CubとSRと

ただの日記

「海の記念日」

2020年05月07日 | 心の持ち様
2013.07/14 (Sun)

 「子供たちに伝える国旗・国歌物語
      私たちの美しい日の丸・君が代」
 http://www.meiseisha.com/katarogu/hinomaru/hata-bi.htm

 上記の本から転載です。

  ●由来

 明治天皇は、旧来の陋習をやぶって、次々に近代日本の改革を断行されました。また、全国を巡幸されることも多くありました。
 明治九年(1876)、明治天皇は、五十日をかけて東北地方を巡幸されましたが、この時、はじめて船に乗船されました。七月二十日は、青森から函館を経由して横浜に到着された日です。
 この日は、長く「海の記念日」と呼ばれてきましたが、平成七年の法改正で翌年より「海の日」として祝日になりました。

 日本は、四方を海に囲まれた海洋国家で、海なくして日本の繁栄はありません。海の恩恵に感謝し、さらに、明治の国づくりに思いをいたし、この日を迎えたいものです。
 
                 転載終わり

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 敗戦後、昭和天皇が全国を巡幸されたことは能く知られています。
 多くの国民を、戦いで、又空襲で失った、焦土と化した我が日本は、何もなくなってしまったところから、もう一度立ち上がろうとした。
 その時、巡幸は国民の大きな心の支えとなったと言われます。

 国に対し、陛下に対し、不満を抱く者も多くあったのではないかと思われますが、巡幸に際して、騒動が起こったという事は一件もなかったようです。
 逆に、直接に訴えようとした人々が、陛下のねぎらいの言葉を耳にしてスッカリ気持ちが変わり、国の再建に力を尽くそうと誓った、というような話もあったとか。
 考えてみれば国が困難に陥った時、又、新しい一歩を踏み出そうとする時、天皇の行幸、お言葉があります。

 「祭政一致」、それもまずは「祭」、神前に奉告(祭事、です)があって、後に「政事」が行われる。それが建国以来の我が国の在り方でした。
 そして普段、天皇は祭事のみを行われ、政事は臣が行います。
 しかし、危急の際、緊急の際には、天皇が象徴的な政事を行われる。
 それが「御親政」です。

 今回の大震災で天皇皇后両陛下がほぼ毎週のように東北へ行かれたのも、やはり「御親政」と捉えるべきでしょう。
 昭和天皇も今上陛下も、それを当然のこととして行われた。
 そこから我々国民は、天皇陛下が常に無私の存在として日本の弥栄を祈って来られたことを感じてきたのではないでしょうか。
 何しろ、以前の日記に書いたように、春雨物語でしたか、国に災いが起こると、天皇の身は健康であっても、天皇=国体(國體)、ということで、薬を服されるのが専らだったそうです。
 変な感じですね。病気でもないのに、のみたくもない(きっと苦い)薬を飲まなきゃならない。でも天皇というのは人ではないのですから、それは当たり前のことだった。

 「ふうん。何か理不尽な気もするけど、無私、というのは分かるような気もするな。それに比べたら『海の記念日』なんて、祝日にする意味あんのか?」なんて思ってる人、意外に多いのかもしれませんね。
 中には「何?海の記念日?ははぁ。競艇の連合会辺りがごり押ししたんだろう、きっと」、なんてことを言う不埒者もいるかもしれない。
 でも、明治天皇が五十日間の巡幸を終えられ、横浜に到着された時、ですからね。
 あの当時、それも天皇が船で、なんて、あり得ないことです。
 そして、どこを巡幸されたのかと言うと、東北、です。それも五十日。
 物見遊山?まさか。

 戊辰戦争時、反政府的な行動をとってきた東北地方を罰するのではなく、近代日本を拓く大きな力としなければならない。そのための「天皇親政」です。

 そう考えたら、これは近代日本にとって記念すべき日の一つと見て間違いないでしょう。(だから祝日なんですね、失礼しました)
 もっと大事に思わなければならない日なんじゃないでしょうか。
 「7月20日は海の記念日」。 

 勿論、国旗を掲げましょう。

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向上の目指すところ

2020年05月07日 | 心の持ち様
2013.07/09 (Tue)

 さて、現状維持は目的ではない、と書いたんですが、じゃあ、目的たる「向上」はどう取り組んだら良いのか。

 「現状維持は至難の業」のところで書いたんですが、「現状維持」って、結局は目的ではなく手段なんだから、そこに焦点を合わせたってしょうがない。
 現状維持のつもりで行うことが、向上へ繋がっている、という事だから、「向上、はどうする」、だ。
 でも、「向上が目的」だったら、「向上を達成する」。?何かおかしい。
 おかしいというより、「向上」、なんだから、達成という事はない。

 「今のまま」、ではなくって、一寸でも一分でも「マシになる」方法を模索するのが人間で、ピアニストだってダンサーだって「現状維持のため」だけを目的として練習をしているのではない。
 「今よりうまくなる」ために練習をしている。

 「一日練習しないと元の状態に戻るのに三日ぐらいかかって~」
 、と聞けば、
 「すっご~い」
 、と驚き、次の瞬間
 「ホント?」
 、と疑って、自己嫌悪に駆られる。
 「技が身に付けば、五年、十年、稽古をしなくても大丈夫」
 と聞けば、
 「うっわ~。達人なんだ」
 と感心し、次の瞬間、
 「でも、そんな人が、五十年、稽古をしない、なんてことははいだろう?」
 と疑問を持ち、またまた「怪しい奴!」自己嫌悪。

 けど能々考えてみれば、この感動も自己嫌悪もただ受け入れてしまったんじゃ意味がない。
 第一、当事者はこつこつと続けるという練習姿勢や「技が身についたこと」を、何とも思っていない。ただ平常心で見ているだけだ。
 彼らの本心はどこに向かっているのか、を見なければ意味はないだろう。
 「現状維持ってすごい!」、なんて感動してる場合じゃない。

 彼はきっとはるか先を見詰めているに違いない。現状を維持するのはその「はるか先(に見えているもの)」のためだ(…と思う)。

 繰り返すけれど、「現状維持」は向上のために欠くべからざるもの、ということだけれど、目的なんかではない。
 じゃ、一日三時間とか、五時間とかの練習が単なる「現状維持」ならば、「向上」ってのはどこからなんだろう。時間を増やせば向上するのか。三時間だった人は三時間半?五時間やってた人は六時間もやれば向上する?

 反対に、(現状維持のための)練習に副次効果を期待してるんじゃないか、との考えも。
 だから、「練習をするとストレス発散になるんだろう?」などと言われることもある。
 「あ~っ!ムシャクシャする。気晴らしにちょっと走ってくる」、なんていう人もあるだろう。
 「仕事でたまったストレス、草野球で発散!ビールがうまい!」、なんて人もいるだろう。
 けど、「(向上のために)ひたすら練習あるのみ」と思ってる人は、「あ~、今日も良い練習ができたなぁ。ビールがうまいぞ」にはならない。
 きっとなかなか思い通りにいかず、練習の終わり頃になって、「今日も大した進歩はなかったな」と、却ってストレスがたまっていくのではないか。(センスのない私だけかもしれないけれど。)

 それでも、「飽きたんだろう?」と陰口を叩かれるのが嫌さに練習を続けていると、或る時、突然に昨日まで分からなかった身体の動かし方が分かることがある。
 「あれ?こんな楽な動かし方、していいのかな?」なんて思いながらも「もしかしてコツを掴んだのかな?上手くなった?」等と思う事もある。
 「上手の道は(坂道ではなく)階段だ」という人もいる。

 「向上」ってのは、ただ時間を増やせばどうにかなる、といったものではない。
 そこには常に「現状に学びながらも、現状のままでは先に進めない、壁を破れない」という葛藤がある。
 「現状維持」という言葉のもとになるのが「今の実力を保持する」ということであるならば、これは日本文化に最も似つかわしくない言葉だと言える。
 日本には「『今』に全力を尽くす」という考え方はあっても、「『今の維持』に全力を尽くす」という考え方はない。神宮の式年遷宮に際し、作り直される御神宝は全て全く同じものでありながら、全く同じであってはならないのだそうだ。二十年前より更に深まっていること、更に完成度が高まっていて当然で、それが職人の心意気なのだ、という。

 「保守」という言葉だって同じことで、「今のままを守ろう」というのではない。
 「今のままを守ればいい」、それでは「時よとまれ!お前はあまりに美しい!」、と同じではないか。悪魔に魂を売り渡したということではないか。
 「『今』に全力で取り組むことで、将来を輝くものにしよう」という、将来を見据えるのが、「保守」、だ。終着点は、ない。
 「現状維持というのは実に困難な作業だけれど、そこに執着しても何ら益はない。
 しかし傍目にはただの「現状維持」にしか見えない作業(取組)でも、徹底してそれに取り組むと、現状を超えた、将来への道が次第に明らかになって来るものだと思う。
 福沢諭吉が没するまで居合の稽古を続けていたことや、平山行蔵(こうぞう)の武術習練の日課が周囲の時計代わりにされるくらい正確に行われていたことが、決して「現状維持」のためではなかったことを、考えてみる意義はあるだろう。

 今回の参院選に関して、全ての野党は「一寸先の幸せ、現状維持」、を訴えるばかりで、「今に全力を尽くす」ための具体策は何一つ挙げられていないことから、野党の言はただ、「今に執着している」だけの、「夢想」でしかないと言えようか。
 まあ、与党、政権を、「今に全力を尽くす」覚悟で火を噴くように攻撃する野党なら、会期末、それも最終日になって総理不信任を可決させる、みたいなことはしなかったろうけれど。
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木鶏(もっけい)

2020年05月07日 | 心の持ち様
2013.07/07 (Sun)

 不世出の大横綱と言われた双葉山。
 その双葉山が69連勝で連勝を絶たれた時、横綱としての心の在り方を教えられた学者に「ワレ、イマダ モッケイ タリエズ 」と電報を打ったという話は有名です。

 「荘子」に載せられている「木鶏」の話からということも、またよく知られていることですが、何回か読んでも、その内わけをすぐ忘れてしまう。
 何となしに理屈は納得するんですが、どうも引っ掛かる。
 この感じは、前回の「現状維持」の話と同じです。

 それで、「現状維持」の話を続ける前に、脱線なんですが、ちょっとそれをWikiより転載。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 「木鷄」

 木鶏(もっけい)とは、荘子(達生篇)に収められている故事に由来する言葉で、木彫りの鶏のように全く動じない闘鶏における最強の状態をさす。

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 故事では紀悄子という鶏を育てる名人が登場し、王からの下問に答える形式で最強の鶏について説明する。

 紀悄子に鶏を預けた王は、10日ほど経過した時点で仕上がり具合について下問する。すると紀悄子は、 『まだ空威張りして闘争心があるからいけません』 と答える。

 更に10日ほど経過して再度王が下問すると 『まだいけません。他の闘鶏の声や姿を見ただけでいきり立ってしまいます』  と答える。

 更に10日経過したが、 『目を怒らせて己の強さを誇示しているから話になりません』 と答える。

 さらに10日経過して王が下問すると 『もう良いでしょう。他の闘鶏が鳴いても、全く相手にしません。まるで木鶏のように泰然自若としています。その徳の前に、かなう闘鶏はいないでしょう』 と答えた。

 上記の故事で荘子は道に則した人物の隠喩として木鶏を描いており、真人(道を体得した人物)は他者に惑わされること無く、鎮座しているだけで衆人の範となるとしている。

                    ( 以上Wikiより転載 )

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 空威張り⇒いきり立つ⇒目を怒らせる⇒他のものを相手にしない

 これで、木鶏の如くなったのであって、威徳で相手の鶏を畏怖させてしまう。
 「なぁ~るほど!」、でしょ?

 でも、何だか変だ。何が変なんだろう。
 一つはすぐに気が付きます。
 「それじゃ、闘鶏にならんじゃないか。すくんだ鶏や、木彫りの如くに動かない鶏を見たって、面白いことも何ともないぞ!」
 ですよね?

 この話を元にしたと言われる「猫の妙術」なんかは、この話よりもよっぽど完成度が高い。少なくとも、闘鶏は見世物。猫と鼠の戦いは勝負の問題。
 見世物は華々しい闘いを展開しなければ見世物にはならない。
 モハメド・アリと猪木の異種試合は勝負としては最高だったけど、見世物としての評判は散々だったことを思い出します。
 けれど猫と鼠の戦いは見世物ではない。勝ち負けが全てです。
 見世物と勝負。どちらがレベルが高いのか。
 いや、端的に命のやり取りはどっち?

 もう一つある「何か変だ」、は何でしょうか。 
 「大した問題じゃなかろう。例え話なんだから」
 、と言われそうなこと。或いは「ああ、あれか」と言われそうなこと。

 修業期間が異常に短いこと。日数の問題です。
 十日ずつ段階が分けてある。
 王様は十日毎に聞いてますね。えらく間が短いな、と思いませんか?
 また、それに飼育の名人はちゃんと答えている。
 そして、預かってから、僅か四十日で「その徳の前に、かなう闘鶏はいないでしょう」と達人(達鶏?)宣言をしている。

 「だから例え話なんだから。軍鶏だよ。そんなに長生きするわけじゃないんだし。軍鶏だから十日と言ってるんで、人間なら一、二年だろう?十日を五年、としても二十年ほどだから、おかしくはないだろう?」
 おかしいですよ。人間の五年を、鶏なら十日、と見る。
 内訳をみると、 
 「空威張り⇒いきり立つ⇒目を怒らせる⇒他のものを相手にしない」
 って、みんな心の在り様の問題です。鶏が四十日で到達することを、人間は二十年かかる・・・?

 これ、千葉周作の「一夜免許」の話と同じく、実際はあり得ない例え話だということです。
 闘鶏としての育て方が間違っている。
 人間の育ち方として一番大事な「志」について一言も触れていない(鶏が喩えだから、しょうがないんですけどね)。

 双葉山は「木鶏たり得ず」と言った時点で、木鶏を超え、
 「相撲は(勝負事は)終生、修行なんだ」
 と考えるようになっていきます。
 現状維持のために練習をしているわけじゃない。練習は向上を目指すがために行っている。
 向上とは「木鶏になることを目指す」ということか?

 武術は木鶏(無戦)ではなく、無敗を目指し、芸術は理想の美を目指す。



 註) 無戦は無敗の一部分。無敗に含まれるものです。
    完勝(まるがち)に無敵が含まれるのも同様です。
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現状維持は至難の業

2020年05月07日 | 心の持ち様
2013.07/05 (Fri)

 ピアニストやバイオリン弾き。ダンサーなどもそうだろう、一日練習しないと、元の状態に戻るのに三日くらいかかるという。えらいもんだと思う。
 山登りで言えば、毎日毎日「馬の背」と呼ばれる痩せ尾根を歩き続けるようなものだろうか。ちょっとでも気を緩めたらすぐ命取りになるような毎日か、綱渡りのような緊張の連続の中を生きているということになる。

 「ホントかぁ~~?」と思う。でも、ホントなんでしょう・・・・?

 何で「?」をつけたかというと、「そんなこと言って、結構、遊んでない?」と思わされるような言動が、意外に目につくからだ。本当に毎日欠かさず練習をしてるんだろうか・・・・?

 でも、練習する人は本当にしっかり練習をしているんだそうですね。
 それが一日三時間くらい。長い人で五時間くらい。これ、多いか少ないか。
 「そんなことはない。私なんかは眠ってる時だって練習している。だから、二十四時間練習だ!」と断言する人もいるんでしょうね、きっと。
 反対にこんなことも読みましたよ。
 「一旦技が身についてしまえば、五年や十年、稽古しなくたって遣えるものだ」
 何だかこれも分かるような気がする。
 「遣えないのは身についていないからだ」、というのは反語なんですが、それを言っちゃあ身も蓋もない。

 でも、ここでも思う。
 「そんなこと言って、五年、十年、全然稽古しない、なんてこと、ある?」
 「ひねくれ者だから、こんな風に思うのかな?」、と、そんなことを思った後は、何だか恥ずかしくなったり、落ち込んだりしたものだ。自分が、己の怠慢を放っといて他人を妬む、実に賤しい奴に思えてくる。

 けれど、「結構、遊んでない?」と思うのも、逆に「全然稽古してない、ってこと、ある?」と思うのも、「ひねくれ者かも」と思ったり、「恥ずかしい」と思ったりするのも、そこで「そんな筈はない!」、と切り捨てる(否定する)のではなく、「それぞれ正しいことみたいだけど、矛盾して見えるのは何故だろう」、と考える切っ掛けにすることは大事なんじゃなかろうか。
 「何て賤しい心根なんだ!おれって奴は!」と思っているだけでは一歩も前進はできない。そんなのは「謙虚」ではなくただの自虐・自己満足だ。ナルシスト、平常M運転かも知れない。

 政治などでは、意見の違いを「擦り合わせ」てうまく収めるのが常道だし、身の回り一般の人間関係でも「折り合いをつける」、というのが普通だ。
 けれど、「擦り合わせ」とか「折り合いをつける」とかいうのは、もう、聞いた瞬間、「何だ、それ。妥協の別名じゃないか」、と分かる。
 「落ち込む」だけ、「恥ずかしいと思う」だけ、だったり、「擦り合わせ」をしたり、というような、そういう収め方って、「向上」には繋がらない。「あうふへーべん」(止揚)とは言えない。
 「擦り合わせ」と「否定の否定」、は違うでしょう?違う考えがぶつかり合った結果、質的変化を起こす。それが旧の特質を持ちながらも、新しい優れた特質を持つ。
 それを我々は、普通、「向上」と呼ぶ。
 だから、己一身の中の解決法としては、「擦り合わせ」や「折り合いをつける」、はたまた「はっ、恥ずかしい!」などの、妥協をしたってしょうがない。「今のまま」、ではなくって、一寸でも一分でも「マシになる」方法を模索するのが人間でしょう。

 「一体、何をごちゃごちゃ書いてるんだ?」、って思われたであろうところで、標題に戻ります。

 「現状維持は至難の業」、です。
 「木の見方」で以て、物価を見る。
 「今」を維持するためには一瞬も気を抜けない。物価の変動を極力抑えるということはとても難しい。
 もっと考えれば、「今を守る」或いは「現状維持」、は目的だったのか、それとも手段だったのか、となり、当然それは手段であって、目的はいずこも同じ、「向上」であった、と、なります。
 ピアニストだってダンサーだって「現状維持のため(だけ)」を目的として、日々自身に練習を課しているのではなく、「今より上手くなる」ために練習をしている。
 「向上」を目指しているからこそ、頑張れるんであって、決して「時よとまれ!お前はあまりに美しい!」、と叫ぶ時が来ることを夢見ているのではない。

 「現状維持は至難の業」。
 ついつい、その努力している様に目を引かれるけれど、それは当事者の問題であって、我々個々人はその努力を認め、当事者の視線の先に思いを馳せるべきでしょう。

 さて、現状維持は目的ではない、と書いたんですが、じゃあ、目的たる「向上」はどう取り組んだら良いのか。
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誇り。心を支えるもの

2020年05月07日 | 心の持ち様
2013.07/04 (Thu)

 西村眞悟議員の「眞悟の時事通信」、部分転載をします。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 「中山恭子先生のこと、そして沖縄報告」
                  平成25年7月2日
 
           (略)

 人は、死を覚悟したとき真実を言う。
 自決前の大田実海軍少将の決別電こそ、沖縄戦の実相を伝えている。戦場における軍司令官の決別電は、敵の状況と部下の奮戦の状況を述べるべきであるが、大田少将は、敢えてそれをせず、冒頭次の通り述べる。

 「沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告せらるべきも、県には通信力なく、三十二軍司令部また通信の余力なしと認めらるるに付き、本職県知事の依頼を受けたるに非ざれども、現状を看過するに忍びず、之に代わって緊急御通知申し上ぐ」

 そして鉄の暴風と言われるすさまじい敵の攻撃の中での沖縄県民の姿を語り、最後に、
「糧食六月一杯を支えるのみなりという、
 沖縄県民斯く戦へり、県民に対して後世特別の御高配を賜らんことを」
 と結ぶ。

 この大田少将の電文にある沖縄県民の姿は、決して逃げまどう「被害者」ではなく、男女を問はず、戦士であり勇士であった。屈辱の生よりも栄光の死を選んだ人々であった。さらに状況に決してへこたれる人々ではなく、困難な状況の中で、「黙々として雨中を移動する」人々であった。

 私は、この大田少将の決別電を演壇で朗読し、
 そして、この沖縄県民の姿は、我々が目の当たりに見た世界に感銘を与えた二年前の東日本大震災における被災した東北の人々の「黙々として秩序と思いやりを失わず苦難に耐える姿」と同じだと述べた。
 六十八年前の沖縄と二年前の東北は、ともに巨大な苦難に襲われたが、その中で、同じ日本人の血に根ざす姿が顕れていたのだ。

 世界の諸民族を支えるものは、苦難に耐えた先祖の叙事詩である。例えば、現在のイスラエルは、二千年前に数万のローマ軍と戦い、マサダの砦で玉砕した千名のユダヤ人を心の支えとしている。
 同様に、六十八年前の沖縄県民の戦いの姿は、日本の誇りであり日本民族を支える偉大な力を宿している。

 この我ら日本民族の力の源泉である沖縄が、今再び既に戦場になっている。
 それは、自虐史観と中国共産党の仕掛けるプロパガンダの戦場である。そして、中国共産党は、この宣伝戦で勝利して沖縄を呑み込もうとしている。

 のっぴきならない事態が今沖縄で進行しているのだ。
 沖縄が敵に呑み込まれれば、六十八年前と同様に全日本が屈服するのである。
 その意味で、沖縄は日本の一地方ではなく、全日本そのものである。沖縄は日本であり、日本は沖縄である。

 沖縄を守り抜くには、即ち、全日本を守り抜くには、
今、この戦場で勝たねばならない。
 つまり、自虐史観を払拭し、誇りある民族の叙事詩である沖縄戦と大東亜戦争の大義を取り戻さねばならない。

            (以下略)

   http://www.n-shingo.com/cgibin/msgboard/msgboard.cgi?page...


  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 「沖縄県民斯く戦へり、県民に対して後世特別の御高配を賜らんことを」

 この言葉、有名ですよね。
 けれど、「沖縄県民斯く戦へり」、は頭の中に残っていても、「県民に対して後世特別の御高配を賜らんことを」の一言の具体的な意味、というのをあまり考えないんじゃないでしょうか。
 これは軍属ではない、ましてや軍人ではない一般民間人である沖縄県民が、軍と共に行動してくれた(軍に協力してくれた)ことに対して、配慮をしてやってほしい(年金、恩給などをお願いしたい)という意味でしょう。
 県民に対し、大田少将がどんな思いを持っていたのか想像できます。

 それが講和条約締結時、日本の主権回復を沖縄県民は祝ったけれど、後、沖縄が日本に返還されて以降、急激に様子が変わります。
 「日本に裏切られた」「集団自決を強要された」、等々。
 更には赤ん坊が泣き叫ぶのを米兵に見つかるから、と「静かにさせろ!」と怒鳴りあげ、抗議しようとした少女を射殺した、等との話まで語られるようになる。日本軍こそが悪、なのだ、と。

 でも、この電文と鬼のような日本軍が、どうしてもつながらないのです。
 それが、文中にある「現在のイスラエルは、二千年前に数万のローマ軍と戦い、マサダの砦で玉砕した千名のユダヤ人を心の支えとしている」、という言葉を見ると、見えてくるものがありました。
 電文と、返還後の沖縄の「記憶」の、どちらかが「捏造されたもの」だ、ということです。

 どちらだろう。

 日本人の考え方の糸を手繰れば、すぐにわかることですね。

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