2015.07/08 (Wed)
25年余り前、初めてバイクで北海道に行った。当時は「モトトレール」という名の夏季限定列車があった。
日本海側を一晩かけて北海道に行く寝台急行「日本海」がそれで、夏だけ、「日本海」・「モトトレール」という二つの名前を持っていた。それに夏だけバイク専用の貨車をつけ、そこにバイクを留める。
元郵便貨車だったらしい車両の床にバイク固定用のフックをつけて、センタースタンドを立て、厳重にロープで固定する。フェリーなんか比べ物にならないくらいしっかりしたものだった。
ライダーは隣接する寝台車に乗る。夕方5時に乗車したら、以降愛車を見に行くことはできない。手持無沙汰で不安な夜が始まる。
だからというべきか、乗り合わせ、顔つき合わせた見ず知らずの者同士は、誰からともなく声を掛け合い、数十分の後には意気投合して酒宴を開き大いに盛り上がっている。
翌日、昼前には函館駅に到着。ライダーは四方、思い思いの方角に走り去る。
夏、連日、大阪から函館の間で、それが繰り返されていた。
目的は北海道ツーリングだ。仲間と一緒なら言うまでもないけど、一人だって気分は高揚している。そこにこの大宴会だ。
だからこの大阪からの一夜は、北海道ツーリングの一番初めの、思いがけないプレゼントだったのかもしれない。
目的がはっきりしていれば、そしてその目的が未来からの明るい光を感じさせるものならば、そこへ至るまでの道程は、また、その都度立てられる目標は同じく明るく輝いて見える。
目的に向かい、万難を排していくために目標が立てられているのだ、と多分に肯定的に見詰め、取り組もうとする。
北海道を一人、走る。
25年余り前だって、道はまっすぐで高速道路みたいなものだった。地元の車は「法定速度は80キロ」、と習ったんじゃないかと思うくらいビュンビュン走っている。トラックも同じだ。だからこちらも地元ナンバーの車に合わせて後ろを走っていれば捕まることはない。
ただ困ったことはガソリンスタンドが少ないことだった。「この先百キロ、スタンドなし」、なんて恐ろしい表示の看板が立ててあったりする。更にはいきなり工事中の深い砂利道が出現して、それが数キロに及んでいたりする。なのに工事している姿はどこにも見えない。
そんな道をおそるおそる走っていると地元のトラックが相変わらずの70~80キロで迫ってくる。死ぬかと思う。
もう一つ死ぬかと思うことがある。トイレがない。我慢しないで、そこらで立ち○○をすれば良いようなものだが、見渡す限りの大平原。どこから時速七、八十キロで車が現れないとも限らない。
大国主と少彦名の勝負じゃないけれど、排泄の辛抱は気が狂いそうになる。
そんな時(大方は、気が狂わぬように処理をした後だったけど)、草原の果て、或いは丘陵の上にポツンと建物があったりする。
行ってみると、場面にそぐわない立派なトイレが建っている。
誰もいない、何しろ近隣に人家は見えないのに信じられないくらいきれいで、もちろん水洗だ。時によると自動ドアだったりする。
「これはツーリングライダーのために北海道が作ったのか???」
本気でそう思ったことが何度もある。
街中ではない、周囲に全く人影の見えないところに降ってわいたような立派なトイレ。こんなシュールな景色は見たことがない。
「道の駅」というのは、「道往くドライバー、ライダーのために清潔なトイレを提供する」、というのが本旨だったんだそうだ。北海道のトイレのシュールさは、そのはしりだということをあらわしているのかもしれない。
旅行をしていると用を足す場所がない。あっても余りの汚さに閉口することが多い。JRの前身である国鉄のトイレだって水洗であることは珍しく、トイレットペーパーなどは置いてない。ましなところでティッシュの販売機が置いてあるのが関の山、だ。
加えて古いトイレは当然の如くに汚い。
「国鉄」ならぬ「国道」となると、トイレなんかある筈もない。高速道路が作られ、P・AやS・Aには清潔なトイレがあると知った時は
「さすがに『有料道路』だなあ」
と感心した覚えがある。
一般には交通量の多い国道に作られた「ドライブイン」で、飲食のついでのようにして「用を足す」。
「車社会となった日本がこんなことでは、『車社会文化』の向上なんか望めない。ゴミを捨てたり、そこらじゅうで用を足すような無作法を根絶しよう」
そうは言っても、なかなか無作法は治らない。
「だから、まずはトイレと駐車場を整備しよう。各自治体に協力を依頼しよう。それさえできれば、あとは自治体のアイデアに任せたらいいんじゃないか」
知恵者が、その近くに土産物屋を作ろうと言った。作ってみた。予想以上によく売れた。
「土産物はないから、野菜でも並べてみるか」。朝採ったばかりの土のついたような新鮮な野菜は思いのほか売れた。
初めはトイレ・駐車場の設置には大金が必要だからと難色を示していた自治体が、農家でない地元民も頻繁に利用するのを見て考えを改めるようになり、「道の駅」は急激に増えていった。
そしていつの間にか旅行者が用を足すためだけの施設が、有力な販売促進センターとなり、地域活性化の拠点となっていった。
本来の目的は忘れられ、すっかり外れてしまったように見える。
では、本来の目的はどうなったのか。
「旅行者に清潔なトイレと無料の駐車場を提供する」
これが守られていない「道の駅」はない、だろう。「道の駅」は十二分に機能している。旅行者は当然のように無料駐車場に車を停め、時にはそこで買い物をし、用を足して旅を続ける。大袈裟ではなく、もはや「道の駅」なしの旅行は考えられなくなっている。
こういうことを書くと「そのせいで廃業に追い込まれたドライブインはどうなるのだ」という意見も出てくる。けれど、道の駅ができたって一向に客足の衰えないドライブインだってたくさんある。閑古鳥の鳴いているような道の駅だって、同じようにある。
目的がはっきりしていること。そしてその時々の目標が、「そこに至るため」、ということを意識していれば、そして、多少強引でも目的につながる理由付けをしっかりとしていれば、大きく道を踏み外すということはない。
つい「是々非々」に拘泥して「木を見て森を見ず」に陥ってしまうと却って取り返しのつかないことになる。
今、全国には千六十ヶ所ほど、「道の駅」があるという。そして、まだ増え続けている。中には道を踏み外しそうなところもあるかもしれない。
けれど、「道往くドライバー、ライダーに必要なものは何か」を思い出せば、道を踏み外すことはないだろう。
思い出させるのは「思い遣り」の気持ちだ。
25年余り前、初めてバイクで北海道に行った。当時は「モトトレール」という名の夏季限定列車があった。
日本海側を一晩かけて北海道に行く寝台急行「日本海」がそれで、夏だけ、「日本海」・「モトトレール」という二つの名前を持っていた。それに夏だけバイク専用の貨車をつけ、そこにバイクを留める。
元郵便貨車だったらしい車両の床にバイク固定用のフックをつけて、センタースタンドを立て、厳重にロープで固定する。フェリーなんか比べ物にならないくらいしっかりしたものだった。
ライダーは隣接する寝台車に乗る。夕方5時に乗車したら、以降愛車を見に行くことはできない。手持無沙汰で不安な夜が始まる。
だからというべきか、乗り合わせ、顔つき合わせた見ず知らずの者同士は、誰からともなく声を掛け合い、数十分の後には意気投合して酒宴を開き大いに盛り上がっている。
翌日、昼前には函館駅に到着。ライダーは四方、思い思いの方角に走り去る。
夏、連日、大阪から函館の間で、それが繰り返されていた。
目的は北海道ツーリングだ。仲間と一緒なら言うまでもないけど、一人だって気分は高揚している。そこにこの大宴会だ。
だからこの大阪からの一夜は、北海道ツーリングの一番初めの、思いがけないプレゼントだったのかもしれない。
目的がはっきりしていれば、そしてその目的が未来からの明るい光を感じさせるものならば、そこへ至るまでの道程は、また、その都度立てられる目標は同じく明るく輝いて見える。
目的に向かい、万難を排していくために目標が立てられているのだ、と多分に肯定的に見詰め、取り組もうとする。
北海道を一人、走る。
25年余り前だって、道はまっすぐで高速道路みたいなものだった。地元の車は「法定速度は80キロ」、と習ったんじゃないかと思うくらいビュンビュン走っている。トラックも同じだ。だからこちらも地元ナンバーの車に合わせて後ろを走っていれば捕まることはない。
ただ困ったことはガソリンスタンドが少ないことだった。「この先百キロ、スタンドなし」、なんて恐ろしい表示の看板が立ててあったりする。更にはいきなり工事中の深い砂利道が出現して、それが数キロに及んでいたりする。なのに工事している姿はどこにも見えない。
そんな道をおそるおそる走っていると地元のトラックが相変わらずの70~80キロで迫ってくる。死ぬかと思う。
もう一つ死ぬかと思うことがある。トイレがない。我慢しないで、そこらで立ち○○をすれば良いようなものだが、見渡す限りの大平原。どこから時速七、八十キロで車が現れないとも限らない。
大国主と少彦名の勝負じゃないけれど、排泄の辛抱は気が狂いそうになる。
そんな時(大方は、気が狂わぬように処理をした後だったけど)、草原の果て、或いは丘陵の上にポツンと建物があったりする。
行ってみると、場面にそぐわない立派なトイレが建っている。
誰もいない、何しろ近隣に人家は見えないのに信じられないくらいきれいで、もちろん水洗だ。時によると自動ドアだったりする。
「これはツーリングライダーのために北海道が作ったのか???」
本気でそう思ったことが何度もある。
街中ではない、周囲に全く人影の見えないところに降ってわいたような立派なトイレ。こんなシュールな景色は見たことがない。
「道の駅」というのは、「道往くドライバー、ライダーのために清潔なトイレを提供する」、というのが本旨だったんだそうだ。北海道のトイレのシュールさは、そのはしりだということをあらわしているのかもしれない。
旅行をしていると用を足す場所がない。あっても余りの汚さに閉口することが多い。JRの前身である国鉄のトイレだって水洗であることは珍しく、トイレットペーパーなどは置いてない。ましなところでティッシュの販売機が置いてあるのが関の山、だ。
加えて古いトイレは当然の如くに汚い。
「国鉄」ならぬ「国道」となると、トイレなんかある筈もない。高速道路が作られ、P・AやS・Aには清潔なトイレがあると知った時は
「さすがに『有料道路』だなあ」
と感心した覚えがある。
一般には交通量の多い国道に作られた「ドライブイン」で、飲食のついでのようにして「用を足す」。
「車社会となった日本がこんなことでは、『車社会文化』の向上なんか望めない。ゴミを捨てたり、そこらじゅうで用を足すような無作法を根絶しよう」
そうは言っても、なかなか無作法は治らない。
「だから、まずはトイレと駐車場を整備しよう。各自治体に協力を依頼しよう。それさえできれば、あとは自治体のアイデアに任せたらいいんじゃないか」
知恵者が、その近くに土産物屋を作ろうと言った。作ってみた。予想以上によく売れた。
「土産物はないから、野菜でも並べてみるか」。朝採ったばかりの土のついたような新鮮な野菜は思いのほか売れた。
初めはトイレ・駐車場の設置には大金が必要だからと難色を示していた自治体が、農家でない地元民も頻繁に利用するのを見て考えを改めるようになり、「道の駅」は急激に増えていった。
そしていつの間にか旅行者が用を足すためだけの施設が、有力な販売促進センターとなり、地域活性化の拠点となっていった。
本来の目的は忘れられ、すっかり外れてしまったように見える。
では、本来の目的はどうなったのか。
「旅行者に清潔なトイレと無料の駐車場を提供する」
これが守られていない「道の駅」はない、だろう。「道の駅」は十二分に機能している。旅行者は当然のように無料駐車場に車を停め、時にはそこで買い物をし、用を足して旅を続ける。大袈裟ではなく、もはや「道の駅」なしの旅行は考えられなくなっている。
こういうことを書くと「そのせいで廃業に追い込まれたドライブインはどうなるのだ」という意見も出てくる。けれど、道の駅ができたって一向に客足の衰えないドライブインだってたくさんある。閑古鳥の鳴いているような道の駅だって、同じようにある。
目的がはっきりしていること。そしてその時々の目標が、「そこに至るため」、ということを意識していれば、そして、多少強引でも目的につながる理由付けをしっかりとしていれば、大きく道を踏み外すということはない。
つい「是々非々」に拘泥して「木を見て森を見ず」に陥ってしまうと却って取り返しのつかないことになる。
今、全国には千六十ヶ所ほど、「道の駅」があるという。そして、まだ増え続けている。中には道を踏み外しそうなところもあるかもしれない。
けれど、「道往くドライバー、ライダーに必要なものは何か」を思い出せば、道を踏み外すことはないだろう。
思い出させるのは「思い遣り」の気持ちだ。