CubとSRと

ただの日記

(素朴な憤りその2)与党と野党の在り方

2020年05月05日 | 重箱の隅
2012.09/21 (Fri)

 テレビのコメンテーターが言う。
 「野党なんだから、足を引っ張るばかりでなく、対応政策を打ち出すべきじゃないか」
 「自民党の総裁選候補は、同じようなことばかり言ってるじゃないか」
 それに続いて
 「そんなことだったら、谷垣さんで良かったじゃないか。何で立候補やめたんだ」

 ムカッとしたので、なけなしの知恵(?)を絞って考えて、書き殴ってみた。
 けど、尖閣関連のことをもやもや考えていたら、一週間近くが過ぎてしまった。
 総裁選が終わらないうちに急いで挙げておこう。

 野党は政権批判・政府批判が仕事だろう?
 直接行政に係われないんだから、立法府の中で、行政に関して批判し、対案を提起、提示するのが仕事だ。

 「自分らが政権をとったら、こうするぞ」と話してやる。
 「この件、政府は一体どういうつもりでやっているのか。こうした方が良いのではないか」と批判、助言をする。
 決して何でもかんでも「反対」と言うわけではない。
 自民党はここ3年間、対案、提言をずっとしてきた。宮崎の口蹄疫の時も、今回の震災、津波、原発事故も政府与党に先んじて行動を開始した。

 その自民党の提案、提言を馬耳東風で聞き流してきたのはどこの政党だ?
 「あなた方には言われたくない」とジミンガー攻撃を繰り返してきたのはどこの政党だ?
 「何でも反対。でも政策は出さない」という、「何でも反対」党と自民党は違うぞ。その嘗ての「何でも反対」党が、今、現与党に入り込み、与党を牛耳っているじゃないか。

 それでも、追い込んで三党合意にまで持ち込み、野党ながら政策提案を政府に呑ませてきたのは自民党だろう?
 それを「更に新しく政策を出せ」、なんて、言う相手、間違ってるだろう?
 言うなら、バカの一つ覚えでばら撒きばかりやってきた、工夫のない現与党に言うべきじゃないのか。

 「自民党の総裁選候補は、同じようなことばかり言ってるじゃないか」
 野党の、それも第一野党の目指すのは、次期国政選挙で第一党になって、政権を手中にすること。これはどこの党が野党であっても同じこと。

 政権を手に入れて国政に与する。そのために結束する。
 ならば、第一野党のリーダーに似たような考えの人が立候補するのは当然じゃないか。
 大きく違う意見を持つ者が一人なら、その人は間違いなく落選する。
 半数も居れば党自体が容易にはまとまらない。そうなれば政権与党になることなど、「夢のまた夢」ではないか。
 微妙に違うからこそ、大人数の意見を「擦り合わせて納得」、に持って行ける。
 そうやってまとめるからこそ、表面上は「団結している」と言えるのだし、大人数になった分、「数は力」の原理が働き始め、政権が近寄ってくる。
 谷垣総裁はこの手法で、「自民党は間違いなく分裂する」と言われてきたのを見事に阻止し、僅か数名の離党者を出しただけで、この三年間、党を支えて来たのだ。
 氏が何事につけても鮮明に
 「方針に従え。結束せよ。できないものは離党せよ」
 とやっていたら、新田義貞の轍を踏むことになったはずだ。

 「だったら、谷垣総裁で良かったんじゃないのか?」
 その通り。
 けれど「覆水盆に返らず」、だ。どんな理由であっても、時間は戻せない。
 立候補を断念した理由が分かっても、その理由がなくなっても、同じことだ。
 既に5人の候補が立っている。
 そして、彼らは谷垣総裁の三年間を支持している。

 ここが肝腎なところだ。
 前代表を批判も非難もしていない。つまりこれは革命ではないのだ。
 だから、リーダーに選ばれたものは、他の候補者と再びスクラムを組んで行動できる。そこに谷垣総裁もいる。
 「国のために」と三顧の礼を以て迎えたら、喜んで一命を投げ出してくれる。
 そんな人物であったからこそ、三年間、自民党を守り切れたのではないか?

 これが今の野党第一党、自民党だ。

 
 
 もう与党のことは面倒になったので、やめる。
 実は余り書く気がしなかったので下書きが、ない。勢いで適当に書こうかと思っていた。けど、ここまで書いてもまだ書く気にならない。

 言いたいことは「野党自民党の在り方」の裏返し。


 政権与党は、自党の代表選なんかしている時ではあるまい。
 今は結束して、野党にも呼び掛け、国難にあたるべき時のはずだ。
 それをこの期に及んで、こっそり闇法案を閣議決定したりする。
 そのくせ、はっきりとした対中政策も出せないでいる。

 赤松口蹄疫事件を何故マスメディアは採り上げない。
 洞ヶ峠大臣の心変わりを何故追及しない。


 収拾がつかないまま終わります。
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「尖閣は中国のものだ!」…以下のような理解で合ってます?

2020年05月05日 | 心の持ち様
2012.09/20 (Thu)

 「尖閣諸島は古来より我々中国人のものだ。明の昔、既にそう記されている。日本はその頃、尖閣の名前はおろか、存在すら知らず、清と戦った時に強奪したのではないか。それを奪い返すのだ。何が悪い!」

 「所有物に名前をつけるのは、本人の勝手」だけれど、
 「名前をつけたんだから、オレの所有物」 、は、どう考えたって変だろう。
 所有物。それが島なら、一時でも、居住したり安全のための方策を講じたりしてこそ、話の第一歩。
 だから、岩礁の上に建物を建て、見張りを置いてそこで生活をする、という形で領土を広げてきたのがシナ、じゃないか。
 だから今回もそうするんだろう?

 今度は大きな陸地があるから、「海が荒れて遭難しそうだ!」とかなんとか言って、上陸を強行し、船を壊し、「修理のため」に棲みつく。
 約束通り、監視船がやって来て、必要なものをボートで運ぶ。
 その中には何故か建材が入っており、遭難した漁師は、何故か家を建てるすべを知っている・・・・なぁ~んて。

 あ、その前に
 「千隻の漁船を守る監視船の雄姿」
 を世界中に発信して、
 「この通り、我が国の漁場を守ってるんです」
 と言い張る。

 その写真を撮り続けることで、「尖閣は我が島」というイメージづくりをする。
 今、武力行使に出たら、世界は日本の味方になるから。

 「暴動が起こったのは、日本のせいだ」と言ってきたけど、今度は
 「日本から危害を加えられないように我々が監視しているから、漁民は上陸しない」とかなんとか言ったりして。
 千隻。
 どこに行ったんだ???


 (19日夜になって、あの千隻の漁船報道、中国の捏造報道だったことが明らかになりました。捏造と言うより、策謀、ですね。日本政府の攪乱のための情報戦を仕掛けられたわけです。)
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ほら!引っ掛かった。

2020年05月05日 | 心の持ち様
2012.09/19 (Wed)

 「ん?これ、珍しく『正しいこと』を書いてるじゃないか。」

 ・・・・・・ほら!引っ掛かった。私のことですよ。

 昨日アサヒ新聞の「天声人語」欄(9月18日付)を読んで思ったことです。

 これですよこれ。一部を見て、
 「なかなかまともなこと書くじゃないか。一体どうしたアサヒ!」
 なんて思う。
 そうすると、不思議と次に来る文章を、好意的なフィルターを掛けて見てしまっている。
 そこから、論理でなく感情的に、文章を「読む」のでなく「眺めて」、しまう。

 「恋人は両目で見よ。でも結婚したら片目を閉じよ」
 と言われる。
 「恋は盲目」で、恋人の何も見えなくしてしまうけれど、結婚して恋人から妻になると、途端に悪いところ、嫌なところばかりが目につく。
 だからそんなことをあげつらうより、見ないように努力しなさい。それが一緒に暮らすということだ、という格言。

 でも、恋人じゃない新聞です。言われなくても両目でしっかり、「騙されないぞ」と思って読む。

 それなのに途中で
 「なかなかまともなこと書くじゃないか。一体どうしたアサヒ!」
 なんて思うと、そこから片目を閉じて「読む」のではなく「眺め」てしまう。

「それはそれとして、正しいこと、言ってるじゃないか!」・・・・??
http://sekisr400.blog.fc2.com/blog-entry-707.html

 昨日のアサヒ新聞「天声人語」の欄です。

▼デモの参加者にしても、このさい暴れ回っても大丈夫なことは計算済みだろう。「愛国無罪」の錦の御旗(みはた)があるうえ、規制は手ぬるい。民衆の猛威を日本への圧力にする政府の思惑も、承知しているふうである

▼テレビを見ると、尖閣諸島を地図で指せない参加者がいる。反日スローガンだけ覚えれば事は足りるらしい。それを政府もメディアも煽(あお)る。腹に据えかねる図だが、同じ土俵で日本人が熱くなってもいいことはない

▼歴史問題もあって、日中関係はなかなか安定しない。小泉政権下でも凍りついた。その後、温家宝(ウェンチアパオ)首相の「氷を溶かす旅」の訪日などで関係は良くなった。それが国交回復40年の節目に、この間で最悪とされる睨(にら)み合いである

▼むろん主権は譲れない。だが挑発せず、挑発に乗らず。あおらず、そして決然と。官も民も、平和国家の矜持(きょうじ)を堅持しつつ事を運びたい。諸外国の日本への支持を膨らますよう、考えていくときだ。


 デモの参加者の心情を見事に読み取り、次の段では指導者層の目論みまで把握してみせる。

 けれど、その段の終わり頃、
 「腹に据えかねる図だ」として置いて急転、
 「が、同じ土俵で日本人が熱くなってもいいことはない」
 とくる。
 「国も国民も酷い奴らだ」と言ってバカにして置いて
 「同じ場に降りていくことはない」と日本を一段上に置く。自尊心をくすぐるわけだ。アホに合わせるな、と。

 相手をバカにして置いて、日本人を持ち上げる。
 そして、日中間を悪化させたのは小泉政権であり、それを「氷を溶かす旅」で温家宝が修復した、と続く。大概、ここで印象操作は完成する。

 「何だ。やっぱり、小泉総理だな、問題は」
 これで、大方の読者は騙される。 

 そして、じゃあ、日本人はどうするのか、というと
 「むろん主権は譲れない」と言いながら
 「だが挑発せず、挑発に乗らず。あおらず、そして決然と。官も民も、平和国家の矜持(きょうじ)を堅持しつつ事を運びたい。」

 ???????
 「決然と」「平和国家の矜持を以て」事を運ぶ、・・・ってなんだ?

 結局、例の
 「緊張感を以て、注意深く見守りたい」
 という、早い話が何もしないというやつを繰り返しているだけじゃないのか。


 やっぱり、早合点はいけない。話は最後まで聞かなきゃ。
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(素朴な憤り その1)「二世議員で何が悪い!」

2020年05月05日 | 心の持ち様
2012.09/17 (Mon)

 ・・・・・ったって、私が二世議員ってことじゃありません。
 けど、何だかここ数年、「二世」って言うと「親の七光りで生きてるバカ息子(バカ娘)」、みたいに決めつけられているような気がしていけません。
 大体が二代目は大変です。徳川家康の息子秀忠だって、ただのボンクラみたいに言われるし、本居宣長の息子春庭なんかは間違いなく「誰?それ」だろうし。

 確かに校長や教頭の息子と言えばどうしようもない奴が結構いるし、
 「社長は好い人なんだけどねぇ・・・。後継ぎがどうも・・・ねぇ」
 なんてのもよく聞きます。
 でも「校長や教頭の息子はみんなどうしようもないのか」「社長の息子はみんなバカ息子・バカ娘、か」。
 そんなことはありません。却って彼らの大半は「さすがに親子だねぇ~」なんて誉められている。

 マンガの「美味しんぼ」にも、腕の良い天麩羅やのおやじとその息子の話、なんてのがありました。(大体がこのマンガ、海原雄山と山岡史郎って・・・)
 どうしても息子は親に追いつけないで悩んでる。それに加えて客に「おや、味が落ちたな」などと駄目押しされてすっかり落ち込んで・・・・・、なんてのが。

 けど、当たり前に考えりゃそのような評判を立てる方に問題がありますよ。
 それ専門に何十年とやって来て名の知れた親と、跡を継ごうと研鑽を重ねている最中の子とが同じ、であるわけがない。
 それを非情にも「まだまだおやじさんにゃ勝てねえな」なんて。
 勝てるわけないじゃないか。
 まあ、馴染みの客としては、そんな風に憎まれ口の一つも叩いてやって、育ててやる、といったお節介な面もありますけどね。

 「良いところを学ぶ」なんて言いますが、教える方だって、自身、散々苦労して一つ一つ悪いところを直そうと工夫して、やっと「良くなった」んです。
 それなのに、習う方が最初からその「良いところ」をあっさりと何の苦労もなく理解したり、できるようになったり、なんてことじゃ、教えた方は、うれしい以上に
 「オレの人生、オレの苦労って、一体なんだったんだ」
 と深刻に悩むことになるかもしれない。

 二世議員は、例の、「地盤・看板・鞄」のうち、少なくとも「地盤・看板」は親から受け継いでいる。
 「それじゃ選挙民の気持ちは分からない。だから駄目だ」
 と言うんでしょうけど、地盤にせよ看板にせよ、
 「ほら、地盤と看板。あとはお前がやれ」
 なんて、簡単に引き継げるものじゃありません。そういう環境の中にあって(中で育って)親の普段の後ろ姿を見て、学び取っていくんです。それはどんな仕事だってそうでしょう。

 これを何もないところからやろうとすればそりゃあ大変です。
 その意味では、圧倒的に二世議員の方が有利です。親の色々な苦労も見聞きし、時には自身でも経験して来ている。親じゃないけど、麻生前総理なんかは子供の頃「お前の爺さん(吉田茂)は~」、と新聞記者から、小突かれたりしている。子供ながらに理不尽な、と思ったことでしょう。しかしそれも、見ようによっては二世議員ならでは、の「得」、です。
 逆にそんな色々な苦労を見聞きしたり、体験したり、なんてことがなく、「一族内で初めて議員を目指す」、なんてのは、却って怖いもの知らず、と言うか、知らないものの強みで何にも気にせずやっていける分、「損」、とも言える。

 で、思うんですが。
 結局、議員に必要なのは何かと言うと、「三バン」じゃない。
 三バンは飽く迄も「道具」です。
 「議員に必要なのは」?
 そりゃあもう、「代議士」というくらいなんですから、国民の代わりに政治について議論する、そのために己の身はどうなったって構わない、という覚悟でしょう。

 というわけで、例の如くのお約束。
 「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。此の仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。」
 二世議員が悪いんじゃない。「二世議員だ」、という色眼鏡で見て、初めから駄目、と決めつけてしまう「品性の下劣な選挙民」、或いは「それを煽動するメディア」が悪いんです。お灸層とかね、B層とか。

 代議士をそんな風に見下して「国政に与からせてやってる」みたいな態度の選挙民が、又、日本の歴史さえ満足に知らないで「日本」を見下している選挙民が、
 「政治なんか誰がやったって同じ」
 、などと言ってるから、三流の政治になるんです。

 一流の国民が三流の政治なんか選ぶもんですか。
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これ、維新? (一部 訂正)

2020年05月05日 | 心の持ち様
2012.09/15 (Sat)

 橋下市長の下に多くの人が集まって、遂に「国政に与かる勢力となるべき」ということで、「日本維新の会」という名の政党ができるとか。

 で、とりあえず現国会議員で、正式に政党として旗揚げしなきゃならない。
 そのために色々な政党から離れたメンバーで、とにかく発足させる。
 そして、これを核(きっかけ?)にして、来る衆院選には各選挙区に候補者を置く。
 各選挙区の候補者が、地元の人間で維新の会に入り、その政策に全面的に賛同する、ならいいけれど、そうでなければ大阪から落下傘候補を送り込む。
 費用は全て自分持ち。「そのくらいの覚悟がなけりゃ政治なんかできない」、と発破をかける。

 「何かやってくれそうな気がする」
 「橋下さんの行動力・影響力は魅力的だ」
 「民主は案外だったし、実力不足だけれど、自民だって総裁選でごたごたしてるだけだし」

 テレビを見るとこんなのばかり。何だか不思議です。
 「どこの国の話をしてるんだろう」と思う。

 「何かやってくれそうな」って、国の将来のことですよ?博奕じゃあるまいし。
 「行動力は魅力的」って、その行動力が何を目指しているのか考えたことあるんでしょうか。
 「2万パーセント出ない」と言った人物です。全く信用のできない口約束と行動力が合わさればどんな結果を生むか。私のような能天気なおっさんだって、そのリスクの高さを考えたら二の足を踏む。
 (なんて言って、以前「良いところもある」という考え方のバカさ加減を思い知らされ、冷や汗三斗、だったんですけどね。)

 選挙は博奕じゃない。
 国民一人ひとりが自らと国の命運を「代議士」に任せるのが国政選挙でしょう?
 「我が国のことなのに、何だか他人事みたいなこと、言ってる」
 と思います。

 維新という言葉を用い、「船中八策」になぞらえて「維新八策」としているわけですが、内容がまだまだ、という評が為されています。それは当然と思いますよ、「策」であって、まだ、「案」でしかないのですから。
 それよりも、もっと言えば「維新」なんですから、ごたごたして当然。これまでのことを「一新」しようとすれば新たなことが次々に問題として出てくるものです。

 「維新」は縦糸を換えるということでしょうから、これまでの社会の在り方を全て換える、「一新する」ということでしょう?
 「明治維新」は、だから王政復古・天皇親政という形を採ることで幕藩体制をやめた。
 だからと言って平安時代のような摂関政治でも、奈良時代のような律令制でもない、けれど天皇をいただいての御前会議から西欧の議会政治へとつなげていった。だからぐちゃぐちゃ。

 「五箇条の御誓文」という、あんな立派な誓文が出された。
 「御誓文」の言葉通り、天皇が皇祖神に奉告する「政事の仕方」が書かれたものです。
 ところが、同日に国民に向けて出された「五榜の掲示」は、一言で言えば「国民は従来通りの生活をせよ」というものでした。早い話が「今は慌てて動くな」ということです。
 勿論、やくざの親分や、どこかの大国のように「私はいいんだがね。若い者は血の気が多いから何をするか分からない」、みたいないい加減なことではない。御誓文も五榜の掲示もそれなりの覚悟のもとで出されたものです。
 ぐちゃぐちゃだけれど、確かにそれは明治「維新」、でした。

 しかし、「維新」は革命ではありません。
 革命は、政治を行う王室の「命」を「革(た)つ」ことですから、日本の場合で言えば、皇室を滅ぼして共和制にするか、新しく皇室を立てる(!)ことが革命ということになります。
 共和制のことはさて置き、王室は「力」で前王室(王朝)を倒し、新しく「国王である」と名乗ることで成立しますが「皇室」、となるとそうはいきません。
 現皇室の前に、別の皇室はない。
 更に天皇は、(名目上は)神により王位を授けられる「王」室と違って、神(皇祖神)の子孫という形で天皇になることが「定められている」。

 日本はそういう形で成り立っている国であり、その形は神武創業以来、一度も変わった(途切れた)ことはなかった。
 その皇祖神以外の神が、つまり別の神が「子孫を天皇に」、という考えそのものが日本には存在しない。
 一見、革命に似ているけれど、「維新」は社会の仕組みを変えはするものの、それは「力」でやるわけではないし、これまでの生活を全面否定するものではない。
 そう見てくると、「日本維新の会」が「維新」を名乗るのは何とも不思議なことです。
 「維新」は天皇の命の下に行われるものなのですから。だから「御一新」と言われたのですから。

 「維新の会」の目指すところは何だったでしょうか。「大阪都構想」、でしたね。
 「『都』を二つ(以上)つくる。」
 それは「今のままでは自由に動けないから」、でした。
 「政治も経済も全て、各地域ごとに思いきり自由にやりたい。そのためには現在の東京への一極集中では駄目だ。地域に主権を!」
 ということでした。

 「地域主権、とは何ごとか!それは独立国になるということじゃないか!」
 と批判され、「地域主権」という言葉はいつの間にか「地域分権」に変わっていましたが、
 「自治区単位が小さ過ぎる。これではまとまるものもまとまらない。無駄を省くために都府県制をやめて、日本も(韓国に倣って?)道州制にして『道州院』をつくって国政を行えば良い」
 、と。

 これ、「維新」、でしょうか?
 国の在り方を変える。その目的は?
 「政治も経済も各地域毎に、自由にやりたい」。

 結局は「国民の生活が第一」、という考え方でしょう?
 もっと言えば、国民の「生活が第一」。
 「国なんかなくても良い」、につながる考え方ではありませんか?

 これ、「維新」、でしょうか?ホントに?


註)
 「国民一人ひとりが自らと国の命運を「代議士」に任せるのが国政選挙でしょう?」
 と書いていますが、何か変だなと思っていました。
 これは「任せる」ではなく、「託す」でなければならない。
 命を懸けて国政に挑む代議士に対し、見下すように「任せる」、などと言うのは失礼が過ぎます。自身の把握の曖昧さを改めて恥じています。

 「国民一人ひとりが自らと国の命運を「代議士」に『託す』のが国政選挙でしょう?」
 、と読み直していただきますよう、お願いします。
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