箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

ピギナーのように

2019年06月16日 15時15分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
 
 
 
 
私が英語の授業を担当していた頃のことをふりかえってみます。
 
 たとえば、学年が5クラスあって、同じ日に同じ授業を3時間、3クラスで行ったとしても、授業者としての私には「また、同じ授業か」とはなりませんでした。 
 
だいいち、生徒がちがいます。なので、ちがった反応があります。また、同じ内容でも、キング牧師のスピーチ「I have a dream」などは、何度教えても私の気持ちは高ぶります。
 
 世界に名曲というものがあります。 
 
私はEagles(イーグルス)の「Hotel California」(ホテル・カリフォルニア)は、名曲中の名曲だと思っています。 
 
この曲は1976年の作品ですが、40年以上たっても色あせることのない印象的なメロディとして、聴く人の心をとらえます。 
 
いつ聞いても、今初めて聞いたかのような印象を受けるのです。 
 
 
 プロというのは、いつであっても、ビギナーのように仕事に当たることができる人なのかもしれません。 
 
いつでも新鮮な気持ちでものごとに当たることができる。
 
さらに詳しくいうと、多くの知識と経験を蓄えたうえで、初めての頃にいつでも気持ちを戻せる人と言えるかもしれません。
 
 知識・経験・技術を積み上げ、そのうえでビギナーの新鮮さと情熱をもてば、最高のパフォーマンスを発揮できるのだと思います。

これをやりたいという教員

2019年06月15日 09時11分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
私は、教職経験が少ない頃は、先輩の教員からこうしなさいとよく教えてもらいました。
 
その先輩教員は、さすがに生徒との良好な人間関係を築いていました。
 
だから、私は言われたように、教員の仕事をしていました。
 
 
しかし、一定程度経験を積んでくると、クラスをこうしたいとか、こんな授業をしたい、学年をこう運営していきたいという望みをもつようになりました。
 
たとえば、中学生が体験する職場体験学習は、どうしたら中学生に社会への扉を開くことができるかを考えた末に、チャレンジしました。
 
当時、職場体験学習をやっている中学校は近隣、また大阪府下にはほとんどありませんでした。
 
阪神淡路大震災で甚大な被害を受けた神戸市などで、子どもの心の復興を期して、「トライやるウィーク」を先行実施している程度でした。
 
 
わたしが学年主任をしているときに、箕面市の中学校ではじめて開始しました。
 
ときに1996年のことでした。
 
最初だったので、いろいろは不備はありましたが、生徒たちは体験を終えていい表情で学校へ戻ってきました。
 
そのあと、年度をおって他の中学校も追随するようになりました。
 
今年度で24年目になります。
 
 
この体験学習は、先輩教員がが教えてくれたわけではありません。
 
でも、子どものためにやってよかったと思っています。
 
 
教員の成長とは、こういうものだと考えています。
 
言われたことを言われた通りにやればいいのではないのです。
 
まして、いまの時代の学校では、言われたことを言われた通りにだけしかできない教員では、つとまりません。
 
子どものために、こんな取り組みや行事ができたらと願い、やってみようとする教員だあってほしいと思います。
 

寛容な教師とは

2019年06月14日 10時29分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
教師たるもの、仕事においてのこだわりがいります。
 
子どものことで、これだけは譲れない。
 
たとえば、いじめはぜったいに許さない、などです。
 
 
ただし、なんでもかんでもこだわるのではなく、どうでもいいことは気にしないという態度が大切です。
 
たとえば、自分はラーメンならあのこだわりの店へ、わざわざ時間をかけてでも行く。
 
でも、牛丼ならどの店でも気にしない。
 
すべてのことにこだわっていたら、「あの人は難しく、いっしょにいたら息が詰まる」となります。
 
自分が教師としてこだわりが多すぎると思う人は、「自分の教育でのこだわりとはなんだろう?」と考えるべきです。
 
 
もっとも、私は何もこだわりがない。
 
こう思う人は困りますが。
 
でも、こだわりをもつ人で、自分のこだわりとはなんだろう? と、じっくり考えてみると、ほとんどのことは「まあ、そういうこともあるよ。どっちでもいいわ」となるのです。
 
「まあ、どっちでもいいわ」と思える教師に、生徒は寛容さを感じて惹かれることもあると思います。
 

外国人との共生

2019年06月13日 13時14分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
 
2019年は、「移民元年」と言われています。
 
日本の産業界での労働者不足に対応するため、外国人労働者の拡大を目指して制度変更になりました。
 
外国人労働者の受け入れを拡大するために、新しい在留資格が設けられたのです。
 
今年4月から、新しい在留資格である「特定技能」が新設されました。
 
特定技能ビザが設けられ、これまでは外国人が働くことのできなかった、建設業界や造船業界、宿泊業界、外食産業などで外国人が働くことができるようになります。 
 
 
「特定技能ビザ1号」は、通算5年までしか日本にいられないビザです。
 
一方、「特定技能ビザ2号」には日本滞在の期間に制限がありません。永住の可能性が開かれたのです。
 
前者は5年で帰国することが前提なので、日本に原則家族を連れてくることはできません。
 
これに対し、後者は回数制限のない更新に道が開かれているため、本国から家族を日本に連れてくることができます。
 
1号の修了者が試験をパスすると2号に進むことができます。
 
この制度変更をきっかけに、国内では、今後日本に住む外国人が増加することが見込まれます。
 
今の中学生が社会に出るには、外国人と同じ職場で働くという機会がいま以上に増えてきます。
 
互いの文化や考え方、習慣などを認めあう態度を育て心情を育む多文化共生の教育を進めることが、喫緊の教育課題です。
 
 
 
ただし、その在留資格の名称に、わたしはひっかかりを覚えます。
 
その資格の名は「特定技能1号」と「特定技能2号」と言います。
 
それを聞いて、違和感をもったのは、わたしだけではないと思うのですが・・・。
 
わたしは子どもの頃に流行っていたアニメに「鉄人28号」がありました。
 
鉄人28号は、当時の科学技術を駆使して制作したロボットでした。
 
わたしは、子どもの頃、そのおもちゃを買ってもらい、愛着をもっていました。
 
ただ、〜号というと、どうしてもロボットを連想してしまうのです。
 
外国人労働者はロボットではない、人間として尊重して共に日本国内で暮らしていく社会を展望します。
 
 
(冒頭の写真は、大阪府在日外国人教育研究協議会発行の書籍『ちがい ドキドキ 多文化共生ナビ』の表紙絵を掲載しています。)

中学生のクイックレスポンスから学ぶ

2019年06月12日 13時11分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
今の中学生は、LINEやメールの返信をすぐに返さないといけないと、思う傾向があります。
 
その返信の早さに囚われている生徒がいる生徒もいます。
 
ただ、返信の早さ(以下、クイックレスポンスと呼びます)は、子どもたちだけでなくて、おとなの場合も参考にさせてもらう意味はあると、私は思います。
 
とくに、自分が困ったときにはいろいろと助けてもらったのに、念願が叶うと連絡を怠ったり、クイックレスポンスが遅くなるなら、義理人情に欠けると言われても仕方がないでしょう。
 
しかし、律儀な人でも、つい連絡・報告を怠ってしまうことはあるものです。
 
といって、礼節を欠くのはよくありません。
 
そこで、とりあえずは、簡単な返信でもいいですから、クイックレスポンスを返信するといいのではないかと考えます。
 
お菓子をもらったら、「味見をしてから返信ししよう」ではなく、「ありがとうございました。楽しみにして、これからゆっくりとご賞味させてもらいますね」という短文の返信をします。
 
これは、クイックレスポンスだからこそ許されるのです。
 
というように考えたとき、クイックレスポンスにより、簡単な内容でも、礼節を尽くすことができるのです。
 
時間が経てば、内容が求められることになり、簡単ではすまなくなります。そして余計に考えこみ、タイミングを失ってしまうのです。
 
 
 
 
あと、返信に関する留意点ですが、相手の誤解を生まないように、自分の語彙を増やすことも必要だと思います。
 
語彙の豊富な人からの返信は、「細かいところまでよく行き届いている」と相手に感じさせます。
 
語彙の豊富な人からの返信は、電話ではかえって気がつかない点にまで触れた、よく吟味したメール文になります。
 
「こう書いたら、相手はどううけとるだろうか」と熟慮して文にします。
 
その上に豊富な語彙を駆使しているので、その本人への好感度が上がります。
 
なかには、「大人だなあ」と、相手に感じさせることにもなるでしょう。
 
 
私たちは、まず中学生のクイックレスポンスから、学ぶことができるのです。

直接会って話す

2019年06月11日 06時24分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
 
 
今の時代、年齢層に関係なく、電子メールやSNSを使い、人と人がやりとりをします。
 
先日、驚いたことがあります。
 
大学生が「あの人とは直接話しました」と言いました。
 
ところが、話をよく聞いてみると、「電話をして直接話した」と言っていることがわかりました。
 
わたしは、てっきり直接会って話したという意味だと思っていました。
 
ところが、メールなどではなく、電話をかけて直接話したということが、その大学生の言う「直接話した」という意味だとわかったのです。
 
ところで、実際に会って話すという行為は、SNSなどでのやりとりとは、まったくちがう効果をもっています。
 
たとえば、人間が発する表情や様子はたくさんの情報を表します。
 
顔を合わせて直接見る表情や口元から見える口調で、相手がどう思っているかがわかることも多いのです。
 
しかし、SNSの書き込みやメールによる文面は、相手の感情がわかりにくいのです。
 
では、なぜこれほどまでにメールやSNSが広がったのでしょうか。
 
おそらく、直接会って話すことを苦手にする人が増えたからではないでしょうか。
 
というか、逆もあるかもしれません。
 
メールやSNSを使うから、直接会って話すことが苦手になったとも考えられるかもしれません。
 
 
 
いずれにしても、わたしが過去に教員採用試験の面接官をしていて思ったのですが、グループディスカッションをすると、みんなが遠慮しあい、誰かの意見に反論することをよしと思わない学生が増えています。
 
自分をさらけ出すのではなく、また、相手を傷つけずにほどほどのところで自分の意見を述べる人が多いのです。
 
そういう状況を鑑みたとき、今の中学生には、学校生活のなかで、友だちと会い、直接に会話を交わす経験を積むことは大切だと考えます。
 
会話を交わして、うまくいったという経験だけでなく、失敗したという経験もするでしょう。
 
しかし、成功も失敗も、経験が増えれば増えるほど、その子は対人関係で柔軟な対応ができる大人になるのだと考えます。
 
 
 

ブログタイトル変更

2019年06月10日 18時56分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
このたび、ブログタイトルを変更しました。
 
前のタイトルは、15代校長など、少し仰々しいと感じていましたので、
 
箕面三中元校長としました。
 
サブタイトルは、今の私の仕事である「教員専門員」を英語にして、教育Specialistとしていましたが、
 
教育Expertに変更しました。
 
タイトルは変わっても、内容は今まで通り、教育・子育てに関する全般です。
 
引き続き、お読みください。

STORYを語れ!

2019年06月10日 07時47分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
 
 
みんなが日常生活の多忙と時代の閉塞を感じて、ストーリーを語ることを忘れています。
 
学校なら、こんな学校をつくりたい。
学年なら、こんな子どもにしたい。
学級なら、こんなクラスを目指したい。
 
毎日、通うのが楽しみな学校・学年・学級がいい。
 
なんで教師になったのか。
 
語らない教師が増えてきた。
 
 
「何を長々と話すの。話が長いわ!」と言われようと、温かなストーリーを語らなければならないのです。
 
 
 
家庭でも同様です。
 
どんな家庭にしたいかを語ると、家庭には温かい流れが生まれます。
 
家に帰ったら、ホッとするとか、そんな家庭にしたい。
 
ぜったい裏切らない家族がいる家庭。
 
ストーリーは夢と元気と勇気を与えてくれます。
 
自分の人生を語り、生き方を語り、自分の学校を語り、自分の家庭を語ることで、変化が起きます。
 
物語は、モノを語ります。
 
語られたモノには、人の願いが込められてくるのです。
 
(画像の中の歌詞は、AIのSTORYを引用しています。)
 
 
 
 

強みに光を当てる

2019年06月09日 07時44分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
私が作っている畑では、いま野菜がツルを伸ばしています。
 
その野菜は、光が当たる方に向かってツルをメキメキと伸ばしています。
 
 
同様なことが、子どもの成長にもあてはまります。
 
以前、私が合唱の指揮をしている生徒に声をかけたことがあります。
 
その生徒は、歌う友だちの大きな声を引き出そうと、曲調にあわせ体全体を動かして、自らも歌いながら指揮をしていました。
 
わたしは、「きみは指揮がうまいね」と評価をしました。
 
すると、今まで本人が意識していなかった「自分は指揮が上手」という点に意識が向きます。
 
そのうちに、その生徒は自然に進んで、練習を一人でしていました。
 
イメージトレーニングのように、メロディを口ずさみ指揮棒を振って練習していました。
 
そのうちに、さらに指揮がうまくなりました。
 
 
 
 
また、合唱の伴奏をしている生徒にも声をかけたことがあります。
 
「きみはピアノ伴奏がうまいね。みんなが歌いやすいと思うよ」。
 
その生徒は、全面が見える楽譜をピアノの譜面台に置いていました。
 
「これは、どうしたん?」
 
「演奏の途中で、楽譜のページをくるのはたいへんなんで、縮小コピーをつなげて一枚にしました」と答えました。
 
「そうか。そうやって工夫をするから、うまく弾けるやね」
 
おそらく、その子の場合は、「工夫をすること」に意識が当たりました。
 
おじいちゃんが、後日校長室を訪ねてこられ、わたしに言ってくれました。
 
「孫は、勉強するときも、なんやらいろいろ工夫して、コツコツとやってますわ」
 
その子は自分から進んで家庭学習をしていることを、おじいちゃんが私に教えてくれました。
 
 
 
以上のことから、人間はその強みに意識を当てると、伸びていくことがわかります。
 
 
そこで、わたしが思うことがあります。
 
ふつう、子どもはちょっとほめられただけなら、そのことはすぐに忘れてしまいます。
 
だから、そのことを記憶にとどめておくといいのです。
 
ノートに年月日を入れ、ほめられたことを書き込んでいきます。
 
ノートでなく、スマホにメモするのでもかまいません。
 
そのメモは、ほめられたり、好評価を受けたものだけを記入します。
 
何年か経つと、そのメモは光を当てられた自分の強みだけになります。
 
そして、そのメモに書かれている記憶は、ずっと意識されていくようになります。
 
このようにして、子どもは成長して、伸びていきます。
 

中学生がもつエネルギー

2019年06月08日 08時46分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
昨日のブログでは、私は自分の中学時代途中から、「がんばってしかたない」と思うようになったと、紹介しました。
 
また、中学の部活ではレギュラーになれず、ずっと補欠でした。
 
1,2年生のころ厳しい練習にも耐え、一生懸命頑張りましたが、顧問の先生はそれを認めてくれない。 
 
3年生の夏休みの練習のあるとき、「練習したって、どうせ試合は出られないし」と思うと、もう練習をする意味が、私にはわからなくなりました。 
 
練習を一人抜け出し、体育館の舞台袖で大の字になって寝転んで練習をさぼっていました。
 
すると、顧問ではない別の女性の先生が、わたしに近づいてきて、「がんばらなあかんやん」と言いに来ました。 
 
わたしは、「なぜ顧問の先生が直接来ないで、別の先生を来させたんや」と思い、「がんばって何になるんや?」と言い返しました。
 
不承不承、練習に戻りました。 
 
 
 
思えば、私にとっての中学生の時期は、悩みの連続でした。
 
レギュラーになり活躍した友だちは、まわりから認められ、自分の居場所をもち、堂々としていました。 
 
でも、レギュラーになれない子には、「これが自分だ」と思える場所が必要でした。
 
毎日を意欲的に過ごし、自信をもてるものが必要でした。
 
当時の中学校には、わたしが直面していた課題や心の闇を理解して、認めてくれる先生は一人としていませんでした。 
 
だからこそ、教師になった私は周囲から見れば「何を考えているのかわからない」と思われる中学生と接するとき、その子の内面を理解したいと思ったのだと、いま考えています。
 
生徒がいままで頑張ってきたことを教師が聴き、それを認め、言葉にして伝えることを大事にしたいと思ったのです。
 
いまふりかえれば、私は中学時代に、まわりの大人から独立したいと願ったのだと思います。
 
大人から独り立ちするためには、おとなの言いなりになることできなくなったのです。 
 
当時のわたしの行いが正しいとか正しくないというよりも、とにかく私は大人や先生の言うことを否定したり、違うことをしようとしたのでした。   
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
時代は変わっても、今の中学生もこのような気持ちになることがあるのだと思います。 
 
おとなから、なんでもやることをきめられる、制限を加えられることがイヤになる。 
 
ところが、中学生は不安定ではありますが、同時に強大なエネルギーをもっています。
 
それは、クラスでの学校生活や学校行事等のときに見せる生徒たちの様子からもわかります。 
 
大きな発熱を生み出す化学物質は不安定ですが、「取り扱い」に注意を払い、その存在に敬意を払うと、強大なエネルギーを発します。 
 
中学生は、おとなが想像のつかないような仲間と繋がりを生み、化学反応を起こす可能性も持っています。 
 
中学生は力強く、頼もしく思えることも多くあります。
 
予想しなかった変化や成長を見せることもあります。
 
これが、中学生とかかわる最大の魅力であると思っています。

がんばってもしかたない

2019年06月07日 13時23分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
昨日はあれほど明るい表情だったのに、今日はうってかわって沈んだ表情をしている。 
 
昨日はあいさつをしていたのに、今日は声をかけても返事がない。 
 
こんなようすの中学生と接したとき、「何かあったのだろうか。だとすれば、なにがあったのだろう」 。
 
このように、考える習慣が35年以上中学校に身を置いて、私には自然と身につきました。
 
中学生は何を考えているのかわからない。世間一般にはそのように考える人も多いかもしれません。 
 
 
 
世の中には、たくさんの仕事や職種があります。しかし、たいていの人は、自分の就いている、ごく限られた仕事しか知りません。 
 
しかし、学校とか先生の仕事というものは、詳細まではわからなくとも、大まかなことはすべての人が知っています。 
 
それは、みんなが学校を卒業したからです。たくさんの先生に出会ってきたからです。 学校とはどんなところで、先生とはどんな仕事かを、多くの人が知っているのです。 
 
ただし、すべての人は中学時代を体験してきたけれども、それぞれが体験した内容も、体験の意味も違います。
 
また、いまの中学生が生活する環境も大きく変化していますので、同じものごとに出くわしても、おとなの受け取り方と今の中学生の受け取り方は異なることもあるのです。 
 
このような事情がありますので、中学生の心理は簡単には理解できないのです。  
 
私は、中学1年・2年と授業中によく手をあげて発言する生徒でした。授業で一生懸命考えて、自分の考えを発表することに積極的でした。 
 
しかし、2年生の途中から考えが変わりました。 「こんなに手をあげていちいち発表して、何になるの? 先生からの問いに黙っていたって、誰かが答えたりして、いずれ答えはわかるし・・・。」 
 
こう考え始めると、私は自分のやっていた行為が、急にバカらしく思えてきたのでした。 
 
ちょうど、その頃から先生という大人の存在に疑いをもつような時期とも重なりました。 
 
私は、いっさい授業中に手をあげて発言しなくなったのがこのころです。 すると、懇談のときなど、「この頃、以前のような積極性がなくなりました。元気がないというか、消極的になりましたね」。 
 
このように、先生は、私の親に話していました。 
 
そのとき、「どうせ誰も、自分のことは知らない。ぼくが何を思っているかなどこの人たちはわかるまい。それでも、かまわない」と私は思っていました。
 
 「がんばってもしかたがない」。いままでやっていた自分の行動に、そのときとしては、疑問を持つようになったのでした。
 
(次号に続く)

20年以上続く沖縄修学旅行

2019年06月06日 17時51分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
 
いま、市内中学校3年生の修学旅行シーズンです。
 
市内中学校のほとんどの行き先が沖縄方面です。
 
この沖縄修学旅行は、箕面では、一番最初に行ったのが今から22年前で、箕面二中が初めてでした。
 
私が学年主任をしていた学年の3年の時ですから、平成9年、1998年5月に初めて沖縄修学旅行が実現しました。
 
この学年が1年生のときから、私は「この学年を沖縄へ連れていく」と決意を固め、実現を目指して取り組みました。
 
当時は、飛行機で中学生が修学旅行に行くなど、とんでもない話でした。
 
箕面市教育委員会は、航空機利用の修学旅行は認めていませんでした。
 
そこで、沖縄方面への飛行機の事故率、5月の沖縄の気象条件などのデータと当該学年の保護者の賛成率などを、沖縄修学旅行計画書に添えて、教育委員会に提出しました。
 
95パーセント以上の保護者の賛同がなければ、認可されませんでした。
 
1回目の保護者アンケートでは93パーセントほどの賛成でした。
 
そこで、家庭訪問や懇談時などに学年教職員が説明して、賛成にまわってもらい、最終的には1家庭以外の賛同を得て、生徒が1年生の終わり頃には99パーセント以上の同意をもらいました。
 
私は実施までに、4回下見に行きました。
 
そして、その学年が3年のとき、沖縄修学旅行が実現したのでした。
 
「生みの苦しみ」を味わった者としては、今も続いている修学旅行に、格別の感慨があります。
 
その後、沖縄へ修学旅行に行く中学校が増え、今年度で市内中学校8校のうち、7校が沖縄修学旅行を実施しています。
 
今までの修学旅行では、行き先が学校ごとに異なり、それも同じ方面に10年以上続けて行くことはありませんでした。
 
東京、信州、四国、山陰、長崎などに行きましたが、一番長く続いた長崎も10年ほどでした、
 
唯一沖縄だけが20年以上続いています。
 
その幕開けが、ときに1998年のことでした。
 
約20年の歴史の中でも、ここ数年間は、ホテルの連泊2日から1日は民泊をする学校もあります。
 
沖縄修学旅行は、「また沖縄へ行きたい」という思いを残して帰ってくるという生徒が多く、リピーターを生み出すようで、20年以上続く理由は、このあたりにあるようです。
 

子どもを育てる親へのまなざし

2019年06月05日 07時30分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
子どもへの虐待が深刻な状況になっているのが昨今の子育て事情です。
 
幼い子が命を落とすという深刻な事件が報道されます。
 
子育ては、赤ちゃんが生まれたらすぐに始まるのですが、誰でも初めてのことはわからないものです。
 
夜泣きする子ども、泣き叫ぶ子どもを目の前にして、どう接したらいいかわからないのが当たり前です。
 
 
私の家では、おじいちゃんとおばあちゃんがいました。
 
同居していたので、子育てを力強くバックアップしてくれました。
 
 
しかし、祖父母と同居している家庭が少ないという現状で、親は手探りで子育てをしています。
 
子どもとの楽しい生活が始まると思っていたのに、子どもとのかかわりが苦痛になってしまう。
 
 
 
言うことをきかないわが子にイライラして、虐待に至ってしまう家庭があります。
 
 
このように虐待が起きますが、問題はその親に対する世間の人びとの「まなざし」です。
 
メディアも悪人扱いして報道します。またニュースや情報を受けた人も「とんでもない親」と言います。
 
行政も「とんでもない親」と捉え、虐待防止に取り組みます。
 
しかし、「かわいいわが子を虐待するなんて」と非難する人は、自分が子育てで途方にくれたり、泣く子どもをどうやったら泣き止むのかわからず思い悩んだことなど、すっかり忘れてしまっています。
 
その親が、孤立無援のなかで、誰にも相談できず、手探りで子育てをしたが、うまくいかずどうしていいかわからず、立ちすくんだ結果であると思いを馳せる人がどれだけいるでしょう。
 
もともと子どもを愛していなかった親はいないはずです。
 
かかわり方がわからないのです。
 
悪人の親がいるのではない。
 
子育てのやり方がわからない親がいるだけです。
 
今の時代、もっと子育てをする親に、世間や社会や行政が温かい「まなざし」を向け、孤立しがちな子育てに想いを寄せ、サポートするしくみが求められます。
 
 
 

わが子を尊重するとは

2019年06月04日 16時04分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
お子さんの将来の進路について、親子で意見がくいちがうとき、どうするか。
 
親は親として、わが子にこんな道に進んでほしいという願いがあります。
 
子どもには子どもとして、自分はこんなふうに生きていきたいという意志があります。
 
両者が一致すればいいのですが、一致しない場合にはどうすればいいのでしょうか。
 
親が子どもの人生を心配するのは当たり前です。
 
でも、その人生がいったい誰のものかを考えれば、優先すべきは、ある程度明らかです。
 
子どもの人生であるのだから、いくら親だといっても、親は基本的に子どもの意見に異議をいうことはできません。
 
だからといって、わが子に何も言ってはならないのかといえば、それは違います。
 
親は、「こうしてほしい」という願いは、わが子に伝えればいいのです。
 
その上で、子どもが「こうしたい」という考えを尊重すべきだと、私は考えます。
 
 
たしかに、経験の少ないわが子です。子どもが思う進路の目標に口出ししたいのは、親なら当然です。
 
失敗させたくない。
 
しかし、それがわが子の取り返しのつかない失敗、いのちに関係する失敗でないのなら、失敗しないように親が先回りするのはよくないのでないかと、私は思います。
 
この先回りは、言葉としてはふさわしくないかもしれませんが、おやからの「介入」です。
 
介入したいのは、失敗したときに、子どもがその責任を取れないと大人が考えているからとなります。
 
わが子を信頼しているかは、こんなときに問われてます。
 
大人が子どもを尊重するとは、こういうことなのだろうと思います。
 
では、親はわが子に何もいえないのかというと、そうではないのです。
 
親の願いは伝えればいいですし、こうしてほしいと伝えたらいいのですが、決めるのは子どもであるということです。
 
また、子どもが「助けてほしい」と言ってくれば、親は協力できます。

答えは自分の中にある

2019年06月03日 07時08分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
 
 
 
教育専門員をしていて、箕面市内の中学校8校をまわり、若い先生を指導していると、教員から授業のことで相談を受けることがときどきあります。 
 
基本的に、私はいつも「答えは自分の中にある」と考えています。
 
そのとき、私は「こうしなさい」と答えを先に言うよりも、できるだけ本人が考えるように仕向けます。 
 
ただし、「自分で考えなさい」と返しても、教職経験の少ない分、考えるにも考えられないという状況にあるので、相談を持ちかけてくるのです。 
 
だから、まず何点か質問をして、情報を整理して、考える筋道をつけます。そして「こんな方法もある」「この点には留意しておく必要はある」・・・。 
 
そのうえで、本人がどうすべきかを考えられるようにアドバイスをします。 そして、私が教員に求めることは・・・ 
 
「人の話に答えを求めるのではない。答えはすべて自分の中にある」です。  
 
 
 
これは、中学生からの相談に対しても、もう年齢が大人に近い発達段階に入っているので、私は同様にしてきました。 
 
助言はあくまで助言として受け止め、本人自身がよく考え、自分に深く問いかけることで、どうすべきが見えてきます。
 
 中学生はじっさい、自分で解決できる存在であると、私は信じていますし、そのとおり、自分で答えを出した生徒がいます。
 
人が成長して、育ってくれるのはこういうことだと考えます。