CubとSRと

ただの日記

柔道と柔術の違い

2020年05月02日 | 重箱の隅
 「柔道と柔術の違い」って、あんまり考えたこと、ないんじゃないでしょうか。これまた、何となく、なんですが。

 「柔道と柔術?柔道は『道』を目指して、柔術の方はただの『術』、だろう?やっぱり『道』って言ってる方が偉いんじゃないのか?」
 、なんて思ってません?
 それ、間違いとは言えないけど、でも、あまりにも皮相的な見方なんじゃないでしょうか。

 「道」というのは、「目指すもの」ではなく、「歩むもの」、つまり「生き方」のことです。
 仏の教えを心に、教えのままに生きようとするのを「仏の道の修行」と言います。「仏道修行」です。行住坐臥、仕事をしている時も休んでいる時も、坐っている時も、臥せている時も、四六時中仏の教えのままに生きようとする。これが仏道修行。
 「神様が常に『見てござる』から、清く明るく正しく直き心で生きよう」というのが神ながらの道、「神道」です。
 お茶を通して、人と真剣に接しようとする生き方を「茶道」と言い、生け花を通してなら「華道」。

 だったら、「柔道」は「柔(やわら)の心で生きること」を指す、ということです。
 勿論、この「柔(やわら)」は「柔らか」という語ではなく、「柔術」のことですから、「柔術の極意を体現しようという気持ちで生きること」が「柔道」です。
 ついでながら「剣道」も同じことで「剣の心」ではなく「剣術の極意(心)を~」です。
 またまたついでながら、「仏道修行をする」とは言いますが、「仏道をする」とは言いませんから、「柔道をする」「剣道をする」とは言わず、「~を習っている。~の稽古をしている。」というのが収まりが良いでしょう。

 嘉納治五郎は寺の本堂を稽古場として借りて、そこを「講道館」と名付けた。
 「仏道修行の場」で「柔の道」の修行をする。ここでは「修業」ではなく、「修行」という言葉がぴったり来ますね。
 「仏道修行」「神道修行」、と、それぞれの心で生きるのならば、「柔道修行」の「柔の心」は前に書いた通り、柔術のことですから、具体的には柔術の稽古を通して手に入れるしかありません。

 「柔の技の稽古」って・・・柔術じゃないか!じゃ、「柔道」なんて言わず、「柔術道」と言えばいい。
 「柔術道」!!・・・・・語呂が悪いですね。
 で、「仏道」「神道」と同じく「柔道」、とした。

 中身は「~流柔術」と同じことをするわけです。
 だったら、柔道と柔術と何が違うんだ。・・・・・何も違わない。
 ということで、「柔道と柔術」、その違いは「道」を意識するか否か、でしかない、ということになりました。

 では、「柔術」を習う者は、「生き方なんか関係ないから」、ということで、それこそ暴れ者の、格闘好き、喧嘩上等!が出来上がるのか。
 そんなバカな話はありませんね。それどころか柔道より柔術を習っている方が人格者だったりする。眉唾、じゃないんですよ。ちゃんとした理由があります。

 何らかの技術を習う時、人は当然、先人(師匠)の教えを聞き、理解し、技を我が物にしようと努力します。その過程で、「ひたむきさ」とか、「謙虚さ」、「探究心」、時には「思い遣り」等までも学んでいきます。
 自らの工夫、ではなく、まずは「習う(倣う)」ことから始めるしかありません。
 ここで得たことは、当然その人の生き方(物事の見方)になっていきます。
 だったら、「柔術」の方だって、「道」という言葉をわざわざ使ってはいないだけで、同じく「精神の修養」をしていることになる。

 ホントに「柔道と柔術」、一体どこが違うんでしょう。

 結論を言うと、実は、この二者の違いは「心の在り方」ではなく、稽古方法にあるんです。
 そして、その稽古方法を見ると、柔道より柔術の方が、よっぽど真面目に(というより、愚直に)「道」を歩もうとしていることが分かります。


 というわけで、次回はその証拠である「乱取り」について考えてみようと思います。
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技をつくる(習得する)

2020年05月02日 | 重箱の隅
2012.08/09 (Thu)

 柔道と柔術の違いは、道を意識しているか否かにあり、一見「道」という字が入っている「柔道」の方が精神的に高いものに見えるけれども、実際には柔術だって同じ精神性を持っている。
 それどころか、却って道という字を「流儀名」に入れると同時に、早く技に習熟するために乱取りを取り入れた柔道の方が、技の上達するのは早いけれども、柔「道」ではなくなる可能性が高くなった。
 それは同時に、武術の本来の目的である「命のやり取り」という覚悟を、ともすれば失念させてしまうことでもあった。
 ・・・・・・みたいなことを書いて来ました。

 それで、今回は柔道がその利便性の故に手に入れたものと失ったものについて、と思っていたのですが、気が急く余りに、前回の最後に付け足したように、「技の習得」についてほとんど書かないで終わってしまいました。

 「柔道と柔術の違い」で、「技のつくり方」について書かねばならなかったし、「乱取りって何?」でも、同じく「技のつくり方」について「受け身と畳」のことに触れて置かねばなりませんでした。
 というわけで、ちょっと足踏み、です。遠回りのようですが、避けては通れないことですので、お付き合いください。

 「柔道」を習われた方は、まず、受け身を習い、次に手投げ技、腰投げの技、足(投げ?)の技、捨て身の技と習われたのではないでしょうか。
 それから実際に「技を掛ける練習」として、何十本ずつか、「打ち込み」と称する投げる寸前までの体捌きを反復練習する。
 そして、習い始めて数か月で「乱取り」の稽古を許される。

 「剣道」も同じです。違うところは「受け身」がないこと。打ち方を習い、打突部位に(刀を)切込む練習をし、「互角稽古」を許される。受け身がないだけで大まかなところは一緒です。(受け身がない代わりに防具があります)

 柔道では受け身を習い、数か月後には乱取りをする。
 剣道では打ち方を習い、数か月後には互角稽古をする。
 「ん?何が違うんだ?」と思われた方もあるかもしれません。
 初めに受け身を習うか、打ち方を習うか。正反対です。
 受け身は「身を守るため」、ではなく、稽古の中で「負ける」ため、ですが、打ち方の方は「勝つこと。相手を倒すこと」だけです。

 「受け身」の言葉で分かるように、「取り」に対するのが「受け」で、習い始めた者より技前が上、であることが大前提です。それなのに、初心者が「受け手」の練習から入る、というのは、ちょっと妙です。
 でも、乱取りをはじめたら、上とか下とか決まってない。投げられて受け身を取った方が「受け手」となり、上位ということになる。これまたややこしい。
 まあ、一言で言うと、「負けてやるんだ」という大人の風を以て稽古をしなければ逆に技は覚えられない。
 だから受け身に慣れる方を先にした。併せて畳の使用で安全性は確保できる。(柔道の練習を「畳水練」と揶揄されたのはここが原因です。)

 剣道の技は切りおろし(正面打ち)、袈裟切り(大半は左右面)、小手打ちを習いますが、中心となるのは正面打ちと左右面打ちで、これを延々と繰り返します。そのうえで「形が崩れなくなれば」基本の打ち込み方の練習をする。

 柔術はどうか。
 柔術は本来、いきなり技の掛け方を教わります。そしてその流儀の「型」を習います。受け身は多くの型を習ううちに、少しずつ覚えていきます。それで終わりです。「乱取り」はありません。
 流儀の技は師範、師範代、最悪の場合でも、高弟が教えるからです。同じ立場で技を掛け合うことに意味を見出さない。
 修業者は、上位の者に技を教えられ、上位の者のところに辿り着き、あわよくばそれを超えて一流一派を立てればいいのであって、その時々に技を掛け合い、「どっちが強い」とか「今度は負けんぞ」とか言って、そこから「勝ち負けの楽しみ」を見出すことは考えない。それは柔術の稽古の本意ではないのですから。

 勿論、本来嘉納治五郎が「乱取り」という稽古法を取り入れたのは、
 「勝ち負けを明らかにすることで、稽古を楽しく行う」
 ためではありません。
 嘉納は
 「修業者が、自身の技がどの程度のものなのか、自覚すること(己の位置、修業の度合いを確認すること)は、稽古・修業の支えになる」
 と考えたから、です。
 嘉納は間違いなく「柔道」とは精神修養の道である、としていた。

 剣術はというと、時代劇などでよく「荒稽古で有名な道場」、なんてのが出てくる。木刀で激しく打ち合ってますよね、鉢巻なんかして。
 でもあんなことしてたら道場の門人は、一日で半減しますよ。
 大怪我して二度と木刀、持てなくなる。毎日、とまではいかずとも週に一人、そんな怪我人が出るとその道場は潰れます。
 だから、「連日、激しく、木刀で打ち合う道場」、これはウソ、です。
 剣術の道場も柔術と同じ。木刀を持って、仕太刀の型を習う。そして上位者に打太刀をやってもらう。これをひたすら繰り返す。互角稽古はありません。そうするしかなかったのです。
 流儀独自の剣捌きを素振りと共に習い、併行して少しずつ型を習う。それに必要な体力と腕力は徐々に出来てくるし、型を習うということは体捌きを習うと同じ事ですから、傍目にいくら味気ない練習であっても、要は本人の気持ち次第。

 つまり、柔術も剣術も稽古の中に「勝負」の面白さなど、ない。
 そりゃそうです。武術は「勝ち負け」「優劣を明らかにする」ではなく、「命のやり取り」が目的なのですから。百回勝っても一回命を取られたら、それでおしまい。
 百回負けても一回命を奪ったらそれでおしまい。

 相撲でも、「稽古の中で」勝ち負けは重視されません。興行相撲はともかく、神様と相撲を取れば、人は必ず負けるし、「隠岐の古典相撲」というのは必ず二回続けて戦って、一回目の勝者は二回目には負けることになっています。
 「八百長だ!」ではないのです。勝負の形式を採りながら、勝負はどうでもよい。大事なのはそれぞれの力士がそれぞれの産土神の依り代として、地域の期待を背負って、力一杯ぶつかり合うことです。そこで、地域の人々の心が一つになる(あの猛吹雪のような塩撒きを見れば分かります)。
 これが古典(古来からの典礼)相撲と言われる所以です。

 柔術、剣術(相撲も)は、このように、まずは基本となる体捌き・剣捌きを覚え、型を並行して覚え、飽きることなく繰り返すことで、「命のやり取り」の際に遣う、「技」と「心(境地)」を養って来ました。
 そのために、単純にどのくらい独り稽古をするのか。
 柔術では、当て身も重要な技法ですから、突き・蹴りの練習もします。流儀によっては「数稽古」と言って、昇級の際に同じ型を数千回遣わせるのだとか。
 剣術の場合は、日に千回の素振り、とか三千回素振りをするとか、あの示現流のように「朝に三千、夕べに八千」立て木を打てと言ったりする。

 柔道はどうでしょうか。東京オリンピックの後、金メダルを取った或る選手が、独り稽古の型の写真版の教本を出しましたが、現在、空手や拳法の単独型のように、「背負い投げ、払い腰等、単独で一日千回繰り返しています」、なんて人、一体どれほどいるのでしょうか。
 以前に書いた、南樺太代表の稽古相手がなくて連日立木相手に足払いの練習ばかりしていた選手。
 空手の巻き藁突きや示現流の立木打ちと同じく、その破壊力は大変なもので、遂に準優勝を勝ち取ったとか。
 剣術や拳術、或いは古伝の柔術に比べ、柔道で「技をつくる」ということには、どれだけの時間(割合)が費やされているのでしょうか。

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まずは無計画のお詫びを

2020年05月02日 | 重箱の隅
2012.08/02 (Thu)

 「柔道を通して日本人の在り方を見る」、なんて書き始めたものの、これで何回目の書き直しでしょうか。いくら書き直してもすぐ脱線して深みにはまってしまいます。

 「何故だろう」と考えてみて、やっと気が付いたのは、これ、そう簡単に一回や二回で書けるような代物じゃない、ということでした。
 「何を今さら」と言われそうです。どこかの総理大臣じゃないけれど、やっぱり「知れば知るほど」、です。

 考えるについて知っておかねばならないことが沢山あり、それを簡単に記述するだけで、おそらくは四、五回分になる。そこから今度は考え方に踏み込まなければならず、当然の如くに、これまた四、五回。これじゃどうにもならない。
 第一、柔道の門外漢が書くグダグダ日記を、10回も15回も読みに来られる奇特な方はあるまい。

 と言うわけで、書き直してばかりじゃどうにもならないので、言葉不足になることを覚悟の上で、問題点を挙げるだけ挙げ、その上で、結論だけ書いておこうと思います。

 「柔道を通して日本人の在り方を見る」。
 そのために
 「地獄への道は善意という名の敷石で敷き詰められている」
 これをヒントとする。

 まずは「柔術と柔道の違い」(技と心のつくり方)
 
 次に「乱取りとは何か」。(語意と目的)

 「柔道が手に入れたものと失ったもの」(柳生剣禅道場のこと)

 「柔道とJUDO」(試し合いからゲームへ) 

 「稽古着(柔道着・道着)の丈」

 この辺りを個々に、それに続けて、全体を見直したなら
 「最低限の知識を以て考えたなら、こんな答えが出てくる」
 となるでしょう。
 それが掴めたなら、日本の(知らず)進もうとしている道も、はっきりするのではないか、と思っています。

 「たったこれだけのメモでは、どうにもならない」と思われるかもしれません。
 ところが、我々日本人は、いつも「こんなメモさえ」、残そうとはしなかった。それで全く不都合はなかった。他の手段を持っていたからです。

 「思い出はいつも美しい」と言われます。
 勿論、中には「いつまでたっても苦々しいままだ」、と言われる方もあるでしょう。
 けれど、そんな「いつまでたっても苦々しい思い出」だって、或る日突然、本当に唐突に、「美しい思い出」に変わることがない、とは言い切れない。それは間違いなく「認識の働き」だからです。

 記録(メモ)をして、その都度考えてみる。それによって、新しい発見、新しい視点が見つかるかもしれない。その時、これまでとは違った解釈法が、突然見えることもある。

 「認識」となると、「分かる」も認識の一形態ですから、本を一回読んで、「全てが分かった!」と思った人だって、同じ本をもう一度読めば、一回目には気付かなかった新しい「分かった!」がある筈です。
 じゃ、三回目はどうか。そして四回目はどうでしょうか。

 頭の良い人を、「よくあんな難しい本、一回読んだだけで分かるよなぁ」と感心し、羨望の目で見ていたものですが、この伝でいくと、頭の良い人だって、一遍読んで分かった以外に、二遍目はまた新しい発見がある筈です。

 そう考えたら、繰り返し同じ本を読む、繰り返し同じ音楽を聴く、繰り返し同じテレビ番組を・・・というのは、誰だって同じ効果(認識の深まり)が期待できるということになります。
 特殊な例では、刑事の「現場百遍」、というのも全く同じことでしょう。「読書百遍、意自ずから通ず」も、です。

 ならば「たったこれだけのこと、覚えられるんだからメモする必要もない」などと言わず、その都度全く同じようでも、メモし直してみるべきでしょう。
 それは間違いなく認識を深めることになり、問題の解決のための(程度は把握できずとも)確実な手助けとなる筈ですから。
 それ故の、古人の残した道歌・口訣であり、或いはことわざ、そして時には慣用句でした。これらは全て「認識を深める」ための手段となっていました。
 これ、全て「その都度、全力で考える」ということです。

 日本人は、いや、日本の文化というのは、「これ(その都度、全力で考える)」によって、外国からも大変な量の情報を採り入れながらも、主体性を失うことなく今に至っています。

 けれど、今、何かにつけ、日本人は「たったこれだけのこと、メモする要もない」としていませんか?「欲しい情報はすぐネットで手に入るし」、と。
 その結果、大概のことはコピペで済ませてませんか?

 「鉛筆は鉛筆削り器で削ればいい。小刀は危険だから持たせない」となって、もう数十年、いや半世紀以上になります。
 柔道の道歌・口訣など、聞くことがあるでしょうか。こどもが年寄りから、普段にことわざや土地の慣用句などを教えられぬようになって、どのくらい経つのでしょう。

 「柔道」は、合理性ではなく利便性を採ったがために、流行しました。
 その代わりに「柔道」の本質に係わる柔「術」を蔑にした結果、柔「道」でなくなって来ています。
 日本も敗戦後、国の「合理」性を基とした発展でなく、「利便」性を基とした発展を目指したため、経済大国になりました。
 その代りに本質である「我が国の文化」を蔑にしてきた結果、日本文化ではなくなって・・・・・。

 これじゃあ、あんまり酷い日記です。
 というわけで、最初に挙げたいくつかの問題について書いていこうと思います。

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柔道を通して日本人の在り方を見る

2020年05月02日 | 重箱の隅
2012.07/31 (Tue)

 7月31日付けの「夕刻の備忘録」から

 「グローバル化と日本柔道」と題した文を転載します。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 悲惨なものを見せられた。
 毎度毎度、これだから「五輪は見たくない」と思わされる。
 世界最高のアスリートが集まって、その技術の粋を競う。
 ならば、それを仕切る審判員も世界最高であるはずだ。

         (略)

 昨今のスポーツも幼児から始めなければ、なかなかトップレベルにまで達しないような仕組になってきた。その結果、小さい時にするべき経験をする機会を失った、バランスを欠いた奇妙な選手が増えてきた。俗な常識はあるが、深みの無い、軽薄な人間が多くなった。そうしたのは篤志家を失った今の社会構造である。世相に媚びなければ、練習費も捻出出来ない、そんな現代の越後獅子には、同情を禁じ得ない。

 そして、そこまでして手に入れた日本代表の、その晴れの舞台で、夢は無残に打ち砕かれる。政治的な思惑や、裏取引が支配した、薄汚れた世界が大舞台を穢し続けている。

               ★ ★ ★ ★ ★

グローバル化とは、こういうことなのだ。
日本柔道の現在置かれた立場を見れば、その本質が分かるはずだ。

        (略)

 自らは技を掛けず、乱れた道着を直そうともせず、帯も緩められるだけ緩めて、まるで起きたばかりの寝間着姿のような選手が、畳の上を走り回って、可能な限り相手と接触する機会を減らし、一本技が成立することを忌避している。そのくせ、禁止されている危険な技を使ってまで、相手を痛め付けようとする。そして、それが咎められなければ、平気な顔で続行する。試合が終われば一人前の紳士を気取る。最悪の性格である。

果たしてこれが柔道なのか。

         (略)

 こういうことを書くと、直ぐに「時代が違うから」という人がいる。何が違うのか、何処が違うのか、教えて貰いたいものである。今も昔も、日本人は勝負を二の次においてきた。勝ち負けよりも貴いものを知っていた。それは厳然として残っている。

 その証拠に、我が国で最も大切にされるのは、「勝った後」であり、「負けた後」の態度であることは何も変わっていない。たとえ金メダルを取ったところで、競技場内で暴れ回り、負けた相手選手のことを目の端にも入れないような選手は評価されない。たとえ初戦で敗れようとも、一言の言い訳もせず、悔しさを押し殺して、「応援してくれた人達に申し訳なかった」と静かに去りゆく者に、批判の声を浴びせる者などいないのである。

 しかし、マスコミが中心となって、グローバル化という名の勝利至上主義、商業主義を煽った。そして、それを取り入れた結果、「何を言っても勝たなければ無意味」「負けたら補助金を返せ」「税金で遊ぶな」といった下劣な声が次第に大きくなってきた。これこそ勝利至上主義・拝金主義の齎す人心の荒廃そのものである。

         (略)
 絶対に許せないのは、明らかに不正を行っている選手であり審判である。
 それを恥じない連中が、過半数を占める大会なら、それは心を失った獣どもの力比べに過ぎない。
 もしそうであるならば、五つの輪は獣どもの首輪、その象徴に過ぎない。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 あまりにも飛び飛びなので、申し訳ないのですが、何しろ自分勝手なものですから。
 オリンピックでの柔道ならぬ「JUDO」のことから、「柔道」の持っていた、初めから分かっていた諸問題が次々に現実のものとなっていくのを見て、将に
 「地獄への道は善意という名の敷石で敷き詰められている」
 の典型が柔道ではないか、と。

 つまり、これは「このままでは日本という国が間違いなく歩むことになるであろう地獄への道」の予告編ではないか、と感じたのです。

 予告編、ということで、本編は次回に引きずり、いや、引っ張ります。

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