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CubとSRと

ただの日記

「禁」

2020年05月23日 | 重箱の隅
2016.09/12 (Mon)

 高校の二年だったか、三年だったか。水滸伝を読んでいたら「八十万禁軍」という言葉が出てきた。
 「禁軍」に対するのは「廂軍」。
 
 後で分かったのだが「禁軍」というのは「禁裏の軍」という意味で、皇帝を守る軍隊。近衛軍のような存在らしい。
 対する「廂軍」というのは地方政府管轄の軍隊で、各地を戦乱から守るのが仕事。(この「廂軍」が何となしに後の軍閥政府と重なって見えるのだが脱線はしないよう、これはまたいつか。)

 それにしても「八十万禁軍」というのは兵士が八十万人いる、ということだからとんでもない人数であるのだけれど、そこはそれ、「白髪三千丈」の国、近年では南京市の人口二十万人をはるかに超える「南京三十万人大」を日本軍がやったと言い張る国だ、大風呂敷、大袈裟は国民性、だと思っていた。
 そう思っていたら、この「八十万禁軍」、実際は八十万以上の、八十二万人もいた時期があるのだそうだ。勿論そんなにはいなかったのがほとんどの時代の禁軍だったらしいが。

 ところで「八十」というのには、何か意味があるのか。
 日本では、御存知「八百万の神」という言葉があって、「八」が出てくる。末広がり(扇)、ということで吉数、とされる。
 また人麻呂の歌に「もののふの八十氏河の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも」、と武門を表す枕詞「もののふ」の後にとても多いという意味の「八十氏」という言葉を持ってきている。実際に武門の家が八十あった、ということではない。
 「八」、「八十」、「八十万」、「八百万」。こうやって並べてみると、シナにせよ、日本にせよ、「八」を吉数としてとらえていたのではないか、そのことに関しては擦れ違いはないのではないかと思う。同じような感覚を持っていたということだ。

 では「禁」という文字(言葉)に関してはどうなのだろう。
 「禁軍」というのは「禁裏の軍」と書いたが、「禁裏」の「裏」は「裡」とも書いて、「表に対する裏」というよりも「外に対する内側」という意味で使われるものだから、「禁裏」は一般人(国民)が入ることを禁じられている場所という意味になる。

 さてそれでなんだけれど、何となし「禁」という文字には「十八禁」とか「禁煙」「禁酒」など、嫌々ながら従わざるを得ないような雰囲気がある、と思っていた。私だけだろうか。
 「否定される」というか、とにかく「自由にできない」「縛られる」「法の縛り」みたいな言葉ばかりが頭に浮かんでくる。
 「禁闕(きんけつ)」「禁軍」などの言葉にも、長いこと
 「どうしてこんな言い方をするのだろう。嫌われているわけでもなかろうに」
 、としか思えないでいた。

 しかし、ここ五年余り、わりとまじめに「日本」、「日本人」ということについて考えるようになって、「島国根性」と同じく、これはいつの間にか深く考えることもなく受け入れてきた「常識」が沈殿して、先入観をつくってきていたからなのではないか、と思うようになってきた。この「禁」という字句の意味するところも、もしかしたら正反対だったんじゃないのか。

 神社に、時折り、注連縄の張られた「禁足の地」というのがある。
 中に入らないように、としてあるのだから普通に「立ち入り禁止」とか「進入禁止」と書けば良いようなものだけど、(おそらく)昔のままに「禁足(の地)」と書かれている。何だか「立ち入り禁止」とか「進入禁止」とは随分雰囲気が違って、「力づくでも止める」といった感じではない。何となし、「禁闕」や「禁裏」、「禁軍」に似た雰囲気がある。

 何が違うのだろうと考えてみた。
 「立ち入り禁止」や「進入禁止」には「止める」という文字が入っているからだろう、「何だよ、それは」、と不満を持っても、つまり「嫌々ながら」「不承不承」、でも受け入れなきゃ、という「社会の約束」が前面に押し出されている。
 対して、古くからの「禁」の方は、「敬している」からこそ、「畏れ多いと思う」からこそ、近付かない、「社会の約束事」ではない、自分の心に直接響かせる表し方だったのではないか。
 「水滸伝」で知った「禁軍」という言葉も、実はこんな風に「畏れ多い人(皇帝)・宮廷を守る軍」という意味合いだけであって、人民が敵意を持って見ていたなどということはなかったんだろう。

 では、日本では決して一般的ではなかった「禁裏」「禁闕」「禁軍」等にある、その「禁(=畏れ多い)」ということを、我々の先祖はどうやって理解するようになったのか(理解、ではなく「感得」、だったのかもしれないけど)。
 多くの日本人は幕末まで「禁裏」「禁闕」「禁軍」なんて知らなかった。
 それなのに「天皇」、「皇室」について、一気に受け入れること(得心すること)ができたのは何故だったのか。
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本当のところ

2020年05月23日 | 心の持ち様
2016.08/20 (Sat)

  今の美輪明宏は好きじゃないけど、昔、氏の「紫の履歴書」とか「獅子のざぶとん」などを興味深く読んだことがある。
 当時は色んな箇所で「成る程、確かに」、と頷いた記憶がある。氏が実体験をもとに物事を見詰めようとしていた時期だったのだろう。
 花森安治断ずる「眼高手低」のお手本みたいな、世の中の解析ぶりだった。三島由紀夫に心酔していた頃ではないか。

 その「紫の履歴書」だったか「獅子のざぶとん」、そのどちらであったか覚えていないのだが、何かのパーティーで、当時はまだ総理でなかった中曽根康弘氏が白上下の海軍将校の制服でやってきたのを見て、非常な反感を持ったことが書かれていた。
 「あんなのは本物ではない。恰好だけの真似事だ」、と。

 とても目立っていたのだろう。確か中曽根氏は海軍主計局にいたんじゃなかったか。
 そう思って今Wikiを見たら、海軍経理学校を出て、主計中尉に任官された、とあった。おそらくはその時の軍服だろう。
 だから実際に着ていたものであって、偽物ではない。
 
 でも、私も「そんなの恰好だけの偽物だ」、と今でも思う。戦後数十年経って、何でそんなものを着てくるのだ。
 その指揮下で多くの兵が倒れ、英霊となったのではないか。その戦場跡に軍服で弔いに行くのなら分かる。が、何でパーティーなんかに着ていくのだ。配下の兵のことを思えば、決してそんな場に着ていける服ではあるまい。
 戦争に行ってない者が帝国陸軍の野戦服で靖国神社に参るのとどこが違うのだ。心根からして間違っている。
 そんなことをずっと思っていた。

 今日、西村眞悟氏のブログを見ていたら、今夏の安倍総理、稲田防衛相の行動を叱責した後で、こんなことを書かれている。
 ・・・・・・・・・・・・・
            (略)
 「かつて、ボディーガードを伴って昇殿参拝した総理大臣がいた。
 靖国神社の時の松平宮司は激怒した。
 祀られる英霊は、戦場で五体裂けて戦死された方々である。
 にもかかわらず、
 平時に自分の身を守るボディーガードを拝殿まで伴うとは何事か、と。
 彼は、明らかに参拝しないほうがよかったのだ。」
           (以下略)

   ~「英霊と西郷さんに会った」  平成28年8月19日(金)より~
               http://www.n-shingo.com/jiji/?page=1233

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 何だそれは。そんな総理大臣がいたのか、と思って調べてみたら、松平宮司(松平春嶽公の末裔)が講演されたものを見つけることができた。

 「神道の作法は執らない。玉串は捧げない。お祓いは受けない」。
 この時点で「何だ、それは!」だが、小泉総理も「一礼しただけで、ポケットマネー」だったな、と思い出した。
 講演記録なので、部分転載でも結構分量がある。しかし、是非読んでいただきたい。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                        (略)
 ・あの総埋大臣の無礼な公式参拝は忘れられない。

 政治の渦中に巻き込まない
 私の在任中に、もう一件世間を騒がせたのは、中曾根康弘総理の参拝でしょう。昭和六十年八月十五日。「おれが初めて公式参拝した」と自負したいからか、藤波官房長官の私的諮問機関として「靖國懇」なるものをつくって、一年間、井戸端会議的会合をやりました。そして手水は使わない、祓いは受けない、正式の二礼二拍手はやらない、玉串は捧げない、それなら「政教分離の原則」に反しないという結論を出したのです。
 しかし、これは私に言わせれば、「越中褌姿で参拝させろ」というのと同じで、神様に対し、非礼きわまりない、私は認めないと言ったんです。
 そしたら遺族会やら英霊にこたえる会の方々に呼ばれまして、「折角、ここまできたんだから、宮司はゴタゴタいわないで、目をつぶってくれ」と、相当強く迫られたのです。

                         (略)
 話を中曾根参拝に戻します。遺族会などに「靖國懇」の結論を呑めといわれて、私が反論したのは、手水を使わないのはまあ宜しい。それは前もって潔斎してくるなら、中曾根さんの心がけ次第だ。玉串をあげない、二礼二拍手もしないでお辞儀だけ。これも心の間題で、恰好だけでなく、心から参拝するなら、こちらからとやかくいうことではない。それは譲ってもいい。
 けれども、お祓いだけは神社側の行うことだから受けてもらわなきゃ困る。火や塩や水で清め、お祓いするのは、日本古来の伝統習俗であって、これを崩されると、一靖國神社のみの間題でなく、地方でも中曾根方式を真似て、お祓いを受けないのなら知事は参拝しよう、そう言いだしかねない。それは神社参拝の本質を根底からくつがえす大きな問題だから、と反論したんですがダメなんですね。それで「分った」と。
 しかし、いずれにしろ、こういう形の参拝をさせていただきたいと総理サイドから頼みに来られるのが神に対する礼儀ではないか、と主張しました。
 すると前日の十四日、藤波官房長官が見えたので、目立たないよう、奥の小さい応接間にお通しして、私は言いたいだけのことを言いました。
 天皇様のご親拝のご作法−−手水をお使いになり、祓いをお受けになり、それから本殿にお進みになって、大きな玉串をおもちになって、敬虔な祈りをお捧げになる−−それを全部やらないというのは、弓削道鏡にも等しい。そう靖國の宮司が言っていたとおっしやっていただきたいと、しかし、これは恐らく言われなかったでしょうね(笑)。
 それから、私は明日は総理の応接には出ない、泥靴のまま人の家に上がるような参拝は、御祭神方のお気持に反することで、「ようこそいらっしやった」とは口が裂けても言えないから、社務所に居て顔を出しません、それも伝えてほしいと。

 念のために申し添えますと、靖國神社の例大祭などへの総理参拝は、吉田首相以来あったことです。
 サンフランシスコ調印帰国直後の秋季例大祭に、占領行政下であるにもかかわらず、堂々と「内閣総理大臣吉田茂」と署名し、榊を供えておられます。
 その後、岸、池田、佐藤、田中と、歴代の総理が参拝しておられますが、吉田首相と同様の形式でした。
 八月十五日の終戦の日に参拝するようになったのは、昭和五十年の三木首相からで、肩書なしの「私人」として参拝した、などと言ったものですから、それ以来、参拝する閣僚などに「公人としてか、私人としてか」などと新聞記者が愚にもつかぬ質問をするようになりました。

 私は、お偉い方でも心なき参拝者には、離れた社務所からスッ飛んで行くようなことはいたしません。しかし、年老いたご遺族が、特に地方から見えたら必ず知らせてくれよと奥の方の神職には言ってありました。
 それに、八月十五日だからといって、神社は特別なことをするわけではないのです。
 靖國神社には、新年祭や建国記念日祭といった他の神社と共通の、我が国の安泰を祈願するお祭り、そして春秋の例大祭、月に三回の月次(つきなみ)祭(一日、十一日、二十一日)といった、御霊をお慰めするお祭りと、いわば二通りございますが、八月十五日はいずれにも属さず、特別なお祭りはないのです。
 朝夕に神饌をお供えする朝御饌祭、夕御饌祭が厳粛にとり行われておりますが、これは三百六十五日、毎日行われていることです。ただ、八月十五日には武道館で全国戦没者追悼式が行われ、全国からご遺族の方が見えますので、参拝者の数が多くなります。マスコミも注目する。それで政治家も地元のご遺族方の参拝に合わせて来られるのでしょう。

 私は例年、八月十五日は、武道館のほうへ靖國神社の代表として招かれておりますので、モーニングを着て出席いたします。式が終って、出ようとしても出口が混雑するので待っている。
 その間に首相は、さっさと靖國神社へ回って参拝を終えるので、従来から八月十五日には全然首相とは対面していません。

 ところが、昭和六十年の鳴物入りの「公式参拝」、私に言わせれば「非礼参拝」ですが−−そのときは、武道館での追悼式のあと、総理は、時間調整のため昼食をとられ、その間に武道館から退場したご遺族さんたちを神門から拝殿まで並ばせたんですね。その中を中曾根首相一行が参拝するという、ショー的な手配をしたのです。
 しかし善良なご遺族たちは「公式参拝してくれてありがとう」と喜んで拍手で迎えていました。私はすでに武道館から神社に戻っていたのですが、藤波さんにも職員たちにも宮司は出ていかないと言ってあったので、出ていかない。社務所の窓からご社頭の状況を眺めておりました。ちょっと子どもじみておりますかね(笑)。

 ところが夕刊を見てびっくり仰天。これはしまったと思いました。参拝が終ったあとの写真が出ているんですが、中曾根総理、藤波官房長官、厚生大臣、それとボディガードが写っている。写真では二人しか写ってませんが、四人ついていた。
 拝殿から中は、綺麗に玉砂利を掃き、清浄な聖域になっているんです。天皇様も拝殿で祓いをお受けになって、あとは待従長などをお連れになって参進される。警護はなしです。
 だから、中曾根総理が、厚生大臣と官房長官を連れていくのは、幕僚だからそれは結構だ。しかしボディガードを四人も、自分を守るために連れていくのは、何たることだと思うわけです。
 靖國の御祭神は手足四散して亡くなられた方が大部分です。その聖域で、御身大切、後生大事と、天皇様でもなさらない警備つきとは何事かと、七年経った今でも無念の感情が消え去りません。

 先ほどの祓いの件は、拝殿に仮設した記帳台のまわりに幕をコの字型に張り、外から見えないようにして、署名のときに陰祓(かげばら)いをいたしました。神社としては祓いをした、内閣側では祓いを受けなかった。それで結構です、ということで決着をつけたんです。この程度ですね。
 そしたら、その直後に韓国と中国からいちゃもんがついたんで、しっぽを巻いて、以来、今日まで総埋の参拝は八年間なし、という情けない状態でございます。

 心すべきは権力への迎合
 それでも、その翌年も中曾根さんは公式参拝したいと思ったけれど、取り止めたんだという。
 そうしたら、中曾根さんに近い読売新間から出ている『THIS IS』誌に「靖國神社宮司に警告す」という一文がのった。それも巻頭言としてです。光栄の至りというべきでしょう(笑)。
 読んでみます。「靖國神社当局は政府も知らぬあいだに勝手に合祀し、国の内外の反発を呼んだ」−−先ほど申しましたように、勝手にではなく、国会で決めた援護法の改正にしたがって合祀をした。しかも、そのとき、中曾根さんはちやんと議員になっているんです。続いて、「外交的配慮と靖國の合法的参拝の道を開くため、首相の意を受けた財界の有力者が松平宮司に対し、A級戦犯の移転を説得したが、頑迷な宮司は、これを間き入れなかったので、首相は参拝中止を選択した」
 頑迷固陋は自認しております(笑)。が、A級戦犯という東京裁判史観をそのまま認めたうえ、邪魔だから合祀された御祭神を移せという。とても容認できることではありません。参拝をやめたのも宮司が悪いからだと、ひとのせいにする。

 「靖國神社は国家機関ではなく、一宗教法人であって、政府の干渉を排除できるというのも一理ある。だが、それなら、首相や閣僚に公式参拝を求めるのは越権、不遜である」
 そんな人々には案内出してませんよ(笑)。昔は権宮司が敬意を表して総理に案内状をもっていった。しかしある時期から、止めさせたんです。だからこの時点では、そんな案内を出していません。
 同誌の結論はこうです。
 「頑迷な一人の宮司のために、靖國間題で国論を分裂させたのは許しがたい。こうした不合理を正せないなら、早急に適当な土地に戦没者と公共の殉職者を祀る公的施設を建設し、靖國神社による戦没者独占をやめさせるべきだ。その建設費のための国債の発行には賛成する」
 「戦没者独占」なんて、御霊を何だと考えているのか、まるでモノのように思っているんでしょうか。
  
                (以下略)

  靖國神社元宮司 松平 永芳  講演   「 誰が御霊を汚したのか 」より
 http://nonbei.hatenablog.jp/entry/20090511/1242007721
 (「nonbeiのIT日記」ブログ 2009-05-11 から転載させていただいた。)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ここには転載していないが、「国家護持」という、世間が未だに誤解しているのではないかと思われる事柄についても書いてある。
 「国家護持」という字面だけを見ると、靖國神社が「国を護るための祈りをする場」と早合点する人もいるかもしれない。「在特会」を「在日特権を守る会」と思い違いしている慌て者のように。
 勿論、後者は「在日特権を許さない会」であり、前者は「国が靖國神社を護り、運営する」、という意味だ。が、「信教の自由」を憲法に謳ってある限りは、神道の作法による参拝も祭祀も、勿論のこと神社としての建物も神職の服装もみんな廃止せざるを得ない。それでは「靖國で会おう」と言って散って行かれた英霊達に対する裏切りになる。こんなもののどこが「国家護持」になるのか。
 それを分かったうえで「国家護持」と言っているのなら、それは日本人ではない。



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靖國神社の祭事暦に八月十五日の祭事はない。

2020年05月23日 | 重箱の隅
2016.08/15 (Mon)

 今回も以前の日記の再掲です。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「神社」、というのは「神々の集う場」、ということで、本来は建物はありません。

 神々をお祀りするために天上から降りて来ていただく。
 降りて来ていただいて、祭りをする。
 終わったら、また天上に帰っていただく。

 降りて来ていただく時は、「依り代」を御用意して置き、神主が「降神の儀」という儀式を行います。
 「ぉおお~~~~~っ」
 、という長い掛け声(?)に乗って、神様が天上界から降りて来られるのが見えるような気がするのが何とも不思議です。

 祭祀が終わり、天上に帰っていただく時は、「昇神の儀」という儀式を行います。
 これまた
 「ぉおお~~~~っ」
 という長い声を発するのですが、初めはやや低い声で段々に高くなる。
 これもまた神様が天上界に帰って行かれるのが見えるような気がする。
 「昔の人はこんなまやかしにのせられて・・・」、と左巻きの人は笑いますが、共産主義にロマンを感じることと比べて大差はない。いや、何かしら実感し、崇高なものを感じるということは大きな力になります。最近よく聞く「パワーをもらえる」という発想より品もある。脱線。

 祭りの目的は、神々への感謝、お願いを伝えることです。
 例えば、
 「豊作になりますように」
 「豊作になりました(奉告)」
 「目標が叶いますように」
 「目標を達成することが出来ました(奉告)」
 などです。
 「願を掛けて、願を解く」「お参りに行って、御礼参りに行く」

 お願いをする時も降りて来ていただかなければならないし、
 お礼を言う時も降りて来ていただかなければならない。
 その都度、「降神の儀」と「昇神の儀」を行います。

 神様は忙しい。その都度、招かれたり、送られたり。
 でも、神様ですから、文句なんか言いません。
 人の方は、できれば、神様にずっと身近に居てほしい。いつも見守っていてほしい。
 だから、それなら、「依り代」を神として祀っていよう、そのために「神社」をつくろう、となっていきます。それが「神社」という名の建物、みたいに思われるようになってきます。
 聞かれたこと、ありますよね。「山が御神体だ」、とか、「山の頂上にある磐座に神が降りられた」、とかいう話。それが本来の「神社」、です。


 まだ若い神様の御霊を招いて祀る。
 戊辰戦争の終結後、東京で、国のために命を捧げられた英霊達を招いて祭りがおこなわれました。
 勿論、感謝の祀りです。そして、これからも良い国をつくるよう努めますという「奉告祭」です。

 そのために特別に作られたのが「東京招魂社」、です。
 「東京」と名がついてはいるけれど、「東京につくられたから」というだけのことで、戊辰戦争に関わった人々を祀るものです。全国が対象です。

 当然、一回だけのものなんですが、「つい先日までは、私の肉親だった」などという人が沢山いる。
 そうなれば、祭が終わったから帰ってもらう、というのではなく、
 「いつだってお参りをしたい」
 との希望が殺到するわけで、それなら、常設の神社として建物をつくろう、となった。
 「ならば、東京から遠いところの人のために、日本全国でも、招魂社をつくろうではないか」

 国のために命を捧げられた人々を祀るんだから、ということで、各地の招魂社は「護国神社」という名前で呼ばれるようになります。
 「東京招魂社」の方は、「東京護国神社」となるかと言えば、そうではない。
 元々が「東京招魂社」が初め、なわけですから、自ずと護国神社の総本社みたいな立場です。
 ならば、ということで「招魂社の本旨は?」となったらそりゃあもう、「国が安らかで発展し続けるように」ということ。
 では「國、靖らけく」という願いからなのだから、ということで、「靖國神社」と命名された。

 「神社」ではあっても、現実には国のために命を捧げられた人々を神霊(みたま)として祀るのだから、縁者は「供養」の気持ちも持っている。
 縁者でなければ、しかし、「感謝」と「護国の誓い」を表する場所である。
 でも、縁者でなくたって、同じ日本人として「供養」の気持ちを以て参っちゃいけないというものでもない。
 ならば誰だって、神社であっても先祖供養をする気持ちで参拝したって良いではないか。

 ということで、春秋の例大祭が始まります。以前に書いたように、太陽暦ですから、春秋の彼岸より約一ヶ月、早い。
 敗戦後は、盆の行事も同じようにしたい、という要望があり、これまた太陽暦だから一ヶ月早い七月に「みたままつり」が行われるようになった。
 靖國神社が「国家神道の総本社!」みたいな態度で踏ん反り返っていたなら、決して起こり得ないことです。

 もうお気付きでしょう、靖國神社は本来の戊辰戦争の祭事で終わる筈のところを、以降の幾多の戦いに命を捧げられた神霊も祭ることをする。日清、日露の両大戦も、大東亜戦争も、です。
 そして、国民の思いに応えて色々な祭りを設けて来たのです。
 だから、本来なら何の関係もない八月十五日の参拝も「同じように」参拝者の便宜を図っています。

 ちなみに「靖國暦」で「祭事暦」を見ると、八月の祭事は、ありません。

 八月十五日の参拝は、大東亜戦争に関する個々の日本人の思いに委ねられている、ということです。

~「祭祀場」から「神社」へ。 (主)  2014年8月15日の日記より~

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 蛇足ですが、靖國に祀られている英霊は既に神霊となられ、近い将来には神に昇格されます。
 だから我々は神を拝するつもりで靖国神社に参拝する。決して弔いに行くのではありません。お寺参りと墓参りは違うでしょう。
 英霊達は血のつながりのない我々後生(こうせい)の日本人のために、同じ日本人であるというだけで、命を捧げて下さいました。
 「八百万の神々」をもっと丁寧に言うと「八百万の神たち」。「八百万の神の方々」とは言いません。
 「方」は目上の人に対して用いる言葉です。貴族などは同じ「人」ではないから、ということで「公達」と称していたことはご存知の通りです。
 ということで、英霊を丁寧に言うときは英霊達。「英霊の方々」では、英霊を目上の「人」と目していることになり、神にはまだ遠い、ということになります。

 もう一つ。
 「天皇制」という言葉は、「君主制」という言葉にみられる「対立(敵対)関係(いずれ打倒、廃止すべきもの)」、を意識して、共産党によってつくられた悪意からの(と言って悪ければ否定的な)新造語です。
 この言葉が何の気なしに使われるようになったことと、「天皇家」という言葉がよく使われるようになったこととは不可分です。
 勿論、「天皇家」というものは存在しません。あるのは國體の真ん中に位置する「皇室」だけです。天皇を継承する(皇統を継ぐ)のは皇族であって、どこかの一家ではありません。また、元々尊い存在である「皇室」に「御」をつけることはしない。つけなくても初めから尊い。

 それから最近何度か耳にしたんですが、(百田尚樹氏もちょっと軽く考えておられたようですが)、今上天皇は、今上天皇。
 御名を口にするのは憚られるので「今上」。或いは今上天皇、今上陛下、です。
 明治以降、今上天皇の御代を表すのが「元号」ですから、これは崩御されてからの諡号(しごう。おくり名)となります。
 今上陛下を諡号でお呼びする、などというのは、現存する人を戒名で呼ぶのと同じことです。
 「知ってはいるが、その方が分かりやすいから使っただけ」、などという学者がいましたが、大変に失礼じゃないですか??

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彼が恐れているものは。

2020年05月23日 | 重箱の隅
2016.09/09 (Fri)


   頂門の一針4113号  2016・9・8(木)より

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安倍・習暗闘は7対3で安倍の勝ち
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 杉浦正章

 日中“緊張緩和”は「砂上の楼閣」

 あのブロードウエーも顔負けの、けばけばしい「白鳥の湖」はどうだ。習近平はまるで悪趣味の田舎芝居の座頭(ざがしら)の様であった。
 G20 の場を真摯な国際外交の場から、政治ショーの場へと変質させ、国内向けのプロパガンダを張ったが、13億の中国国民の目を奪っても、世界のメディアからはそっぽを向かれた。
 逆に首相・安倍晋三は全体会議と個別会談の双方で東・南シナ海問題と鉄鋼のダンピング輸出問題を取り上げた。習の“経済限定作戦”は安倍とオバマのリードで、脆くも崩れて、首脳宣言にも鉄鋼問題が明記された。
 全体俯瞰図で見れば安倍と習近平の暗闘は7対3で安倍の勝ちだ。日中首脳会談での“対話促進”の合意も一時的な緊張緩和であっても、その実態は「砂上の楼閣」であろう。

 まさに国際外交の国内政治への“活用”であった。来年秋には習体制の2期目の人事があり、汚職摘発で恨みを買って国内政局は必ずしも盤石ではない。
 習はG20の場でど派手な演出で「世界の皇帝」ぶりを国民に示して、政権基盤の強化に出た。1200億円もかけて会場を整備し、テロを防ぐために外出を制限して、杭州の町はゴーストタウンのようであった。その代わりテレビを使って、習の一挙手一投足を報じさせ、ひたすら国内基盤の確立に努めた。

 真実は細部に宿る。田舎芝居は外国の貴賓最上位にあるオバマにも及んだ。タラップを用意せず、赤絨毯も敷いてない。オバマは備えつけのタラップで専用機後方の扉から降りた。到着早々から安倍ほか各国首脳とは全く違った待遇であった。
 オバマは「よくある」と意にもかけないそぶりであったが、怒りと言うよりあまりの露骨さにあきれた事であろう。露骨すぎて、開いた口が塞がらない“接待”ぶりであった。オバマはレームダック化が著しく、元気がなかったが、安倍は歩き方から見てもこれまでになく堂々としていて、その発言も毅然(きぜん)としていた。

 習は何が何でも会議の議題を経済問題1本に絞って、政治問題は論議しない立場を貫こうとした。各国が政策総動員で経済停滞を乗り切る方向を打ち出したのだ。しかし自らのもたらした鉄鋼のダンピング輸出問題と為替の安定化が世界経済のアキレス腱であるという認識に欠けていた。
 中国のことわざで言えば「自分の頭のハエを追え」ということなのだ。安倍は全体会議でその急所を突いた。もちろん 欧州連合(EU)のユンケル委員長が事前に鉄鋼の過剰生産問題を巡り、「欧州で万単位の雇用が失われている。受け入れられない」と発言した事なども意識したに違いない。

 安倍は
 「国際貿易・投資」をテーマにした討議の中で発言、「鉄鋼などの過剰生産については補助金等の支援措置で市場がわい曲されていることが根本的な問題だ。主要生産国が参加する対話を通じ、市場メカニズムに則した構造改革を促したい」
 と強調した。
 そして中国など主要生産国が参加する「グローバル・フォーラム」を設けて、対応などを話し合うことを提案、宣言に盛り込まれた。
 この安倍のオピニオンリーダー的な役割は中国の海洋進出問題にも及び、
 「大航海時代以降、海洋貿易は世界を結び、平和な海が人類の繁栄の礎となった。国際交易を支える海洋における航行および上空飛行の自由の確保と法の支配の徹底を再確認したい」
 と述べ、各国に賛同を求めた。習が1番恐れていた問題をあえて取り上げたのだ。

 会場の多くが賛同したことはいうまでもない。習が失礼にも安倍との会談をするかしないか、最後の最後まで明確にしなかったのは、安倍が会議の席上でこの発言をすることを恐れてのことだった。

 簡単に言えば「発言しなければ会ってやる」というのだ。それを知りつつ安倍は、あえて発言したのだ。国際司法裁判所で中国完敗の判決が出たことをG20首脳が知らないわけがなく、フィリピンやベトナムはもちろん多くの国々が、終了後「よく言ってくれた」と反応したのは言うまでもない。
 安倍は7日からビエンチャンで開かれるASEAN首脳会議でも東・南シナ海への進出問題を取り上げる方針を記者会見で明らかにした。

 こうして会議は習近平の思惑を崩壊させ、共同宣言も安倍ペースでまとまった。会議終了後に習近平は安倍と会談したが、わずか30分。通訳を入れて、実質15分にすぎない。対話が実現したとは思えないが、海空連絡メカニズムの運用開始などで今後対話を促進する方向となった。
 しかし、4年間も実現していない問題が早期に実現するかは疑問がある。だいいち、中国はG20の最中であるのにかかわらず、スカボロー礁埋め立ての準備行動に出るという、驚くべき執着ぶりを示した。
 フィリピン米軍基地から200カイリあまりの目と鼻の先であり、恐らく行動を実施に移せば米国は黙認しないだろう。同環礁をパラセル諸島、スプラトリー諸島と結べば、中国による南シナ海制覇の3角形が構成されるのだ。もちろん、尖閣諸島への公船出没もやがてはまた活発化するだろう。

 こうして、せっかくの安倍・習会談での緊張緩和も、いつ崩れてもおかしくない砂上の楼閣の色彩を濃くしてゆくだろう。緊張関係はまるで習慣病のように出たり引っ込んだりしてゆく。安倍の正式訪中や習近平の正式訪日など、緊張緩和を担保する動きはまだかすみの先だ。当面自民、公明両党による議員外交で、徐々に関係改善を進めてゆくしかないだろう。

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「中国夢」今は残り火
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    平井 修一
                    (略)
 戦後、「昔陸軍、今総評(社会党)」と言われたものである。政治家は強 者に配慮し、遠慮しながらことを進めないと暗殺されたり、失脚/引退さ せられたりするからだ。
 今、習近平が一番恐れているのは中共軍と人民だ。彼らを怒らせると殺さ れたり、大暴動になるからだ。習は常に中共軍に監視されており、傀儡と 化している。人民も対外的に習が譲歩したり弱気になれば大暴動を起こす。

 だから習は外交で強気を維持しなければならない。「一歩も譲らない、こ れは核心的利益だ」、これでは外交にならない。

 習は先の杭州G20では少しも存在感を示せなかったし、中共軍が傀儡であ る北を使って「譲歩するな」とミサイル3発で脅した。これでは何もでき ないから実に無内容な首脳宣言に終わった。

 習近平政権が続く限り支那はひたすら黄昏ていくだけだ。それは世界秩序 にとってはいいことだろうが、支那にとっては阿片戦争、日清戦争での敗 北に近い屈辱の日々になるのではないか。「残り火が静かに燃える」だ け・・・キャンプファイアは終わったのだ。(2016/9/7)

            (転載了)


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>全体俯瞰図で見れば安倍と習近平の暗闘は7対3で安倍の勝ちだ。
>安倍のオピニオンリーダー的な役割は中国の海洋進出問題にも及び、
 「大航海時代以降、海洋貿易は世界を結び、平和な海が人類の繁栄の礎となった。国際交易を支える海洋における航行および上空飛行の自由の確保と法の支配の徹底を再確認したい」
 と述べ、各国に賛同を求めた。習が1番恐れていた問題をあえて取り上げたのだ。
 ~習が~安倍との会談をするかしないか、最後の最後まで明確にしなかったのは、安倍が会議の席上でこの発言をすることを恐れてのことだった。

 「発言しなければ会ってやる」という態度に対して「それを知りつつ安倍は、あえて発言した」
 結果、日中会談は30分。通訳に時間がかかるから実質15分。包囲網はそれなりに機能しつつあるけど、日中間の距離は依然として開いたまま。
 7対3の内訳は安倍総理が言いたいことを言ったから、7。
 習近平が領土問題に関する批判的な共同声明を成立させなかったから、3。
 「実質は何も好転していない。それで何で7対3で安倍の勝ち、と言えるのだ!?」
 こういう人が多いのだろう。
 逆に
 「何も好転してないから、軍事力を背景にしてごり押しを通した習近平が、勝ったのではないか」
 と言う人の方が多いかも。
 でも、冷静に見たら、これは包囲網が曲がりなりにも効力を発揮し始めた証拠と言えるんじゃないか。
 勿論、この包囲網はとても脆弱で、いつ破られるか分からない。何しろ、世の中の大半は金で買えるんだから。

 「では、他に方法はあるのか」、となると、結局は弱々しいながらも包囲網を作ってわあわあ言うしかないのだ、というところに行き着く。わあわあ言い続けることで、世界に知らしめ、当該国が世界中から冷たい視線を浴びせられるように仕向けて行くしかない。

 でも「道義」を受け入れようとしない国というのは、「道義」を理解する気が全くない上に理解能力もないのが普通なのだから、緊急の際に「わあわあ言うしかない」のでは何の役にも立たないのではないか。無策、と言われるだけではないか。
 となると緊急時は究極の一手、「村八分にする」、しかなかろう。
 村八分にできるか?やるしかあるまい。そしてまずは、せめて包囲網を作る国同士が「道義」を理解し、確認し合うことをするしかない。

 それに併せて、平井 修一氏の論文。
 「習近平が一番恐れているのは中共軍と人民なのであって、米国や日本、東南アジア諸国ではない」
 、という見方は折に触れて再確認し続けなければならない、ということだ。
 これをつい失念してしまうと、彼の国の数々の傲慢な言動に対する怒りで眼前が曇ってしまい、何も見えなくなる。

 日本以外の国は玉砕などは絶対にしない。玉砕どころか劣勢になっただけでも簡単に降伏する。
 降伏するだけならまだいいが、降伏したら国が亡びる。亡びるというより、その国民が国を亡ぼす。
 頼るべき国を滅ぼした国民はパニック状態のままで、もう収拾がつかなくなっており、為政者の言うことなんか全く聞かないから、武力で鎮圧するしかない。鎮圧=処刑だから、当然、亡国の民は周辺の国へ生きるために侵入する。
 運転技術に優れ、世界が失笑するような安全運転をしている日本だって、もらい事故を避けることはできない。


 さて。それでは安倍総理が恐れているものは?



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天皇の位置は誰が決めたのか

2020年05月23日 | 心の持ち様
2016.09/07 (Wed)

 天皇には人権がない。具体的に言えば、戸籍がない。戸籍がないから参政権がない。参政権がないから国政に口出しはされない。
 参政権がなくたって日本の政治につべこべ言う外国人はいっぱいいるが、天皇は「戸籍がないのだから」、と戸籍がなくても言いたい放題の外国人みたいな真似は決してされない。隣国などが内政干渉そのものの呆れるしかないような勝手なことを言っても、天皇は決して口を出されない。
 口出しはされないけれども、敗戦後の昭和天皇の巡幸、今上天皇の被災地の御訪問等の「親政」は、なされる。

 「国政に口出ししないってことはないだろう、国会の開会宣言は口出しじゃないか」という人もいるだろう。
 けど、あれは御自身の意志からなされていることではない。
 飽く迄も憲法に定められている「国民の総意に基づく立場の者」の仕事(国事行為)をなされているのであって、「体調が良くないから」「気がのらないから」やらない、などといわれることは決してない。御自身の意志を「言挙げ」されることはない。
 国民の総意に基づく存在であるから、と決して自分の考えは述べられない。何が何でも、「大日本帝国憲法」ではなく「日本国憲法」に則って行動されている。
 そして、だから「言うか言わないか」「言おうか言うまいか」等、その選択の自由を、陛下自ら、全く認めようとされない。

 大日本帝国憲法は「天皇は神聖にして侵すべからず」と天皇の立場を規定する。
 日本国憲法は「日本国の象徴であり、その地位は国民の総意に基づく」とする。
 どちらも憲法が天皇を規定する。
 ではその以前はどうであったのか。天皇の存在、その位置を規定するものはあったのか。

 連綿と皇統を継承してきた長い皇国の歴史の中で、天皇の位置を規定してきたもの。それは戦前戦後の皇室典範ではない。繰り返すことになるけれど、西欧に範を取った「大日本帝国憲法」でもないし、ましてや「日本国憲法」という名の占領統治法でもない。

 皇国の歴史の中で、天皇の在り様、皇統の継承について示されているものは、唯一、「天壌無窮の神勅」だけだ。
 天皇にあるのは
 「豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の國は、是(こ)れ吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)也。宜しく爾皇孫(いましすめみま)、就(ゆ)きて治(しら)せ。行矣(さきくませ)、寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壤(あめつち)と窮(きわま)り無かるべし。」
という神勅だけだ。この、天照大神の命令(神からの勅命)だけだ。
 ここには「皇孫」が「治(しら)すこと」、「皇孫、民草が天地に満つること」の二点しか示されていない。
 「皇統が継承され続け、国が繁栄し続けること」としか書かれていない。

 ここから見れば「国民の総意」なんてことは本末転倒ということになる。
 また、「男子でなければならない」なんてことはどこにも書かれてない。
 要は「何が何でも皇統を絶やさぬこと。そして国民が繁栄のために尽力し続けること」だけ。
 皇統が絶えてしまえば、それは既に日本ではない、ということだ。
 皇室があり、皇統が継承されていく中で、政事を委ねられた者が国の繁栄のために尽力してきた、国民もひたすら己の生活の場で実直に生きてきた、のが日本という国なのだから。

 皇統が途絶え、今度は政治(治めること)までも国民から委ねられる者は、国民から何を望まれるか。
 言うまでもない、国益ならぬ国民個々の利益(または個々の「美しい豊かな暮らし」)、だろう。それのどこに「世界に冠たる道義国家」の姿があるのか。
 つまりこれはただの「十二歳の少年国家」。アメリカ式民主主義の第一歩を踏み出した国。

 だから竹田先生の「旧皇族から赤ん坊を養子に~」というのは決して突飛な話ではない。
 何が何でも皇統を絶やさぬこと。
 「天皇家」ではなく、「皇室」である、というのはそういうことだ。
 「血統」ではなく、「皇統」ということを考えるならば、「天皇家」などという言葉は出てこない。
 これは「ついうっかり」とか「その方が理解しやすいだろうから」と、実に軽い気持ちで「今上天皇」のことを「平成天皇」と言うのと同じ発想からと思う。
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