CubとSRと

ただの日記

「納車しました!」

2020年05月18日 | 重箱の隅
2015.07/21 (Tue)

 「けっして~ない」という言い回しを「けして~ない」と書く人がある。
 「ふんいき」を「ふいんき」、と、つい言ってしまう人がいる。
 時にはアナウンサーが「女王(じょおう)」のことを「じょうおう」と言っているようにしか聞こえないアナウンスをすることがある。

 漢字で書いてみれば、それらが間違いであることはすぐ分かる。
 「けっして~ない」は「決(けっ)して~ない」、だし、「ふんいき」は「雰(ふん)囲気」だ。「じょおう」は当然「女王」だろう。「女」は「じょう」とは読まない。「王が『わう→ぅおぅ→おう』であることとイントネーションの関係で、つい「じょぉ」と伸ばしてしまうのだ。

 このように「読み癖」というのは、間違えた読み方が定着した場合もあるけれど、大概はその方が言い易いから起こる。だからそれ自体は仕方のないことだとも言える。
 けれどいつの間にか「言い易いから」、と主客が転倒してしまって、その間違った方を「正しいのだ」と言い張られると些か面倒くさい。ウリナラ起源説や大中華思想と同じだ。
 言い張る際に間違った或いはごくごく限られた特殊な例を凡例として挙げて「実際、こうじゃないか」と強弁されると、その実例は「一人、二人、みんなみたいなものだよ」というところから説明しなければならない。
 そう考えると、説明より先に絶望的な疲労感に襲われてしまう。

 「弥栄(いやさか)」が元々は「いやさかえ」であったことなど、ちょっと考えたら分かりそうなものだが、
 「麻生総理は字を知らんから『いやさかえ』と間違えて読んだのだ。また間違えたんだ!」
 と、散々に囃し立てる。
 「『いやさかえ』でも良い。良いというより、本来はいやさかえと読むんだ」
 という意見が出ると、実際に「いやさか」と読む例を挙げて、
 「『いやさか』が主流なのであって、『いやさかえ』はごく特殊な言い方だ」
 とゴリ押し。そして
 「実際、麻生総理だって以前の演説で『いやさか』と言っていた」
 として、結局、やっぱり字を知らないんだ、アホなんである、と決めつける。

 恥ずかしながらボーイスカウトが「いやさか」という言葉を使う、ということを最近になって知り、youtubeで見て唖然とした。
 手振りがついて、「いやっさか!いやっさか!」とやっているものや、「いや~さかっ!いや~さかっ!」とやっているものがある。
 確かにこれでは本来は「いやさかえ」であったなどと言ってもピンと来る筈はないな、と思った。
 「弥栄三唱」は「万歳三唱」と同じく、ゆっくり伸ばしてやるものだから、本来は「いや~さかぁ~」或いは「いやさかぁ~」。
 口に出して伸ばす時は「あ~」というのがおさまりが良い、と感覚的に納得できる。いやさかえだから「え~」ではないかと思ったら、口に出してみれば良い、「え~」は間合いを取るために使うか、攻撃するときの「え~いっ」くらいで、個々の攻めの意識がある。

 元々が神前で祝詞のような形で書かれた奉告文中の言葉なのだから、「まず文字があった」のであって、まず、言葉、ではない。
 「立ち止まってみる」というのは、そういうことだ。だからそんなに時間のかかることではない。

 そういうものの一つで、最近、久しぶりに違和感を持った言葉。
 「待ちに待った車。今日、やっと納車しました!」
 というやつだ。
 「昨日、納車に行ってきた。想像以上にソフトな乗り心地だ」
 「明日は納車してから、初めてのツーリング!」
 言ってて、書いてておかしいと思わないのだろうか。
 だって「納車」というのは「車を(購入者に)納める」という意味で、これは売り手(ディーラー)の使う言葉なんだから。 
 「車が手に入った、だから~」と言いたいのなら「(ディーラーから)納車されたから」と言うべきだろう。

 「待ちに待った車。今日、やっと納車されました」(だから、「自分のところに届けられた」、ということですよ)
 自分が売り手のところに出向いたのなら
 「昨日、『納車される』ということだったので受け取りに行ってきた」。
 「明日は納車されてから初めてのツーリング」。

 何も難しいことじゃない。字を見たら分かりそうなものだ。

 こういうことを、ちょっと立ち止まって見詰めれば、
 「『個別的自衛権は良いけれど集団的自衛権は許せない。戦争への道につながる』、と言いながら日米安保条約は否定しない、というのは、変、だろう。安保条約は万が一の時(戦争)に備えてのものなんだろう?自国は守るけれど条約締結国には守ってもらわなくていいし、守りにもいかない、ってことなら、何のための条約なんだ?」
 となりそうなものだが。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ハングル」という語の意味から

2020年05月18日 | 重箱の隅
2015.07/17 (Fri)

 何故、「ハングル」というのか。

 「ハングル」というのは「偉大な文字」という意味なんだそうですが、どうも「ハングル文字で書かれている」というのには抵抗がある。(「ハングル」一語で「偉大な文字」だから、「ハングル文字」と言ったら「『偉大な文字』文字」になる、などということではありませんよ、念のため)
 ありませんか?わたしゃ日本人ですよ。何が悲しゅうてよその国の文字を「偉大な文字」と言わにゃならんのだ。私にとって英国は英国。大英帝国じゃない。同じく韓国は韓国。大韓民国じゃないし、シナは中華、じゃない。

 本当なら、諺文(おんもん)と言ってたでしょう?でも、「諺(おん)」というのは訛り、という意味で、「文」は「字」だろうから、訛りを記すための「字」、いや、「文字もどき(文字のようなもの)」という意味になります。

「ちゃんとした言葉であるシナ語」とは違う「田舎の言葉もどき(朝鮮語)を表す文字もどき」
(補注→言葉とは認められない低俗なものを表記するために作られた文字のようなもの)

 それが「諺文」の意味になる。幾らなんでも、そこまで馬鹿にした言い方するか?他国のことながら気の毒です。
 だから、「諺文」という言い方はしたくない。
 でも、「ハングル」、なんて言うのは、やなこった。訓民正音で良いじゃないか。

 それはそうと、何で「ハングル」、って言うんでしょう。意味は「偉大な文字」で良いけど、どこをどう読めば「偉大な文字」になるのか。
 それで、調べてみました。
 すると、「『ハングル』はもともとの韓国の言葉だから、漢字では表せない」、と書いてある。
 そんなバカなことがあるか。これまで表意文字で己が国の言葉を表わして来たんだから、新しい概念でない限り、それを書き記すのに使った漢字がある筈だ。
 「ない」というのは、自身が漢字を捨てたせいで意味が分からなくなっただけだ。

 和語ならば「ハツクニシロシメシシスメラミコト」というのを、漢語では「神武天皇」と言います。
 勿論これはおくり名ですから、「神の命で神の力を発揮し、国を統一した天皇」という業績を僅か二文字で表している。和語ならあんなに長いのに。
 「はじめて国をお治めになった天皇」の意味です。
 だったら同じように長くなる筈ですよ。表音文字は必然的にそうなる。

 英語は長ったらしくなるから、頭文字、並べて省略するでしょう?英語に限らず、表音文字ならみんなそうなる。
 漢字だって表音文字的な遣い方をする今の文章は昔の文章の何倍もの長さになる。
 つまり、「ハングル(ハン+グル)」なんて短い朝鮮語が存在する筈がない。きっとこれは漢字で書かれた言葉だったんだ。

 で、ふっと思いました。
 「ハングルの『ハン』が偉大な、なら、残りは『グル』だ。グルは『グッ』じゃないか?」
 「グ」は連濁の形だろうから、元は「ク」だとしたら、「グル」は、「文字」ではなく「句」ではないか??
 「句」、つまり、「言葉」という意味ではないのか。言葉と、表記する「文字」との区別がついてなかっただけではないのか。

 そんなことを考えていると、あの「ウリナラ」のことも何となく見えてきたようです。
「ウリナラ」は「ウリ+ナラ」。「ウリ」は「オレ」の意味、「ナラ」は「奈良」。「都」のことです。
日本では都と国は同じではないけれど、朝鮮は言ってみれば都市国家だったわけですから、都=国です。そうなると、「俺の国=ウリナラ」。そのまんま、です。

 表意文字である漢字は、間違いなく朝鮮経由で日本に来ています。それでは十分でないから、と直接シナに習いに行きますが、朝鮮から入ってきたこと自体は間違いないし、少なくとも飛鳥、奈良の時代は朝鮮からの人々、文物が流入したからこそ、古代日本の発展があります。それは決して忘れてはならない。

 ただいつも言うことですが、その朝鮮渡来の人々は、現代の朝鮮人によって追い出された人々です。今、日本人の中にある半島の血は、百済や新羅、高麗の人々のものです。
 そして、日本にとっては決して喜ばしい存在ではない、李朝の名君「世宗王」だって、国のことを思って訓民正音を作らせたけれども、漢字を捨てることなんて考えていなかった筈です。
 漢文の形式をとらず、自国語を記す。そんな発想を世宗王が持ったのか、海の向こうの蓬莱島(仙人の住む理想郷。日本のことです)から聞こえてきたのにヒントを得たのか、それは分かりません。

 それでも、人はどういう姿勢の時に発展、進歩があるか、ということは何となく見えてきます。


                      「言挙げせぬ国」より
                                              2014年3月23日の日記

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 お気づきの方もおありかと思いますが、上の記事は昨年の日記からの部分転載です。言葉足らずだったなと思ったところを少し、括弧に入れて書き込みました。

 これまでに朝鮮文字については再掲も含めて何度も書いてきました。
 この日記もまた、部分転載が主です。
 ですから、取り立てて新しいことを書こうとしたものではありません。
 だからと言って手抜きから、というわけでもない。

 同じ話を、また同じ話題を何度も取り上げる、何度も似たようなことを考えてみる。これは考え方の確認です。また、考え方に慣れる(身に着ける)ためのものです。
 だから自身に宛てて、ということでもあるし、当然読んでくださっている方に、私の考え方を了解してほしいが故でもあります。

 初め、私は諺文(おんもん)と称すべきか、と思いました。しかし、朝鮮人はこの名前を嫌う。「諺文庁」の廃止を彼らが決めたのですから、わざわざ嫌がる言い方をすべきではない。

 「訓民正音」はどうか。でも、これは李氏朝鮮四代国王世宗(セジョン)が作った朝鮮文字につけた名前ながら、大臣・学者をはじめとする支配者層からは総スカンにあった名前です。彼らが見直すのならともかく、他国人である我々が敢えて使うべき言葉ではない。

 そして「ハングル」です。彼の国の人々はこれを「偉大なる文字」という意味だという。元々の韓国の言葉だから漢字では書けない、という。
 しかしそれはおかしい。何らかの形で表記がなされてこそ言葉は残される(「記録」、という言葉通りです)のであるから、「元々ある言葉」なら必ず漢字で表記されている筈で、それがないというのなら、それは自らが漢字を捨て去ったここ数十年のうちに忘れ去ってしまっただけの事ではないか。
 それで、「ハングル」はきっと「ハン+グル」で、しかも「グル」はおそらくは「グッ」、「クッ」、「ク」、であろう。そうすると「ハングル」の「グル」は「句(語の意味)」ではないか、と書いてきました。
 「ハン」の意味は何だろうか。「韓」だろうか。
 「韓」なら、「ハングル」=「韓句(韓語)」でおさまりがいいけど「ハングルは『偉大な文字』という意味だ」、と言っているからには、「ハン」に偉大なという意味がある漢字があって当然でしょう。そんなものあるんだろうか。第一、そんな言葉を使ったら宗主国様に叱られるんじゃなかろうか。
 そんなことを考えているうち「汎」という言葉が浮かんできました。「普」と同様に、「一般的に」とか「広く使われる」という意味で「汎句」、くらいの意味で言われたのを、元の意味が分からなくなった者が「ハングル=偉大な文字」と希望的観測から読み解いたのではないか。(汎句=汎用句・汎用語が本来の意味ではないか)
 今、そんなことを思っています。

 神戸に帰ってきてびっくりしたのは、ケーブルテレビからサンテレビから未だに韓国ドラマがたくさん流れていることです。例によって歴史ファンタジー、朝鮮時代劇、韓国版昼ドラ(ドロドロのやつです)が毎日何本も流されている。
 そんな中に「根の深い木」という世宗王の治政を描いたドラマがあるのですが、これが文字の創出と国の運営の関わりを軸にした人間ドラマで実に面白い。
 こんなことを言うと、朝鮮の人は頭から湯気立てて起こるかもしれませんが、このドラマを見始めて、彼の国の「恨」しかなかった国民性に、日本人が「人としての生き方」について考えることを教え、それによって「近代化を目指す」という意識が生まれたのだなあ、と感心しています。


 最悪の王朝とされる李氏朝鮮。最悪だったのは何故か。何が最悪だったのか。誰が最悪と言っているのか。
 そして「ホントに最悪、だったのか」?見方を変えればいろんな風に見えてくる。
 

 「ハングル」という一つの言葉を繰り返し見るだけでも色んなことを考えられます。

 「思考」ではなく、こんな「思い」、で留まってないでしょうか。
 「集団的自衛権」=「手伝い戦に行かされる」=「自衛隊が死ぬ」。だから反対。
 或いは
 「集団的自衛権」=「手伝い戦に行かされる」=「徴兵制になる」。だから反対。
 手伝い戦以前に、日本が攻められて滅ぼされることはないんでしょうか。

 昔、北方から二、三日に一度の割で国籍不明の飛行機が領空侵犯ギリギリまでやってきて、自衛隊はスクランブル発進の連続で大変だったそうです。国籍不明機の飛来目的は偵察だったといわれています。
 今、当時の倍以上のスクランブル発進が南西からの飛行機にかけられています。
 国籍不明でも何でもない、シナからの飛来目的は偵察の体裁をとりながら明らかに武力による威嚇です。異常接近も何度か行って、それは日本がやったことだと強弁しています。

 九条があるから、攻めてこない?ホントに????
「個別的自衛権があるから大丈夫」?ホントに???
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界遺産登録について(目的は何だったか)

2020年05月18日 | 心の持ち様
2015.07/11 (Sat)

 (「道の駅」の続きです)

 石見銀山が世界遺産に登録されてから、もう8年にもなる、と聞いて月日の過ぎ去る早さに改めて驚いている。今年の遺産登録も「放っておけば」あっという間に月日は過ぎ去る。

 「世界遺産に登録される」というけれど、「登録される」というのは「世界遺産になる」ということではない。
 「これは世界の遺産と呼ぶべきものだ」
 とユネスコが明言するだけのことであって、登録された瞬間からユネスコが管理・保全に尽力する、というわけではない。
 またユネスコが管理・保全のためにいくらかの資金を提供する、というものでもない。言いっ放し、だ。

 それどころか「イコモス」とやらに、登録してもらうよう説明を主とした働きかけをしなければ、ユネスコの方から「どう?登録しない?」なんて言ってくるものでもない。
 また、イコモスへ働き掛けるための準備、費用は大変なもので、でもそれは言ってみればロビイ活動というやつに使われるだけだから、委員会のメンバーが袖の下として受け取って「ふっふっふ」という風にはならない(筈だ)。
 つまり、直接には誰も金銭的な利益を得ることはない(筈だ)。

 ユネスコの委員会が「世界遺産に登録する」という言葉の後には、以下のこんな言葉が省略されている。
 「(これは世界の遺産と呼ぶべきものだ。)だから管理・保全に努めるべきである(又は、「管理・保全に努めよ)。」
 「~を世界遺産(名簿)に登録する。だから現状を保全するように努めよ」
 保全の費用は地元が出せ、と言っているわけだ。
 何で半ば命令口調のそんな指令を受け、喜ばねばならんのか。

 保全をしたいのは山々だ。地元の、自国の先輩達が汗水たらして開発・保全に取り組んだ、その結果が自然遺産なり、工業遺産なりの形で現存している。これを荒廃させてはならない。
 しかしその管理・保全のためには多くの資金、労力が必要であって、その力が地元にはない。
 「先輩達の心・努力の跡を踏みにじるようなことをせず後世に伝えたい。」
 こう考える人もいれば、
 「この地には生活のための収入源がない。しかしこの『遺跡』・『景色』を見に観光客がやってくる。世界遺産に登録(=認定、だと思っている)されれば、収入が増え、管理・保全もできる」
 、と生活の手段として捉える人もいる。

 ①(そこをねらって)ユネスコは世界遺産登録を明言する。
 ②すると観光客が来てお金を使う。
 ③その収入で地元民が遺跡・遺産の保全をする。
 三方一両損、ならぬ三方一両得、だ。
 つまりこれは名誉なことでも何でもない。「放っておけば滅びてしまうから何とかしなければ」、と、ただただ先人の努力の成果を後世に残すためにユネスコが捻出した知恵なのだ。「道の駅」と同じことなのだ。「ドライバーの便宜を考えてトイレを作りたいけどお金がない。じゃあどうする」、と同じ理屈だ。だから「政治に絡めてはならない」というわけだし、その破壊活動は世界を敵に回すことになるし、地元民だってぞんざいに扱ったら、ユネスコは「登録を取り消す」と宣言する。

 「登録を取り消す」
 、なんてのは
「守れ、言うとるのに守らへんのやったら、『守れ』言うたん、やめや!もう、勝手にしなはれ!」
 ということだ。
親が子供を勘当する、或いは師匠が弟子を破門にする、みたいだけれど、ユネスコは各国にとって親でもなければ師匠でもない。言ってみれば近所の口喧しいおっさんで、「そんなんやったら勝手にせえ!」と言っているに等しい。まるで説得力がない。
 しかし世間は口喧しいおっさんの方を支持する。肉親でもないのにその子の将来を思って、言ってみれば「大義のために叱っているから」、「筋が通っているから」、だ。
 結果、子供は従わざるを得なくなる。集団的自衛権と同じ理屈だ。ユネスコの「遺産登録を取り消す」との宣言も同じだ。
 それを言ったからと言ってユネスコには何の利益もない=ユネスコは正しいことを言っているのだから、抹消された方が悪いに決まっている→観光客が激減する→収入が激減する=保全は言うまでもなく、生活すらできなくなる。

 この「道理」、或いは「建前」で成り立つ輪の中にウソが混じっていたらどうなるだろう。そのウソが真実として機能したらどうなるだろう。当然、ウソは更なるウソを呼ぶことになる。
 「外交の極意は正心誠意」。
 私欲なく、筋が通っていれば、チャンスは多く芽生える。今回の、強制労働があったかのような決着と、それを明示する、という約束だって、それが本当の事なら仕方がない。
 しかし、そうではないということが明らかになっているのだから、明示する場でそれを書き連ねれば良いことで、それを見た日本人を主とする観光客が、「何だ、新聞やテレビじゃ、日本が強制労働させたみたいに書いてたけど全然違うじゃないか」、と段々に思い始めることの方が大事だろう。
 あれだけ狂ったように性奴隷だ何だと騒いでいたのが、「この頃、心なしか影を潜めてきたような・・・」と思い始めている人は増えている筈だ。それはアサヒの「取り消し」表明と論点のすり替えを、「おかしい」と声を挙げる人が増えてきたからではないか。

 例えば「ブログ」という形ででも思いを書き留める人が一人でも増えたならば。
 このブログのように日に20~30人しか来訪者がなくとも、何か違和感を感じている人の目に偶然、留まるかもしれない。そういうことがそこかしこで起こったならば。
 宝くじは買わなきゃ当たらない。意見は文字にしなければ伝わらない。

 「目的は何か」。それは
 登録されることによって衆目を惹きつけ、観光客として呼び込むことであり、
 登録されることによって誇りを再認識し、保全のために努力しようと再確認すること、
ではなかったか。
 では、その邪魔をするものは、正論でその都度撃破するまでだ。
 政府や外務省の失策を詰ることで「邪魔」を撃破できるのなら、それをしよう。
 しかしできることは他にもある。彼の国の卑劣なやり方を逆手に取る必要などさらさらない。正面から事実を淡々と説明し続ければ良いのだ。
 そして、「国が遺産登録を返上する」のではなく、国民が「間違ったことを認めるくらいなら返上しようではないか」との声を挙げ始めるべきではないだろうか。ブログだって投書だって良い。日常の中で声を挙げるべきではないか。
 それは分かろうとしない、知ろうとしない同じ日本人のためなのだから。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする