芥川龍之介の短編小説「六の宮の姫君」を読んだ。
あらすじはこんな感じ。
京の都に高い身分の家に生まれた姫君が暮らしていた。
父母の寵愛を受け、大切に育てられた姫君は、単調な毎日の暮らしだったが、それに不満を持つことなく日々を過ごしていた。
ところが、姫君が年頃になったころ、両親が相次いで他界してしまい、姫君が頼れるのは乳母ひとりだけになってしまった。
乳母は姫君のために骨身を惜しまず働き続けたが、次第に生活は苦しくなり、豪華な家財は売り払らわれ、召使いたちも次々にいなくなっていった。
姫君は乳母が生活のために苦労して奔走しているのを知っていたが、自分ではどうすることもできず、これまで通りに琴を弾いたり、歌を詠んだりして過ごしていた。
そんな時、身分が高く姫君のことを気に入っているという男性が現れる。
姫君は乳母に言われた通り、男性を受け入れるのだが、心根が優しく顔かたちもみやびな男性に心を寄せることなく、ただ言われた通りに男性と会うようになる。
そして姫君の生活もまた以前のように、経済的に安定した暮らしになるのだが、ある日、男性が遠方に赴任することになり、姫君に五年後に戻ってくると言い残して去っていく。
姫君は泣き伏すが、それは男性を恋しく思って泣いたのではなく、経済的な安定が無くなることへの不安からだった。
それから五年経っても男性は姫君の元に戻ってくることはなく、生活はどんどん苦しくなり、その間も姫君は男を待ちながら、琴と歌で気を晴らして暮らしていた。
男が京へ帰ってきたのは、丁度九年目の晩秋だった。
京へ戻った男は急いで姫君の屋敷へ行ったが、すでに屋敷は無く姫君の行方もわからなくなっていた。
それから何日も姫君を探して歩き回っていたある日の夕暮れ、雨宿りのために朱雀門の軒下に立ったところ、物乞いらしき法師も雨宿りしていた。
ふと人の気配を感じて窓から中を覗くと、そこには貧しい身なりの尼僧がむしろに横たわる一人の痩せ細った女を介抱しているのが見えた。
その女こそ探し求めていた姫君だった。
男は、急いで姫君の元に駆け寄ったが、姫君はすでに虫の息。
男は外に立つ法師を呼び、姫君のために念仏を唱えてくれるように頼む。
しかし法師は経文を唱える代わりに「往生は人手にできるものではござらぬ。ただご自身怠らずに、阿弥陀仏をお唱えなされ」と姫君に声をかける。
姫君は男に抱かれながら、細々と仏名を唱え出したが、すぐにやめて「何も見えませぬ、暗い中に風ばかり、冷たい風が吹いて参りまする」と繰り返し言って亡くなった。
それから朱雀門のほとりで女の泣き声が聞こえるようになった。
「この頃この朱雀者のほとりに、女の泣き声がするそうではないか?」と、一人の侍が朱雀門の前で座っていた貧しい身なりの法師に声をかけた。
すると法師は言った。
「あれは極楽も地獄も知らぬ、ふがいない女の魂でござる。御仏を念じておやりなされ」
これは何度も何度も繰り返して読んでしまった。
この短い小説の中には、多くの考えさせられることがあった。
自分では何一つ動こうとせず、とても自分の意思で自分の人生を生きているとは思えない人生を送ってきた姫君に、法師(実は高僧)は「ふがいない魂」と言われた。
また、この小説を題材にした漫画を描いた山岸凉子さんは、作中の中で姫君のことをこのように言っている。
「たとえ、その時代のお姫さまだとしても、そういった人間(姫君)は自分の生(せい)を満足に生きていないのと同じよ。生きるということは、生活の苦しみや楽しみ、人と人とのふれあいを知るということだもの」
なるほど、、と思った。現代の人間でも当てはまることがあるかもしれない。
が一方で、安定した何不自由のない暮らしからドン底の極貧生活まで、不満も言わずに味わった姫君は、決してふがいない魂などではないという考えも浮かぶ。
今は後者の考えの方が強いが、また時間をおいて読んだら違った考えが浮かんでくるのかもしれない。
昔の小説は、何か敷居が高くて読むのを避けていたが、久しぶりに考えさせられる小説で、しばらく余韻に浸っている。
こちらの小説は、ネットでも読むことができるようです。
ご興味のある方はどうぞ➡︎六の宮の姫君