留置所で過ごした。Nさんたちが来る前に仮放免となったが、法的に働くことができない。子供たちの学費補助として、4ヶ月に1度支援金が支給されるが、足りない(どこからの補助金かは聞きそこねた)。トルコを出国するときに土地や家、家財を売り払ってお金を作ったが、それが尽きたので、親戚に送金を頼んだ。そのお金も尽きた。
埼玉県蕨市には、トルコのガージーアンテプ出身者が集まって住んでおり、親類関係のある人も多いが、Nさんたちに近い親戚はいない。なお、埼玉県にはシリア出身のクルド人もいるが、彼らは蕨ではなく、他市に住んでいる。
クルド文化協会主催の日本語講座に週3回通っているが、普段日本人と交流する機会がなく、家の中ではクルド語を話すので上達しない。子供たちはすぐに日本語を覚え、自分たちの間では日本語で話しているが、Nさんには理解できない。子供たちがクルド語を忘れないように、クルド語で話しかけるようにしているので、ますます日本語が遠くなる。
トルコでクルド人が置かれている状況をめぐるNさんの話:
(ここから独白スタイルに移行するよ)
トルコ南東部のディヤルバクル県などには、当局により長期にわたって外出禁止令が出されている地域がいくつかある。その口実は「テロ組織PKKの掃討」だが、PKK戦闘員らは基本的に山中の拠点にいて、町や村にはいない。トルコ軍が攻撃しているのは一般の住民だ。軍の車両が町に入って来られないように塹壕を掘っているのは、PKKではなく住民たちだ。家から出た10歳の少年や、幼子を抱えた母親が兵士らに撃たれたケースもある。葬儀を執り行うことすらできないので、遺体を冷蔵庫等に保存していたと聞いた。こういった南東部のクルド人多数居住地域への軍の攻撃は、昨年(6月)の1回目の選挙で、エルドアン率いるAKPが議会の過半数を失ってから始まった。それまでクルド人との和解を謳っていたエルドアンが、クルド人に対する軍事作戦を開始したのだ。(11月の)再選挙でAKPは議会での過半数を奪回したが、その後も軍事作戦は続いている。
トルコ軍の南東部での軍事作戦についての関連記事(日本語)
http://www.huffingtonpost.jp/2016/02/02/turkey-kurdish_n_9137012.html
(英語)http://www.bbc.com/news/world-europe-34206924
オスマン帝国の支配下では、クルド民族(他の諸民族も同様)は自治を認められ、税金さえ納めればよかった。しかし、オスマン帝国の弱体化につれて次第に領土が縮小し、やがて第一次世界大戦が勃発した。戦争中、トルコの指導部は「勝ったらトルコの西半分はトルコ人、東半分はクルド人の領土となる」と約束した。このため、クルド人は男女を問わず諸外国の部隊と戦い、多くの犠牲者を出した。しかし、戦争が終わった後、ケマル・アタトゥルクはこの約束を破り、「トルコにいるのは全員トルコ人だ」と宣言した。この状態は現在に至るまで続いている。
クルド人の子供たちは、学校でトルコ語しか教わらないので、クルド語の語学力がトルコ語よりも弱い。一方、南東部の辺鄙な地域の住民には、トルコ語が話せない人たちもいる。学校にはトルコ人の教師が中央から派遣されることになっているが、彼らは「クルド人の村に行くとテロに遭い、殺されるかもしれない」と恐れているので、赴任したがらず、赴任しても長続きしない。このため、トルコ語を習えなかった人々が存在するのだ。
クルド人には長い間、公的な場所でのクルド語の使用が禁じられていた。クルド人女性のレイラ・ザナは(1991年に)国会議員に当選し、就任時の宣誓文をクルド語で読んだため、投獄されて長い年月を刑務所で過ごした。レイラは(2011年に)再び国会議員に当選し、またクルド語で宣誓文を読んだが、今度は逮捕されなかった。
レイラ・ザナのクルド語での宣誓についての関連記事(英語)
http://www.reuters.com/article/us-turkey-politics-kurds-idUSKCN0T627T20151117
クルド系のHDP(人民民主党)は、真のクルド人代表からなる政党で、クルド人はこれを支持している。デミルタシュHDP共同党首のことも、私たちは好きだ。HDPやクルド人多数地域の地方自治体では、男女ひと組の共同党首、共同市長(町長・村長)が立てられる。クルドでは、男女は平等なのだ。そして、一人の人物が権力を独占することはない。
PKK創始者のアブドゥッラー・オジャランを、クルド人はみな慕っている。彼はクルドのリーダーで、良い人だ。私は彼の著作も読んだ。彼は(1999年にケニアで)拘束されてトルコに移送され、現在に至るまで、(マルマラ海に位置する)イムラル島の牢獄に収監されている。これは不当なことだ。
南東部でのトルコ軍の攻撃のため、多くの住民が他地域の親類を頼って逃げた。あるいは、私たちのように外国に避難した。しかし、最近では当局による締め付けが厳しくなり、クルド人は簡単に出国できなくなったらしい。もしかしたら、当局は出生届けを受け付ける際、生まれた子供がクルド人であることを密かに登録し、それによってクルド人を管理しているのかもしれないという気がする。
南東部の諸地域での外出禁止令や、トルコ軍の作戦によるクルド系住民の殺害を、一般のトルコ人は知らない。これに関しては報道規制が敷かれており、取材したジャーナリストらが投獄されたこともある。トルコメディアは、「テロ組織PKKが軍の兵士を○人殺した」といった報道しかしない。エルドアン政府は、自分たちがやっていることをトルコの世論や外国から隠そうとしている。このため、トルコ人の中には、クルド人に憎しみを覚える人々も出てきた。イスタンブールでは、クルド語を話していた男性がトルコ人らに殺害される事件も起きた。
トルコ南東部で取材中に拘束された英人ジャーナリストらについての記事(日本語)
http://www.afpbb.com/articles/-/3058957
イスタンブールで愛国主義者のトルコ人らに襲われて死亡したクルド人についての記事(反政府系トルコ紙の英語版)
http://www.todayszaman.com/anasayfa_kurdish-man-stabbed-to-death-in-alleged-racist-attack_398560.html
クルド人が求めてきたのは、トルコ国内での自治だ。自分たちの言語で教育を受け、民族の文化を保存し、自分たちの選んだ代表者らによる政府が統治することを求めている。クルド人はトルコの各地に住み、通婚等を通してトルコ人と混ざり合っている。トルコから完全に分離独立することは望ましくない。しかし、エルドアン政府はそれすらも許そうとしない。エルドアンだけでなく、他の政治家らも同様だ。クルド人もトルコ人も、誰も殺し合いを望んではいない。しかし、自分たちを守る必要がある。それゆえ、PKKは武器を取ったのだ。
トルコ国内での自治を望んできたけれど、このままの状態が続いたら、いずれクルド人は分離独立以外の方法はないと考えるようになるかもしれない。独立をめざしたらトルコとの戦争が起こるから、それは避けたい事態だが、どうなるかわからない。その際、シリア北部のクルディスタン(ロジャワ)との合併をめざす可能性がある。元々1つの地域が国境により分断されていたが、また1つに戻るのだ。
(終わり)
(おまけ写真)
美味しい料理を作ってくれたクルド美女たち