CubとSRと

ただの日記

とても残念ですが。

2020年05月08日 | 心の持ち様
2013.07/24 (Wed)

 「夕刻の備忘録」氏が筆を擱かれました。
 所期の目的が達成されたので、もう更新はない、そうです。
 大変残念ですが、今後はブログが残されていれば折々に部分転載等、させていただこうと思っています。
 (今回だけは全文転載します)

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

        「終幕」
               ~夕刻の備忘録~より

 本ブログ開設の動機は、前回申し上げた通りです。
 差し迫る政権交代への恐怖と怒り。そして、非情な現実。大政治家・中川昭一の突然の逝去。横暴を極める周辺国の反日工作。そしてそして、それら悉くに無関心であり、何を知ることもなく、何を知ろうとすることもない、マスコミの操り人形と化した多数の国民。

 こうした一連の流れの中で、同じ思いを持つ人達に何か訴える言葉を届けたい。既に活動している人達に、助力となる言葉を切り出したい。

 失った誇りを取り戻すその日まで。
 失った国家を取り戻すその日まで。

 何が何でもやり抜くつもりで、ネットの辺境で言葉を連ねて参りました。我が国は何より言霊の国です。「見えない力」によって支えられている国です。その見えない力を感じ、見えない力を恐れるのが我々日本人の特質です。

 当初より決意していたことは、以下の通りです。

 全てを言葉によって表現し、図版に頼らないこと。
 あらゆる宣伝行為を慎み、一円の利益をも得ないこと。
 聞くのも見るのもおぞましい穢れた名前は伏字にすること。
 少なくとも政権奪還の日までは、絶対に筆を折らないこと。

 個人の意志で始めたものである以上、誰の批判によっても止めないこと。全ては自らの意志によること。偶然の事故、突発的な出来事に遭遇しても、スタイルを変え、方針を曲げ、初心を忘れることがないこと。また、所謂「団塊」をその幼少期から具体的に知る者の一人として、彼等が如何に特異な気質を持っているか、それが現状にどのように関連しているか、を「備忘録」として記録していくこと。

 誰に期待されることもなく始め、誰に惜しまれることもなく終わる。称賛を期待したり、惰性に流されたりすることなく、静かに始め、静かに終わること。
 それこそが草莽の戦い、持たざる者の一閃であると心得ること。特に終わり方に配慮すること。外的な要因ではなく、あくまでも自ら決めること。それは運命的な要素も含めて、全てにおいて意志を優先すること、等々でした。

 これまでに千本近くの記事を投稿して参りましたが、書き残したことはまだまだあります。しかしながら、最後の条件が充たされない状況になって参りました。
 このままでは意志に反して、突然の終止符を打つ可能性があります―実際、これまでにも何度かピンチはありましたが、何とかこれを乗り越えて隔日投稿を続けてきました。

 次なるターゲットは「マスコミ解体」ですが、とてもそれを見るまでの時間的な余裕は与えられていないようです。以上のことから、本日をもって幕を引かせて頂くことを決意致しました。
 長らく御愛読頂きました皆様には、感謝の言葉以外にありません。延べ百万を越える読者の皆様にお読み頂けたことは、何よりの励みであり誇りでもありました。

 当方、技術的な方面に疎く、原稿を書いてアップロードする以外のことは何も出来ないために、双方向的な処理は不可能でした。最近になって、声を掛けて頂いた方々が多くおられたことを聞きましたが、以上のような理由ですので、御寛恕を乞いたく存じます。

 左上の専用バナーを作って頂いた方にも、ここで改めて御礼を申し上げます。 あの時よりキーフレーズにして参りました「日本奪還」が、「日本を取り戻す」という形で選挙戦のテーマになりましたことに、誠に不思議な縁を感じております。

 マスコミの解体を成し遂げなければ、何も変わらないことは事実ですが、一つの切れ目である今この瞬間を素直に祝い、その感激を次への動機付けへと昇華できないようでは、長丁場の戦いでは息切れするだけでしょう。

 国家の経済を家計に譬えることも間違いなら、国家の将来に関わる問題を、個人の寿命程度の年月で決着をつけようとするのも間違いです。
 先は長いのです。叮嚀にバトンを預かり、しっかりとバトンを渡す、それが私達に出来る唯一のことです。言葉という名のバトンを受取り、次へ次へと繋げて頂きたいと念じております。


 なお、以後は如何なる場所においても、『夕刻の備忘録』名義で書くことはありません。
 仮に使われていた場合は、間違いなく「成り済まし」ですので御注意願います。兎にも角にも、我が国は「成り済まし」で溢れておりますので。

              ★ ★ ★ ★ ★

 最後に自ら信じております愛国者の定義を記して、締めの言葉とさせて頂きます。

 愛国者とは、何度生まれ変わっても、日本人に生まれることを選ぶ者。百万回の生まれ変わりを許され、その中で日本人になり得るのは唯の一度だけだと限定されても、真っ先に日本人になることを選ぶ者。それで他の全ての可能性を失っても気にも留めない者。

 地に落ちれば土になり、空に舞えば風となり、如何なる姿に変じても、この国に留まりたいと願う者。それが日本を愛する本当の日本人、真の愛国者ではないか、そう考えます。

 末筆ながら皆様の益々の御活躍と御多幸を御祈り申し上げます。


 天皇弥栄 日本国万歳

JIF (Japan Invisible Force) 情報統括:
夕刻の備忘録
2013.07.24 | 業務連絡 | @

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国柄というもの

2020年05月08日 | 心の持ち様
2013.07/19 (Fri)

 今も昔も変わらない。
 科挙が党員資格に変わっただけだ。

 いや、科挙が古典籍に親しむのを強いられるが故に、我が物とはせずとも聖賢の在り方を学ばざるを得なかった分、桁違いにマシ、と言えるかもしれない。
 共産党員は、毛語録を以て教条的社会主義でなく「中華思想」を学ぶだけなのだから。
 石平氏だって、幼少の頃、意味も分からないまま論語の暗誦をして来なければ、日本人としての今はなかったろう。

 西村眞悟議員のブログより、内田良平の言等を転載します。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  「眞悟の時事通信」

  支那の本質と対処の基本方針 

              (略)

 なお、以前、前の温家宝首相が、我が国の衆議院本会議場に来て演説をぶったとき、次に書く内田良平の「巷の守銭奴と何ら変わらない」という表現を思い出して笑った。その時、恩家宝に拍手を送らなかったのは、麻生外務大臣と私くらいだった。
 拍手を送らなくてよかった。その後、恩家宝一族は数千億の蓄財をしているとすっぱ抜かれたからである。

 さて、最後に、先人の鋭い、かつ、今も通用する二つの支那観察文を紹介する(口語文)。いや、以下の支那報告は、現在の支那を報告したものである。支那は変わらないからだ。

 1、情報将校福島安正中尉(後の陸軍大将、英仏独露支の五カ国の言語を自由に操り、会話だけならさらに数カ国語を操った)
 明治十二年、五ヶ月間支那人になりすまして支那各地を偵察した報告(岡田幹彦著「日本を護った軍人の物語」祥伝社)。

 「清国の一大弱点は公然たる賄賂の流行であり、これが百悪の根源をなしている。
 しかし、清国人はそれを少しも反省していない。
 上は皇帝、大臣より、下は一兵卒まで官品の横領、横流しを平然と行い、賄賂をやらない者は一人もいない。
 これは清国のみならず古来より一貫して変わらない歴代支那の不治の病である。
 このような国は、日本が共に手を取ってゆける相手ではあり得ない・・・。」


2、内田良平
 内田は、大正元年「支那観」を著して支那の実態を明らかにし、我が国が国策を誤らないために、支那の本質に沿った適切な対処をするように促した(宮崎正弘編集「内田良平の『支那観』を読む」展転社)。
 「・・・彼ら読書人(支配階級)は、賄賂を使って科挙試験に合格するや、今度は逆にせっせと賄賂を貯めて資産を作り、自分より優れた者には嫉妬してこれを排斥し、権勢を求めて私服を肥やす。
 それでいて国家の存亡とか国民の安否などには微塵も心が動かないのである。
 今や、こういう悪しき科挙の制度そのものは廃止されたとはいえ、それは表面的な形式の変化に過ぎない。
 現実は、相変わらず金銭万能が支那の国民性の持病となっているのだ。
 堂々たる政治家を自任する者にして、美辞麗句とは裏腹に振る舞いは汚れ、彼らの心事が巷の守銭奴と何ら変わらないのは昔のままである。」             


http://www.n-shingo.com/cgibin/msgboard/msgboard.cgi?page=870
 支那の本質と対処の基本方針
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見比べる価値、あります

2020年05月08日 | 心の持ち様
2013.07/22 (Mon)

 見出しだけでも、日本の新聞と見比べる価値ってあるでしょうね。
 今朝の宮崎正弘氏のメルマガです。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
                
             平成25(2013)年7月22日(月曜日)
  
           ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「自民圧勝、ねじれ解消」と日本のメディアは書いているが
   欧米紙は「安倍首相への信任」と個性を前面に出して報じている
           ***********

 英紙フィナンシャルタイムズは「安倍信任によって国家主義的なアジェンダが出てくるだろう」と警戒的な報道ぶり。
 米紙のリベラル代表ニューヨークタイムズは「過去十年でもっとも変革的体質をもった安倍首相が勝利」と書いた。
 同ワシントンポストは「世界第三位の経済力の回復をめざした安倍の野心が信任された」

 米国の保守層を代弁するウォールストリートジャーナルは「経済政策で安倍の自民党が勝利したが、日本経済の先行きは不透明だ」と分析した。

 こうして彼我の差が報道姿勢にでた。つまり、「自民圧勝、ねじれ解消」と日本のメディアは書いているが、欧米紙は「安倍首相への信任」と個性を前面に出して報じている

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「国家主義的なアジェンダ」
 「過去十年でもっとも変革的体質をもつ」
 「安倍の野心が信任された」
 「安倍の自民党が勝利したが、日本経済の先行きは不透明」

 等々、あんまり感じの良い表現ではありません。
 これはそれぞれの新聞の立ち位置を考慮して読み取ろうとすれば、ただ一つ、「安倍」自民党がこれまでの与党とはいささか違う、と、その行動力に注目をしているらしい、という事でしょう。
 特に感じるのは欧米が警戒感を持ち始めた、という事です。
 外交面で、これは有利になったと言えるのでしょうか。それとも不利になったと言えるのでしょうか。
 無視されるのが良いか、注視されるのが良いか。

 一時期は「ジャパンバッシング(日本叩き)」と言われていたのが、「ジャパンパッシング(日本無視)」になって久しいのですが。

 間違いなく、世界に、
 「日本が遂に一歩踏み出した」
 と実感させたのではないかと思います。
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「待つ力」をつくる。

2020年05月08日 | 日々の暮らし
2013.07/20 (Sat)

 ここに転載するエントリーは、明日の参院選について、一昨日に書かれたものではありますが、例の如くに、「保守とは何か」、「国民はどうあるべきか」について書かれたものでもあります。

 保守を標榜しながら「天皇制」を護持すべきと言ったり、NHKがドラマで「王家」、などと失礼な言い方をしたと憤慨しながら、自身は「天皇家」などと言う。
 今が大事は百も承知だけれど、その今に執着し、埋没してしまっては保守も何もあったものじゃない。

 「今、原発は止まっているけど、電気は足りてるじゃないですか!みなさん」
 「株価が上がったって、一部の人がもうかるだけじゃないですか!○○党は、会社の内部留保金を給与に回させ、景気回復を実現させます!」
 「九条があったから、戦争はなかったんです!」

 こういうことを言うのは改革を標榜する人々だけれど、こういう人に
 「今、を凝視しなさいよ!」
、と、書いて来たようなことを言われると、黙ってしまう。建前だけで生きられるか、絵に描いた餅が食えるかと言われたら、渋々同意してしまう。
 その因はどこにあるのか。伝統とは何か。日本はどういう国なのか。
 そんなことを全く考えようとしないで、聞いたことを己の考えたことと思い込んで、毎日を生きている。

 今回のエントリーの中の
 「世の喧噪と一線を画して、倦むことなく「変わる」まで待つ」
 という文言から、四十年余り前に聞き覚えた寮歌の一節を思い出した。

 「世の喧騒を余所にして理想に進む若人の
  思索静けき窓の戸に  蛍群れ飛ぶ夕まぐれ ~」

 「世の喧騒」とは「(今の)諸事」。
 それを離れて理想を目指し思索を深める。学生の本分だが、それ自体は保守思想ではない。
 しかし、その、諸事から一旦離れて、思索を深めようとし続ける姿勢、そうやって作った教養、力が「倦むことなく「変わる」まで待つ」力となる。
 「総員、奮励努力せよ」ではなく「各員、奮励努力すべし」。
 「知ればいい。知れば変わる。」
 「おれがやらなきゃ誰がやる」と口にして、周囲を叱咤激励するのではなく、
 「おれがやらなきゃ誰がやる」と心に銘じて自身を叱咤し、
 「倦むことなく「変わる」まで待つ」。

 「今、大事なこと」で、見るのではなく、
 「理想の未来を描きつつ、今を見詰める」。

 投票行動は自ずと変わることでしょう。
 
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 今日に耐えて明日に臨み、明日をも耐えて、明後日に期待する。
 今日の日が大事だと叫ぶことは、改革派、革命派の思う壺である。
 「今日餓える、今日死んでしまう」と叫べば、体制は倒せる。
 緊急性を捏造して人心を惑わせば、後は野となれ山となれ、というのが彼等の戦術である。

 今日まで耐えたのだ、あともう一日頑張ろう、今日までの日々を無駄にしないために、あと一日を乗り越えよう、と声を掛け合うことで、改革・革命勢力はその勢いを失う。
            (略)

 しばしば、「護るべき歴史と伝統がある」と保守派は叫ぶが、その意味を確かに捉えている者は、案外少ないように見受けられる。
 歴史と伝統がある国家は、自然と「変わる」ものである。それこそが歴史と伝統の正体である。誰かの大号令に従って人為的に変えるのではない、人々が知ることによって、「おのずから変わっていく」のである。

 保守とは、これに耐える思想である。世の喧噪と一線を画して、倦むことなく「変わる」まで待つ思想である。それを促すために、人生の真実を知らしめる思想である。

 我々はただ「知ればいい」のである。知れば変わるのである。

              (略)

 「任期一年の総理など許せない、短すぎる」と言っていた者達が、僅か三ヶ月、半年で辞めろと叫んでいる。この手のマスコミ誘導に乗りやすい人が減らない限り、政治は決して安定しない。

 「思い付きの改革」「遊び半分の革命」に付き合わされる国家の行く末を、腰を据えて議論する必要がある。「あの人ならやってくれる」「今度こそはやってくれる」と何時まで経っても「他人任せ」の態度を変えないから、「自称革命家」とやらに弄ばれるのだ。

 今日、明日の辛抱も出来ない者に、明後日のことを論じる資格は無い。
 明後日のことを論じる資格の無い者に、子供の教育を、その将来を任せることは出来ない。
 歴史と伝統を護るのではなく、それに身を委ねることで、静かに滑らかに変貌していくのが、自然国家たる我が国のあるべき姿なのである。


      「明後日の思想」
              ~夕刻の備忘録~より
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