CubとSRと

ただの日記

役に立ってない・・・?

2020年05月27日 | 心の持ち様
2017.08/30 (Wed)

 朝、目覚まし時計代わりにしているラジオを聞いていたら、北朝鮮がミサイルを撃ったというアナウンスが聞こえてきた。
 「何?この間の録音テープか?いや、目覚ましのラジオの筈だけど?」
、とボンヤリ思ったけれど、「目覚ましのラ」辺りで、「またか!」と目が覚める。

 「ここ、逃げ場、ないし。死ぬなら一瞬だな」
 現実味のない、妄想のような覚悟をする。
 (後で思い出してみると、兵庫南部地震の時と同じだった。あの時も「もはやこれまでか。ここで死ぬのか」、しか考えられなかった。)
 けど、例のJアラートというやつは聞こえなかったのだから、こっちの方ではないのかも、と思い、テレビを点ける。
 東日本の方向に発射されたらしいことが分かる。

 テレビ大阪以外、みんなこれをやっている。驚いたことに教育テレビでもテロップが流れている。
 しばらくすると各局でワイドショーが始まり、当然ながら、これまた申し合わせたように日本批判、アメリカ批判。威嚇(恫喝)行為を繰り返している当の北朝鮮のことは見事なくらい非難しない。
 それどころか相も変わらず「日本は部外者なのに米朝の争いに巻き込まれて~」。拉致の「ら」の字も出てこない。
 そして「Jアラートは意味がない」。
 ネットでも「切迫感のある警報音でなければ」「もっとアナウンスに緊迫感が欲しい」などと。

 「一発だけなら誤射かもしれない」は歴史に残る名言だけれど、誤射であろうが、核弾頭を装備していなかろうが、爆薬の入ってない空弾頭のミサイルであろうが、着弾すれば必ず死傷者は、出る。
 「途中で破壊したら破片が落ちて却って危険だから、破壊反対!」、なんて、どこかの旧党首が間抜けなことを言ってたけど、破片が落ちてくるのと着弾するのとどっちが危険か、考えるまでもないことだろうじゃないか?
 柱の角に足の小指ぶつけるのと、車で正面衝突するのと、「ぶつかるのは同じでしょ?♥」、なんてこと言ってたんじゃ話にならない。

 緊急地震警報が数秒~数十秒程度のものであっても、避難を考える時間が一秒でも二秒でもあるだけで間違いなくダメージを減らすことができる。
 ミサイル攻撃に対する防災訓練で、頭抱えてしゃがみ込んでいる姿を笑う海外の記事があったそうだが、「何もしないよりマシだ、という発想がなければならない」、ということが全く分かってない愚かな記者だなあ、と呆れてしまう。
 Jアラートだって「直撃されれば一巻の終わり、だから」と言って、直撃されなかった99%は間違いなく何らかの対抗措置が取れるのだ。仮に具体的な対抗策がとれなかったとしても、「とろうとする姿勢の有無」だけで、ダメージは大きく違ってくる。無防備の時はむち打ち症になっても、身構えていれば酷い筋肉痛で済むこともある。
 「Jアラートなんて役に立たない」というのは、危機について考える気がない、いや、考える能力がない、危険というものを想像することすらできない、と言っているに等しい。

 まあ、「役に立たない」という声が全国に広がって、「これではいけない。このままでは日本は滅ぼされるかも」という声が大きくなり、改憲の機運が盛り上がることになれば、その方が良いわけだ。
 いくら危険だと言っても「そうしたのは現政権だ。安倍が悪い」の一点張りで、全く先へ進めない。

 もしかしたら意外に現政権も「目的達成のためには、もう、手段を選んでは、いられない」、と、神頼みの心境かも。
 いくら説明しようと思っても全く聞く耳を持たない国民の、賛同を得ようなんて至難の業だ。
 何しろ「民主主義」、「国民主権」の「日本国民」の多くは「民=俺=神」と思っているみたいだから。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世間話

2020年05月27日 | 日々の暮らし
2017.08/27 (Sun)

 長い八月も、気がつけばあと五日ほど。
 昨日今日、風は時折強く吹くし、今日なんかは湿度だってべらぼうに高いというわけではない。
 とは言え、いくら風が吹いたってさほど涼しくはない。まだ夏なんだから、当たり前のことだけれど。

 それでも標高の高いところに住んでいるせいか、夕方、日が傾くと、敵意むき出しだった風が、ちょっとよそよそしい冷たさを見せ始めた。「嫌われるより無視される方が辛い」、というのは人の世だけ、か。
 
 夕食の用意にオクラを茹でようと柄付き鍋を持ったら、妙に重い。
 「えっ?」と思ってふたを取ると、何かが鍋の三分の一くらい入っていて、表面は真っ白。間違いなく中の物は完璧に腐っている。
 能く見ると、数日前に作った切り干し大根と鶏肉を煮たものだった。
 酒の肴も兼ねて多めに作ったのだけれど、半分強を鉢に入れ、あとは他の肴を食べて忘れてしまっていた。熱いものだから冷蔵庫に入れず、取り敢えず棚に置いたのが大失敗。
 ここまで完璧に腐らせてしまうと、あまりの物忘れの酷さに「落ち込む」よりも、他人事のように「呆れて」しまう。
 それからやっと「千切り大根を無駄にしてしまった。勿体ないことをした」、と悔やむ。ちっとも自分を責めてない。

 落ち着いたら「物忘れがひどくなったが、こんなで大丈夫か」「寄る年波、という奴で、これから一人でやっていけるか」など、いじいじと繰り言を脳内反芻するのが既定路線だったが、どうも最近はタガがはずれてきたような・・・・。
 「腐らせてしまったものは戻らない」。
 「物忘れや年齢を悔いたってどうにもならない」。
 けど、だからと言って「忘れないように気を付ける」とか「気持ちだけでも若く」、なんてお定まりのこと言って幕引き、ってのはどうなんだろう。

 気を付けたからって忘れる。気持ちが若くたって60歳が20歳になるわけでなし、八百比丘尼は排撃される。いずれは誰だってお迎えが来るものと決まっている。
 忘れることはしょうがない。歳取ることもしょうがない。要は「しょうがない」と受け入れた上で、「じゃあ、どうするか」、だ。

 「峠の太刀打ち(初めは遅く弱く、段々に早く強くなり、最後は遅く弱くなる太刀筋)」、は自然の理。だからこれはしょうがない。
 その「しょうがない」を受け入れた上で、「少しでも」初めから早く強くなるように工夫を重ねる。我々にはそれしかできないし、それをする(工夫しつつ修錬する)ことが生きている意味なんだろう。
 そうすれば「歩みが見えるのに避けられない」「太刀筋が見えるのに止められない」という理想に向かえる。微々たる力だけれど、間違いなく迎撃の方向が定まり、前進もできる。

 「忘れないように気を付ける」という「心掛け」どまりではなく、メモや指差し確認や声出し、などの具体行動をする。
 「心掛け」ではなく、「気概」で向かう。そこからの僅か(にしか見えない)な具体行動で、生活が変わる。
 生活が変われば、それによって具体行動はさらに変わる。
 ・・・・・と、予測してみた。

 ・・・・というわけで、PCは正午から3時まで。それ以外は点けないで、他のことをする、と決めた。
 「眼高手低(理想は高いが実行力は低い)」。こんな批評に意味はない。
 現実は「高い理想を瞬時に閲覧できることを以て自分が作り上げた理想だ、と勘違い」、或いは「思い込ん」でしまう。
 今は「三番稽古」ではなく「ぶつかり稽古」いやいや、まずは「四股を踏む」ことと「てっぽう」から、か。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雄叫びを上げる代わりに

2020年05月27日 | 神社
2017.08/16 (Wed)

                (略)

 もう一度書く。保守議員は靖國問題から離れよ!

 これは常識の問題である。仮に実弾飛び交う戦闘状態だとしよう。
 敵は間近まで迫ってきている。その時、彼等は「靖國神社を護れ!」と叫びながら、靖國神社に立て籠もるつもりなのか。 
 靖國を弾避けにして、自らはそこから応戦するつもりなのか。
 そんなことをしたら神社は格好の標的になって、焼け落ちてしまうではないか。

 本気で靖國を護りたいのなら、出来る限りそこから離れて「俺はここに居るぞ!」と敵前で踊ってみせるべきである。
 陽動作戦を取り、自らを囮として敵を靖國から遠ざけるべきなのである。
 これは全く常識の問題ではないか。

 実弾飛ばぬ言論戦、ネットを使った空中戦においても状況は全く同じである。
 靖國を護りたければ、沈黙すればよい。左翼の得意技である「話題逸らし」をやって、敵を別件に誘導すればよい。
 そうして静かに参拝出来る環境を護るのだ。

 我々も同様である。大声で参拝を論じる必要は無い。シュプレヒコールは必要無いのである。
 雄叫びを上げる代わりに、静かに友人知人を誘えばよい。手紙を認め、「久しぶりに会わないか、待ち合わせ場所は、そうだ靖國の前にしよう」と誘えばよいのである。
 言論空間にどれほどの言説が流れているかではない、九段の駅にどれほどの人が溢れているかが問題なのである。
 それこそが敵の心臓を射貫く最終兵器なのである。


 靖國問題における対応においても、麻生太郎は一つの模範を示した。参拝云々を無力化させることに尽力した。
 これは安倍晋三の「曖昧戦法」と同様の効果があった。
 麻生の靖國に対する思いは、その著作に存分に書かれている。そして、その任期中にマスコミに対して最も激しい怒りを示したのは、靖國参拝を云々したぶら下がり取材であったことも忘れてはならない。
 その時に吐き捨てるように言った言葉が、全てを表している。
 「靖國は静かに祈る場所であり、政治から最も遠くにあるべき場所である」と。




  2011.07.28 「保守議員は『靖国参拝』を口にするな!」

         ~夕刻の備忘録より再転載~
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生野菜、温野菜

2020年05月27日 | 日々の暮らし
2017.09/17 (Sun)

 「野菜を食べてビタミンを十分に摂ろう。栄養素は熱に弱いものが多いので、サラダのように生で食べるのが効果的」
 なんてこと、昔、言われてキャベツの千切りとか千切ったレタスとかトマトなんかを、朝食から食わされた。
 勿論、「こりゃ、身体にいいなぁ」、なんて実感は、全くなかった。

 しばらくたって、
 「生野菜が良いと言うけど、そんなに生野菜、たくさんは食べられないしなぁ~」
 という声が、遠慮がちにだけど、聞こえるようになった。
 大声で言うと時流に反逆している、と見られたからかな??

 そこで今度は「青汁」、なんてものが持て囃されるようになる。
 八名信夫だったか「う~ん。まずい!もう一杯!」というキャッチコピー。

 けど、更に
 「冷静に考えたら、生野菜は栄養豊富かもしれないけど、ちょっとしか食べられないよね。だったら、温野菜は栄養価下がるっていうけど、生の数倍食べられるんだから、計算したらこっちの方が栄養、摂れるんじゃない?」
、という意見が栄養学の方からも出てきた。

 何のことはない。一周回ってワン、じゃない、
 「一周回って先人の知恵にたどり着き、そこにちゃんと道理があった、と確認できた」
 、という結末。
 じゃ、
 「だから先人の知恵に間違いはない!保守主義こそが正義!」
 みたいなのは短絡的すぎる。そんなんじゃ先人の知恵から一歩も先へ進めない。
 そんな、考えもしない、ただ盲従する、というのは「恥」というより、先人にただただ申し訳ないということになるんじゃなかろうかと思う。

 先人の積み重ねてきた知恵を真正面から受け留め、それに新たな一歩を加えてこそ、の保守だろう。
 「生(野菜)が良い」「補助食品がカギだ」「いや、最初のものを見詰め直して道理を見出そう」

 「新聞を読め」
 「いや、ネットの情報で十分だ」
 「いやいや、ネットニュースの見出しだけで良い」
 けれど、
 「結局、素人の作った各新聞記事のまとめより、新聞の見出しの方が、まとめるレベルが高いのではないか?」

 一周して冷静に見れば、新聞の見出しの方が、事実もフェイクもトラップも、ネット記事より読み取り易い。

 端(はな)からそれを否定するのではなく、一度丁寧に辿ってみれば、物の見え方はまた違ってくるかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

肘の防具がない理由。

2020年05月27日 | 心の持ち様
2017.08/01 (Tue)

 前回、「気持ちは大上段。でも、確実に目の前の小手、肘を打つ(つもり)」、と書いた。
 それで、具体例としてこんなことを考えた。

 剣道では、肘は打たない。反則ということになっている。
 何故、肘を打ってはならないか、というと「そこに防具がないからだ」。

 ・・・ウソですよ。でも、仮にあったとしても打っちゃいけない。
 「打っちゃいけない」から、初めっから防具は作られてないんです。
 制剛流という流儀があって、ここは実戦ではえらく強かったらしい。けど、明治以降、あまり流行らなくなった。強かったのに??
 脛打ちが得意で、実際、稽古では薙刀の稽古のように脛当てをつけていたと聞いています。

 練習や稽古の時と違って、勝敗を決する時は、手段を選ばない。何をやっても良い。
 武術に限らない。何でもそうでしょう。外交、内政だって同じです。
 テーブルの下で蹴り合っていても、テーブルの上では握手を交わし笑顔で対する。
 人と人との約束で成り立っているのが「社会」。それも、「我と汝」の関係だけではなく、「第三者」が必ずあって、それが一番大きな力を発揮する。
 だから、テーブルの上と下ではどちらが主力になるかは言うまでもないこと。
 それで、テーブルの上で「人事を尽くす」。
 蹴り合いに関しては、蹴ることよりも、相手の攻撃をいかにかわすか、或いは捌くか(つまりダメージを受けないこと)が大事です。
 テーブルの下の方が主になれば社会は崩壊する。
 我が国の総理と仏頂面で握手をしたどこかの主席や、声をかけられても無視し続けたどこかの半島の女大統領なんかはもう完全に落第点。

 というわけで、勝負を決するためではなく、自身の技量(身心ともに)を高めるために、相手は防具を「つけてくれている」わけで、その(こちらの技量を高める)ための重要な部位である肘に防具をつけると、彼の動作が抑制されてしまうことになります。
 そうなると、当方の技量を高めるためのコーチをしてくれているのに、動きにくい装備をさせてしまう、彼の技量が十分に発揮されないという、何だか本末転倒なことになってしまう。

 それで、肘を打ってはならないというルールができた。

 逆に言えば、「思う存分打っても良い」とか、「そこを打つべき」という部位はできる限り強固な防具を作る。面や籠手がそうだし、突きの稽古のために喉の部位は特に頑丈につくってある。
 本来、突きは顔や胸を突くものだったが、それでは的が大き過ぎて、精確で強力な突き技は作れない。
 それが、強力無比な上に、精確に喉を突く大石神影流の流行から突きが重要な技として認識されるようになり、今の頑丈な突き除けの垂のついた面になった。

 自由に打ち合うために防具が作られたのではなく、飽く迄も「組太刀」や「懸かり稽古」で「修業者の技量を高める」ために、上級者が防具をつける。
 そう思って防具を見ると、違った形で見えてくる筈だし、そうすれば「剣道」の試合も「いかにあるべきか」、となってくるのではないか。

 勝敗を決するために武術を学ぶのではなく、いざという時の覚悟のために学ぶ。
 勝敗を決するために軍事力を持つのではなく、有事の際の覚悟のために軍事力を持つ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする