【TV放送記念・船岡編】タモリさんを案内したガイドと、船岡山50万年凸凹ツアー!
~磐座、中世墓地、城郭遺構、近代神社…生と死が交わる、京都の北のキワへ~
少し早く着きすぎたので千本通周辺をうろうろ。
乾隆校って歴史があるんですね!
上京第1番組小学校ですって。
門構えもすてきです。
バス停乾隆校前に集合。出発時には雨がザンザカ降ってきましたよ。
まずは北上、この世とあの世の境目、引接寺(千本えんま堂)。
昔は一人一人のお墓というものはなく『共同墓地』。個別の墓石はなかった。
それらを供養するための石塔がこれと説明されたのが、えんま堂の石塔。
以前えんま堂に行ったときにもらったリーフには『紫式部を供養する石塔』との説明も。
「無縁仏の供養のため」説の方が、円阿上人のありがたさが感じられるような気も。
えんま堂の奥には、お地蔵さんがいっぱい並べられ、その前には水がはられ、
水供養というのでしょうか、ひしゃくでお地蔵さんに水をかける場所がつくられています。
奥の方のお地蔵さんは、昔の墓石ではないか、と言う説明もありました。
昔は千本にも火葬場があり、旧楽只小(廃校になったそうです)のあたり、
お葬式はえんま堂で送り鐘をついてもらい、火葬され、船岡山に運ばれたのではないか。
十二坊の蓮台寺のお墓を見学していざ船岡山へ。
蓮台寺には土蜘蛛の塚もありました。
ここで昔の墓と現代の墓の違い。
明治に家制度ができて**家の墓と言う様式になった。
江戸時代までは個人名の墓(圓光寺に村山たか女の墓がありましたね)、もしくは名が刻まれない墓。
これは古墓をまとめたものらしい。
蓮台寺を出て千本通を北に。
千本鞍馬口のマンション前に大きな楠。
ここは古くは蓮台寺の塔頭(たっちゅう)のあった跡、その庭園にあったものではないか。
鞍馬口の交差点から北側の千本通はぐっと傾斜がきつくなっています。
「京都盆地は紙屋川水系の扇状地。鞍馬口から北側は紙屋川もぐっと下の方を流れている。」
たしかに、北大路の橋から見下ろす紙屋川は断崖絶壁のように深い。
旧楽只小の南側の道を船岡山にむかいます。高い階段が見えてきました。
階段を登り進んでいくと、磨崖仏。
よくわかりません。この筋が…という説明の時には後ろの方にいたので。
こちらが配付資料の写真。59年にはこんなにくっきりしていたんですね。
今は摩耗がきつくてどれがそうなのか、よくわからないけれど、
両者を見比べると、これかな?という気もします。
さらに頂上を目指します。
この見取図の赤い線に基づいて歩きました。
展望台まであがると左大文字がすぐそばに見えました。
雨じゃなかったらもっと鮮明に見えますね。
このあと、船岡山城の痕跡めぐり。 ウィキペディアによると、
応仁の乱の時に西軍が立てこもった城とのこと。
縱堀、横堀、塹壕のようなもの、そこに隠れていて敵を討つみたいな。
横堀を歩きました。
この土塁の手前の深くなっているところが横堀。
土がふかふかして弾力を感じました。
横堀にかけられた橋。
船岡山って水も流れていないの橋が架かっているよね、と思っていたのですが、
中世の城跡だったとは。
建勲神社まで行って、建物の説明。
日本に神道が生まれたのは明治になってから。
「別格官幣建勲神社」
「官幣」というのは、国家神道で認められた神社であることを示しているそうです。
国家神道に組み入れられるためには、古事記に出てくる神様をまつらなくてはならなかったとかで、
祇園社も八坂神社と改名させられて、祭神が牛頭天王だったのに、須佐之男命を組み込まれたとか。
建勲神社は祭神が織田信長。明治2年に創立。
なので、神社庁による『制限図』に基づき建築がされたとか。
昔の神社に拝殿はなかったそうです。この拝殿、ずっと能舞台かなと思っていました。
拝み方も、「二礼二拍手…」は明治になってから定められたものだそうで、
「日本の伝統」ときつく言っている方がたの
「伝統」は150年前に定められたことが基準のよう。
最後に、船岡山公園で公会堂やラジオ塔、広場などの見学でフィニッシュ。
これは広場にある噴水的なもの。昭和10年(1935年)製。
当時としてはとてもモダンなものだったのではないでしょうか。