外国で一時的個人的無目的に暮らすということは

猫と酒とアルジャジーラな日々

日付不明まとめ書き日記 2012年1月

2012-01-29 17:28:33 | グルメ

1月某日
夕食に、豆腐の納豆がけグラタンを作る。私が普段、ほぼ毎日作っている「豆腐の納豆がけ」の豪華バージョンである。
添付の小袋のタレをかけてかき混ぜた納豆を、木綿豆腐にのせ、その上からマヨネーズをうにっと絞り、さらにピザ用チーズを一掴みのせて、ラップをかけてレンジで加熱するだけ。このような作り方なのに、いかにもグラタンな外見に仕上がったので驚愕した(大げさ)。もちろん味も私好み。毎日同じ納豆がけ豆腐を食べるのに飽きた人におすすめ(そんな人、私以外におらんって)。コチュジャンを加えてもいいかも。

1月某日
1日のうち、自分がパジャマ(というか、部屋着)を着ている時間を計算してみた。
友だちと出かけるとか、歯医者に行くなどの用事がない場合、私は1日中家でパジャマを着て過ごす。パジャマを脱いで外出着(というほどのものでもないが)を着るのは、家から歩いて約5分のところにある、近所のスーパーに行く時だけ。結局、平均して1日20時間以上パジャマを着ている計算になる。・・・えっと、この状態はどうなんだろう。もうちょっと頻繁にパジャマを洗濯したほうがいいのかなあ?(ポイントはそこじゃないのでは)


1月某日
明け方まで一人でワインを飲んで酔っ払っていて、突然、「シリアに行きたい!今すぐ!私は一体ここで何をしてるの?!」と思いつめ、焦る。しばらくすると収まった。

1月某日
家から徒歩15分くらいのところにあるカフェに、「お抹茶カルボナーラ」なるものを食べに行く。出てきたのは、鮮やかな緑色のソースがかかったスパゲッティで、小皿に入ったバゲット2切れ(バター添え)のおまけつき。予想をはるかに超えておいしかったが(どうせマズイに決まっている、とタカをくくっていた)、ネーミングを「抹茶とベーコン入りクリームソース・スパゲッティ、バゲット添え」などと変更してくれたら、もっと良かったのに~!と残念に思う。元イタリア長期滞在者にとって、緑色の食べ物を「カルボナーラ」と呼ぶのは凶悪犯罪なのである。


1月某日
歩いて20分のところに、24時間スーパーがあるのを発見して、大いに興奮する。
その隣には深夜1時まで開いている、広い本屋(TSUTAYA併設)もあったので、ますますテンションが上がってしまい、しばらく落ち着かなかった。

1月某日
久しぶりに、作っている料理の国籍が途中で変化した。
今回はイタリアからトルコへ。
夕食に、ズッキーニ、エリンギ、玉ねぎ、パプリカ、トマトをオリーブオイルで炒めていたのだ。ペンネなどのショートパスタに絡めたら「夏野菜のペンネ」になるので、この時点ではイタリア料理と認定(季節感を明らかに間違ってるけど)。でも肉もツナも入ってないから味が足りないかも、と思い、冷蔵庫で発見した卵を割り入れて、ぐしゃぐしゃかき混ぜたら、あら不思議!トルコ料理のメネメンが出来あがってしまった。ついでなので、ピザ用のチーズも加えて画竜点睛。

以前、マッシュルームリゾットを卵でとじた結果、きのこ入りオジヤになってしまったときにも思ったけど、卵という食材は、それだけで料理の国籍を変える力を秘めている気がする。溶き卵でとじたら和食、目玉焼きを載せたらエスニック(東南アジアとか?)、サラダにゆで卵をいれたらニース風、てな具合に。おそるべし、卵。

(注:さっき念のためにメネメンのレシピを調べたら、私の料理とはかなり違っていた。やはり卵だけでは国籍は変わらないのかも・・・)
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サマル先生の思い出~なぞなぞと異文化バトル編~

2012-01-21 23:06:59 | イタリア


一年生の始めの頃の授業で、サマルはよくなぞなぞを出した。

アラビア語の授業で最初に教わるのは、当然アルファベットである。
アリフで始まり、ヤーで終わる28文字を少しずつ教えながら、サマルはそれぞれの文字で始まる単語をいくつか黒板に書き、私たちのほうに向き直って、「さあ、この単語の意味はなんでしょう?」と質問するのだった。

アラビア語を習い始めたばかりのヒヨコの私たちに、そんなことがわかるはずがないと、サマルは百も承知であった。だから必ずヒントをくれた。
例えば、「これは外側が緑色で、中が赤い果物です。私は夏にこれを食べるのが大好き!」といった具合である。それを聞いて、生徒たちが口々に「わかった、スイカだー!」と言い当てる。こういう会話はもちろんイタリア語で行なわれるので、サマルのなぞなぞがアラビア語学習となんの関係もない、ただの遊びであることは明白だった。

スイカなどは簡単だが、文化的な観点の違いが出る単語だと、少しむつかしかった。

ある日のなぞなぞはこうだった。
サマル「これは人間にとって、とても大事な存在です。いつもそばにいる友達のようなものです。さて、なんでしょう?」
イタリア人生徒たち「人間の友といえば・・・犬? 」 当然、私も犬だと思った。
しかしサマルは首を振り、勝ち誇ったように言ったのだ。
「違います、答えは“本”です!
アラブ文化における犬の地位は低く、人々から蔑まれているという事実を、当時の私たちはまだ知らなかった。
サマルのなぞなぞはむつかしい・・・、と私たちはため息をついたものだ。

意味を言い当てるべき単語が抽象名詞ともなると、難易度はぐいっと跳ね上がる。

ある日サマルはいつものように、黒板にアラビア語の単語をひとつ書き、おもむろに質問した。
「これは、私たちみんなにとって、とってもとっても大事なものです。世界で一番大事といってもいいくらい。人間が必要とするものです。さて、これはなんでしょう?」
イタリア人生徒たちは口々に、「お金?」とか、「家?」とか答えたが、サマルは首を振るばかり。
少し沈黙が続いた後、クラウディオというやせっぽっちの男の子がふいに大声をあげた。
「DONNA?!」
DONNA(ドンナ)とは、イタリア語で女性という意味である。
サマルは少し戸惑ったように、「え?」と聞き返したが、クラウディオは自信たっぷりに、「女性でしょう、世界で一番大事なものといえば。それ以外考えられない!」と言い募るのだった。周りの男子生徒たちも、納得したようにうなずき、「そうだ、そうだ、その通り!!」とエールを飛ばす。
サマルはというと、顔をしかめて、たしなめるようにこう言った。
「違うわよ、クラウディオ!何を言ってるの?答えはSCIENZA(科学)です!!
科学ときたか・・・!
この答えには、イタリア人の生徒たちはみんな、完全に意表をつかれて黙り込んでしまった。
一方私は、このやりとりの間中、必死に笑いをこらえて下をむいていた。

このなぞなぞに私は、アラブ・イスラーム文化とラテンなイタリア文化の間にある、深~い溝を見たのである。
こういった異文化バトルこそが、サマルの授業の醍醐味のひとつなのだった。

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私の理想のお葬式

2012-01-21 00:08:02 | 日本における中東
ヨルダン王国のイルビッドという町でケバブを焼く兄弟。そっくりや~。



私の思い描く理想のお葬式について説明しよう。

かつてイタリアで暮らしていた頃、おそらく私は世界で一番暇だった(今もそうだが)。
そのため、イタリア語の勉強も兼ねて、毎日テレビばかり見て暮らしていた。
イタリアのニュース番組は日本のニュースと違って、国際ニュースをたくさん取り上げるので、見ていて飽きない。
EU関係の話題が多いが、中東関係のニュースも常に大きく報道される。アメリカのイラク侵攻、自爆テロ、イスラエルの封鎖下にあるガザ地区の人々の窮状、イスラエルのレバノン空爆・・・などなど。そんな映像を日々眺めるうちに、いつしか私の関心はこの地域に向かうようになったみたいである。

さてさて、そんなある日、私はいつものようにTVをつけた。画面に映っていたのはパレスチナ・ガザ地区で、イスラエルによる空爆の犠牲になった人々の葬列であった。イスラームの鮮やかな緑色の布で包まれた何本もの棺を、怒りと悲しみを露わにした大柄な男たちが荒々しく担いで、今にも走り出しそうな勢いで行進してゆく。それを取り囲む群衆も、怒って拳を振り上げたり、泣き叫んだりしている。

私はそのシーンをうっとりと眺め、こう思った。
私もいつかこんな風に、大勢の怒りまくった男達に荒々しく担がれる、数本のお棺のうちの1本になりたい!
なんでまたそんなことを思いついたのか、自分でもナゾであるが、とにかく政治的背景とは無関係に、純粋にビジュアル的に、その光景にいわれのない憧れを感じたのだ。
今のところ、これが私の理想のお葬式である。

でもこれを実現するためには、高くそびえ立つハードルを幾つもクリアしないといけない。
具体的にいうと、
(1) イスラーム式のお葬式をしてもらうため、イスラームに入信する。
(2) イスラエル封鎖下のガザ地区に潜り込む。
(3) イスラエルの空爆の犠牲者になる。
(4) しかも単独の死亡ではなく、私以外にも何人か犠牲者がいる。
といった具合である。一番目のハードルを超えるのが、すでに不可能(だって無神論者なんだもん)。残念ながら、この理想は実現せずに終わりそうである。

このように、「理想のお葬式」の実現については諦めモードの私だが、「理想の死に方」はというと、いくらか実現の可能性を秘めているといえる。
この「理想の死に方」は、昨日突然、私の心の中に出現したものである。

先日、イタリアの豪華クルーズ船「COSTA CONCORDIA」号がジーリオ島付近で座礁し、死傷者と行方不明者が出た事件がありましたね。あの非常にイタリア人的な船長が、乗客を置いて真っ先に逃げたという事件。
沈みかけの船で乗客の1人が撮ったビデオを、昨日イタリアの新聞のサイトで観ていて、私は考えた。
・・・将来もし船の沈没や、飛行機の墜落事故で命を落とすとしたら、イタリアの船や飛行機で、こんな風にワイワイきゃあきゃあ騒ぎまくるイタリア人の群れに埋もれて死にたい。あの人たちを見てると愉快な気分になって、くすくす笑いながら死ねるに違いない・・・。
これがもしイタリアではなく、アラブのどこかの国の船だったら、乗客は一斉にアッラーに祈り出したことだろう。それはきっと壮観な眺めに違いない。そっちも捨てがたいな・・・。

そんなわけで、私の「理想の死に方」は、イタリアかアラブの船、または飛行機の事故で、大勢の現地人に囲まれた状況での死亡、ということになる。
こんな不吉なことばかり考えるのも、毎日暇にまかせてニュースばかり見ているせいだと思われる。やはり、なんとかしてお金を稼いで、早く海外へ脱出せねば・・・
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サマル先生の思い出~寺子屋編~

2012-01-13 23:07:56 | イタリア



サマルの授業はいつも私に、「寺子屋」という言葉を思い出させた。

江戸時代に普及した、庶民の子どもたちに読み書きそろばんなどを教える民間の教育施設が、「寺子屋」と呼ばれていましたね。この名称の起源は、中世にお寺で行われていた、僧侶たちによる子供たちの教育だそうな。

サマルの授業は、この元祖・寺子屋っぽい雰囲気だ、と私は常々思っていた。ただしお寺はお寺でも、イスラームのモスクである。なにしろサマルは熱心なムスリマ(イスラームの信徒の女性)で、なにかとイスラームの行事や風習について教えてくれたのだから(生徒に改宗を勧めることは一度もなかったが)。

あるとき、一般市民の方が、私たちのアラビア語の授業を見に来られたことがあった。
サマルはまずその女性を私たちに紹介し、それから、「この方は今日、私たちの授業を見学に来られました。こういうとき、アラビア語で何て挨拶するのかな~?」と、大きな目をいたずらっぽく輝かせて、私たちの顔を見回した。私たち生徒がすかさず、「アハラン ワ サハラン(ようこそいらっしゃいました)!」と大きな声で合唱すると、サマルは満面の笑みを浮かべ、「みんな、よくできました~!!」と褒めてくれた。まるで幼稚園か小学校のような情景で、自分たちでもおかしくなり、生徒たちの間で笑いの渦が巻き起こったのを覚えている。

サマルは非常に厳しい教師で、簡単な文法の質問に見当違いな答えをする男生徒がいようもんなら(女生徒には手加減してくれた)、メドゥーサのような恐ろしい顔でキッと睨みつけて石に変えるか、あるいは激しいショックを受けた顔をして、「私はいま、世界がひっくり返って、天が落ちてきたかと思ったわ」と大げさに非難するのが常であった。しかし質問に上手く答えられた時は、最高に優しい先生になり、「よくできました~!ご褒美にアメあげるわね!」と目を細め、大きな黒い革のカバンをごそごそかき回してアメを取り出し、手渡してくれるのだった。アメではなく、チョコレートの時も多かった。私もご褒美にチョコレートをもらったことがある。ホントにここは大学なのか?なんだか、すっごく寺子屋なんだけど・・・と思いながら食べるチョコレートは、とても甘くて美味しいのだった。

その後、シリアに滞在していた時に、私は文字通りの寺子屋も体験した。
それはダマスカス郊外にある、アブンヌールというモスク主催の、外国人向けアラビア語講座だった。男女別クラス編成、女生徒はヒジャーブ着用が義務、サウジアラビア製のバリバリに宗教色の強い教科書使用という、硬派な学校だった。先生はもちろんのこと、生徒も私以外全員ムスリマ。私は初日の自己紹介の時に、自分は無神論者だと宣言して(わざわざ言わなくてもいいものを)、教室にどよめきを引き起こしたが、そんな私に、みんな優しく接してくれた。結局、ヒジャーブをつけるのがイヤなのと、授業内容がかったるいのとで、途中で行かなくなってしまったが、あれはあれで貴重な体験だといえましょう。

このように、本物のモスクでのイスラーム寺子屋も体験したわけだが、私にとっての寺子屋体験の原点(?)は、やはりサマルの授業である。アメとムチを上手に使い分けるマトリョーシカ先生の、愉快なアラブ・イタリア寺子屋。お菓子とカルチャーショックの接待付きよ!
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サマル先生の思い出~出会い編~

2012-01-05 23:58:40 | イタリア


サマル先生はマトリョーシカに似ている。
小柄だがしっかり肉がついた丸っこい体を、裾の長いコートに包み込み、顔を除く頭部全体を薄い布(ヒジャーブと呼ばれ、イスラームの信徒の女性が髪を隠すのに使う)で被ったその姿が、なんとなくあの有名なロシアの入れ子人形を思い出させるのだ。先生を2つにパカッと割ってみたら、中にちっちゃな先生が入れ子になって、いっぱい入っているのでは、という気がするくらいだ。
でもマトリョーシカに似ているのは体型だけで、浅黒い肌やくっきりした濃い顔立ち、そしてとりわけ、強い輝きを放つ大きな黒い目は、明らかにロシアや欧米のものとは異質な存在感を主張していた。彼女は私が人生で最初に知り合ったアラブ人である。

サマル(もう呼び捨て)はフィレンツェ大学文学部・東洋学科専属の、シリア人のアラビア語講師である。出会ったとき彼女はたしか50歳で、すでにイタリア在住17年というだけあって、イタリア語を流暢に話していた(ばりばりにアラビア語訛りではあるが)。出身はダマスカス郊外の小さな町だが、お見合い結婚を機にシリアを離れ(シリアでは結婚はほとんど見合いで決まる)、イタリアにやって来たのだそう。子供はなく、イタリアの大学を卒業して検死医として働いている、温和なシリア人の旦那さんと2人暮らしである。

以前「ポール先生の思い出」の回で、私はフィレンツェ大学文学部に2年間通って、英語とアラビア語とトルコ語を勉強した、と書いたが、サマルにお世話になったのは、そのときである。2年間、週3回彼女の授業を受け続け、アラビア語文法の基礎を叩きこまれると同時に、ダマスカスの美しさ、素晴らしさを吹き込まれて洗脳されたおかげで、私はフィレンツェを引き払って、ダマスカスに移住する決心をしたのだから、サマルは私の人生を変えた女だと言えるかもしれない。私にとって、ポール先生が「永遠のアイドル」だとしたら、サマル先生は「運命の女」なのだった・・・といったら、ちょいと大げさかもしれないが。

サマルはスゴイ。

どうスゴイかと言うと、まず名前がスゴイ。
最初の授業で自己紹介をしたとき、彼女は、「”サマル”という名前は、アラビア語で ”恋人同士が、夜に話し合う甘い会話”という意味なのよ」と説明してくれた。そんなピンポイントな意味の単語があること自体が、外国人にとっては驚きである。恋愛関係の単語の豊富さでは他の追随を許さないイタリア語にだって、そんな単語はないので、イタリア人の生徒たちも驚いていた。この単語をあえて和訳するなら、「閨の睦言(ねやのむつごと)」といったところだろうか。閨の睦言先生。
もちろん、サマルのすごいところは名前だけではなく、他にも色々あるのだが、それはおいおい説明したいと思う。

1年生向けのアラビア語講座の最初の授業とき、狭い教室から溢れ出しそうなくらい、大勢の生徒がつめかけた。当時イタリアの大学の文学部では、アラビア語や中国語などの、知っていると就職の際に役立ちそうな言語が人気急上昇中だったのである。ただでさえ不景気なイタリアで、就職にあぶれがちな文系の学生にとって、これらの言語の講座は救世主のように見えたに違いない。

そんな将来への希望と不安と不安と不安を抱えた1年生の大群(大半はイタリア人だが、私みたいな外国人もちらほらいる)を前にして、サマルはそんな風に自己紹介し、「みなさん、アラビア語の世界へようこそ!アラビア語はすごく簡単な言語です!これから一緒に楽しく勉強しましょうね!」と明るい笑顔で大ウソをついた。アラビア語が簡単どころか、ほとんど習得不可能の業の深い言語であることは、2,3ヶ月も勉強するうちに、骨の髄までしみてよく分かったが、その時はもう手遅れで、私はすっかりこの複雑怪奇な言語のトリコになっていた。その後私がしつこくアラビア語の勉強を続けて、曲りなりに読み書きができるようになったのは(会話は未だにできない)、サマルがあの時、きっぱりと大ウソをついてくれたおかげかもしれない。
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