CubとSRと

ただの日記

「皇国」の意味 (思い込み)

2020年05月15日 | 心の持ち様
2014.08/31 (Sun)

 洗脳と思い込みは同じようなものだ、何故なら洗脳は組織立っているように見えて、その実、単純な社会把握のための立脚点(見方、視点)を示すだけだし、思い込みだって、自身が社会を勝手にこうだと思い込み、「考えることをしない」のだから、と書いて来ました。
 洗脳は意図的な関わりに見えて、実は単純な「社会の在り方(見方)」を押し付けるだけです。だから、当人が考えを変えるか否かは、当人の意志に掛かっている。
 思い込みは自身が勝手に社会の在り方を定義し、そこに自身で安直に整理付け(仕分け)をするだけ、と言っても良いでしょう。

 それでやっと「皇国」の話になるのですが。

 「皇国」って聞いた瞬間、何を思い浮かべるでしょう。
 大半の人は、まずは語感に対して「好き」とか「嫌い」とか言うんでしょうか。

 即、「天皇制」という言葉を思い浮かべる人、意外に多いかもしれませんね。
 これもまた、思い込みの一例なんじゃないかと思います。
 「天皇が国民を支配する体制」。これが天皇制です。
 なんて書くと、「何い~っ!」って怒る人もあるかも。
 反対に「そうだろう?何がおかしいの?」って人もあるでしょう。

 「天皇制」の基になった言葉に「君主制」というのがあります。
 「君主制」というのは契約の有無は別にして、とにかく「君主が力(権力)で国民を支配する」、という制度(仕組み)です。
 繰り返しますが、この「君主制」という言葉を基にして作られたのが「天皇制」という言葉です。「君主」を「天皇」に置き換えることによって、「天皇が国民を支配する仕組み」という思い込みに誘います。
 ところが実際には、折々の御親政はあっても、天皇が国民を支配する、ましてや国民と対立して存在するなどということは、ありませんでした。
 天皇は飽く迄も神官であり、国民の先頭に立つ者です。
 対して「天皇制」というのは天皇と国民が対峙する、或いは対立する、という、日本の国柄を誤解する惧れのある言葉ということになります。
 この「天皇制」という言葉の作成から、「皇国」と言えば、「(天)皇の国」、そして「天皇の治める(支配する)国」という風に考えるようになったと思われます。

 では本当のところはどうだったかというと、「皇国」は「(天)皇の(治める)国」ではなく、「皇国(すめぐに)」です。
 「すめる国」=「統(す)べる国」。「統べる」は「治める」と違って「中心となってまとめている」という意味ですから、「支配」の意味を含む「治める」とは随分違ったものになります。
 勿論、「皇国」の「皇」は天皇を指しますから、「天皇が統べる国」が「皇国」となります。

 そうすると、「じゃ、君主制と一体どこが違うんだ?結局は同じじゃないか」と言われます。
 しかし、「統べる」の意味と、これまでの皇室の在り方を見る限り、これは決して同じではない、と分かることと思います。
 対立し、時には昇華させるために契約まで持ち出す、という欧米式の考え方と、
 「宜しく爾皇孫(いましすめみま)、就(ゆ)きて治(しら)せ。行矣(さきくませ)、寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壤(あめつち)と窮(きわま)り無かるべし。」
 という、天皇・皇民が諸共に栄え、天地に満つることを願う国の在り方は、決して同じとは言えないでしょう。

 以前に書いた日記(注)に「皇学」と「皇典」という言葉を挙げています。
 「皇学」は「皇国の学問(=国学)」。
 「皇典」は「皇国の古典籍(=古典)」。
 どちらも「皇国」という「国の在り方」が基となって、成る言葉です。

 「皇国」。
 ただ単に国の在り方を示しただけの言葉なのに、「右翼っぽい」とか「ガチガチの国粋主義だ」とかいう印象は、「思い込み」でしかなかったということではないでしょうか。
 「これもまた、戦後教育による『洗脳』である」、などと大仰に捉えるより、
 「思い込みではなかったか」「ちゃんと国のことを『考えよう』としてきたろうか」
 と考える一例とすべきか、と思います。


 注)11月23日までに~ ②皇学 皇典
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 「行間を読む」努力をしたい⑦国民の思い
                      2012年3月16日の日記

                 (略)
  気をつけねばならないのは、「それに対して」、という西欧式の考え方です。
 「天皇」に対するに「国民」を置く。「~をしてもらったから」、対して「応じる」という考え方です。どう「返答」するか、という態度です。
 天皇と国民が向かい合っている。対立、並立している。さらには「国民の総意」が天皇の地位を認めている(?)、と憲法に示されている態度です。そんな見方をすると、何も分からなくなってしまう。

 「親政」は「国の弥栄(いやさか)えに栄えること」を目的としています。
 そしてそれは我々国民が幸せに生きることであって、天皇はそれを願われるのみで、見返りなどは期待されません。
 いや、敢えて言うならば、見返りは「国民が幸せになること」、そのものです。
 天皇はそれだけを望む。
 何故なら、
 「行矣(さきくませ)、寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壤(あめつち)と窮(きわま)り無かるべし。」
 、と
 「天皇(と民草共に)この国に満ち満ちること」
 という神勅を受けておられるからです。

 対立、並立するものではない。勿論、支配・被支配の関係でもない。ましてや国民と、その総意で成り立つ天皇、というものでもない。

 我々国民、民草はそれにどう応えるか。
 考えるまでもないことなのかもしれません。親政の在り方を見れば、自ずと分かることでしょう。
 親政は権力による力づくの政事ではない。天照大神の神勅のままに、また、五箇条の御誓文のままに行なわれる親政は、天皇自らを虚しうして天神地祇に民草の幸せを祈られることなのですから、我々国民は、その義に応え、情に応じれば良いだけのこと。

                 (以下略)
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「思わず噴き出して、反省」

2020年05月15日 | 心の持ち様
2014.08/27 (Wed)

 前回、
 「次回は『皇国』について考えてみたい」
 として終わっていました。
 
 ですが、「洗脳と思い込みは同じようなもの」と書いたことに関して、これは言葉足らずだったかな、と。もうちょっと書いて置いた方が良いのではないかと思い始めました。

 それに関して、です。
 西村眞悟議員のブログにあった文章を拝見して、標題の通り、思わず噴き出し、反省しました。
 思い込みの結果、噴き出し、それが思い込みの故であったと気が付いて反省。

 というわけで、まずは氏のブログの部分転載です。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
     「富士総合火力演習」           平成26年8月25日

                  (略)

 その上で、本演習を企画し運用している政府・防衛省にもの申す。
1、演習場に国旗「日の丸」が一切無いのは何故か。
 日々訓練を続ける自衛隊員は、国民に娯楽としてのコンバットゲームを見せる為にあるのではないぞ。
 自衛隊員は、身の危険を顧みず職務を遂行すること、
つまり国家の防衛のために命を捧げること、を宣誓して日々の訓練を続けている。
 従って、その国家防衛の為の訓練の成果を国民に見せる本演習においては、特に「国家」を示すもの即ち「国旗」が掲げられていなければならない。
 本演習は、冒頭に、国旗入場と君が代演奏による国旗掲揚を行って開始するべきである。
 また、防衛大臣は、コンバットゲームの主催者ではないのだから、「観客」に手を振りながら入ってくるな。
 演習場に国旗がないから、そのような勘違をする。

 また、演習開始前と演習の合間に、軍楽隊が演奏をする。
 しかしその演奏する曲は、アメリカとかイギリスとかオーストラリアとかのマーチばかりではないか。
 来年は、中国共産党のマーチでも演奏するのか。
 何故、明治以来歌い続けられた「我が軍歌」を演奏しないのか。本演習が陸海空統合作戦を想定しているのなら、
日本最初の洋式軍歌である「抜刀隊」そして「軍艦マーチ」さらに「空の神兵」また「加藤隼戦闘隊」を何故演奏しない。
 アメリカやイギリスを防衛する為の演習ではなく、
 我が日本を護るための演習における演奏ではないか。

 以前は、東富士演習場に国旗が掲げられていた。
しかし、民主党政権になってから国旗は皆無になった。
その悪夢のような民主党政権が泡のように消えても、総合火力演習の東富士演習場に国旗無しが続いているということは、
防衛省内局の中枢部が「赤化」したままだということである。           

                  (以下略)

http://www.n-shingo.com/cgibin/msgboard/msgboard.cgi?page...

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 《国家防衛の為の訓練の成果を国民に見せる本演習においては、特に「国家」を示すもの即ち「国旗」が掲げられていなければならない。》

 なるほどその通りです。
 「国家防衛のための訓練」の成果を見せるのは一部国民に、ではない。全国民に、である。
 となれば、国民の代理は「日の丸」しかない。
 なぜ、その「日の丸」がないのだ。

 噴き出したのは米英豪等のマーチばかりであること、「これでは来年は中国共産党のマーチでもやるのか」、から、同じやるなら「抜刀隊」「軍艦マーチ」を、の行に至る数行なんですが、
 「我が日本を護るための演習における演奏ではないか」
 まで読んで、大事なことを思い出しました。
 日本の「有事の際を想定して、の演習」です。
 日本の「有事の際に訓練通りの行動をするため」です。
 ということは、言うまでもなく、今は演習であり、有事ではない。
 だったら、
 「今は有事ではないけれども、有事の際と同じ覚悟で行動しなければ演習にならない」
 「演習の間中、常に『有事である、との覚悟』を持つよう、国歌を斉唱し、日本を護る気概の軍歌・日の丸を胸に、演習に取り組む」。
 それが当然のことでした。

 それを「大袈裟だ」、「わざとらしい」、と思ったからこそ、私は噴き出したんだと思います。「常在戦場」、ですからね、君が代を歌いながら戦うのか。戦ってる最中、応援団みたいに旗手が日の丸を揚げるのか。演習に必要なのは正確無比で迅速な行動のみではないのか。
 そんなことを考え、西村議員の余りにも大仰な捉え方に、「ちょっと読者サービスか?」、と。

 「稽古だからと言っていちいち稽古着に着替えるのか。着のみ着のままが戦の場の常ではないか」。「だから着のみ着のままで稽古をするのだ」と私は教えられました。
 けれど、同じ考え方で「だからこそ、稽古着に着替え、必死必殺の覚悟で稽古に臨むのだ」という、それもまた正しい。(これは「学校の制服」も同じ理屈です)
 自衛隊は、後者です。便衣兵ではない。全てに細心の注意を払って必死必殺の状況を作り上げる。そのためなら何でもする。
 だから世界でも有数の精強な軍隊として見られている。

 その覚悟の在り方を、私は低次元の「思い込み」で、軽視し、失笑したわけです。西村議員の言われることが本当です。お恥ずかしい限りです。
 「演習だからこそ、肩に力が入り過ぎるくらい入った状態をつくりだし、その中で日頃の訓練の成果を発揮するのだ。それでなければ有事の際、物の役には立たない」

 以前に、「相棒」というドラマで官房室長室の国旗の端がいつも床に着いていることについて書きました。国旗を床に引き摺っていることの意味、です。日の丸を蔑にすることで、官房室長の冷血振りを見事にあらわしていたと思います。
 
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 「洗脳と思い込みは同じようなものだ」と書きました。
 その好例が西村議員のブログに対する私の反応だと思ったのですが、「どこが?」と思われた人もあると思います。
 「洗脳ってのはもっと組織立ったものだろ?思い込みはその時々で、脈絡のないものだから、同じとは言えないんじゃないか?」

 けれど「洗脳」の場合は組織立っているように見えるだけで、その実、単純な考えの立脚点があるだけです。
 「首領様のお言葉に従って」とか、「社会主義国家建設の理想のため」とか。
 対して「思い込み」は、「社会の中で受け入れられているもの」だと勝手に思い込んでいる。

 どちらもそれぞれが独自に考える「社会」の中で、「正しいのだから受け入れられ、時には讃美されたりする」と勝手に納得する方向に動いている。

 実はどちらも、「自らが苦心して社会を把握しようという努力」をしない。

 私が思わず噴き出したのは、自衛隊の演習と、己の稽古の心掛けを同じレベルで見比べたからでした。軽々しく「大袈裟だなあ」と決めつけた(思い込んだ)が故でした。

 その社会で「正しい」と言われ、当人が取り組む気になれば、洗脳は簡単に成り立ちます。逆に取り組む気がなければ、成り立ちません。
 同じく、その社会で「正しい」と思われ、当人が受け入れる気になれば、「思い込み」も簡単に成立します。

 周囲から異常に見える社会、での「洗脳」は周囲の力で脱することもできます。しかし、周囲もまた異常な社会、での「思い込み」は、ひたすら考えるしかありません。

 「思い込み」。いかがですか?
 考えないで受け入れていること、ありませんか?
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「思いもしないところから」

2020年05月15日 | 重箱の隅
2014.08/26 (Tue)

 「洗脳」って言葉は、随分過激なので、「洗脳されるな」とか「洗脳されてる」などと言われるとつい身構えてしまいます。

 言葉だけで身構えるくらいだから、実際にからかい半分、
 「お前、洗脳されてるんじゃないか?」
 、なんて言われると、冗談と分かっていてもムキになって
 「そんな筈はない!お前こそ」。

 ムキになればなるほど周囲からは奇妙に見えるし、本人も
 「何でオレはこんなことでムキになってんだ?もしかして・・・・?」
 と、疑心暗鬼になったり。
 で、ますます他人の言うことを聞けなくなる。
 「オレは間違ってない。ちゃんと調べたんだ。おれは洗脳なんかされてないんだあああああ・・・・・」
 
 「洗脳」→「脳を洗う」。何だかたわしでゴシゴシやってるみたいで、なんとも乱暴で強引な印象です。
 でもこうやって、訓読みで読み下してみると、そんなにイヤな気分にはならない。(痛そうだけど。)
 それどころか
 「『自らが』決心して脳を洗う(考え方を強い精神力で以て変える)」
 とすれば、これは逆に「武士の決断力」みたいで、ちょっとカッコいい。
 なのに、「洗脳」という言葉になると、そんなイメージは、ない。それどころか陰謀めいてさえ見える。

 ということは、ここにも意図的に色づけされた何かがある、ということなんじゃないでしょうか、「島国根性」を後ろ向きにしか捉えないのと一緒で。

 「洗脳」には「強引に行われる」というイメージがあるけれど、正直なところ、どんなに意志の弱い人間だって、強引にやられたら考えなんて変えません。やっぱりどこかの時点で、自分なりに納得するからこそ変えるものだし、変わるものです。つまり、自分でやっていることです。でなければ必ず精神に異常をきたします。

 じゃあ、「洗脳」に該当するもっと精確な言葉はないか。
 
 ありました。それは「思い込み」、です。
 「思い込み」には、「得心する」「納得する」などと違って、理由なんかない。
 考えの筋道がなくて、いきなり結論。数学の問題があって、解き方がなくっていきなり解答、ってやつです。

 「思い込み」。
 結構やってるんじゃないでしょうか。

 「そうか。何となくそう思っていた」、というようなこと、ありませんか。
 気がついてもなかなか「『考え方』を変えられない」んですよね。「考え続けてきた」わけじゃないから。単に「思い込んでいた」だけなんだから。

 私の場合は「シナ」という言葉です。
 「何となく」、「シナというのは失礼だ。中国を侮辱している」、と思って(感じて)いました。
 シナ(この時は中華民国)から、「言わないようにしてほしいとお願いされた」から、と知ってからは余計にそう「思って」いた。
 「他人の嫌がることをしたり、言ったりしちゃいけない」。
 大ウソでした。
 あの国、「シナ」、は「シナ」以上に、国を指す適切な言葉はありません。
 「シナ」というのに抵抗がある、中国で良いじゃないか、というのは、「考え」のない、ただの「思い込み」です。

 そして、こんな「思い込み」が、「考え方のない『思い込み』」が、積み重ねられていくと、例の「嘘も百回吐けば真実になる」という、人間が営々と造り続けて来た社会を簡単に引っ繰り返してしまう、とんでもない現実を生んでしまうんですね。
 ちゃんと考えず、意外と簡単に、信頼する人の言を「理解したつもり」で「思い込ん」でしまう。

 こういうことって一杯あります。心しようと思っています。

 ということで次回は「皇国」についてもう一度考えてみるつもりです。



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私も検証してみよう(自分の日記を、ですよ)

2020年05月15日 | 重箱の隅
2014.08/12 (Tue)

 「慰安婦」の件について、この4年間に、どんなことを書いていたろうか。
 ・・・・・なんてことを思ったものですから、抜き書きしてみることに。
 何?それじゃ検証じゃない、って? そういえばそうですかね。
 まあ、その都度に書いて来たことを時系列順に並べてみれば、それでもまた見えてくることがあるんじゃないかと、思ったものですからね。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 2010年1月17日

 あの、「従軍慰安婦」のこと。
 「韓国併合時、女子挺身隊として朝鮮人女子が強制徴用され、従軍慰安婦として日本軍に性奴隷にされた」

 何とも悲惨な話で、これが教科書に載り、高校生(一部には中学生も?)の心に、日本軍の暴虐非道振りが日本への嫌悪感を抱かせる一因となったことに間違いはなかろう。
 ただ、私が高校生だった頃には習わなかった話だ。それに、もうだいぶ前から、これは捏造だ、という、一方の説の存在も知っては、いた。
 だから、これをどうやって、捏造だと証明したらいいんだろうか、「捏造だという証拠はあるのか?なかったら認めるしかないじゃないか」、と言われたら、そこで終わりになってしまう。
 それが、「もっとしっかり読んでいれば、簡単に分かることじゃないか」と、ヒントを与えられたわけだ。

 著者のお母さんのセリフ。(陸軍病院の看護婦長だったそうだ)
 
 (母は)「何をバカなことを」と吐き捨てるように言った。」
 「従軍と言えば軍属よ。従軍記者、従軍カメラマン。従軍看護婦。戦死したら靖国神社よ。従軍慰安婦などと、こんなバカな言葉はなかった。」

 「従軍」とつけば軍属。名誉の戦死は英霊として靖国神社に祀られる。
 ということは「従軍慰安婦」は軍属となるから、戦死すれば靖国に英霊として、、、、馬鹿な。靖国神社の霊璽簿に「軍属 慰安婦 何某」というのがあることになる。
 「朝鮮人は性奴隷にされたんだからある筈がない。」?
 いやいや、日本人のがある筈ではないか。
 つまり、慰安婦は「従軍」なんかしない(と言うより、できない。許されない)のだ。慰安婦は軍にくっついて(一緒に、ではない。追軍、だ)行って、それぞれの駐屯地で商売をするのだ。言葉の意味を、ちょっと冷静に考えたら分かる。
 
 「女子挺身隊」も同じだ。「挺身」というのは身を捧げる、身体ごと投げ出して尽くす、と言う意味だ。
 だから、普通、「女子が国のために何かの仕事に就いて命がけで働く、隊」となる。
 それがどうして「女子が身体を投げ出す、と言ったら売春しかないだろう」となる?日本人に、こんな発想は、ない。(だって、これじゃ女は何の仕事もできない無能力者、ということになるんだから。)           
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 2011年3月03日

 「自虐史観から抜け出す」。焦点をそこに置けば失敗します。
 抜け出した、と思った端から、次々と新たに捏造された「事実」が突きつけられます。それを論破するのは容易ではありません。
 でも、「謙虚ではあっても自虐的ではない」としっかり捉えようとすれば、段々に分かるようになる。
 あの「従軍慰安婦」問題だって、「従軍」とつけば、「軍属」。「軍属」は死んだら、靖国神社に行き、霊璽簿に載る。慰安婦何某なんて、存在しない。付いて行ったことは「従軍」とは言わない。

 「謙虚である」というのは、「相手の言い分を丸呑みする」のとは、少し違います。「いざという時、まず、全てを投げ捨てる心持」です。そこに卑屈さはありません。
                                   
                              
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 2012年6月30日

 デパートが一流品ばかり並べるように新聞だって、・・・と思うんだけれども、現実、そうではない。粗悪品や偽造品、中には捏造品なんてのもあったりして。
 「百人斬り」とか「従軍」慰安婦、なんて言葉、新聞社の「製品」でしたね?
                                 
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 2013年1月20日

 字典を見れば、それぞれの捉え方の違いが分かります。
 「挺身隊」と言えば、「全身全霊で事に当たる」と言う意味であって、その「崇高な精神性」を賞賛されることはあっても、「身を挺する=売春」とか「女子挺身隊=性奴隷」などを意味する、などあり得ないことです。  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 2013年4月01日

 ぼやきくっくりさんのツイートです。
 あまりにも見事、というか、簡明で分かり易いので、転載させてもらいます。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  従軍慰安婦 
  命名は千田夏光
  捏造は吉田清治
  煽った青柳敦子
  ウソと断言済州新聞
  なのに拡散朝日の上村隆と福島瑞穂
  証拠もないのに認めた加藤紘一
  おわびと反省した河野洋平
  国連に持ち込んだ戸塚悦朗
  これを国会で問題にしたのが中山成彬
  画像を消しているのがNHKの倉又俊夫

  http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid1357.html
                              

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 2013年5月30日

 この日記については、阿比留記者の日記を転載していますので、是非直接御覧になって下さい。

 以下は私の書いた部分です。

 何度か書いたことがありますが、「従軍」というのは文字通り「軍に従う」という意味です。
 「軍に従う」とは「軍属」ということです。軍に属する者。
 ならば軍と共に行動するのは当たり前。だから、強制性はある。
 「軍属」だから、勝手に離脱はできない。
 で、当たり前のこととして戦地で死ぬかもしれない。
 だから、その場合、「軍属」は靖國神社に祀られる。

 慰安婦は「軍属」か?「軍に従」ったのか?
 「軍が集めることや移動に関与したのは事実」。
 業者に要望すれば関与したことになるし、危険回避のために軍の移動の際に一緒に移動させても関与したことになる。

 米英の現地での「自由恋愛」、というやり方が詭弁でしかないことは、彼等自身が一番よく知っている。金銭、物品のやり取りがあるからだ。
 しかし彼らは強弁する。それ(慰安婦の存在)を肯定すれば彼らの社会が成り立たなくなるからだ。

 ついでに。人身売買は奴隷制そのものだ、というのが米英の考え方であり、だから、娼婦としてであろうが何であろうが「売買されるのは奴隷」。
 ということで「性奴隷」という、日本人から見れば、何とも禍々しい表現になってしまう。
 勿論、「人身売買」を「奴隷制」と捉えてしまったら、労働力として売られた黒人奴隷も、遊郭の花魁も十把一絡げになってしまうわけで、我が身を犠牲に、と身を投げ出した日本の多くの未亡人女性の心のうちなど一切顧みられなくなる。
 ただただみんな不憫だ、と言い募ることは、却って、彼女らの一生を冒涜することになる、とは思わないのだろうか。
                                  

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 2014年2月28日

 高校生の頃だったか、「赤線」のなくなった今、日本人が朝鮮に喜々として「妓生観光」「妓生ツアー」に行くという記事を新聞で読み、何とも情けなくなったことを思い出しています。
 勿論、「従軍慰安婦」なんて言葉は聞いたこともありませんでした。
 「まだ、できてなかった(そんな呼称はなかった)」んですね、その時は。
 1971年。昭和46年のことです。
                                
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 2014年3月08日

 「女性を勤労挺身隊として動員」
 ということですらまともに捉えもせず
 「慰安婦として連行されたんだ」
 と思い込んでいる人が多い、ってのは一体どういうことなんでしょうね。

 日本軍の場合。
 「軍が慰安所の設置を要望した」
 「開所には、軍が便宜を図ってやった」
 「軍医が診察をしていた」
 「危険回避のため、移動時には護衛もした」
 だから、軍の関与があった。強制連行された。性奴隷だ。・・・?

 米軍等。
 「軍は要望も便宜を図ることもしなかった」
 「恋愛は自由である」から、売春婦が軍について来ようとも、現地で、地元の婦女子と恋愛をしようとも、軍は関わらない。
 勿論、軍医が診察をするのは兵士だけ。

 「自由恋愛」。上手い口実じゃありませんか。
 「お金を払う自由恋愛」、って何だ、そりゃ?

 「百人斬りの名の下に斬殺された」
 「(人数は問わず)斬殺の事実はあった」
 だから
 「百人斬りは、あった」
 
 脱線しました。

 大体、彼の国の「挺身隊問題対策協議会」という名称、おかしいでしょう?
 何で、「勤労挺身隊」=「慰安婦」、なんです?
 「女子の勤労」って、「慰安婦」なんですか?
 あの戦争で「女子(勤労)挺身隊」となった日本の婦女子は、みんな慰安婦にされたということになりますよ?

 或る時は「昭和14年に17歳」だった少女が、別な時には「昭和16年に17歳」になり、「女子挺身隊」として連行され、慰安婦にされた。「女子挺身勤労令の公布は昭和19年8月」なのに??
 この件の重要な関係者である「植村隆」記者については、ウィキペディアでご覧ください。
 言ってみれば、今大問題になっている慰安婦像建立等、一連の日本叩きの切っ掛けになっている人物です。

 あった、と言い立てることより、なかったと証明する方が何倍も難しい。
 「なかった」という「証拠」が「ない」のですから。

 「あった」という「証拠」はいくらでも「捏造」できますから。
 一般には「捏造」と言わないで「嘘」と言いますけどね。そして、「嘘も百回吐けば真実に」、です。
 
 世界中に慰安婦像が建てられれば、
 「像があれだけあるんだから、真実に違いない」
 、となり、
 「河野談話で、『あった』と証明されているではないか」
 、と。                           

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ざっと挙げてみました。
 「慰安婦」という言葉だけで検索してみたら、40件余りの日記に書いていましたが、「時系列で~」という枠組みの中では、ここに挙げたものが主になりました。

 お気付きのことと思いますが、最初の日記、これは若狭和朋氏の「日本人が知ってはならない歴史」三部作の中に在った文章からです。
 氏の御母堂の口を衝いて出た憤懣の言葉を拝見して、ハッと気が付き、それからやっと「そう言えば・・・」と高校生の頃からのことを思い出し始めました。
 妓生(キーセン)観光と称する破廉恥な朝鮮旅行についての記事を読んだことを思い出す。当時の日本の会社員の下卑た行動が恥ずかしかった。
 「慰安婦」が現金ではなく軍票で支払われた代金を換金せぬうちに敗戦となったため、軍票が紙くずになってしまった。国はお金を払ってくれないという、といった記事を読んだことを思い出す。
 「どうにもできなかったこととはいえ、今の政府には何とかしてやろうという気はないのか」、と、まるで、生涯に受け取った軍票を一度も換金しないまま持っていたかのように思い込み。
 「戦後がそうなんだから、戦前、戦中もそうだったんだろう、日本軍というのは汚い手を使って、結局は金を払いもしないで良いように売春婦を利用してたんだ。最低な軍隊だったんだな」

 そんなことを、高校生の頃は思ってました。
 でも、「慰安婦は高給取りだった」とか「朝鮮人の慰安婦は人気がなかったけれども、日本人の慰安婦は将校の相手に呼ばれていくので、兵隊は専ら朝鮮人の慰安婦のところに通っていた」、なんてのも、本(?)で読んでるんですよ。
 それが最終的に日本が全て悪い、という印象になって記憶されている。
 何故でしょうね?・・・なんて聞くまでもありませんね、それが印象操作、というやつです。大袈裟に言えば洗脳です。
 以前に書いた、私の父の南方での戦争体験(2010年4月18日の日記)。何だか「おとぼけ戦争日記」、みたいな気がして、どうしても現実味が感じられなかった。

 「戦争というものは悲惨なものだ、残酷なものだ」と教えられている、それは確かにその通りなんだけれども、毎日二十四時間戦い続けているわけではないんですから。却って平穏な時間の方が多いでしょう?戦地では。
 悪いところ、酷いところは当然ある。
 でも、それが全てだ、というわけではないのに、何だか最終的には「日本は酷い事ばかりした。史上最悪最低の軍隊だった」となる。
 それどころか敗戦後の日本人も全てそんな風に「最低最悪の国、それに騙されていた国民」と言われる。
 分断政策の一例、「国と国民の分断」、ですね。

 そんなこと気づきもしないから、そういう目で全てを見てきた。
 それが、少なくとも若狭和朋氏の著書から一気に錆び付いていた歯車が回り出し、思いもよらないところの隠し扉が開いて、そこから見える世界は以前と同じ世界なのに全く違って見えだしたような、といったところでしょうか。

 頭の中が整理整頓されて、昔から「そんなこと、分かってたよ」、というような、辺りを見下すような視線で見ているように周囲からは見えるかもしれない。
 それは確かに傲慢というものだ。ただ、まだまだ知らぬことだらけだし、考えも深まってないから、傲慢になってはいない、ということは自信を持って言える。(って、それが傲慢?)

 ネットが発達したからと言って、情報をいくらでも入手できるようになったからと言って、肝腎の自分がそれを活かす能力を持たなければ、またそれによって考える能力を持ち合わせていなければ、何にもならないどころか手枷足枷になってしまう。
 多くの情報を収集するよりも、手元にある情報を何度も何度も吟味し、組合せ、並べ直し、することで、考えを深め、自家薬籠中の物、どころか自らの血肉と化してしまうことの方が大事だろう。

 これが慰安婦を一例としての、私の日記の検証です。
 (実はこの日記、前回の橋下発言の日記の前に書いてるんです)
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広告記事

2020年05月15日 | 心の持ち様
2014.08/05 (Tue)

 広告記事ってのには、二種類ある(ような気がする)。

 一つは紙面の下方に並ぶもので、大体は雑誌の広告。これが新聞に活力を与えてくれる。
 何も広告費が経営の大事な支え・・・というのではない。記事の題名が工夫を凝らしてあるせいで、見ただけで、知識欲、悪く言えば野次馬根性を大いに刺激するのだ。
 
 週刊文春と週刊新潮は普通二大週刊誌扱いで、だからいつも隣り合わせだ。
 読者がその記事内容の競い合う様を楽しみにしているだろうから、ということで、新聞社も別格扱いにしているんじゃないかな、と思う。

 下品な記事から、思いもよらない鋭い指摘が為されているものまで、良い意味での玉石混淆が週刊誌の魅力だろう。
 だから、新聞ではまずやらない、はっとさせられるような題名を広告記事で見ただけで、その日、世間の見え方が違ったりする。
 ということは新聞以上に新聞的なことが書かれていることもある、とも言えるのだけれど、大概はちょっと眉に唾つけて・・・といった怪しい情報の処理の仕方になっている。
 でも、それで、読者は(広告を見ただけで)世間を新鮮な目で見る、言い方を変えれば積極的に見る、元気が出る、というわけだから、これは読者本人にとっても、国にとっても良いことなんじゃなかろうか。

 昔の少年向けの読み物雑誌である「少年倶楽部」は、大変に人気があって、あまり文学的な香りはしないけれどとにかく読者が多く販売部数も相当なものだった。そして読んでしまったら友達に回す、ということで、読者の実数は販売部数の何倍もあったわけだ。
 で、紙質が悪いからとにかく分厚い。下の方には子供向けの広告が一杯載っている。子供は他に読むことのできるような子供向けの読み物はないんだから、新号が出たら、とにかく隅々まで読む。
 面白がって読むものには広告だって広告ではない。みんな「記事」なのだ。これで元気が出る。

 他に読むことのできるようなものはないと書いたが、子供向けの読み物が全くないわけではない。子供のために、と上質の紙と一流の作者を用意してつくられた「赤い鳥」を初めとする「童話・童画」雑誌はあった。広告は(ほとんど)ない。値段は数倍。発行部数は少ない。子供の目に触れる機会も少ない。
 当然大人の意気ごみは、子供には全くと言って良いほど伝わらなかったようだ。

 もう一つの広告記事、というのは、紙面一面から数面に渡って買い取り、自社の宣伝をするというもの。一般的には自動車の広告なんかが多いんだけど、時には「意見広告」というのが全面に載っていたりすることがある。
 個人、又は団体の意見を紙面を買い取って載せる。

 「竹島」がどうとか「慰安婦が」、「湾岸戦争のお礼」、なんてのがそうだが、そんなのの中の最も気合いの入ったのが、言葉通りの「意見広告」だ。

 今回挙げようとしたのは、ちょうど一ヶ月前に「交詢社」が行った公開討論会。
 交詢社というのは福翁の提唱、創始した慶応義塾出身者を中心とする実業家の社交クラブで、その時の話題は「憲法、自衛権について」ということで「危機の時代に憲法を考える」というのが正式な題だったそうだ。
 社交クラブ自体の宣伝になると同時に、購読者にこのことについて落ち着いて考える機会を与える。そのために当日の討論会の模様を書き起こして載せる。
 国について考える場を用意する。これは広告記事の鑑だと思う。

 福沢諭吉が立てた社交クラブで行われた話し合いを、国民も考えられるように、と広告記事として新聞に載せる。それも、福翁が立てた時事新報の流れを汲む産経新聞に、だ。
 交詢社も産経新聞も、裏切り、転向をしていないからこそ、こういう啓蒙活動ができるのかも、と思った。

 少々長いのですが、御覧ください(でも部分転載ですよ)。
 7月4日の記事です。
 まずは浅く広く。何度も何度も思い出して考えてみる。
 「知ってるぞ」の一言で思考停止してしまうと、心に留めて置き、反芻せねばならないことも、一遍に中身が腐ってしまうこともあります。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「危機の時代に憲法を考える」

 (基調講演は平沼赳夫議員)

                   (略)
 私は昭和30年に改憲政党として誕生した自民党に意気揚々と入党し、真っ先に憲法調査会に入れていただいた。若かったから張り切っていました。
 しかし意外なことに護憲論者がものすごくいるんです。狂信的に「護憲」「護憲」という人がいて、殴り合い寸前になったこともありました。

 日本を統治しやすくする。日本を二度と立ちあがらせないようにする。
 米国はこの2つの目的で憲法を押し付けてきたと思う。
 私は決して反米ではない。しかし、独立国なんですからもう少ししっかりと国益のこともよく考えて行動していかなければいけないと思うんです。
 前文を読むたびに情けない気持ちになります。
 「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」。
 石原慎太郎さんに言わせると、助詞の使い方がなってないと。文章から間違っていると言います。
 日本には長い歴史、伝統、文化がある。憲法というのは、これに立脚しなければならないと思います。
 また、大日本帝国憲法には根本的な改変は許さないと書いてある。そういったことも踏まえこの国の憲法を考えていかなければならないと思います。

 共産党は護憲を掲げています。しかし、制憲議会では真っ先に今の憲法に反対していたんです。議事録を読むと残っています。
 また、彼らは当時(自衛戦争までは禁止しない内容の)「日本人民共和国憲法(草案)」まで用意していた。
 私は国民をだましているんじゃないかなと思います。
 私は保守的だから軍国主義者だと言われる。革新というのは進歩的だから全部「善」だと思われている。
 しかし、革新がモノを改めるのだったら、なぜ革新から憲法改正論が出てこないのか。
 このことをあえて言わせていただきたいと思います。

                   (略)
 
中西輝政
 
 中国が尖閣諸島を奪おうとしているなか、憲法を改正しているいとまも何もあったものではない。とにかく日米同盟の抑止力に頼って日中間の衝突を当面避けるしかないわけです。
 集団的自衛権がこれほどもめるのはやっぱり憲法のせいなんです。ごく当たり前の、最初からあってしかるべきものが、行使できなくなってしまっている。
 憲法前文の「諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しよう」という哲学を守りたい勢力が、まだ日本の要所要所を押さえているからだと思わざるを得ません。
 
 実は以前の私は集団的自衛権よりも憲法改正を議論しておりました。
 ところが1996(平成8)年に台湾をめぐって中国がミサイルを撃った。日本の与那国島の近くまで撃ちこんだわけですから大変危険な行為です。
 「中国はそのうち豊かになれば少しずつ民主化をして・・・」という見解の人が当時いましたが、憲法改正ができなければ日米同盟の抑止力に頼って時間稼ぎをするしかないと思いました。
                   (略)
 (吉田茂元首相の側近として知られる)白洲次郎さんは占領期に「敗戦最露出の憲法をおしつけられた。今に見ていろとひそかに涙す」と書いた。必ず改正してやるということで占領が終わるのを待ったわけです。
 ところが白洲さん、高度成長を享受した昭和の終わり頃になると、「日本は戦後これでよかったんだ」「憲法は改正する必要はなくなった」「この憲法でよかったよ」・・・・・みたいなことを書いているんです。白洲次郎にしてここまで落ちたかと思いました。
 櫻井さんのお言葉だったと思いますが「豊かさに負けた」。豊かになることは非常に大切なことです。しかしやっぱり国家というものはまず自己保全や安全保障です。
                   (略)

櫻井
 憲法を考える時に一番大事なことは、日本人を日本人たらしめる価値観とは何か、日本国を立派な国家たらしめる価値観とは何か、ということを国民全員が自分のこととして考え続けていくことだと思います。

                   (以下略)

 基調講演        衆議院議員    平沼赳夫
 コーディネーター   ジャーナリスト   櫻井よしこ
 発言者         元駐タイ大使    岡崎久彦
               衆議院議員    保利耕輔
               京大名誉教授   中西輝政

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 「自民党にも護憲論者はたくさんいる」
 「反米ではない」けれど、独立国なんだから「国益のこともよく考えて行動していかなければ」いけない。
 「共産党は今の憲法に反対していたのに、今、護憲を叫ぶのはおかしいじゃないか」
 「憲法改正なんかしている暇はない。」
 「とにかく日米同盟の抑止力に頼って日中間の衝突を当面避けるしかない」
 「白洲次郎にしてここまで落ちたか」
 「人任せにせず、日本人とは、日本とは、を国民全てが考え続けること」

 簡単なことばかりでしょう?これらのことを考えるに、殊更の知識は要らないんです。
 でも、「考え続ける」「繰り返し考える」ことは大事で、それなら誰だってできる。
 なのにしないで置いて、為政者に丸投げし、文句ばかり言う。
 「やらせてやってるんだから、しっかりやれよ。税金で食ってんだろ?」
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