2015.07/21 (Tue)
「けっして~ない」という言い回しを「けして~ない」と書く人がある。
「ふんいき」を「ふいんき」、と、つい言ってしまう人がいる。
時にはアナウンサーが「女王(じょおう)」のことを「じょうおう」と言っているようにしか聞こえないアナウンスをすることがある。
漢字で書いてみれば、それらが間違いであることはすぐ分かる。
「けっして~ない」は「決(けっ)して~ない」、だし、「ふんいき」は「雰(ふん)囲気」だ。「じょおう」は当然「女王」だろう。「女」は「じょう」とは読まない。「王が『わう→ぅおぅ→おう』であることとイントネーションの関係で、つい「じょぉ」と伸ばしてしまうのだ。
このように「読み癖」というのは、間違えた読み方が定着した場合もあるけれど、大概はその方が言い易いから起こる。だからそれ自体は仕方のないことだとも言える。
けれどいつの間にか「言い易いから」、と主客が転倒してしまって、その間違った方を「正しいのだ」と言い張られると些か面倒くさい。ウリナラ起源説や大中華思想と同じだ。
言い張る際に間違った或いはごくごく限られた特殊な例を凡例として挙げて「実際、こうじゃないか」と強弁されると、その実例は「一人、二人、みんなみたいなものだよ」というところから説明しなければならない。
そう考えると、説明より先に絶望的な疲労感に襲われてしまう。
「弥栄(いやさか)」が元々は「いやさかえ」であったことなど、ちょっと考えたら分かりそうなものだが、
「麻生総理は字を知らんから『いやさかえ』と間違えて読んだのだ。また間違えたんだ!」
と、散々に囃し立てる。
「『いやさかえ』でも良い。良いというより、本来はいやさかえと読むんだ」
という意見が出ると、実際に「いやさか」と読む例を挙げて、
「『いやさか』が主流なのであって、『いやさかえ』はごく特殊な言い方だ」
とゴリ押し。そして
「実際、麻生総理だって以前の演説で『いやさか』と言っていた」
として、結局、やっぱり字を知らないんだ、アホなんである、と決めつける。
恥ずかしながらボーイスカウトが「いやさか」という言葉を使う、ということを最近になって知り、youtubeで見て唖然とした。
手振りがついて、「いやっさか!いやっさか!」とやっているものや、「いや~さかっ!いや~さかっ!」とやっているものがある。
確かにこれでは本来は「いやさかえ」であったなどと言ってもピンと来る筈はないな、と思った。
「弥栄三唱」は「万歳三唱」と同じく、ゆっくり伸ばしてやるものだから、本来は「いや~さかぁ~」或いは「いやさかぁ~」。
口に出して伸ばす時は「あ~」というのがおさまりが良い、と感覚的に納得できる。いやさかえだから「え~」ではないかと思ったら、口に出してみれば良い、「え~」は間合いを取るために使うか、攻撃するときの「え~いっ」くらいで、個々の攻めの意識がある。
元々が神前で祝詞のような形で書かれた奉告文中の言葉なのだから、「まず文字があった」のであって、まず、言葉、ではない。
「立ち止まってみる」というのは、そういうことだ。だからそんなに時間のかかることではない。
そういうものの一つで、最近、久しぶりに違和感を持った言葉。
「待ちに待った車。今日、やっと納車しました!」
というやつだ。
「昨日、納車に行ってきた。想像以上にソフトな乗り心地だ」
「明日は納車してから、初めてのツーリング!」
言ってて、書いてておかしいと思わないのだろうか。
だって「納車」というのは「車を(購入者に)納める」という意味で、これは売り手(ディーラー)の使う言葉なんだから。
「車が手に入った、だから~」と言いたいのなら「(ディーラーから)納車されたから」と言うべきだろう。
「待ちに待った車。今日、やっと納車されました」(だから、「自分のところに届けられた」、ということですよ)
自分が売り手のところに出向いたのなら
「昨日、『納車される』ということだったので受け取りに行ってきた」。
「明日は納車されてから初めてのツーリング」。
何も難しいことじゃない。字を見たら分かりそうなものだ。
こういうことを、ちょっと立ち止まって見詰めれば、
「『個別的自衛権は良いけれど集団的自衛権は許せない。戦争への道につながる』、と言いながら日米安保条約は否定しない、というのは、変、だろう。安保条約は万が一の時(戦争)に備えてのものなんだろう?自国は守るけれど条約締結国には守ってもらわなくていいし、守りにもいかない、ってことなら、何のための条約なんだ?」
となりそうなものだが。
「けっして~ない」という言い回しを「けして~ない」と書く人がある。
「ふんいき」を「ふいんき」、と、つい言ってしまう人がいる。
時にはアナウンサーが「女王(じょおう)」のことを「じょうおう」と言っているようにしか聞こえないアナウンスをすることがある。
漢字で書いてみれば、それらが間違いであることはすぐ分かる。
「けっして~ない」は「決(けっ)して~ない」、だし、「ふんいき」は「雰(ふん)囲気」だ。「じょおう」は当然「女王」だろう。「女」は「じょう」とは読まない。「王が『わう→ぅおぅ→おう』であることとイントネーションの関係で、つい「じょぉ」と伸ばしてしまうのだ。
このように「読み癖」というのは、間違えた読み方が定着した場合もあるけれど、大概はその方が言い易いから起こる。だからそれ自体は仕方のないことだとも言える。
けれどいつの間にか「言い易いから」、と主客が転倒してしまって、その間違った方を「正しいのだ」と言い張られると些か面倒くさい。ウリナラ起源説や大中華思想と同じだ。
言い張る際に間違った或いはごくごく限られた特殊な例を凡例として挙げて「実際、こうじゃないか」と強弁されると、その実例は「一人、二人、みんなみたいなものだよ」というところから説明しなければならない。
そう考えると、説明より先に絶望的な疲労感に襲われてしまう。
「弥栄(いやさか)」が元々は「いやさかえ」であったことなど、ちょっと考えたら分かりそうなものだが、
「麻生総理は字を知らんから『いやさかえ』と間違えて読んだのだ。また間違えたんだ!」
と、散々に囃し立てる。
「『いやさかえ』でも良い。良いというより、本来はいやさかえと読むんだ」
という意見が出ると、実際に「いやさか」と読む例を挙げて、
「『いやさか』が主流なのであって、『いやさかえ』はごく特殊な言い方だ」
とゴリ押し。そして
「実際、麻生総理だって以前の演説で『いやさか』と言っていた」
として、結局、やっぱり字を知らないんだ、アホなんである、と決めつける。
恥ずかしながらボーイスカウトが「いやさか」という言葉を使う、ということを最近になって知り、youtubeで見て唖然とした。
手振りがついて、「いやっさか!いやっさか!」とやっているものや、「いや~さかっ!いや~さかっ!」とやっているものがある。
確かにこれでは本来は「いやさかえ」であったなどと言ってもピンと来る筈はないな、と思った。
「弥栄三唱」は「万歳三唱」と同じく、ゆっくり伸ばしてやるものだから、本来は「いや~さかぁ~」或いは「いやさかぁ~」。
口に出して伸ばす時は「あ~」というのがおさまりが良い、と感覚的に納得できる。いやさかえだから「え~」ではないかと思ったら、口に出してみれば良い、「え~」は間合いを取るために使うか、攻撃するときの「え~いっ」くらいで、個々の攻めの意識がある。
元々が神前で祝詞のような形で書かれた奉告文中の言葉なのだから、「まず文字があった」のであって、まず、言葉、ではない。
「立ち止まってみる」というのは、そういうことだ。だからそんなに時間のかかることではない。
そういうものの一つで、最近、久しぶりに違和感を持った言葉。
「待ちに待った車。今日、やっと納車しました!」
というやつだ。
「昨日、納車に行ってきた。想像以上にソフトな乗り心地だ」
「明日は納車してから、初めてのツーリング!」
言ってて、書いてておかしいと思わないのだろうか。
だって「納車」というのは「車を(購入者に)納める」という意味で、これは売り手(ディーラー)の使う言葉なんだから。
「車が手に入った、だから~」と言いたいのなら「(ディーラーから)納車されたから」と言うべきだろう。
「待ちに待った車。今日、やっと納車されました」(だから、「自分のところに届けられた」、ということですよ)
自分が売り手のところに出向いたのなら
「昨日、『納車される』ということだったので受け取りに行ってきた」。
「明日は納車されてから初めてのツーリング」。
何も難しいことじゃない。字を見たら分かりそうなものだ。
こういうことを、ちょっと立ち止まって見詰めれば、
「『個別的自衛権は良いけれど集団的自衛権は許せない。戦争への道につながる』、と言いながら日米安保条約は否定しない、というのは、変、だろう。安保条約は万が一の時(戦争)に備えてのものなんだろう?自国は守るけれど条約締結国には守ってもらわなくていいし、守りにもいかない、ってことなら、何のための条約なんだ?」
となりそうなものだが。