CubとSRと

ただの日記

二題(駐韓米軍の立ち位置と安倍総理の深謀)

2020年05月13日 | 重箱の隅
2014.07/24 (Thu)

 「余命3年時事日記」、ここでは「二題」という題名通り、二つだけ部分転載します。
 一つ目は「駐韓米軍の立ち位置」と書いた通りです。
 駐韓米軍と言うのは、国連軍であって、他の国軍はみんな引き揚げたのに、代表である米軍だけが駐留を続けている、ということ。名目上はそうである、と。
 で、「休戦協定の責任締結国は、中国、北朝鮮、米国(国連軍代表)であって韓国は締結国ではないということ」。
 そうすると2015年、米韓相互防衛条約が廃棄され、戦時統帥権が韓国軍に委譲されると韓国には米軍はいなくなります。
 既に国連軍司令部は横田に移されることになっているから、もし、半島で紛争が再燃しても、米軍は、ともかく国連軍として出兵することは不可能だということ。(常任理事国である中・露が拒否権を発動するから)
 韓国は「日本がとやかく言う筋合いではない」、というけれど、日米安保条約で日本の基地を使用している米軍が、日本を経由しないで韓国を助けに行く、なんてことはほぼ不可能。日本の領土にかからぬようアメリカから直行するとしたらできることは陣中見舞いに行くくらいのことでしょう。
 ついでに、日韓同盟、なんてものは最初からないのだから「日本は韓国を助け(ることができ)ない」というのは意地悪でも何でもないのであって、至極当然のことなのだが。日本はアメリカの属国だ、とでも思っているのだろうか。もしかしたら、何を以て独立国と言うのか、未だに分らないのかも。

もう一つは「安倍総理の深謀」。
安倍総理が「今度こそ実現を。できずとも道筋だけは」、と考えていることの最大、最重要としているのは経済の立て直しでも外交の安定でもない。「戦後レジーム(戦後体制)からの脱却」です。だからそのために必要なことはできる限りのことをやってきた。
 しかし、本丸である「戦後レジーム(戦後体制)の核」とは何か、と言うと、それは言うまでもなく「憲法」でしょう。この憲法改正がとてもじゃないけど一筋縄ではいかない。憲法だけ変えたらいいと言うのではなく、まず憲法を変える行動を起こし、その様々な過程の中で憲法から派生していると言える様々の戦後に構築された物共をいちいち変えていかねばならない。「憲法」とは、考え方の大本なんですから。
 それに変えたいのは9条だけじゃないんです。前文から何から一杯ある。その結果できたのが戦後レジームなんですから。

 だから、まずは変えられるように、と96条を変えようとした。そしたら官民マスメディア、こぞっての猛反発を浴びた。でも、ここで諦めているわけにはいかない。混乱に乗じて好き勝手をやってくる隣国が居る。まずはそれを防がなければならない。
 「日本は専守防衛だ。手を出されるまでは攻勢には出ない」と宣言しているから、それをいいことにどんどん領域侵犯をして来る。
 これをくいとめるため「集団的自衛権はある。(だから友好国が助けに来るぞ)」、と宣言したら、そんな国は二の足を踏む。
 しかしこれでさえも大変な反発を浴びた。メディアに乗せられて浮足立った国民も相当数いる。数十年前なら「文化人様」と言われたであろう人々がそれに拍車をかける。

 「戦後レジームからの脱却」と言うのは「国民の考え方を変える」ということなのだから、とにかくありとあらゆる手段を講じ、用いなければなりません。
 誰が何といおうと日本は古来から民主主義の国だった。そして、民主主義と言うのは、数を多く持った方の意見が「是」となるのだから、ここに「主権」の概念を持ってくると矛盾が起こる。それを収束させる最後の手段が総理だけに託されている。それが自衛隊の指揮権です。
 これもまた、実際に発動することが大事なのではない。「発動できるぞ」と宣言し、できる体制を整えることこそが大事なのです。それがなかなかできない、多くの規制のかかった名前だけの「指揮権」だったから、それを知らない総理が出現して、自衛隊員の命を軽視するような命令を出したりしていました。
 「伝家の宝刀は抜かぬもの」だけれど、「抜けぬもの」だと、宣言してしまえば、安心して切り掛かって来るものはいくらでもいる。入念に手入れをして、一瞬に抜ける手と、いざという時には見事に遣える技を身に着けていてこそ、抜かないで生涯を終えることができる。
 「憲法改正」に猛反発するのは、それにより不利益を蒙ることになる外国人と、その外国人と係わることで甘い汁を吸って来た、一部(?)のマスメディアや、政界、財界、法曹界、警察、そして教育界に半ば公然と存在する反日思想の人々だから、それを抑える手立ても講じなければなりません。
 
 その辺のところをまずはご覧ください。 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
            (略)
 韓国、特に韓国国民はたぶん、ほとんどが理解していなかったと思われるのが、米軍の法的地位である。駐韓米軍は相互防衛条約で駐留しているのではない。撤退交渉が成立していないので、その実態は国連軍である。北が攻撃再開の時は米軍とぶつかるがそれは国連軍であって、世界を敵に回すことになる。これが抑止力であったのだ。ここで押さえておかなければならない重要なことは、現状いわれている休戦協定の責任締結国は、中国、北朝鮮、米国(国連軍代表)であって韓国は締結国ではないということだ。
 ちなみに朝鮮戦争休戦協定とは国際連合軍司令部総司令官と朝鮮人民軍最高司令官および中国人民志願軍司令員との間の朝鮮戦争を終わらせた休戦協定である。
            (略)
 当然、こういうことから米韓相互防衛条約が廃棄され米軍が撤退した後は、安全保障の状況が大きく変わってしまう。北朝鮮が韓国を攻撃した場合、国連軍を攻撃したわけではない。休戦協定違反であるから国連軍が出動ということになるが、再度常任理事国の一致賛成が必要となる。だがロシアと中国が賛成するわけがない。中国も介入はしないしできない。米も放置するだろう。南北どちらが勝つにせよ周りは高みの見物だ。かってにやれの世界である。
            (略)

 韓国は休戦協定の締結国ではありませんから、その合意事項について文句は言えません。ましてや国連軍総司令部の設置場所がどこに行こうと全く文句が言えないのです。横田移転、国連軍解散に韓国は関与できません。
 統帥権は国連軍に関するものですから国連軍が解散すれば意味がなくなります。
また、米韓相互防衛条約に基づく韓国駐留については、条約の有効下でも、撤退含めてすべての処理に韓国は関与できない決めになっています。いつでも好きなときに米軍は韓国から撤退できるのです。2016年まで撤退できないということではありません。まあ、あきれるほど全てがいいかげんというかアバウトですね。
            (略)
 そもそも集団的自衛権の行使容認は、一番影響があるのが朝鮮戦争再発時です。米軍の支援や補給が容易になるという、韓国にとってはマイナス面は全くありません。それを最大の受益国である韓国が否定し、日本国内の反日勢力が反対しているかたちは、実に不思議ですね。韓国は「助けにくるな」反日勢力は「韓国を助けにいくな」と言っているのですから「その言や、理解不能」です。(大笑い)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 安倍さんが政権を奪還してからの動きを見ると、軍事的には喫緊の課題である中国対策やその他目に見えるものがなくて、あまり評価していなかったのですが、ここに来てやっと安倍シナリオは国内対策というその概要がみえてきました。
 韓国や反日勢力の天下からわずか1年半で、完全に形勢逆転、いまや反日勢力の首に鈴どころか縄を巻いている状況です。(笑い)実際には、わずか1年半でという表現は正確ではありません。第一次安倍内閣からは6年ですね。その時にまいた種が2015年に実をつけようとしています。
 ロシアの脅威がなくなったことから、機甲師団師団編成を改変するのはわかるのですが、陸自をそっくりテロゲリラ対策仕様に切り換えてしまったのには驚きました。組織も武装もそっくりです。機動戦闘車なんて完璧にテロゲリラ対策ですね。74式戦車の改造であっという間に2015年末には全国フル対応です。
 また民主党政権で減員であった自衛隊、隊員数の増員と、予備役の訓練強化、OBの組織化と矢継ぎ早の対策で、日本の危機的状況をあっという間に立て直してしまいました。 安倍さんの凄みは、「俺がやられたら日本の後は頼むよ」と腹をくくって、万が一の時の国体護持を自衛隊に任せているところで自衛隊の士気は上がりますよね。                                        
            (以下略)
                                              
         「ぼかしとカット⑦朝鮮戦争」
                  ~余命3年時事日記より~
                    
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いつも思ってること

2020年05月13日 | 心の持ち様
2014.07/21 (Mon)

 晩に、録画していたテレビをうとうとしながら見てたんですけどね。
 番組は「たかじんのそこまで言って委員会」。

 今日は、「秘密文書についてスペシャル(?)」、みたいな内容で、河野談話検証のこととか、昭和天皇がA級戦犯の合祀について語られた言葉を書き留めたという富田メモの話とか。

 委員長代理が田原総一朗、という時点で、まあ、大概なところに持っていくんだろうとは思ってました。
 とは言え、それは制作側の意図でどうにでもなるものです。
 大体がこの番組、二週分録り溜めするでしょう?先週が田原総一朗でしたからね、今日、出演者席にいなければ代理席に座ってるに決まってる。
 で、委員長代理、ということになると、出演者全員と田原総一朗との言い合いになるに決まってる。

 予想通りの展開でしたが、これもまた制作側の意図なんでしょう、一話完結としないで、予定調和、って言うんですか?何となく尻取りみたいに、話が一段落付いたらそこから進めず、言葉尻を捉えて次のお題につないでいく、という。
 流れはそれでいいんでしょうが、それじゃ先日までの「TVタックル」とどう違うんだ、という感じです。ん?最近、その傾向強くなりましたよね。

 あ、そんなこと言いたかったんじゃないんです。「いつも思ってること」、です。
 この番組が劣化した、とか何とか言うんじゃなくって。
 今日の最後に挙げられた秘密文書、というのが「石谷(いしがい)家文書」。
 先日、新聞で目にしたんですが、明智光秀の謀反というのは、実は四国の長宗我部氏の件で、光秀が信長にとりなそうとしたところ、信長に断られ、主人信長と、光秀の縁戚になる長宗我部と、の間で苦悶したが故、という説があるんだそうです。それが光秀の家系である石谷家の文書に書かれていた。

 光秀の謀反の理由というのは諸説あって、なかなか定まらない。
 信長に打擲されたとまで言われることからの「怨恨」説。
 自分が天下を取りたいという「野望」説。
 他の実力者に誘導されたという「陰謀」説。
 そして 
 長宗我部の助命を断られたための窮余の策だとする「四国」説。

 というわけで、最後にどれだと思うか、という質問で〆ることになってたんです。
 それで、Willの花田編集長だったかが、「野望と怨恨」説を採った。
 「光秀だって戦国大名だ、天下を取りたくない筈がない。けれど、怨恨がなければ謀反までは起こさなかったろう」

 ここで出演者の意見を聞いているうちに、そして、副委員長のヤマヒロ氏の言い方を聞いているうちに思ったんです。と言うより、いつも思っていたことがここでも顔を出したんです。

 それは
 「野望と怨恨、並立するものだろうか。どっちが先、とかどっちが上、とかいうようなことはないのだろうか」
 ということでした。
 天下を取りたいという野望。主人に対する怨恨。
 野望はあったけれど雌伏してて、怨恨で一気に野望解決。・・・?
 光秀ほどの教養のある男が??

 誰かに誘導されて、というのも、光秀ほどの頭脳のある者が、と思うし・・・。
 となると、「四国」説が一番信憑性があるんですけどね、誰も支持しなかったからヤマヒロ氏、あんなに説明したのに、と愚痴ってましたけど。

 なんてこと言いながら、私は「野望と怨恨」説を採ります。
 と言うより、「怨恨」だろうと。
 ただ、それは打擲されたこと、つまり身体的苦痛を与えられたことより、精神的な苦痛、(早い話が侮辱ですね、)それが耐え難いものだったんじゃないか、と思いました。
 例えば、光秀がこれまでに苦労して取り組んできたことは何か、と言えば、それは「生活の豊かさを手に入れること」、じゃないですよね。
 光秀のつくったと言われる福知山城は、天守閣の土台となる石垣に墓石などが多く使われているそうです。まるで悪魔の城、じゃないですか。

 それだけ見れば「流石に信長の家来」となりそうですが、どうも本当のところは領民が是非にと言って持って来たらしい。
 そこで光秀が「そんな縁起の悪いものを」と怒って突き返すか、それどころか不幸者め!と処罰するか等をしたら、石垣に墓石は使われていない。
 使われているということは、領民の気持ちを有り難く受け止めた、ということです。
 「こんな立派な殿様のお城に使っていただければ先祖もうれしいだろう」
 実際、名君と慕われていたそうです。

 あ、脱線した。
 光秀が苦労して取り組んでいたことと言えば、そりゃあ、学問。
 歌から、軍学、歴史、漢学とやっている。古事記も万葉集も読んでいるだろうし、もしかしたら神皇正統記や太平記なんかも読んでいるかもしれない。
 じゃあ、皇学(国学)を学んでいると言えますね。そうすると、皇室があってこそ、日本は成り立っている(皇国の概念)と思っている可能性は高い。
 ところが主君は信長です。朝廷までも意のままに動かそうとし、「魔王」とまで言われた男です。その男が上洛しようとしているのです。

 「怨恨」が根にある。
 でも、「怨恨」だけじゃ方向がないから発動しない。発動させるためには理由がいる。理由とは「義」、です。そして、皇室を護るのは「義」の中の「義」、「大義」です。
 天皇を蔑にする信長に対し、怨恨があった。それに、長宗我部の助命を拒否されたことが導火線となり、上洛が火をつけた。
 「こんな人物に勝手放題をさせてはいけない」と挙に及んだ。

 人は感情で動きます。
 でも「感情で動いちゃいけない。理性で動かなきゃ」と教えられてきたから、感情で動くことに後ろめたさを持っています。だから、そこに義を見出した時は思い切って行動に踏み出します。

 反原発の運動も、辺野古への基地移設反対運動も、集団的自衛権反対運動も、理屈ではない。感情です。
 だから後ろめたさがあります。けれど、「平和の実現」という義を見出したから、思い切ってできる。官邸前で太鼓叩いておだを上げるのも、基地の金網にガラスの破片入りビニールテープを巻き付けるのも、「危なくなくてもオスプレイは来るな」と騒ぐのも、みんな「九条さえあれば平和は守れる」という「大義」を見出しているからできる。
 ・・・でないと、冷静になって振り返ってみれば、あんなことできます?
 平常心で、官邸前で太鼓叩く、とか。ガラスの破片入りテープを巻き付ける時の己の顔の醜悪さ。想像しただけで情けなくなりません?
 「危なくなくてもオスプレイは来るな」、なんて、もうお笑いですよ。

 ・・・・・でもしょうがないですかね。
 「戦争の準備をすれば戦争になる。だから平和の準備をしましょう」
 なんて、ノーベル賞作家だって言ってるんですから。
 平和の準備、って「基地のフェンスにガラスの破片入りテープを巻き付ける」ことなんですかね。ただの危険行為だと思うんだけど。
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或る日突然

2020年05月13日 | 心の持ち様
2014.07/15 (Tue)

 ・・・・・なんて大昔の歌の題名みたいな書き出しですが。

 でも、ホントに、或る日突然、何かが何の前触れもなく(だから「突然」なんですけどね)変わっていて、
 「ねえ、何で?いきなりなんだけど。全く理由が分からないんだけど。」
 、と問い掛けても全く反応がなく、
 「おかしいな~、おかしいなぁ~」「変変変~~~~っ!!」
 って叫んでも何も変わらず、ってのはどうにも気持ちが悪いものです。
 実は、普通はそんなこと、一杯あるんですよね、身の回りに。ただ、能々注意してみれば大方のことには説明がある。

 で、気持ち悪いながらも「辛抱して慣れなきゃ」と自分に言い聞かせていると、意外に短期間で慣れる。慣れるけれども、考えて理解して置かなきゃ、何度でも同じ気持ち悪さを思い出すことになる。これは考えようとしなかった本人の怠慢によるところが大きい。
 お前だけだ?いやいや、そんなことはない。


 中学生の時に、山陰の田舎町の中学から山陽の「街」の中学に転校して来ました。
 二ヶ月ほど経った週明けの或る日、突然。
 定例の朝礼があったんですが、時間に行って並んで見ると、全員が半袖の開襟シャツになっていた。
 一人だけ長袖のシャツを着ていた私はとにかく袖だけは捲り上げたんだけれど、どうにも居心地が悪くって。
 全校生500人ほどだったと思うけど、みんな半袖なんですよね。もしかしたら、数人は長袖の生徒がいたかもしれない。
 けど、「一人、二人、みんな」の逆バージョンです、数名くらい長袖の者が居たって、パニックになってるからほとんど目につかない。

 これ、冷静に見ればなんてことはない話なんですよね、
 「夏服に更衣、となるのが月曜日だった」
 、と言うだけの話です。

 私が、その連絡をちゃんと聞いてなかったんなら、「ただの天然」、とか「おバカ」とか「間抜け」とかいうことなんですが、実は更衣のことは知っていた。
 けれど、付け替えるべき名札の準備が出来てなかった。
 移行期間が設定されていたから、焦ることもない、ということで火曜か水曜で十分、と高をくくっていたんです。
 それが見事なくらい、校庭は白一色になっていた。

 転校した時、教室に教壇があるのを見て驚き、なのに生徒と先生が友達みたいな会話をしていることに更に驚く。
 先生はいつも見下ろしているのに、決して緊張感なんか漂ってない。そんな学校があるんだ、と何となく思い込んでいた。早い話、「何ともいい加減な学校だ」「でたらめだなぁ。先生を尊敬してないのか」、と。

 なのに、「更衣」だけは見事に揃う。これもカルチャーショック、と言うんでしょうか。
 もうほとんど半世紀近い昔のことなのに、今でもそのショックは思い出します。
 でも、その日のことは、それ以外何も思い出せない。
 理屈は分かっていても、眼前にそれだけが広がって視界を遮ってしまうと、その光景が思考活動までも制御してしまうようです。

 意外と集団的自衛権のことだって、そんな程度にしか捉えられてないんじゃないでしょうか。
 「ちゃんと説明してくれなきゃ分からないよねぇ~」、なんて言ったって、実際、ちゃんと説明したって聞いちゃあ、いない。
 「今それどころじゃないのよ、夕ご飯の準備で忙しいの!」
 「あ~、残念。煙草がキレちゃった。買いに行って来なきゃ落ち着いて聞けないな」
 とか何とか言ってね。
 何、お前だけだろう?い~や、そんなことはない。

 それで、こんな事を言う。
 「アメリカに頼まれれば嫌々でも戦争しなきゃいけないってことでしょ?」
 「湾岸戦争の時、『金は出すけど血は流さない』って、礼も言われず文句だけ言われたから、だろ?」
 等々。
 「集団的自衛権=集団で戦う権利」と思っている人が大半なんじゃないでしょうか。「自衛」とは書いてあるけど、「戦う」なんて言葉、入ってないのにね。

 能々考えると、色々中途半端な解説が溢れているんじゃないかなと思えてきます。
 例えば
 「『行使する』、と『行使できる』は一緒だろ?」
 と言うのは、余りにも大雑把な捉え方であり、無茶苦茶な展開じゃないでしょうか。
 安倍総理、「積極的平和主義」とは言ったけれど、「積極的に参戦する!リベンジだ!」、なんて言ってません。口が裂けても言いませんよ、言うわけがない。
 当然でしょう、総理大臣ったって国民の支持があってこそ成り立ってるんです。そんなこと言ったら国民から総スカン食らって、一瞬で総理の椅子から転がり落ちます。
 総理大臣は「親」じゃない。「いずれわかる時が来る」、なんて言ってられない。今、どれだけ国のことを思い、国民の為を思い、して奔走しても、「今の時点」で支持を得られなければ、すぐ首です。

 あ、大脱線しました。
 冷静に考えりゃ「行使する」のと「行使できると宣言する」のとは違う、ってわかります。そして「一緒に戦争をする」ことよりも「有事には多く(集団)の援軍が駆けつける」という「保険」を持つということが、何よりも大きな戦争抑止力になる、ということです。「行使できると宣言する」というのはそういうことです。「参戦する」とは別次元の話です。

 「個別自衛権だけ」、「専守防衛権だけ」、だなんて、こんな恐ろしいことはない。簡単に開戦に追い込まれるし、必ず負けます。核兵器を持っていても、です。だって、たった一国だけで戦うということなんですから。
 日本だけで世界中を敵に回して戦った「第二次大戦末期の状態から戦争を始める」と宣言するにも等しいことです。

 「集団的自衛権なんか要らない。自衛隊は憲法違反だ。九条があるから戦争はなかったんだ。自衛隊も日米同盟も要らない」
 なんて
 「警官が拳銃を持たなければ、犯罪者も武器は持たない」
 と同じでしょ?
 「九条があるから戦争は起きない」
 のなら
 「憲法に『台風が来ることはこれを認めない』と書けば台風は来ない」
 ということだと、笑った学者もいたそうです。

 実は最近のテレビを賑わす色々な話を見ていて、
 「物事にはちゃんと経緯があって、『ある日突然』なんてことはない。だから、たとえその時パニックになっても、それなりに物事の原因を考えて理解、納得しておけば、後に引き摺ることはない。」
 「しかし、考えることをしなければ、性懲りもなく同じ失敗を繰り返す」
 等ということを思ったものですから、ちょっと書き留めてみました。

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確かに「えっ?」と思いました。

2020年05月13日 | 心の持ち様
2014.07/13 (Sun)

                         msn 産経ニュース

 台湾で誤解氾濫、支持広がらず 集団的自衛権「アジアの安全を破壊」
 2014.7.11 08:26 
 【台北=田中靖人】 日本政府が集団的自衛権の行使容認へ憲法解釈を変更したことに対し、台湾では当局や「知日派」有識者の間でも支持が広がっていない。
 日本の新方針は「台湾有事」に来援する米軍への効果的支援を可能にし台湾の安全にも寄与するとみられるが、歓迎の声は小さい。
 閣議決定への誤解に加え、日中間の対立に巻き込まれる懸念や安倍政権への偏見が背景にありそうだ。

 「集団的自衛権はアジアの安全を破壊する」「反動安倍政権を打倒せよ」

 台北市内にある日本の対台湾交流窓口機関、交流協会台北事務所(大使館に相当)前で7日、反日デモ隊約100人が声を上げた。
 一部は安倍晋三首相の肖像を破り捨て、火を付けた。

 日本の閣議決定後、台湾当局が反応したのは現地時間で翌々日の3日。
 外遊中の馬英九総統が「関心」を表明したが、同時に日中の衝突への懸念も示した。
 1996年、日米安保条約のアジア太平洋地域への「拡大」を意義付けた日米安保共同宣言の発表直後、外交部(外務省)が「地域の平和と安全に積極的な意義を有する」と歓迎の意を表明したのとは対照的だ。

 台湾大で5日にあったシンポジウムでも知日派とされる識者3人が「日本は平和憲法を捨てた」「安倍首相は軍拡競争のパンドラの箱を開けた」と批判。 馬政権で安全保障担当の高官を務めた一人は、台湾有事は「米中の直接対決で、日本の集団的自衛権は重要ではない」と切り捨てた。
 台湾紙の中国時報は、日本が「専守防衛」から「先制攻撃(主義)」に転換したかのような見方を紹介した。

 一方、野党、民主進歩党系のシンクタンク「新台湾国策智庫」などは7日、記者会見で、元駐日代表らが「アジアの平和に対する貢献は大きい」と評価した。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 私もこの記事を読んだ時は
 「??産経、こんな記事を書くのか?おかしいな。それともこっちのこれまでの思い込みがひどかったということだろうか。」
 「それにしても抗議の人数が百人、って随分と少ないじゃないか。」
 というのが素朴な感想でした。

 でも書いてあることは本当なんだろう、と。
 百人、ってのは文章の感じからしてわざと少なくして書いたんじゃなかろう。
集団的自衛権に反対の論調なんだから、水増しこそすれ、わざと少なくするとは思えない。
 「となると、例によって、これ、共同通信か?」
 そう思ったんですが産経記者の署名記事。

 こうなると、もうサッパリわからない。下手すると、これまでの、飛ばしもあって、些かお調子者の気はあるけれど分かり易い筋道のはっきりした、間違った時はちゃんと訂正記事を出す産経が、蟻の一穴じゃないけれど何だか信じられなくなるような、薄黒い霧が掛かりはじめるような気になってくる。
 是々非々と言っている人を批判し、一事が万事の良い面を見ようとして来たのに、急に疑心暗鬼の気持ちが拭い去れなくなってくる。

 そんなところへ、 この記事に関して、平井修一氏が、氏のブログ「普通の国にしたいだけなのだ」で書かれていました。

 「やはりそうか。おかしいと思う人がいるんだ。でも、産経であれなら、他の新聞、テレビは推して知るべきか。まだまだ現政権叩きは続くということだな」

 とにかく平井氏のブログからの部分転載をして置きます。読み比べていただけたらと思います。
        ↓
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 「産経台湾支局が北京に陥落?」
                         平井修一

 「台湾の声」の林建良編集長が「産経記事に異論」と産経記事「台湾よ、お前もか…集団的自衛権で誤解氾濫、支持低め」(7/11)に苦言を呈している。

 田中靖人記者の記事なのだが、台湾人は日本の集団的自衛権を支持しない、という内容で、小生も「これは北京寄りの外省人の声なんじゃないか」といぶかったものである。林建良氏はこう書いている。

 《この産経の報道は完全に間違っています。交流協会の前のデモは親中派によるデモでまったく台湾の民意を代表していない。
 現場で取材すればすぐにわかることなのに、何故これもわからないのか。
 更にこの記者が引用した「台湾紙の中国時報」とは、親中派である「聯合報」よりも中国寄りの姿勢になっており、中国政府の代弁者といってよい。
 記事の中に出る「馬政権で安全保障担当の高官を務めた一人」とは楊永明のことで、彼は筋金入の親中反日派であり、親台湾的な故斎藤正樹大使を交流協会台北所長から蹴落とした張本人であるのだ。
 集団自衛権に対する見方を本気に探求するなら、以下の自由時報の社説の方がより台湾国民の声に近いのだ 》

 、として自由時報のURLを紹介している。
 小生もこのサイトを開いて翻訳したが、非難がましい記述は見当たらなかった。

 さらに7/12にも林氏はこう問題提起している。
 《産経新聞の台湾記事は親台湾的日本人に絶大の信頼を得ていると思います。しかし最近の台湾記事のレベルはかなり低くなっています。
 それは会社の方針転換か、記者の質の低下によるかは分りませんが、ゆゆしき問題です 》



「台湾の声」読者からもこんなコメントが寄せられている。

<小生も記事を読みましたが、産経の記者の中にも報道の質とその影響をよく考えない人も居るということでしょうか。
 おそらく台北駐在の田中靖人記者はまだまだ新米かも知れません。それにしても田中記者の上司やその上の編集長は昼寝をしていたのでしょうか。産経購読者 坂田>


 田中靖人(たなか・やすと)記者は何者か。

<産経新聞政治部記者。1998年、慶應義塾大学総合政策学部卒業。2000年、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修士課程修了(政策・メディア修士)。2000年、産経新聞社入社。2005年9月より現職>

 産経7/5の「台湾民衆との直接対話に乗り出した中国」も彼の記事だが、軸足を北京に置いているかのようだ。

<中国で台湾政策を主管する国務院(政府)台湾事務弁公室の張志軍主任が6月25~28日、担当閣僚級として初めて台湾を訪問した。張氏は期間中、当局者との会談よりも台湾の民衆との直接対話を重視。「対台湾工作の新たな措置と思想の実践」(中国の研究者)とされ、笑顔で交流する姿は中国側の政策転換を象徴的に表していた。

 中国側がこれまで「台湾独立勢力」と指弾してきた野党、民主進歩党の地盤である中南部の農村に、張氏があえて乗り込んだのは、根強い反中感情を和らげる狙いがあるとされる。

 だが、単に低姿勢で「声を聞く」だけでは独立派が親中派に転向するはずもない。抗議を目の当たりにしたことで、今後は中南部の農産品の購入拡大など、より直接的な利益供与の方策を強化するとみられる>

 「笑顔で交流」「中国側の政策転換」「あえて乗り込んだ」「より直接的な利益供与」・・・中共はソフトにやります、と、まるで中共を代弁しているかのようだ。


 田中記者は22歳で大学を出たのなら、今は38歳。現役バリバリの中堅だが、6月1日付の産経新聞東京本社人事には、編集局台北支局長(外信部)田中靖人とある。なんと彼が台湾取材のトップなのだ。

 台湾、中共についてしっかり勉強しているのだろうか。中国語は大丈夫なのか。ネットと親中派新聞で記事を書いてるのではないか。

 2014.1.25には<【中国ネットウオッチ】「日本人は残忍」「変態民族を排除せよ」ケネディ大使のイルカ漁批判に賛同の声続々>なんていう記事も書いている。中共から送り込まれた工作員と疑われても仕方がないだろう。

 いずれにしても、どうも生の声を取材する能力に著しく欠けているようだ。

                
                             以上 転載終わり

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 さて、それでいつものへそ曲がり、なんですが。

 田中靖人記者は新前なのか、と言うとそうではない。
 じゃ、編集長が昼寝をしていた?それも違う(だろう)。

 会社の方針転換か、記者の質の低下?
 中共から送り込まれた工作員?

 色々あげてあるんですが、そのどれかであったなら、さてどうするか、です。
 昨日今日、記者になって、突然台北支局のトップになった、と言うのなら、答えは簡単。首にすればいい。
 でも、新前ではない、工作員かも知れないけれど、長年にわたって記者としての生活を続けている場合は?

 首にするのは危険だ。逆恨みされて、あることないこと言い触らされるかも知れない。嘘でも何でも一旦情報拡散の波に乗ってしまえば、もう簡単には止まりません。
 それどころかより多くの人が波を面白がるから行き着くところまで行ってしまう。遂には嘘が事実として罷り通ることになる。
 日本はそれで苦しめられ、今も濡れ衣を着せられた状態なわけでしょう?隣国二ヶ国に。

 工作員だと判明したってしょうがない。質が低下したのを嘆いたって、それで質が向上するわけではない。
 それが新前でなければ尚更のことで、間違いなく組織にそれなりの根を張っているから、辞めさせたりすればますます社員全体のやる気が無くなり、組織に一番必要な活力と意欲が半減してしまう。
 
 これは政治だって同じです。党の方針に従わない者は、問題はあるけれど、除名などはせず、座敷牢に入れて置いて、法案の賛否を問われるときに党議拘束を掛けて置いて一票の確定票とする。
 「従わないのではなく、いつも反論ばかりする」者は「意見は聞いて置く」と言論の自由を保障する。そうすれば、言うだけ言ったから、と本人も支持者も納得する。
 
 この田中某にしたって、在台の台湾人有識者、特に李登輝前総統の考えに近い人々へのインタビューをしていくにつれて、現総統府とは違う考え方、感じ方を持っているのが台湾の何割くらいなのか、見えてくるはずです。

 無理やり変えたり、苦情を言ったり、処罰したりするのではなく、単純に「台湾の立派な人」の姿を見せるようにしていくだけで、考えは確実に変わっていきます。

 工作員と認定して切り捨てるか。
 それとも工作員であることを、自発的に辞めさせるか。
 はたまた、工作員であることを認定しても、知らぬ顔で今まで以上に大事に扱い、工作員として仕事を続けさせるか。

 いずれにせよ切り捨てるのは最悪の手段。

 当人が気付くのが最良の手段でしょう。
 接し方次第で様相は大きく変わるということ、前回のトルンペルドールや、逮捕されてからの安重根の心の変容等を思い出せば、簡単に理解できる。
 人はまっすぐな生き方、他人に敬意を払う生き方を見れば、必ずそれに感応する、そしてもっともっと力を発揮できるようになるものと思います。
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元ロシア兵のヨセフ・トルンペルドール

2020年05月13日 | 心の持ち様
2014.07/13 (Sun)

 知りませんでした。
 ユダヤ人で、「イスラエル建国の父」、と言われる人物なんだそうです。
 亡国の民としてロシアに生まれ、歯科医となったけれども、日露戦争時、国のためにと志願して兵士になったんだそうです。
 戦傷で左腕を失うも、「まだ生きている」、と再び戦地に赴き、拳銃で戦った。
 そして、旅順陥落時、捕虜として日本に連行され、ロシア兵として捕虜収容所での生活を送る。

 ところがこの収容所での日本の応対に甚く感心し、初めて「ロシア人としてではなく、ユダヤ人として生きること」を考えるようになり、ロシアに帰国後、危険地帯のイスラエルに入植。軍隊経験を活かして、イスラエル軍を組織、自衛に当たっていたが、アラブの攻撃を受けて戦死。
 その時、「国のために死ぬのは良いことだ(自分の命よりも、もっと大いなるもののために死ぬのだから)」、と言うようなことを言い残したのだそうです。

 それは旅順戦で戦った日本軍の「国のために平然として命を投げ出す」有り様と、収容所での「ユダヤ人ロシア兵も他のロシア兵と対等に扱う姿勢」、時には「敬意さえ表してくれる日本軍の姿」から、「オレはロシア人じゃない。ユダヤ人なんだ」と思うようになったのが始まりだったのだそうです。
 「人生、意気に感ず」と言いますが、国を失い千数百年も流離うのが当たり前であった民族が、或る国の心に触れ「国があるっていいなあ。国をもう一度建てることができたなら、死んだって構わない」、と国の意識に目覚める、なんてことはそうそうあることではないでしょう。

 思いました。
 国政を批判し、様々な欠点や至らぬ点を叩いて、人格の陶冶の如く国を陶冶する、というのも一手ではあります。A新聞やM新聞、M主党やK産党などはそうでしょう。
 しかしその前に、叩く人間の方に相手(この場合は国政)を「敵の大将たるものは古今無双の英雄で」と認め讃え、そして自身の全身全霊を以てぶつかっていくという気概はあるのか。見下すような目で、ただ罵倒しているだけになってはいないか。


 以下に転載するのは些か長い文章なんですが、インタビュー記事なので読みやすいと思います。
 もし、私のように何も知らなかった、という方は是非ご覧ください。(まるで吉田松陰が囚人を集めて共に勉強をしたという「野山獄」での話のようなエピソードもあります。)
 「頂門の一針」というメールマガジンからの転載です

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  私の「身辺雑記」(122)   平井 修一


             (略)

 *愛国心はいいものだ(2)

 「日露戦争とイスラエル建国の英雄」のタイトルで、エリ・エリヤフ・コーヘン元駐日イスラエル大使へのインタビュー記事があった。
(『Voice』2014年6月号)。取材・翻訳・執筆は青木偉作氏(注)である。
 副題は「真の愛国者として生きたトルンペルドールは、日本から何を学んだか」。
 とても感動的だ。要点を転載する。
               ・・・
 ・ロシアのために日本と戦ったユダヤ人

青木 日本とユダヤ社会の関係は非常に深いです。ユダヤ人にビザを発給してナチスから救った杉原千畝氏のことはとても有名です(注2)。
 でも今回のご著書『国のために死ぬことはよいことだ』で紹介しておられる、ヨセフ・トルンペルドールという人物は、ほとんどの日本人がいまだ知りません。

コーヘン 日露戦争のころのユダヤ人の存在についてお話ししますと、ユダヤ人の銀行家でヤコブ・シフという人物は、日本がロシアに勝利することを願って多額の資金援助を日本にしました。
 その一方で、ロシアが勝つために日本と戦ったユダヤ人もいます。
 それがトルンペルドールだったんです。
 同じ戦いですが、ユダヤ人はどちらの側にも存在したのです。

青木 この本をお書きになられた動機を教えていただけますか?

コーヘン ヨセフ・トルンペルドールという人物は、私の子供の時代からの憧れの人物です。
 彼はイスラエル建国のために闘った志士であり、20世紀におけるユダヤ社会における最大の英雄の一人です。
 ユダヤ人にとっては、聖書時代の英雄であるモーセやダビデ王以来の英雄ともいうべき人物なんです。
 ですから私の両親はいつもトルンペルドールのことを語り聞かせながら、私を育ててくれました。

 私は駐日イスラエル大使として、また武道やビジネスを通してなど、日本との繋がりが強い人間です。そして武道などを通じて日本の方から本当に多くのことを学びました。
 ですから私も何かイスラエルの良き精神を日本の方にお伝えしたいと思い、選んだのがトルンペルドールの生き様だったのです。
 それと、これは私もイスラエル大使として日本に滞在しているあいだに知ったことですが、トルンペルドールは日本と深い関わりがあったんですね。
 もちろん日露戦争後に捕虜として日本にいたことは知っていました。
 でもトルンペルドールが日本人と戦った体験や捕虜として滞在した日本での生活が、彼をイスラエルの建国運動に駆り立てる大きなきっかけとなったとは知りませんでした。

青木 そのことはご著書にも書かれていますね。トルンペルドールは大阪の高石にあったロシア人捕虜収容所で捕虜として過ごし、そこでユダヤ人の祖国であるイスラエルを建国するビジョンが湧いたということですが、彼は日本でどのようにしてそのようなビジョンを培ったんでしょうか?

コーヘン 当時のロシアでは、ユダヤ人が医者になることはできませんでした。
 でも歯医者にはなれたんです。それでトルンペルドールは歯医者になりました。
 ですから彼には教養がありました。それで彼は収容所でユダヤ人のみならず、そこにいたすべての兵士にロシア語の読み書きを教えました。兵士の多くは無学文盲だったんです。
 彼はユダヤ人でしたが、彼が片腕を失いながらも、戦いをやめず、拳銃だけを持って最後まで戦い抜いた、という武勇伝は広く知られていました。
 ですから他の兵士たちも彼には一目置いていて、彼は指導者として尊敬されていたので、皆彼に従いました。
 人間は捕虜生活のような特殊な状況に置かれると、その人の原点に立ち返ろうとします。そしてトルンペルドールも「真のユダヤ人とは何か」という問いを持ち始めます。そのことを追求するために、当時捕虜のなかには900人ほどのユダヤ人がいましたが、その同胞たちとともにユダヤ教の伝統的な儀式やお祭りを行ない始めます。

 本書にも書きましたが、トルンペルドールはとくに信仰熱心な家庭に育ったわけではありませんし、いわゆる宗教家と呼ばれるユダヤの掟を厳格に守ってきた人間ではありません。
 でも、その彼が中心になって、ユダヤの民の出エジプトを記念する「過ぎ越しの祭り」を捕虜たちと行ないました。その祭りに欠かすことのできない「マッツァ」と呼ばれる「種入れぬパン」を、当時神戸にあったユダヤ人コミュニティーからわざわざ取り寄せるんです。
 そのために彼は覚えたての日本語を駆使して収容所の担当者と交渉した、といわれます。
 また、それを当時の日本の政府は許可するんですね。そのようにして他民族の習慣にも理解を示して協力した日本政府もすごいと思います。

 そのような日本という国の対応からも、トルンペルドールは国というものの良さを感じたんだと思うんです。
 そして、自分たちユダヤ人が自由に暮らせる日本のような国をもちたいと思ったのではないでしょうか。
 そして、そのトルンペルドールの活動にはユダヤ人捕虜が一致協力します。

 ところが、トルンペルドールがシオニズム、つまりユダヤ民族の祖国を建国するためにイスラエルに帰ろうという声を上げたときには、多くのユダヤ人が、 「自分たちの国だって? 2000年前になくなったものを再建するなんて狂気の沙汰だ」といって反対するんです。当時の多くのユダヤ人には自分たちの国をもてるなどという考えはまったくなかったんですね。
 とくに捕虜にとっては、「自分たちはいま、極東の日本の捕虜になっているような状況だ。それに自分たちはロシア兵である。そのわれわれが2000年前に失った土地に還って、国を再建するなんてありえない」という気持ちだったんです。
 ですから、イスラエルの建国という点に関しては、ユダヤ人のなかにもトルンペルドールに反発する者が多くいました。

 でも、トルンペルドールは戦士です、武道家です。自分の信じた道をまっしぐらに突き進んだんです。そしてユダヤ人捕虜たちに祖国の必要性を訴え続けました。
 その結果、祖国の再建という志を共にする同志250人とともに、日本の収容所におけるシオニズム(イスラエル建国運動)組織を立ち上げることに成功しました。
 そこから米国のユダヤ人たちに手紙を送ったりして、「自分たちと志を一つにして、ユダヤ人国家の建国のために協力してほしい」という呼びかけをしたりするんです。

 ロシアではユダヤ人であるがゆえに散々差別されながらも、ロシア軍兵士として必死で戦いますが片腕を失い、挙げ句の果てには戦争に負けて日本の捕虜になってしまった。そのようなどん底の状態でしたが、トルンペルドールの胸の中には、「ユダヤ人の国を創ろう。そのことのために自分の身を捧げよう」という理想が燃え上ったんです。

 ・日本に対する尊敬の念

青木 国家に対するトルンペルドールの目覚めが日本で起きたということなんですね。

コーヘン そうなんです。彼は日本という国から大きな影響を受けたと思います。彼は全身全霊を挙げて戦った戦いに敗れたんです。
 日本に負けたんです。そういう意味でも日本に対する尊敬の念があったと思います。
 日露戦争の様子を伝えた当時発行されたユダヤ人の新聞に、「旅順における日本兵は、第一陣が全滅すると第二陣が続き、それが全滅しても第三陣が駆けつける。そのように屍を乗り越えて攻め続けた結果、ついに旅順は陥落した。日本人の戦いぶりは素晴らしい!」と報じています。
 それを見てもわかりますように、トルンペルドールがいた旅順港における日本軍の戦いというものは凄まじいものでした。
 彼は勇者ですから、きっとそのような日本兵の戦いぶりには、敵であっても感銘を受けただろうと思います。

 その一方で、日本は捕虜に非常に寛大だったんですね。
 収容所内では自由な活動が許されていましたし、ロシアのような宗教による差別もなく、信仰の自由が保障されていました。そして何よりも日本人は他では迫害しか味わってこなかった自分たちユダヤ人を、他のロシア人と分け隔てなく尊重してくれたんです。
 おそらく日本人のなかにも、片腕を失ったにもかかわらず戦い続けていたトルンペルドールを尊敬する心というのがあったと思います。

青木 ご著書のなかに、トルンペルドールが明治天皇に義手を賜ったという話が出てきます。

コーヘン はい。それは数年前にロシアの新聞で紹介された、ツィンマンというユダヤ人の捕虜だった人の家族の証言を基にした話です。
 おそらくロシア人捕虜が読み書きを学ぶ学校をつくったり、図書館や職業訓練所のようなものを始めたトルンペルドールの活躍の噂が収容所の外にも聞こえたんだと思います。
 それが明治天皇のお耳に入り、そのような人物ならぜひ一度見てみたいということで、明治天皇への拝謁ということになり、義手を賜ったのではないでしょうか。
 その義手はイスラエル北部のテル・ハイ博物館に展示されています。
 その後、トルンペルドールはロシアに帰国しますが、そこではロシア皇帝からも義手をもらうんです。ですから彼は二つの義手をもっていたんです。

青木 コーヘン元大使は空手家として、武道に造詣が深いとお聞きしましたが、日本の武士道とトルンペルドールに共通する点はございますか?

コーヘン 『葉隠』という本のなかに、「武士道とは死ぬこととみつけたり」という言葉があります。つまり武士道というのは、大いなるもののために生命を懸けるということだと思います。
 かつて日本人は自分よりも大いなるもののため、つまり祖国のため、天皇陛下のために生命を懸けて生き、死んでいきました。
 それはトルンペルドールの最期の言葉、「国のために死ぬことはよいことだ」という思いに通じると思います。
 日本で捕虜になる前は、他の多くのユダヤ人と同様、トルンペルドールにはユダヤ民族の祖国という思いはありませんでした。
 彼にとっての国はロシアでした。ユダヤ人であるというだけで虐げられるロシア。
 それでも彼はユダヤ民族としての名誉に懸けて、ロシア兵として懸命に戦い続けました。片腕を失っても戦い続けました。

 しかし、敗れて日本で捕虜になった。その日本で彼は国、祖国ということに目覚めたんです。それは事実です。
 実際、彼はユダヤ人の建国運動を日本で始めたからです。それが日本の武士道や日本という国の姿の影響であることは明らかです。
 なぜなら、それ以前のトルンペルドールにはそのような発想はありませんでしたから。彼はロシア兵ですから、捕虜の期間を終えたらロシアに帰国することはわかっていました。でもそこからイスラエルの地に帰還して、建国運動を始めるんだ、ということがハッキリしたのです。

 ・生命を懸けて国のために戦う気概

青木 イスラエルの地で、アラブ人との戦いの末にトルンペルドールは戦死するんですね。

コーヘン そうです。当時はトルンペルドールのようなイスラエル建国の理想をもった人びとが、まだ少数でしたが当時イスラエルの地を支配していたトルコ帝国から土地を買い、イスラエルに住み始めていました。
 ただその運動はまだバラバラで、それぞれが思い思いの場所に土地を買い、開拓に従事していました。多くの人は、イスラエル中部の比較的安全な場所に住むことを希望していました。誰も北の辺境の地に住もうなどとは思いませんでした。

 しかし、トルンペルドールはあえてイスラエル北部のアラブの遊牧民等が多く住む、無法地帯と思われるような場所を選びました。当時は多くのユダヤ人がその場所を重要だとは思いませんでした。危険な場所で、身を危険に曝してまでそのような場所を守る必要はない、と考えていました。
 ところが、イスラエルが建国されてみてわかったのですが、そのイスラエルの北部には、イスラエルには欠かすことのできない水源があるんです。その水があるから、私たちイスラエル人は生活できるんです。
 トルンペルドールたちが命懸けで守ってくれたおかげで、イスラエルは貴重な水源を確保することができ、いま私たちはイスラエルで生活することができるのです。
 あのときトルンペルドールがその地にこだわることもなく諦めていたら、貴重な水源はいまごろシリアやレバノンといった危険な国の支配下に置かれ、イスラエルは存在することができなかったでしょう。
 当時、トルンペルドールがそこまで見通していたかどうかはわかりませんが、彼は異常なまでにその場所にこだわりました。そしてそこでアラブ人との激闘の末、戦死しました。

 アラブ人がテル・ハイに侵入してきたとき、トルンペルドールは、「エッシュ(撃て)!」と叫びました。
 その言葉こそが、それまで各地で迫害され苛められ、まさに防戦一方だったユダヤ人の歴史から、国を守るための戦いに立ち上がるきっかけとなったんだと思います。

 イスラエルは紀元70年、いまからおよそ2000年前にローマ帝国との戦争に敗れました。イスラエルのマッサダという要塞には、970人の者が立て籠もって、最期まで抵抗を続けました。
 3年間籠城しましたが、やがて力尽きて陥落します。
 いよいよローマ軍の侵入が不可避となった前夜、立て籠もっていたユダヤ人たちは、降伏してローマ人の奴隷になるよりも民族の誇りを守るために死を選ぼう、といって全員が自害します。
 それ以来、ユダヤ民族は世界各地に離散し、国をもたない流浪の歴史を
2000年間続けてきました。
 そのとき、ユダヤ人が失ったのは国だけではありませんでした。マッサダの兵士たちは民族の誇りを守るために自害していきましたが、ユダヤ人はその戦いに敗れたことで、民族のために戦おう、国を再興しようという気概まで失ってしまったのです。

 しかし、20世紀の初頭に現れたトルンペルドールが「エッシュ!」といった瞬間、私たちユダヤ民族が2000年間忘れていた民族のために戦う気概が呼び覚まされたのです。彼が最期に、「国のために死ぬことはよいことだ」という言葉を残したことによって、ユダヤ人の中に「生命を懸けて自分たちの国を創り、その国のために戦うんだ」という思いが明確になったのです。

 トルンペルドールがイメージした「国」というのは、明治のあの時代の日本のことだったかもしれません。彼は日本で捕虜になって、初めて「ユダヤ人の国を創りたい」と思ったんですから。
 それ以前の彼は、シオニスト(イスラエル再建を理想とする人びと)ではありませんでした。

 もちろん、彼個人にはユダヤ民族の名誉と誇りのために戦うという気概はありました。反ユダヤ主義の強いロシア軍に志願して入隊し、片腕を失ってでも「ユダヤ人として笑われない生き方がしたい」と願って前線に戻って戦い続けたんですから。
 しかし、彼の中に「ユダヤの国を創りたい」という願いが湧き起こったのは、日本との戦争や捕虜時代を通じて、日本という国に触れてからです。

青木 日本人も先の大戦に敗れて以来、戦う気概というものを失ってしまっているように感じます。いまの日本を見て、トルンペルドールはどのように感じられると思いますか?

コーヘン それはわかりません。でも、私は駐日イスラエル大使時代に、忘れられない思い出があります。それは大阪の浜寺に行ったときのことです。
 そこにユダヤ人のお墓があると聞いて、私は参りました。そこで私が知ったのは驚くべき事実でした。
 それは第二次世界大戦後、誰のものかもわからない、荒れ果てていた外国人のお墓を、日本の方々が綺麗に整備してくださっていたんです。
 ユダヤ人のお墓だけではありません。日露戦争後に捕虜になって収容所で、亡くなったロシアの兵士たちの墓が、まるで彼らの遺族が墓参りをしたばかりのように、綺麗に整備され、花まで手向けられてあるんです。
 そのために地元の方は組合のようなものを組織して、それらのお墓を60年以上も守り続けてくださっているんですね。ですからその組合のなかには、90歳以上の方もおられました。
 こんなことは世界中どこを探したってないと思います。
 ですから、私は会う人会う人にこの日本で見た信じられない光景をお話しします。
 すると皆さん一様に、「そのようなことができるのは日本人だけだ」といわれます。
 先日もロンドンでお会いした英国人のビジネスマンにその話をしましたら、「信じられないことだ。掃除ぐらいはするかもしれないけど、組合を組織してまではしない……」といって驚かれました。

青木 トルンペルドールから日本人が学ぶことはたくさんあると思います。

コーヘン ええ、私自身、トルンペルドールの人生、その生き様からたくさんのことを学びましたから。日本の方からよく、「どうやったら愛国心教育ができるのか」と聞かれます。
 トルンペルドールは愛国者としての模範的な生き方をしました。
 イスラエルではいまでも多くの小学生や中高生が、トルンペルドールが最期の戦いをしたテル・ハイにやって来ます。その場所に立ち、トルンペルドールの生き様に想いを馳せるとき、子供たちのなかから、自ずと国を思う心、愛国心というものが醸成されてくるんですね。
 トルンペルドールは、真の愛国者とは自分よりも大いなるもののために、この身を捧げて生きることである、ということを言おうとしたんだと思います。
 きっと明治時代の日本人が自分の命も顧みずに、国のために、天皇陛下のために生きる姿から学んだのかもしれません。

 トルンペルドールは(武器にも農具にもなる)鉄の塊の例えをもって、祖国のために生きる自分の姿を表したのです。実際、彼はもともと歯医者ですから医術の心得もありました。しかし、志願して兵隊になり、国のために戦いました。また、イスラエルに帰還してからは、農夫として建国のために農地の開拓にも従事したのです。
 「愛国者とはこうあるべきだ」という以前に、自分自身で身をもって生き方を示したのです。
 ですから人びとは彼を信じ、彼に従っていった。そして彼のその志は引き継がれ、彼の死後30年がたって、ついにイスラエル国が誕生したのです。
                    (以上)
               ・・・
 まったく泣ける話だ。愛国心はいいものだ。テル・ハイがイスラエルの聖地なら、靖国は日本の聖地だ。
               ・・・

注1)青木偉作氏:1965年、東京都生まれ。イラスエル国立ヘブライ大学社会学部政治学科卒業(イスラエル政治専攻)。日本の大手新聞社のエルサレム支局記者助手を経て、現在はヘブライ語翻訳家、ユダヤ文化研究家として活躍している。

                  (以下略)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 長くなりましたので、私の作文はなし、です。
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