2016.09/17 (Sat)
(2015/02/09 (月))の「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」より
宮崎氏による書評
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
歴史は指導者と英雄が動かすのであり、大衆が歴史を作ることはあり得ない
戦後の歴史家は不毛の解釈を持ち込んで英雄を全部抹殺した
♪
福田恒存『人間の生き方、ものの考え方』(文藝春秋)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
殆ど福田氏の作品は全集に収められ、漏れているものはないと考えられてきたが、講演の記憶が残っていた。
昭和37年から50年にかけて国民文化研究所が阿蘇で行った学生合宿に四回呼ばれた福田氏は、そこで学生達と真剣に対話している。本書はその四回の講演録である。編集した国民文化研究所に寄れば、いずれも事後に福田氏の朱筆が入っているという。
「秩序を守るために当然冒さなければならない悪というものがある。それに耐えてゆく、それが思想というものだ」と福田氏の箴言に満ちあふれている本書は、はじめて日の目を見た講演録である。
評者(宮崎)も学生時代に福田氏の講演は何回か直接聴いたばかりか、二回ほど講演に来ていただいた。辛辣なジョークや箴言に溢れていて、平明な言葉なのに、中味はつねに論争的で、いかに解釈してよいものか、迷ったことも往々にしてあった。
たとえば福田氏はこういうものの言い方をされる。
ものごとを『解決』したいと思わない方が良い、と。
「混乱の姿というものが本当に私たちの目に映っていたなら、解決はそれぞれの人に応じて当然起こって来るはずであって、混乱の自覚がないのにいきなり解決の道を説いたり、また解決のために一所懸命に努力したところで、ますます混乱を重ねるばかりだと考えます。だから大事なことは解決を急ぐことではなく、混乱している現実を誰でもがその人なりにはっきりと見極めることだ」
先に『解決』の道を示す社説を得意になって鼻を鳴らしながら偉そうに書く某大新聞の論説委員らに訊かせたい。政治家は耳の垢をほじり出して、澄ませ。
この言を援用して言えばウクライナ問題の解決を急ぐ必要はない。
ロシアとウクラナイナの当事者の力関係と指導者の力量で、ものごとは自然と流れが出来るのであり、オバマが口先で介入し、ロシアが欧米の言うことを訊かないとばかり制裁を強めるのは混乱に輪をかけているような醜態であり、メルケル独首相はそれが分かっているから、モスクワとワシントンをいったり来たりしているのだ。
道を説くのは止めにしたら如何かと福田氏が、もしいま生きておられたらそう言われるに違いない。
歴史論争についても、マルクスにかぶれた左翼史家ばかりか、ウルトラナショナリストヘの警告もなされる。
「歴史はすでに存在してしまったものです(中略)。ところが日本の歴史は既に存在しているということを、今の歴史家たちはどうやら忘れている。つまり歴史は親みたいなもので、私たちは日本の歴史の子供なのであります。その子供の立場から過去の歴史を裁いていこうというものの考え方は既に間違っている。歴史をして私たちに仕えしめてはならない」のである。
古代から中世にかけての歴史を、マルクス主義とか、階級闘争とか後智恵のプリズムでああだこうだと言っても始まらない。左翼の歴史家らは根本の間違いに気がついていないというわけだ。
▼革命を一般大衆や人民蜂起で成立したという解釈は戯言である
またこうも言われる。
(革命とか維新とかが)「本当に民衆が目覚めて立ち上がったなどという馬鹿なことは今まで一度も行われたためしがない。(中略)時代の先覚者、指導者によって歴史は動いていく。ところが、戦後は指導者によって歴史が動くことを全部否定して、大衆が歴史を動かしたという風に無理に解釈しようとした。従って、一時いわれたように、人間不在の歴史、英雄を全部抹殺した歴史が教えられました」
いや、戦後のことではなく近代の日本がそうだったのだ、と福田氏は続けてこう述べられている。
「日本は明治以来近代化というものを非常に大きな価値に祭りあげるという過ちを犯し続けて来ました。これも私たち後進国の歴史的必然性であり、宿命的なことがらであると思います。先進、後進だけでものを考えることが殆ど日本人の価値観になってしまったと思われる(中略)、戦後はそれが極端になり、殊に唯物史観に彩られた」
近代化信仰について辛口の揶揄でもある。
そして、そうした近代史絶対史観ともいえる考え方は、近年の「人命尊重」イズムという軽薄な、馬鹿げた風潮になり、日本人の脳幹を冒した。病膏肓に入る、とはこのことで「人命は地球より重い」とダッカ人質事件がおこり、また今回も『イスラム国』によって執られた人質に巨額の身代金を支払う愚考があった。
諸外国が日本を侮蔑するのは、このような非現実的な態度への反発が含まれているのではないのか。
人質犯罪は殺人以上に凶悪な犯罪であり、「もし彼らの要求を入れて人質の命を助けるために、明らかに犯罪者として逮捕している人間を釈放するということになれば、国家、政府の権力が彼らよりも弱いということを立証する」
しかし福田赳夫とちがって政治家の資質に優れた安倍首相は「イスラム国」のテロリストに屈しなかった。
(転載了)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
《ものごとを『解決』したいと思わない方が良い》
「混乱の自覚がないのにいきなり解決の道を説いたり、また解決のために一所懸命に努力したところで、ますます混乱を重ねるばかりだと考えます。」
「大事なことは解決を急ぐことではなく、混乱している現実をその人なりに見極めることだ。」
これ、昔学校で聞いた「疑いを持て」ということの間違い、本当は「疑問を持て」であることを示しているのだと思います。
疑いを持ったら、それは疑心暗鬼に陥るしかない。でも、「疑問」ならば、それは「問題を理解しよう、そのために問い掛けることをしよう」、という肯定的な姿勢と積極的な実行動を生み出します。
疑問も持っていないのに、いきなり解決策を講じたって、聞く耳を持てないでしょう。何より、「己の能力の範囲内でしか理解(把握)できない」のです、 そこへ向けて「問題はこうだ、その解決法はこうでなければならない」というのは有難迷惑、大きなお世話でしかありません。
井上陽水に「小さな手」という歌があります。その中にこんな歌詞があります。
「~不幸はこの手でかかえられないし 幸せはこの手ではこぼれてしまう 小さな手~」
理解能力そのものの話、と言えるでしょう。でも、歌詞にある「小さな手」は大きくならないけれど、「理解能力」は当人のやせ我慢、それなりの努力などによって大きく深くすることができる。
それを福田恒存氏は
「大事なことは解決を急ぐことではなく、混乱している現実をその人なりに見極めることだ」
と説明されています。
「その人なり」の「見極め」ようとする努力が大切なのであって、「混乱の自覚がないのにいきなり解決の道を説いたり、また解決のために一所懸命に努力したところで、ますます混乱を重ねるばかりだ」と。
《日本の歴史は既に存在しているということを、今の歴史家たちはどうやら忘れている。つまり歴史は親みたいなもので、私たちは日本の歴史の子供なのであります。その子供の立場から過去の歴史を裁いていこうというものの考え方は既に間違っている。歴史をして私たちに仕えしめてはならない」のである。》
「歴史は既に存在している」のに、その事実を見ようともせず、理想論を振りかざす。「日本はテロルの対象だ」と言われたならば「だからあの時総理がもっと慎重な物言いをすれば」と言い、間抜けなことに「彼らに九条の説明をしよう」と画策することが事態の好転を生むのか?です。
今の時点で、今の物差しで、過去の歴史を裁定することにどれだけの意味があるのか、「駄目なものはダメ」、で未来を切り拓けるのか。子供が親の裁定をすることで、その子供は親を超えることができるのか。
脱線しますが、産経新聞に連載中の「ひなちゃんの日常」というマンガで、幼稚園児のひなちゃんがバレンタインデーのチョコレートを作っている。
ひなちゃん「いちばんよくできたのはパパのです。しっぱいしちゃったのはひなのです」
パパ「(どれが一番よく出来たチョコ?)」
目の前にはいびつなチョコばかりが並んでいます。
善意のかたまりみたいな話ですが、ひなちゃんの言う「いちばんよくできたチョコ」は、ひなちゃんの裁定でしかありません。裏返したら「駄目なものはダメ」と同じです。
善意からの行動というのは何よりもの救いです。
けれど新しい社会づくりのために、それまでの社会を否定する気満々、ならどうなるでしょうか。
歴史を我々の召使いにしてはならない。我々は歴史から何かを学ぶのだ。何故なら我々日本人は日本の歴史の子供(日本の歴史の中に生まれた、歴史を織りなす者)なのだから。
《「本当に民衆が目覚めて立ち上がったなどという馬鹿なことは今まで一度も行われたためしがない。》
《時代の先覚者、指導者によって歴史は動いていく。ところが、戦後は指導者によって歴史が動くことを全部否定して、大衆が歴史を動かしたという風に無理に解釈しようとした。従って、一時いわれたように、人間不在の歴史、英雄を全部抹殺した歴史が教えられました》
何だか厳しい言葉のように見えますが、これも至極当然のことでしょう。「民衆」というぐらいです、一人ではない。
多くの人々が目覚めて立ち上がる。誰が纏める?「船頭多くして、~」になることは自明の理。
でも、それなら「先覚者」「指導者」はどこから出てくるのか。間違いなく同じ国民から出てくるんです。決して他国から稀人(まれびと)がやってきて日本国民を導くわけではない。
だから指導者の存在を否定する、というのは事実を見る限り不可能だし、ナンセンスです。 でも、我々は戦後教育で確かに偉人も英雄も居なかった、と教えられてきました。で、そこから何が生まれるだろうか。
福田氏は、
「近代化を重視するあまりに、それ以前を考えることなく、結果、必然的に軽視してしまっていた」
、と説きますが、それは仕方のない事だ歴史的必然性なのだ、とも言います。
けれど、「戦後はそれが極端になり、殊に唯物史観に彩られた」がために日本人は脳幹まで侵されたのだ、と。
では、我々はどうしたらよいのか。
そこから先は自分で考えるべきである、と福田氏は最初に言っています。
「大事なことは解決を急ぐことではなく、混乱している現実をその人なりに見極めることだ。」
選挙前だけ候補者の情報を集め、重大事件が起こった時だけ、マスメディア、或いはネットの情報を参考に自分の考え(だと思っているもの)を口にする。
これでは「その人なりに見極めること」にはならないでしょう。
例によって自責の念に駆られるしかない、のですが。
( 2015年2月14日の日記より)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「二重国籍、法的には問題ない」
「豊洲市場移転問題、訴追されるべきは誰か」
等々。
選挙前だけ候補者の情報を集め、重大事件が起こった時だけ、マスメディア、或いはネットの情報を参考に自分の考え(だと思っているもの)を口にする。
これでは「その人なりに見極めること」にはならないでしょう。
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(2015/02/09 (月))の「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」より
宮崎氏による書評
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歴史は指導者と英雄が動かすのであり、大衆が歴史を作ることはあり得ない
戦後の歴史家は不毛の解釈を持ち込んで英雄を全部抹殺した
♪
福田恒存『人間の生き方、ものの考え方』(文藝春秋)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
殆ど福田氏の作品は全集に収められ、漏れているものはないと考えられてきたが、講演の記憶が残っていた。
昭和37年から50年にかけて国民文化研究所が阿蘇で行った学生合宿に四回呼ばれた福田氏は、そこで学生達と真剣に対話している。本書はその四回の講演録である。編集した国民文化研究所に寄れば、いずれも事後に福田氏の朱筆が入っているという。
「秩序を守るために当然冒さなければならない悪というものがある。それに耐えてゆく、それが思想というものだ」と福田氏の箴言に満ちあふれている本書は、はじめて日の目を見た講演録である。
評者(宮崎)も学生時代に福田氏の講演は何回か直接聴いたばかりか、二回ほど講演に来ていただいた。辛辣なジョークや箴言に溢れていて、平明な言葉なのに、中味はつねに論争的で、いかに解釈してよいものか、迷ったことも往々にしてあった。
たとえば福田氏はこういうものの言い方をされる。
ものごとを『解決』したいと思わない方が良い、と。
「混乱の姿というものが本当に私たちの目に映っていたなら、解決はそれぞれの人に応じて当然起こって来るはずであって、混乱の自覚がないのにいきなり解決の道を説いたり、また解決のために一所懸命に努力したところで、ますます混乱を重ねるばかりだと考えます。だから大事なことは解決を急ぐことではなく、混乱している現実を誰でもがその人なりにはっきりと見極めることだ」
先に『解決』の道を示す社説を得意になって鼻を鳴らしながら偉そうに書く某大新聞の論説委員らに訊かせたい。政治家は耳の垢をほじり出して、澄ませ。
この言を援用して言えばウクライナ問題の解決を急ぐ必要はない。
ロシアとウクラナイナの当事者の力関係と指導者の力量で、ものごとは自然と流れが出来るのであり、オバマが口先で介入し、ロシアが欧米の言うことを訊かないとばかり制裁を強めるのは混乱に輪をかけているような醜態であり、メルケル独首相はそれが分かっているから、モスクワとワシントンをいったり来たりしているのだ。
道を説くのは止めにしたら如何かと福田氏が、もしいま生きておられたらそう言われるに違いない。
歴史論争についても、マルクスにかぶれた左翼史家ばかりか、ウルトラナショナリストヘの警告もなされる。
「歴史はすでに存在してしまったものです(中略)。ところが日本の歴史は既に存在しているということを、今の歴史家たちはどうやら忘れている。つまり歴史は親みたいなもので、私たちは日本の歴史の子供なのであります。その子供の立場から過去の歴史を裁いていこうというものの考え方は既に間違っている。歴史をして私たちに仕えしめてはならない」のである。
古代から中世にかけての歴史を、マルクス主義とか、階級闘争とか後智恵のプリズムでああだこうだと言っても始まらない。左翼の歴史家らは根本の間違いに気がついていないというわけだ。
▼革命を一般大衆や人民蜂起で成立したという解釈は戯言である
またこうも言われる。
(革命とか維新とかが)「本当に民衆が目覚めて立ち上がったなどという馬鹿なことは今まで一度も行われたためしがない。(中略)時代の先覚者、指導者によって歴史は動いていく。ところが、戦後は指導者によって歴史が動くことを全部否定して、大衆が歴史を動かしたという風に無理に解釈しようとした。従って、一時いわれたように、人間不在の歴史、英雄を全部抹殺した歴史が教えられました」
いや、戦後のことではなく近代の日本がそうだったのだ、と福田氏は続けてこう述べられている。
「日本は明治以来近代化というものを非常に大きな価値に祭りあげるという過ちを犯し続けて来ました。これも私たち後進国の歴史的必然性であり、宿命的なことがらであると思います。先進、後進だけでものを考えることが殆ど日本人の価値観になってしまったと思われる(中略)、戦後はそれが極端になり、殊に唯物史観に彩られた」
近代化信仰について辛口の揶揄でもある。
そして、そうした近代史絶対史観ともいえる考え方は、近年の「人命尊重」イズムという軽薄な、馬鹿げた風潮になり、日本人の脳幹を冒した。病膏肓に入る、とはこのことで「人命は地球より重い」とダッカ人質事件がおこり、また今回も『イスラム国』によって執られた人質に巨額の身代金を支払う愚考があった。
諸外国が日本を侮蔑するのは、このような非現実的な態度への反発が含まれているのではないのか。
人質犯罪は殺人以上に凶悪な犯罪であり、「もし彼らの要求を入れて人質の命を助けるために、明らかに犯罪者として逮捕している人間を釈放するということになれば、国家、政府の権力が彼らよりも弱いということを立証する」
しかし福田赳夫とちがって政治家の資質に優れた安倍首相は「イスラム国」のテロリストに屈しなかった。
(転載了)
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《ものごとを『解決』したいと思わない方が良い》
「混乱の自覚がないのにいきなり解決の道を説いたり、また解決のために一所懸命に努力したところで、ますます混乱を重ねるばかりだと考えます。」
「大事なことは解決を急ぐことではなく、混乱している現実をその人なりに見極めることだ。」
これ、昔学校で聞いた「疑いを持て」ということの間違い、本当は「疑問を持て」であることを示しているのだと思います。
疑いを持ったら、それは疑心暗鬼に陥るしかない。でも、「疑問」ならば、それは「問題を理解しよう、そのために問い掛けることをしよう」、という肯定的な姿勢と積極的な実行動を生み出します。
疑問も持っていないのに、いきなり解決策を講じたって、聞く耳を持てないでしょう。何より、「己の能力の範囲内でしか理解(把握)できない」のです、 そこへ向けて「問題はこうだ、その解決法はこうでなければならない」というのは有難迷惑、大きなお世話でしかありません。
井上陽水に「小さな手」という歌があります。その中にこんな歌詞があります。
「~不幸はこの手でかかえられないし 幸せはこの手ではこぼれてしまう 小さな手~」
理解能力そのものの話、と言えるでしょう。でも、歌詞にある「小さな手」は大きくならないけれど、「理解能力」は当人のやせ我慢、それなりの努力などによって大きく深くすることができる。
それを福田恒存氏は
「大事なことは解決を急ぐことではなく、混乱している現実をその人なりに見極めることだ」
と説明されています。
「その人なり」の「見極め」ようとする努力が大切なのであって、「混乱の自覚がないのにいきなり解決の道を説いたり、また解決のために一所懸命に努力したところで、ますます混乱を重ねるばかりだ」と。
《日本の歴史は既に存在しているということを、今の歴史家たちはどうやら忘れている。つまり歴史は親みたいなもので、私たちは日本の歴史の子供なのであります。その子供の立場から過去の歴史を裁いていこうというものの考え方は既に間違っている。歴史をして私たちに仕えしめてはならない」のである。》
「歴史は既に存在している」のに、その事実を見ようともせず、理想論を振りかざす。「日本はテロルの対象だ」と言われたならば「だからあの時総理がもっと慎重な物言いをすれば」と言い、間抜けなことに「彼らに九条の説明をしよう」と画策することが事態の好転を生むのか?です。
今の時点で、今の物差しで、過去の歴史を裁定することにどれだけの意味があるのか、「駄目なものはダメ」、で未来を切り拓けるのか。子供が親の裁定をすることで、その子供は親を超えることができるのか。
脱線しますが、産経新聞に連載中の「ひなちゃんの日常」というマンガで、幼稚園児のひなちゃんがバレンタインデーのチョコレートを作っている。
ひなちゃん「いちばんよくできたのはパパのです。しっぱいしちゃったのはひなのです」
パパ「(どれが一番よく出来たチョコ?)」
目の前にはいびつなチョコばかりが並んでいます。
善意のかたまりみたいな話ですが、ひなちゃんの言う「いちばんよくできたチョコ」は、ひなちゃんの裁定でしかありません。裏返したら「駄目なものはダメ」と同じです。
善意からの行動というのは何よりもの救いです。
けれど新しい社会づくりのために、それまでの社会を否定する気満々、ならどうなるでしょうか。
歴史を我々の召使いにしてはならない。我々は歴史から何かを学ぶのだ。何故なら我々日本人は日本の歴史の子供(日本の歴史の中に生まれた、歴史を織りなす者)なのだから。
《「本当に民衆が目覚めて立ち上がったなどという馬鹿なことは今まで一度も行われたためしがない。》
《時代の先覚者、指導者によって歴史は動いていく。ところが、戦後は指導者によって歴史が動くことを全部否定して、大衆が歴史を動かしたという風に無理に解釈しようとした。従って、一時いわれたように、人間不在の歴史、英雄を全部抹殺した歴史が教えられました》
何だか厳しい言葉のように見えますが、これも至極当然のことでしょう。「民衆」というぐらいです、一人ではない。
多くの人々が目覚めて立ち上がる。誰が纏める?「船頭多くして、~」になることは自明の理。
でも、それなら「先覚者」「指導者」はどこから出てくるのか。間違いなく同じ国民から出てくるんです。決して他国から稀人(まれびと)がやってきて日本国民を導くわけではない。
だから指導者の存在を否定する、というのは事実を見る限り不可能だし、ナンセンスです。 でも、我々は戦後教育で確かに偉人も英雄も居なかった、と教えられてきました。で、そこから何が生まれるだろうか。
福田氏は、
「近代化を重視するあまりに、それ以前を考えることなく、結果、必然的に軽視してしまっていた」
、と説きますが、それは仕方のない事だ歴史的必然性なのだ、とも言います。
けれど、「戦後はそれが極端になり、殊に唯物史観に彩られた」がために日本人は脳幹まで侵されたのだ、と。
では、我々はどうしたらよいのか。
そこから先は自分で考えるべきである、と福田氏は最初に言っています。
「大事なことは解決を急ぐことではなく、混乱している現実をその人なりに見極めることだ。」
選挙前だけ候補者の情報を集め、重大事件が起こった時だけ、マスメディア、或いはネットの情報を参考に自分の考え(だと思っているもの)を口にする。
これでは「その人なりに見極めること」にはならないでしょう。
例によって自責の念に駆られるしかない、のですが。
( 2015年2月14日の日記より)
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「二重国籍、法的には問題ない」
「豊洲市場移転問題、訴追されるべきは誰か」
等々。
選挙前だけ候補者の情報を集め、重大事件が起こった時だけ、マスメディア、或いはネットの情報を参考に自分の考え(だと思っているもの)を口にする。
これでは「その人なりに見極めること」にはならないでしょう。
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