「柔道と柔術の違い」って、あんまり考えたこと、ないんじゃないでしょうか。これまた、何となく、なんですが。
「柔道と柔術?柔道は『道』を目指して、柔術の方はただの『術』、だろう?やっぱり『道』って言ってる方が偉いんじゃないのか?」
、なんて思ってません?
それ、間違いとは言えないけど、でも、あまりにも皮相的な見方なんじゃないでしょうか。
「道」というのは、「目指すもの」ではなく、「歩むもの」、つまり「生き方」のことです。
仏の教えを心に、教えのままに生きようとするのを「仏の道の修行」と言います。「仏道修行」です。行住坐臥、仕事をしている時も休んでいる時も、坐っている時も、臥せている時も、四六時中仏の教えのままに生きようとする。これが仏道修行。
「神様が常に『見てござる』から、清く明るく正しく直き心で生きよう」というのが神ながらの道、「神道」です。
お茶を通して、人と真剣に接しようとする生き方を「茶道」と言い、生け花を通してなら「華道」。
だったら、「柔道」は「柔(やわら)の心で生きること」を指す、ということです。
勿論、この「柔(やわら)」は「柔らか」という語ではなく、「柔術」のことですから、「柔術の極意を体現しようという気持ちで生きること」が「柔道」です。
ついでながら「剣道」も同じことで「剣の心」ではなく「剣術の極意(心)を~」です。
またまたついでながら、「仏道修行をする」とは言いますが、「仏道をする」とは言いませんから、「柔道をする」「剣道をする」とは言わず、「~を習っている。~の稽古をしている。」というのが収まりが良いでしょう。
嘉納治五郎は寺の本堂を稽古場として借りて、そこを「講道館」と名付けた。
「仏道修行の場」で「柔の道」の修行をする。ここでは「修業」ではなく、「修行」という言葉がぴったり来ますね。
「仏道修行」「神道修行」、と、それぞれの心で生きるのならば、「柔道修行」の「柔の心」は前に書いた通り、柔術のことですから、具体的には柔術の稽古を通して手に入れるしかありません。
「柔の技の稽古」って・・・柔術じゃないか!じゃ、「柔道」なんて言わず、「柔術道」と言えばいい。
「柔術道」!!・・・・・語呂が悪いですね。
で、「仏道」「神道」と同じく「柔道」、とした。
中身は「~流柔術」と同じことをするわけです。
だったら、柔道と柔術と何が違うんだ。・・・・・何も違わない。
ということで、「柔道と柔術」、その違いは「道」を意識するか否か、でしかない、ということになりました。
では、「柔術」を習う者は、「生き方なんか関係ないから」、ということで、それこそ暴れ者の、格闘好き、喧嘩上等!が出来上がるのか。
そんなバカな話はありませんね。それどころか柔道より柔術を習っている方が人格者だったりする。眉唾、じゃないんですよ。ちゃんとした理由があります。
何らかの技術を習う時、人は当然、先人(師匠)の教えを聞き、理解し、技を我が物にしようと努力します。その過程で、「ひたむきさ」とか、「謙虚さ」、「探究心」、時には「思い遣り」等までも学んでいきます。
自らの工夫、ではなく、まずは「習う(倣う)」ことから始めるしかありません。
ここで得たことは、当然その人の生き方(物事の見方)になっていきます。
だったら、「柔術」の方だって、「道」という言葉をわざわざ使ってはいないだけで、同じく「精神の修養」をしていることになる。
ホントに「柔道と柔術」、一体どこが違うんでしょう。
結論を言うと、実は、この二者の違いは「心の在り方」ではなく、稽古方法にあるんです。
そして、その稽古方法を見ると、柔道より柔術の方が、よっぽど真面目に(というより、愚直に)「道」を歩もうとしていることが分かります。
というわけで、次回はその証拠である「乱取り」について考えてみようと思います。
「柔道と柔術?柔道は『道』を目指して、柔術の方はただの『術』、だろう?やっぱり『道』って言ってる方が偉いんじゃないのか?」
、なんて思ってません?
それ、間違いとは言えないけど、でも、あまりにも皮相的な見方なんじゃないでしょうか。
「道」というのは、「目指すもの」ではなく、「歩むもの」、つまり「生き方」のことです。
仏の教えを心に、教えのままに生きようとするのを「仏の道の修行」と言います。「仏道修行」です。行住坐臥、仕事をしている時も休んでいる時も、坐っている時も、臥せている時も、四六時中仏の教えのままに生きようとする。これが仏道修行。
「神様が常に『見てござる』から、清く明るく正しく直き心で生きよう」というのが神ながらの道、「神道」です。
お茶を通して、人と真剣に接しようとする生き方を「茶道」と言い、生け花を通してなら「華道」。
だったら、「柔道」は「柔(やわら)の心で生きること」を指す、ということです。
勿論、この「柔(やわら)」は「柔らか」という語ではなく、「柔術」のことですから、「柔術の極意を体現しようという気持ちで生きること」が「柔道」です。
ついでながら「剣道」も同じことで「剣の心」ではなく「剣術の極意(心)を~」です。
またまたついでながら、「仏道修行をする」とは言いますが、「仏道をする」とは言いませんから、「柔道をする」「剣道をする」とは言わず、「~を習っている。~の稽古をしている。」というのが収まりが良いでしょう。
嘉納治五郎は寺の本堂を稽古場として借りて、そこを「講道館」と名付けた。
「仏道修行の場」で「柔の道」の修行をする。ここでは「修業」ではなく、「修行」という言葉がぴったり来ますね。
「仏道修行」「神道修行」、と、それぞれの心で生きるのならば、「柔道修行」の「柔の心」は前に書いた通り、柔術のことですから、具体的には柔術の稽古を通して手に入れるしかありません。
「柔の技の稽古」って・・・柔術じゃないか!じゃ、「柔道」なんて言わず、「柔術道」と言えばいい。
「柔術道」!!・・・・・語呂が悪いですね。
で、「仏道」「神道」と同じく「柔道」、とした。
中身は「~流柔術」と同じことをするわけです。
だったら、柔道と柔術と何が違うんだ。・・・・・何も違わない。
ということで、「柔道と柔術」、その違いは「道」を意識するか否か、でしかない、ということになりました。
では、「柔術」を習う者は、「生き方なんか関係ないから」、ということで、それこそ暴れ者の、格闘好き、喧嘩上等!が出来上がるのか。
そんなバカな話はありませんね。それどころか柔道より柔術を習っている方が人格者だったりする。眉唾、じゃないんですよ。ちゃんとした理由があります。
何らかの技術を習う時、人は当然、先人(師匠)の教えを聞き、理解し、技を我が物にしようと努力します。その過程で、「ひたむきさ」とか、「謙虚さ」、「探究心」、時には「思い遣り」等までも学んでいきます。
自らの工夫、ではなく、まずは「習う(倣う)」ことから始めるしかありません。
ここで得たことは、当然その人の生き方(物事の見方)になっていきます。
だったら、「柔術」の方だって、「道」という言葉をわざわざ使ってはいないだけで、同じく「精神の修養」をしていることになる。
ホントに「柔道と柔術」、一体どこが違うんでしょう。
結論を言うと、実は、この二者の違いは「心の在り方」ではなく、稽古方法にあるんです。
そして、その稽古方法を見ると、柔道より柔術の方が、よっぽど真面目に(というより、愚直に)「道」を歩もうとしていることが分かります。
というわけで、次回はその証拠である「乱取り」について考えてみようと思います。