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CubとSRと

ただの日記

「海から見れば」(10・11の日記)

2020年05月30日 | 心の持ち様
前後しますが、入院時のこと。
 ・・・・・・・・・・・・・・・
2010.10/23 (Sat)

 今日は良い天気です。眼前に広がる水平線がはっきりと見える。
 海の色は青みがかった灰色。綿雲が海上低く連なって浮かんでいます。
 けど、以前から思っていたのですが、海の色が何となく想像していたものと違う。

 私は日本海に面したところで生まれ育ちました。小さな港町でした。
 深い入り江の奥、「猫の額ほどの」、と言ったら猫が怒るかもしれない、両側から小山の尾根の海にまでせり出した、僅かばかりの土地に家が押しくら饅頭をしているように建ち並んでいる。
 海に面している、と言っても、そんなだから百八十度も広がるような広大なものでなく、入り江の口は、視野で言えば二十度もあったでしょうか。
 だから、「冬の荒々しい日本海。鉛色の海、砕け散る波頭」、なんて言われても、想像すらできなかった。

 入り江の奥は砂浜で、泡を噛むように叩きつけ、砕ける波、なんて見た事もなかった。だから、「ウソばっかり言うとらい!」と思っていた。
 でも、これが一般的な日本海、なんでしょうね、「鉛色の海。砕け散る波頭」、というのが。

 先日来、シナの、海への進出について、テレビでよく採り上げられています。あの第一列島線とか第二列島線とかいうやつです。
 その説明のためにちょくちょく出されるのが、アジア大陸を下方に描いた地図。東を地図の上方、西を下方にした地図です。
 これで見ると、シナが海に出ようとすると、ちょうど日本が落し蓋のように大陸に覆いかぶさっています。
 「目の上の瘤」という言葉がありますが、確かにこれは目障りです。
 前途洋々、といきたいのに、日本が思いっきり邪魔をしている。
 わざわざこんな地図を用意するテレビ局には、その努力に敬意を表するよりも呆れ返る方が先ですが。

 まあ、憎まれ口は置いて。取り敢えずはよく分かる。シナからすれば、「日本は邪魔」以外の何物でもない。

 ここで思ったんですよ。
 太平洋はキラキラ耀いている。日本海は重い。
 その理由は、、太平洋は浜から見ると洋上に太陽がある。
 少なくとも我々は陽射しに正対することになる。じゃあ、反射してキラキラして当たり前。
 対する日本海は、浜から見ると太陽は地上(陸地上)にあり、我々は陽射しを背に受けて、言ってみれば太陽と一緒に海に面することになる。
 海面の反射、キラキラ輝くさまは、基本的に波がなければ「ない」。
 そして輝く度合いは、太平洋と日本海では比較にならない、ということになる。

 「冬の日本海」は演歌になるけれど、「冬の太平洋」には、ちょっと無理がある。

 だけど、陸地から、ではこうだけれど、海を渡って日本に来ることを考えたらどうでしょう。様相は一変するのではないか。
 太平洋は陽光を背に受け、船は、まさに黒く見える黒潮を乗り越えてやって来る。目の前には陽射しを受けて明るい緑に染まる山々が見える。
 青黒い海の向こうに浮かぶ緑の山々。

 日本海はどうでしょう。
 「太平洋を陸から見る感じ」と思ったら、ちょっと想像できますか。いや、太平洋に比べて海は浅いから青黒い、とまではいかない。
 青い海に陽が反射する。太陽に向って進んで行く。
 これは太平洋側から上陸するより、景色は全体に明るいんじゃないでしょうか。

 日本のことを「東夷」、或いは「島夷」というそうですが、同時に「海を東に進むと、蓬莱島がある」、とも言われていて、日本こそ、その蓬莱島だ、という説もあります。
 
 いずれにせよ、日本海側を「裏日本」と称し、日本海側を「山陰」という表し方、「裏」とか「陰」とかいうと、何となし「日陰者」みたいには思ってしまうのですが、海を渡って来る側からすれば、昔は日本海側こそ「表」であり、「山の陰」ではなく「山を背にした」、理想郷の入り口だったのかもしれません。
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「素振りの目的(本当の目的)」10・11の日記

2020年05月30日 | 日々の暮らし
2010.10/24 (Sun)

 先日、木刀を素振り用の木刀に替えました。
 普段遣っているのは、普通の木刀の半分くらいしかない重量の細い物で、数百グラム。素振り用は、計ってみたら1,7キロ。
 通常の刀身が、1キロ少々で、胴田貫という剛刀でも、1,5キロほどです。
 これは明治初め、榊原鍵吉が兜割りに使い、桃形(ももなり)の兜を4寸余り切り割ったという有名な刀ですが、それよりも重いことになります。
 まあ、榊原鍵吉は、普段、4キロ以上の素振り木刀を振り回し、前腕部の太さが一升瓶ほどもあった、といいますから、片手で大刀を遣えるほどの力はあったでしょうけれど。

 そうそう、素振り木刀と言えば、手槍(二間)ほども長さのある、太さは手槍の倍以上の、恐ろしげなものもあるし、長さは4尺ほどながら、重量は10キロ!まるで丸太ん棒のようなのもあります。
 ちょっとしたコツさえつかめば、振れないものでもないのですが、でも、それで、百回、二百回と素振りをしていたら、一体どんな体つきになるんでしょうね。
 榊原鍵吉は、「一升瓶の腕」で「分厚過ぎる胸板」のために、警官になったものの、合う制服がなく、仕方なしに上のボタンはは二つ三つ開けていたそうです。あけていた、というより、とめられなかった。
 何とも妙な形ではあったでしょう。
 ビシッとしていなければならない巡査が、上のボタンを二つも三つも外して。不良学生じゃあるまいし。
 まあ、榊原鍵吉、と言えば稀代の剣豪。不良学生には見えないでしょうが。

 素振りに戻ります。細い木刀で素振りをやると、疲れないか。これが結構疲れるんです。細くて、指三本でも振ることのできる様な木刀でも、実際、振っていると結構疲れる。

 以前にこんな話を読みました。
 全国大会で上位入賞したものの、優勝を逃がした選手がいました。大会後、しばらくすると、どうも様子がおかしい。
 酒好きで、宴会好きだから、これまでは酒席が果てるまで居た筈なのに、その大会後、酒席の途中で、必ず帰ってしまう。
 よほど負けたのが堪えたのか、何か考えることがあるのか、と友人が心配して聞くと、
 「実は先生に約束させられたんだ。毎日必ず素振りをせよ、と」。
 
 それは全国優勝をめざす選手と、その師。ありそうな約束です。
 ただ、その約束の中身、というのが、師から渡された木刀が重くなるまで素振りをする、というものだった。

 その木刀は桐でできていたのです。勿論何かを打てば簡単に折れてしまうような、柔らかくて軽いのが桐、です。
 そんなものが重くなる、というのは、振り疲れて、くたくたになるまで、ということでしょうか。
 全国優勝を目指す選手、腕力は並大抵ではないから、桐の木刀なんて、芋がらのようなもの。いくら振ったって重くはならない。
 でも、先生の厳命、約束。好きな酒を飲んでいる時間はない。
 何時間も振らなければ重くならない。約束は果たせない。

 だから、帰る。
 毎晩、何時間、振っていたのでしょう。二、三時間は当然のこと、時には夜が明けるまで振っていたのではないでしょうか。
 一年後、その選手は全国優勝を果たした、と思います。

 さて、桐の木刀よりも、もっと軽い木刀、さらに言えば、木刀の重さが数十グラムしかなくても、素振りをやれば疲れます。
 「そんなバカな」と思う人は、シャドウボクシングをグローブなしでやったって疲れるということを想像してください。
 木刀を持たなくたって振り上げ、振り下ろしの、腕自体の重さで、誰だって疲れるのです。
 その「ただでさえ疲れる」ということを考えたら、この選手の師匠の言った、「その木刀が重くなるまで振れ」というのは、「くたくたになるまで」というのとは、ちょっと違うのではないか、と思いませんか。

 言葉通りに捉えるべきではないか、と思うのです。
 「桐の木刀が重くなるまで」というのは、「桐の木刀の重さを活かせるようになるまで」「重さを感じるようになるまで」ということではないか。

 古来よりの口伝に「重い刀を軽く、軽い刀を重くつかえ」というのがあります。
 たかだか数百グラムの桐の木刀だって、「重く使うことができる」、となれば、太刀筋はこれまでとは違ったものになって来る。

 「これまでお前は、力に頼りすぎて、力を活かしきれずにいた。無駄に、がむしゃらに力を使っていては本当の力は出せない。まず、力の使い方、手のうちをもっと工夫せよ」。
 師匠はこう言いたかったのではないか。

 身の周りに、こんなことは、沢山転がっていそうです。最初の段階で、早合点をしない。しっかり見詰めて取り組んで見る。
 しっかり見詰めて分からない場合は、仕方がない。取り組むしかない。
 けれど、最初に聞いた謎のような言葉、或いは何を問うているのか分からない問題そのものは、忘れずに取り組み続ける。
 そうすれば、少しずつ目が見えるようになるのでは、と思います。

 毎晩、無理をしないように、と、素振り木刀での素振りを百数十回やる様になりました。
 歳をとっているから、筋肉痛がなかなか出て来ません。
 慣れ、で、疲れが出にくいように誤魔化す術も少しは知っています。

 それでも、先日は遂に胸が痛いなと思いました。
 歳を取り過ぎて筋肉痛が、今頃出てきたのか、と思ったんですが、どうもおかしい。

 で、数日後、おさまっていた痛みが、朝、出て来た。
 ここに至って分かった。
 「あ、胆石だ」全く、もう。 チャンチャン。
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「気がついたら」(今が一番若い)

2020年05月30日 | 心の持ち様
2010.10/24 (Sun)

 「今さら、何も」ということがよくあります。
 「この歳になって、そんな」ということもあります。
 以前にも書いた「年寄りの冷や水」は、憎まれ口ではあるけれど、若者の照れから来る年寄りへの思い遣りの言葉、と書きました。

 我々の一生は一度きり。自虐史観に囚われていようとも、「今、日本人に目覚めた」としても、一度っきりの人生。やり直しは利きません。あるのは方向修正だけです。

 だったら、「今さら、何も」、は、ないでしょう。「この歳になって~」、も、ない。「年寄りの冷や水」は喉まで出掛かっていても呑み込む。
 やりたい、と言ったら、それをさせてあげるのが「孝」。手助けするのが「孝」。自身のことならば「果断」。「はっと言った、はっと」です。

 そういえば、「日本昔ばなし」で、「日本一の孝行息子の話」というのがありました。
 母一人子一人の百姓母子。孝行息子は母親を大事にして何枚も重ねた座布団に母を座らせ、炊事、洗濯、掃除、全て自分がやって甲斐甲斐しく老いた母の世話をしていた。
 「こんな孝行息子を持って私は幸せだ」と母は言う。

 そんな或る日、「日本一の孝行息子」が隣村に居ると聞く。
 それで、自分よりも孝行をする者とは一体どんな男か、どんなことをしているのだろう、と、その様子を見に行った。
 すると、貧しい農家に年老いた母親らしい人が一人。
 息子は野良仕事に出ていたが、ほどなく帰って来た。
 母親から「私の息子は親孝行かねえ?」と聞いていただけだったから、様子を見ていると、その息子、「ああ、疲れた」と言って縁に座る。
 すぐ、母親が湯を持って来て足を洗ってやる。あれ?逆じゃないか?
 「腹、減ったよ」「じゃ、ご飯にしよう」「ああ」あれ?それもしないのか?
 「ごくろうさんだね、肩揉んであげよう」ありゃ、全くの反対じゃないか。
 なのに、「ああ肩、凝った。気持ちがいいな」
 
 さすがに孝行息子、腹を立てて、その「日本一の孝行息子」に、
 「どこが孝行息子だ!日本一と聞いてやって来たのに!」と問い詰めると、件の息子、
 「そうだよ。周りはそう言うが、オレはそんなこと思ったこと、ない。ただ、おっかあがやりたいようにさせてるだけだ。本当は自分で足も洗いたいし、肩も凝ってなんかいねえんだが。いらねえ、と言ったら悲しいだろうからな」、と小さな声で言った。

 そこで孝行息子は、ここの母親がずっとにこにこしていること、比べて、自分の母親は、何だか退屈そうにしていたことに気がついたのだった。

 こんな話。

 老人だけじゃない。自分等も同じです。
 「今さら、何も」と言いますが、「まだ、早いよ」も同じ。
 やり直しは利かない。「気がついた」ら、どちらも同じ。
 「思い」をこそ大事にしましょう。「思い遣り」のもとです。
 そして、「はっと言った、はっと」、です。

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「併合と習ったはずなんですが」(10・11の日記)

2020年05月30日 | 重箱の隅
2010.10/24 (Sun)

 先日の菅談話。返す返すも残念ではあります。
 概容は総理でなく、官房長官が作ったものと確信していますが、いずれにせよ、民主党に問題があり、もっと言えばそれを選んだ日本国民が、もっと反省すべきこと、です。

 にもかかわらず、内閣の支持率は60%もあり、尖閣諸島に関する一連の事件応対の不手際があっても、まだ、45%近くある。
 反省は全く為されていない。
 気になるのは、NHKをはじめ、大半のメディアはこの談話に関して、すぐ「朝鮮の植民地化」というような表現をすることです。
 はて?いつ、日本は朝鮮を植民地にしたろう?

 学校では「日韓併合」、「韓国併合」と習ったはずです。
 それどころか、この日記の初めの方で、韓国が独立国になったのは、日清戦争の講和条約(下関条約)第一条で、日本が清国に、朝鮮を独立国として認めさせた時が初めて、と書きました。「棚からぼた餅」の独立だった、と書いた覚えもあります。

 植民地というのは、そこに宗主国の人間が住み、現地にある資源、産物等を、入手、或いは収奪することで、利を得るためのものではなかったですか。
 何ら手を加えることなく、雨が降れば氾濫を繰り返すだけの川原に、「」として名字を持たない「」が住む。
 両班層は生産をしない。だからといって、いざという時に我が土地と領民を守るために武器を持って戦うわけでもない。
 商人は居ても、とにかく生産業、工業、といったものが家内制手工業から、先へ進まない。
 植民地にする旨みのかけらもないところに、河川整備、学校建設、戸籍作り等、国家予算の相当額をつぎ込んで生活を安定させようとした。
 これのどこが「植民地化」なんでしょう。

 「国家百年の計、と言うんだから、先の旨味をつくるためじゃないか?」と思った人は、現実の日本を見ればいい。
 そう簡単にはできないからこそ、「国家百年の計」なんて理想に近い目標をあらわす言葉が使われるんです。国内でさえできず、予算まで削って朝鮮のために、ですよ?

 これはやっぱり、身近な感覚で言えば、新興アジアの優等生として、西欧列強に評価してほしい、という自意識の問題でしょう。司馬遼太郎は、そのようなことを書いています。

 「併合だったら、何で創氏改名、皇民化教育なんてやるんだ!日本人が土地を買い漁って、地主になっているじゃないか!」と言う人々がいて、実際それは大きな問題みたいですが、「日本人が知ってはならない歴史」の著者、若狭和朋氏は、そのトリックを実に鮮やかに説かれています。

 先に述べた河川敷。洪水時に冠水を繰り返す、であるが居住するところ。そこを整備したのは日本です。住んでいたのは。

 戸籍をつくる時、族譜を持たないは、「創氏」するしかありません。
 住所は、「元、河原」。日本によって整備された元河原は、元の土地になります。が名字を持ち、地主になるわけです。
 その名前、朝鮮名をつけようとすると、族譜がどうのこうのという問題が出てくる。
 ならば、日本風の名字をつければ良い。これが「創氏」の実態です。
 「日本名の方が都合が良い、便利だ」、というのは、「日本での生活が」というより、「朝鮮の身分制から解放される」ということなのです。

 名字のなかったが、日本風の名字をつけ、日本に整備してもらった、洪水の心配のなくなった河川敷に住み、そこを田畑にして住所もそこにする。朝鮮人であるよりも、日本人になった方が良い。
 ・・・・・つまり、日本人が河辺の田畑を持った地主になる。

 実情は、だから、「日本人が土地を買い漁って」ではなく、日本によって名前と土地を同時に手に入れた元が「日本人になった」ということだ、と。

 さらに、つい思い違いをしてしまうこと。
 「併合」、「合併」というと、「一緒になる」という意味だから、「対等だ」、と無意識に思っていませんか?
 「しかし」と若狭氏は言います。「会社が対等合併ということはほとんどない」
 国もそうですね。国力が同じ国同士、合併なんてしますか?会社も。
 対等だと思うから「同じでないとおかしい」、となる。
 けれど、合併後、軍人、政治家等、元々の両班層から出た人は、そのままの姓を名乗って軍、国会で活動しています。
 対等ではなくとも、合併したら同じ国民だから、別に朝鮮人であることをやめる必要はない。
 本来、それまでの国力に差があるのだから、その差は受け入れ、中で力をつけ、同じにする。それは併合された方の努力すべきことで、実力のあるほうはそれを阻止するものではない。
 そんなこと(実力のあるものが威張っている)をすれば、周辺国に与し易しと思われ、ちょっかいを出されるだけです。(実際、この時は、ロシアも手を出しかねています)
 
 元だった、「創氏」して日本風の名前を持った地主は、朝鮮人として生きるより、日本人として生きた方が良い。そりゃそうでしょう。初めて身分差別から解放されるのですから。

 朝鮮を保護国にし、実力がつくまで見守り、勿論援助して実力がついたら同盟国となって、「①属国に戻そうとするシナ」「②領土化を謀るロシア」に対抗すれば良かったのですが、ずっと属国としての月日を重ねてきた朝鮮と、蛮族の地としてうち捨てられていた台湾とは、その歴史が全く異なっているが故、その後の在り方は全く違ってしまいました。
 「ハイハイ」も満足にできない赤ん坊を、日本は無理矢理立たせ、手をつないで歩こうとしたのではないでしょうか。

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「明治政府軍の強さ」

2020年05月30日 | 心の持ち様
2010.10/23 (Sat)

 今日は太平洋岸がひどいとか言ってましたが、こちら、日本海。
 低く横に伸びた灰色の雲の下に、同じく灰色の海が広がっています。
 海に面した病院で、天気が良ければ深い青の海が視界一杯に広がっているはずなんですが、入院して三日目、まだそういう海を目にすることはできません。

 さて、西郷軍の様子を書いたからには、政府軍のことも書かなければ。
 全国、とまでは、いってないんですが、当時は要所に政府軍が置かれ、それぞれの地域を「鎮台」と呼び、そこに駐屯している兵を「鎮台兵」、と呼んでいたようです。
 もし、内乱が起これば、そこの鎮台に向けて近いところから徴兵令で徴集された成人男子が集結する。
 私の田舎の近く、石見銀山のある大森町にも、西南役出征の、顕彰の石碑があります。
 
 で、ふと思ったことです。
 日本では「徴兵」と言われたら「お国のため」、と誉れに思うようになったのは、わりに早い時期からのようです。
 そりゃあ、最初のころは
「年貢を取られる上に、侍の代わりもするのか!」
と、不満もあったようですが、身分制が廃止、四民平等となって当然、婚姻の境もなくなった、立身出世は本人の努力次第、ということ等が知られるようになると、そういう不満も収まってきたようです。
 それにくらべると、シナの「徴兵」というのは、文字通りの徴兵、です。ただ、単に集める。でも、無理矢理、というのではなく、いくらかの支度金を渡すか、給料を提示するのが普通です。本当に約束をまもったかどうかは、わかりませんが。

 徴兵令によって集められた兵士は、当然軍装一式が与えられます。更に、軍事訓練も受けます。
 行進、射撃から始まる西欧式の近代軍隊です。また身装も、やっていることも、近代軍隊ですから、当然、腰に大刀はありません。あるのは厳しい軍規、ですか。

 充実した軍備。少なくとも、足並みの揃った行進。指揮官の号令一下、指示通りに行動する。まさに、一兵士。将棋の駒、です。近代戦争では当然のこと。

 それでは、政府軍は強かったか。
 「田原坂の戦い」や、軍旗を奪われるという一大汚辱、等、で知られるように、あまり強くなかったのではないか、というのが定説のようです。
 しかし、本当にそうなのでしょうか。

 これまで目にしたところでは、西郷軍の吶喊に対して、為す術もなく斬り殺される。
 一人の西郷軍兵士に対して、三人でかかり、正面の一人が斬り殺されるうちに、あとの二人が左右から打つ、いわゆる十字砲火の銃撃版で、やっと対抗できた、という話が、一番目立つのですが、考えてみれば、「どこでも田原坂」ってわけじゃありません。
 実際のところは、というと、田原坂のような、見通しの利かないところに塹壕をつくり、隠れていて飛び出しざま斬りかかるというのは、薩英戦争時、上陸して来た英兵を物陰に隠れていて斬り付けるというやり方と同じです。
 薩英戦争の時は、上陸した英兵はそれに対して何もできず、算を乱して逃げるしかなかった。結局上陸掃討を諦め、艦砲射撃に徹したとされています。「田原坂の戦い」だけで決め付けるのは些か酷ではないか。

 個々の兵士の肚の据わり方が大きい。武士と徴兵、では覚悟が違う。それは仕方がない。
 けれど、大局的に見たら、というと、これまた鹿児島から出た西郷軍は、熊本城に置かれた熊本鎮台を攻め落とせず、迷走しているかのように動きながら、数を減らし、結局鹿児島に戻り、鶴丸城の背後、篭城戦の中心となる城山で全滅。

 政府軍には補充の利く兵士、武器弾薬があったから、とは言われますが、やっぱりこれは「政府軍の強さ」なのではないか、と思います。

 ついでながら、西郷の真意は誰にも分かりません。
 ただ、その始まり、戦路、等を見ると、西郷軍は死ぬための戦争、全滅するための戦争をしようと思っていたかに見えます。
 勤皇の僧、月照を助けることができず、共に、と入水自殺をはかったように、西郷軍となって戦った多くの若者と共に死ぬことで、暴発の決着をつけ、「国民皆兵」という形を磐石のものにしようとしたのではないか。

 「補充の利く兵士、武器、弾薬」。
 一口に言うと、別段どうと言うこともないように見えますが、これは大変なことです。
 武器、弾薬はともかく、兵士は、これまで(近代以前)の戦さでは、「最初が全て」で、あとから出て来るのは雑兵と言っても良いくらいに、質が落ちるのが普通だったからです。
 同じレベルの兵士が次々に補充、増員される。軍備も同等か、それ以上に増強される。

 いくらダウンしても立ち上がって来る不死身の兵士。それどころではない。場数を踏むにつれて強くなって来る。

 西南戦争を境に、確かに政府軍は精強な「日本帝国軍」に変身します。
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