2010.10/27 (Wed)
今回、二回に分けての入院の筈が、予期せぬことで、一回にまとまってしまい、計二週間の予定の、既に十一日目。
最初に「読書三昧」を予定して本を持って来てもらったのが三日目。
九日かかって、やっと持って来てもらった本、4冊を読み終わりました。
随筆を一冊と、あとは、今回も何度か書いている若狭和朋氏の「日本人が知ってはならない歴史」シリーズ三部作です。(あっ、内緒にしてたんだった。)
以前より、拾い読みをしては、止め(休憩?)、を繰り返し、今になってしまっていました。
手には入れたものの、積み上げたままになっている本は、もう数十冊。一度も開いてない、というのはないけれど、このままでは、と思っていました。今回は、その意味で、良い機会。
三冊を読んでいる途中から思っていたこと。
「日本人であること」、「日本が誇れる国であること」、について、私は、「ただ気がついただけじゃ、駄目だ」と思っています。
確かに、歪曲を通り越して、捏造された事実(と言われるもの)を、歴史として教えられて来た。それに気付いただけでも、少なくとも愛国心は芽生える。
でも、それじゃ、また、次の瞬間に騙されます。催眠術にかかります。
日本人は「日本に生まれたから日本人」、なのではない。
「日本の文化を体現できてこそ日本人」であって、そのためには、「日々のそれなりの研鑽、努力が必要だ」と書いて来ました。だからこそ、の日本であり、日本人なのだ、と。
そこで、気がついたからには、習い始めなければならない。具体的な芸事、嗜みとしての、茶道、活け花、着付け、等々、何でもあり、です。
何しろ日本文化は奥が深い。
そして、「一芸に達すれば諸芸に通ず」、で、それらの日本文化の一つを究めようとし続けていると、急に「日本が見える」時が来る。
最後に、「気がついた」、「勉強した」、「見えて来た」なら、必ず書くこと、です。
今回、二回に分けての入院の筈が、予期せぬことで、一回にまとまってしまい、計二週間の予定の、既に十一日目。
最初に「読書三昧」を予定して本を持って来てもらったのが三日目。
九日かかって、やっと持って来てもらった本、4冊を読み終わりました。
随筆を一冊と、あとは、今回も何度か書いている若狭和朋氏の「日本人が知ってはならない歴史」シリーズ三部作です。(あっ、内緒にしてたんだった。)
以前より、拾い読みをしては、止め(休憩?)、を繰り返し、今になってしまっていました。
手には入れたものの、積み上げたままになっている本は、もう数十冊。一度も開いてない、というのはないけれど、このままでは、と思っていました。今回は、その意味で、良い機会。
三冊を読んでいる途中から思っていたこと。
「日本人であること」、「日本が誇れる国であること」、について、私は、「ただ気がついただけじゃ、駄目だ」と思っています。
確かに、歪曲を通り越して、捏造された事実(と言われるもの)を、歴史として教えられて来た。それに気付いただけでも、少なくとも愛国心は芽生える。
でも、それじゃ、また、次の瞬間に騙されます。催眠術にかかります。
日本人は「日本に生まれたから日本人」、なのではない。
「日本の文化を体現できてこそ日本人」であって、そのためには、「日々のそれなりの研鑽、努力が必要だ」と書いて来ました。だからこそ、の日本であり、日本人なのだ、と。
そこで、気がついたからには、習い始めなければならない。具体的な芸事、嗜みとしての、茶道、活け花、着付け、等々、何でもあり、です。
何しろ日本文化は奥が深い。
そして、「一芸に達すれば諸芸に通ず」、で、それらの日本文化の一つを究めようとし続けていると、急に「日本が見える」時が来る。
最後に、「気がついた」、「勉強した」、「見えて来た」なら、必ず書くこと、です。
文章化することにより、頭が本格的に日本人としての活動を始めます。
「講義」を受けて、蒙を啓かれ、「講読」によって、考え方を身につけ、「演習」によって、自分の考え方を自分で、自分の力だけで、つくっていく。
この、「講義、講読、演習」という形は、日本が素晴らしい国であればあるほど、おろそかにはできない。
掲げてみれば、当たり前過ぎるくらいのことかもしれません。
けれど、振り返って見て、どうでしょう。
「講義」を受けただけ、或いは気付いただけで、こと足れり、としていなかったでしょうか。
そうでなくとも、「講読(説明を聞きつつ、資料を読む)」、それは、まだ、自らに知識なり、考える力なり、が足りないから先導者の手助けを得て、ということです。
それで理解はできたとしても、「分かった」まで、至っているかどうか。
知識、考える力が足りないからこそ、先導者を必要とした筈でした。
ならば、それが本当に「分かった」のかどうか、実地にやってみる必要があります。
だからこそ、の「演習」です。
これで、力不足を痛感すると同時に、今の自分に何が足りないか、も分かる。
「日本の文化は奥が深い」、と書きました。
だから、全てを、というのはとても無理。第一、一人で日本人なのではない。それぞれが、それぞれの形で日本文化の研究に取り組むからこそ、奥の深い日本文化は受け継がれる。我々は「一芸に達すれば」に徹すれば良い。
(「あちこち」に続きます。)
「講義」を受けて、蒙を啓かれ、「講読」によって、考え方を身につけ、「演習」によって、自分の考え方を自分で、自分の力だけで、つくっていく。
この、「講義、講読、演習」という形は、日本が素晴らしい国であればあるほど、おろそかにはできない。
掲げてみれば、当たり前過ぎるくらいのことかもしれません。
けれど、振り返って見て、どうでしょう。
「講義」を受けただけ、或いは気付いただけで、こと足れり、としていなかったでしょうか。
そうでなくとも、「講読(説明を聞きつつ、資料を読む)」、それは、まだ、自らに知識なり、考える力なり、が足りないから先導者の手助けを得て、ということです。
それで理解はできたとしても、「分かった」まで、至っているかどうか。
知識、考える力が足りないからこそ、先導者を必要とした筈でした。
ならば、それが本当に「分かった」のかどうか、実地にやってみる必要があります。
だからこそ、の「演習」です。
これで、力不足を痛感すると同時に、今の自分に何が足りないか、も分かる。
「日本の文化は奥が深い」、と書きました。
だから、全てを、というのはとても無理。第一、一人で日本人なのではない。それぞれが、それぞれの形で日本文化の研究に取り組むからこそ、奥の深い日本文化は受け継がれる。我々は「一芸に達すれば」に徹すれば良い。
(「あちこち」に続きます。)