朝食後、家事を始めようとしていたらメールが届いた。
開けてみると「お誕生日おめでとう」の文字が目に飛び込んできた。
送ってくれたのは、もう一年以上会っていないママ友だった。
長男パインが0歳だった頃からのつきあいなので、かれこれ26年経つのだが、子どもたちが大きくなるにつれそれぞれが忙しくなって会わなくなった。
それにしても、よく憶えていてくれたと感激だった。
そういえば、彼女から何度かお誕生日メールを頂いたことがあったっけ・・・
さすがに自分と家族の誕生日は忘れてはいないが、友人や知人の誕生日は徐々に記憶が薄れてきている。
多分、歳と共に自分の誕生日も、他人の誕生日も興味が無くなってきたからだと思う。
でも、こうしてわざわざお祝いしてくれたママ友からのメールはとても嬉しかった。
長い間会っていなくても、気にしてくれていると思っただけで、彼女の誕生日を忘れている事がなんだかとても申し訳なく思える。
「ごめんね。そしてありがとう」返信はしたが、こうしてもう一度書かずにはいられないほど申し訳なさと嬉しさがこみ上げる。
ところでママ友からメールを頂く前に、「そういえば誕生日だった」と思った時、一枚の写真が思い出された。
その写真は生まれたばかりの私を嬉しそうに抱く母の写真で、これまで何度も見ていた写真のはずだが、今日はなぜかその写真のことばかり思い出していた。
写真にうつった母の嬉しそうな笑顔は、私が憶えている母の笑顔の中でも1~2位を争うくらいだと思う。
私を生む前に事故で最初の子を流産していた母は、無事に赤ん坊を産めたことがとても嬉しかったのだろう。
今なら母のその時の気持ちがわかる。
というか、なぜ今まで何も思わずにその写真を見ていたのだろうと思う。
こんなに喜んでくれていたのかと思うのと同時に「産んでくれてどうもありがとう」としみじみ思える写真だった。
時間が経たなければ分からない事ってあると思う。
時間をおいて、熟成させて、やっとそうだったのかと思う事ことが・・・
本当はすぐにわかってあげて、感謝を伝えられたらよかったのにと思うが、やはり私自身もこの年齢になるまで時間をおかなければ分からなかった。
時間を置いてわかること・・・そういったことがあると、最近は特にそう思う。
そうだったのか・・・と非常に感動したのは、昨年末に行った神社への参拝だった。
毎朝、神棚への参拝は欠かさず、自分自身の中に神様はいらっしゃるのだと思って、何年も生活してきた。
感謝の気持ちだけを捧げ、それ以上のことは求めず淡々と手を合わせるだけだが、昨年の参拝に行った時に初めて感じたのが「深い愛情」だった。
まるで父母のような深い深い愛。
これまでもずっと注がれていたのに、私は気づかなかった。
私の両親はもうこの世にはいないが、肉体の両親以外に、生まれる前からずっと深い愛情を注ぎ続けてくれる存在があったことを心から知った瞬間だった。
それもずっと私のそばにいたのだった。
生まれる前からも、そして死後は帰る場所であり存在であること。
こんなにも深い愛情の存在が、私の肉体の中にいらっしゃることを、頭だけではなくやっと心の底から腑に落ちた出来事だった。
まだまだ分からない事や知らなかった事が、この先わかったと思うようになるのかもしれないし、ならないのかもしれない。
でも、それでいい。
今まで通り、淡々と神祭りと供養を続け、良心に沿った生き方をしていきたいと思う。
これが誕生日を迎えて思ったことです。
開けてみると「お誕生日おめでとう」の文字が目に飛び込んできた。
送ってくれたのは、もう一年以上会っていないママ友だった。
長男パインが0歳だった頃からのつきあいなので、かれこれ26年経つのだが、子どもたちが大きくなるにつれそれぞれが忙しくなって会わなくなった。
それにしても、よく憶えていてくれたと感激だった。
そういえば、彼女から何度かお誕生日メールを頂いたことがあったっけ・・・
さすがに自分と家族の誕生日は忘れてはいないが、友人や知人の誕生日は徐々に記憶が薄れてきている。
多分、歳と共に自分の誕生日も、他人の誕生日も興味が無くなってきたからだと思う。
でも、こうしてわざわざお祝いしてくれたママ友からのメールはとても嬉しかった。
長い間会っていなくても、気にしてくれていると思っただけで、彼女の誕生日を忘れている事がなんだかとても申し訳なく思える。
「ごめんね。そしてありがとう」返信はしたが、こうしてもう一度書かずにはいられないほど申し訳なさと嬉しさがこみ上げる。
ところでママ友からメールを頂く前に、「そういえば誕生日だった」と思った時、一枚の写真が思い出された。
その写真は生まれたばかりの私を嬉しそうに抱く母の写真で、これまで何度も見ていた写真のはずだが、今日はなぜかその写真のことばかり思い出していた。
写真にうつった母の嬉しそうな笑顔は、私が憶えている母の笑顔の中でも1~2位を争うくらいだと思う。
私を生む前に事故で最初の子を流産していた母は、無事に赤ん坊を産めたことがとても嬉しかったのだろう。
今なら母のその時の気持ちがわかる。
というか、なぜ今まで何も思わずにその写真を見ていたのだろうと思う。
こんなに喜んでくれていたのかと思うのと同時に「産んでくれてどうもありがとう」としみじみ思える写真だった。
時間が経たなければ分からない事ってあると思う。
時間をおいて、熟成させて、やっとそうだったのかと思う事ことが・・・
本当はすぐにわかってあげて、感謝を伝えられたらよかったのにと思うが、やはり私自身もこの年齢になるまで時間をおかなければ分からなかった。
時間を置いてわかること・・・そういったことがあると、最近は特にそう思う。
そうだったのか・・・と非常に感動したのは、昨年末に行った神社への参拝だった。
毎朝、神棚への参拝は欠かさず、自分自身の中に神様はいらっしゃるのだと思って、何年も生活してきた。
感謝の気持ちだけを捧げ、それ以上のことは求めず淡々と手を合わせるだけだが、昨年の参拝に行った時に初めて感じたのが「深い愛情」だった。
まるで父母のような深い深い愛。
これまでもずっと注がれていたのに、私は気づかなかった。
私の両親はもうこの世にはいないが、肉体の両親以外に、生まれる前からずっと深い愛情を注ぎ続けてくれる存在があったことを心から知った瞬間だった。
それもずっと私のそばにいたのだった。
生まれる前からも、そして死後は帰る場所であり存在であること。
こんなにも深い愛情の存在が、私の肉体の中にいらっしゃることを、頭だけではなくやっと心の底から腑に落ちた出来事だった。
まだまだ分からない事や知らなかった事が、この先わかったと思うようになるのかもしれないし、ならないのかもしれない。
でも、それでいい。
今まで通り、淡々と神祭りと供養を続け、良心に沿った生き方をしていきたいと思う。
これが誕生日を迎えて思ったことです。