2014.08/31 (Sun)
洗脳と思い込みは同じようなものだ、何故なら洗脳は組織立っているように見えて、その実、単純な社会把握のための立脚点(見方、視点)を示すだけだし、思い込みだって、自身が社会を勝手にこうだと思い込み、「考えることをしない」のだから、と書いて来ました。
洗脳は意図的な関わりに見えて、実は単純な「社会の在り方(見方)」を押し付けるだけです。だから、当人が考えを変えるか否かは、当人の意志に掛かっている。
思い込みは自身が勝手に社会の在り方を定義し、そこに自身で安直に整理付け(仕分け)をするだけ、と言っても良いでしょう。
それでやっと「皇国」の話になるのですが。
「皇国」って聞いた瞬間、何を思い浮かべるでしょう。
大半の人は、まずは語感に対して「好き」とか「嫌い」とか言うんでしょうか。
即、「天皇制」という言葉を思い浮かべる人、意外に多いかもしれませんね。
これもまた、思い込みの一例なんじゃないかと思います。
「天皇が国民を支配する体制」。これが天皇制です。
なんて書くと、「何い~っ!」って怒る人もあるかも。
反対に「そうだろう?何がおかしいの?」って人もあるでしょう。
「天皇制」の基になった言葉に「君主制」というのがあります。
「君主制」というのは契約の有無は別にして、とにかく「君主が力(権力)で国民を支配する」、という制度(仕組み)です。
繰り返しますが、この「君主制」という言葉を基にして作られたのが「天皇制」という言葉です。「君主」を「天皇」に置き換えることによって、「天皇が国民を支配する仕組み」という思い込みに誘います。
ところが実際には、折々の御親政はあっても、天皇が国民を支配する、ましてや国民と対立して存在するなどということは、ありませんでした。
天皇は飽く迄も神官であり、国民の先頭に立つ者です。
対して「天皇制」というのは天皇と国民が対峙する、或いは対立する、という、日本の国柄を誤解する惧れのある言葉ということになります。
この「天皇制」という言葉の作成から、「皇国」と言えば、「(天)皇の国」、そして「天皇の治める(支配する)国」という風に考えるようになったと思われます。
では本当のところはどうだったかというと、「皇国」は「(天)皇の(治める)国」ではなく、「皇国(すめぐに)」です。
「すめる国」=「統(す)べる国」。「統べる」は「治める」と違って「中心となってまとめている」という意味ですから、「支配」の意味を含む「治める」とは随分違ったものになります。
勿論、「皇国」の「皇」は天皇を指しますから、「天皇が統べる国」が「皇国」となります。
そうすると、「じゃ、君主制と一体どこが違うんだ?結局は同じじゃないか」と言われます。
しかし、「統べる」の意味と、これまでの皇室の在り方を見る限り、これは決して同じではない、と分かることと思います。
対立し、時には昇華させるために契約まで持ち出す、という欧米式の考え方と、
「宜しく爾皇孫(いましすめみま)、就(ゆ)きて治(しら)せ。行矣(さきくませ)、寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壤(あめつち)と窮(きわま)り無かるべし。」
という、天皇・皇民が諸共に栄え、天地に満つることを願う国の在り方は、決して同じとは言えないでしょう。
以前に書いた日記(注)に「皇学」と「皇典」という言葉を挙げています。
「皇学」は「皇国の学問(=国学)」。
「皇典」は「皇国の古典籍(=古典)」。
どちらも「皇国」という「国の在り方」が基となって、成る言葉です。
「皇国」。
ただ単に国の在り方を示しただけの言葉なのに、「右翼っぽい」とか「ガチガチの国粋主義だ」とかいう印象は、「思い込み」でしかなかったということではないでしょうか。
「これもまた、戦後教育による『洗脳』である」、などと大仰に捉えるより、
「思い込みではなかったか」「ちゃんと国のことを『考えよう』としてきたろうか」
と考える一例とすべきか、と思います。
注)11月23日までに~ ②皇学 皇典
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「行間を読む」努力をしたい⑦国民の思い
2012年3月16日の日記
(略)
気をつけねばならないのは、「それに対して」、という西欧式の考え方です。
「天皇」に対するに「国民」を置く。「~をしてもらったから」、対して「応じる」という考え方です。どう「返答」するか、という態度です。
天皇と国民が向かい合っている。対立、並立している。さらには「国民の総意」が天皇の地位を認めている(?)、と憲法に示されている態度です。そんな見方をすると、何も分からなくなってしまう。
「親政」は「国の弥栄(いやさか)えに栄えること」を目的としています。
そしてそれは我々国民が幸せに生きることであって、天皇はそれを願われるのみで、見返りなどは期待されません。
いや、敢えて言うならば、見返りは「国民が幸せになること」、そのものです。
天皇はそれだけを望む。
何故なら、
「行矣(さきくませ)、寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壤(あめつち)と窮(きわま)り無かるべし。」
、と
「天皇(と民草共に)この国に満ち満ちること」
という神勅を受けておられるからです。
対立、並立するものではない。勿論、支配・被支配の関係でもない。ましてや国民と、その総意で成り立つ天皇、というものでもない。
我々国民、民草はそれにどう応えるか。
考えるまでもないことなのかもしれません。親政の在り方を見れば、自ずと分かることでしょう。
親政は権力による力づくの政事ではない。天照大神の神勅のままに、また、五箇条の御誓文のままに行なわれる親政は、天皇自らを虚しうして天神地祇に民草の幸せを祈られることなのですから、我々国民は、その義に応え、情に応じれば良いだけのこと。
(以下略)
洗脳と思い込みは同じようなものだ、何故なら洗脳は組織立っているように見えて、その実、単純な社会把握のための立脚点(見方、視点)を示すだけだし、思い込みだって、自身が社会を勝手にこうだと思い込み、「考えることをしない」のだから、と書いて来ました。
洗脳は意図的な関わりに見えて、実は単純な「社会の在り方(見方)」を押し付けるだけです。だから、当人が考えを変えるか否かは、当人の意志に掛かっている。
思い込みは自身が勝手に社会の在り方を定義し、そこに自身で安直に整理付け(仕分け)をするだけ、と言っても良いでしょう。
それでやっと「皇国」の話になるのですが。
「皇国」って聞いた瞬間、何を思い浮かべるでしょう。
大半の人は、まずは語感に対して「好き」とか「嫌い」とか言うんでしょうか。
即、「天皇制」という言葉を思い浮かべる人、意外に多いかもしれませんね。
これもまた、思い込みの一例なんじゃないかと思います。
「天皇が国民を支配する体制」。これが天皇制です。
なんて書くと、「何い~っ!」って怒る人もあるかも。
反対に「そうだろう?何がおかしいの?」って人もあるでしょう。
「天皇制」の基になった言葉に「君主制」というのがあります。
「君主制」というのは契約の有無は別にして、とにかく「君主が力(権力)で国民を支配する」、という制度(仕組み)です。
繰り返しますが、この「君主制」という言葉を基にして作られたのが「天皇制」という言葉です。「君主」を「天皇」に置き換えることによって、「天皇が国民を支配する仕組み」という思い込みに誘います。
ところが実際には、折々の御親政はあっても、天皇が国民を支配する、ましてや国民と対立して存在するなどということは、ありませんでした。
天皇は飽く迄も神官であり、国民の先頭に立つ者です。
対して「天皇制」というのは天皇と国民が対峙する、或いは対立する、という、日本の国柄を誤解する惧れのある言葉ということになります。
この「天皇制」という言葉の作成から、「皇国」と言えば、「(天)皇の国」、そして「天皇の治める(支配する)国」という風に考えるようになったと思われます。
では本当のところはどうだったかというと、「皇国」は「(天)皇の(治める)国」ではなく、「皇国(すめぐに)」です。
「すめる国」=「統(す)べる国」。「統べる」は「治める」と違って「中心となってまとめている」という意味ですから、「支配」の意味を含む「治める」とは随分違ったものになります。
勿論、「皇国」の「皇」は天皇を指しますから、「天皇が統べる国」が「皇国」となります。
そうすると、「じゃ、君主制と一体どこが違うんだ?結局は同じじゃないか」と言われます。
しかし、「統べる」の意味と、これまでの皇室の在り方を見る限り、これは決して同じではない、と分かることと思います。
対立し、時には昇華させるために契約まで持ち出す、という欧米式の考え方と、
「宜しく爾皇孫(いましすめみま)、就(ゆ)きて治(しら)せ。行矣(さきくませ)、寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壤(あめつち)と窮(きわま)り無かるべし。」
という、天皇・皇民が諸共に栄え、天地に満つることを願う国の在り方は、決して同じとは言えないでしょう。
以前に書いた日記(注)に「皇学」と「皇典」という言葉を挙げています。
「皇学」は「皇国の学問(=国学)」。
「皇典」は「皇国の古典籍(=古典)」。
どちらも「皇国」という「国の在り方」が基となって、成る言葉です。
「皇国」。
ただ単に国の在り方を示しただけの言葉なのに、「右翼っぽい」とか「ガチガチの国粋主義だ」とかいう印象は、「思い込み」でしかなかったということではないでしょうか。
「これもまた、戦後教育による『洗脳』である」、などと大仰に捉えるより、
「思い込みではなかったか」「ちゃんと国のことを『考えよう』としてきたろうか」
と考える一例とすべきか、と思います。
注)11月23日までに~ ②皇学 皇典
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「行間を読む」努力をしたい⑦国民の思い
2012年3月16日の日記
(略)
気をつけねばならないのは、「それに対して」、という西欧式の考え方です。
「天皇」に対するに「国民」を置く。「~をしてもらったから」、対して「応じる」という考え方です。どう「返答」するか、という態度です。
天皇と国民が向かい合っている。対立、並立している。さらには「国民の総意」が天皇の地位を認めている(?)、と憲法に示されている態度です。そんな見方をすると、何も分からなくなってしまう。
「親政」は「国の弥栄(いやさか)えに栄えること」を目的としています。
そしてそれは我々国民が幸せに生きることであって、天皇はそれを願われるのみで、見返りなどは期待されません。
いや、敢えて言うならば、見返りは「国民が幸せになること」、そのものです。
天皇はそれだけを望む。
何故なら、
「行矣(さきくませ)、寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壤(あめつち)と窮(きわま)り無かるべし。」
、と
「天皇(と民草共に)この国に満ち満ちること」
という神勅を受けておられるからです。
対立、並立するものではない。勿論、支配・被支配の関係でもない。ましてや国民と、その総意で成り立つ天皇、というものでもない。
我々国民、民草はそれにどう応えるか。
考えるまでもないことなのかもしれません。親政の在り方を見れば、自ずと分かることでしょう。
親政は権力による力づくの政事ではない。天照大神の神勅のままに、また、五箇条の御誓文のままに行なわれる親政は、天皇自らを虚しうして天神地祇に民草の幸せを祈られることなのですから、我々国民は、その義に応え、情に応じれば良いだけのこと。
(以下略)