CubとSRと

ただの日記

損得で考える

2020年05月12日 | 重箱の隅
2014.07/08 (Tue)

 前回は「社会批判に走る」のも、「儲かるからとしつこく下らないことを繰り返し報道する」のも、ホント、誇りはないのか、と書いて終わったんですが、このマスメディアの「儲かるから」の内訳は一体どんなことなんだろうということを考えてみました。
 「儲かる」。損か得か。
 最終的にはお金に換算できるかもしれないけれど、実際はそこまでいかなくて、「この方が都合がいいんじゃないか」、とか「こっちの方が後々有利だろう」という計算です。
 何のことはない、どこにでもある「駆け引き」「やり取り」と同じ。それも、商取引の色が濃い。

 だから、「情報は金になる、商売じゃないか」と割り切れば、報道して商品(新聞、雑誌、番組)などが売れることで儲かる、報道しないで商品を売らないことでこれまた儲かる。これは美味しい。

 そこに目をつけて「そのニュース流さないでよ」と言われてお金を受け取る。
 反対に、「これ、流さないでおきましょうか?」と取引を持ち掛ける。
 「これ、宣伝してよ、それとなく」、でお金を受け取る。
 反対に、「宣伝しましょうか?それとなく」、と持ち掛ける。
 「流すなよ。分かってるだろうな」というのもあれば、「流せよ。分かってるだろうな」というのもある。
 お金が動く場合もあれば、圧力(脅迫)がかかる場合もある。
 脅しがかかるだけの場合もあれば、交換条件を提示される場合もある。

 「社会の木鐸たれ」と言う言葉は
 「正論を吐くのがメディアの仕事。圧力に屈しちゃいけない」
 というのが本来の意味なんでしょうが、現実には自らに対し「損得勘定で動くな」と言い聞かせることでしょう。
 しかし、それを実行すると何だかうすっぺらな建前だけのきれいごとばかり書いているように「見える」。

 産経新聞なんかそうでしょう?巻頭言「産經抄」の奥行き、広がりなんか、「天声人語」の足元にも及ばない。
 けど、「正論を吐こう」「社会の木鐸たらん」とすれば、生硬になり、薄っぺらにならざるを得ない。理性のみで書こうとするのですから。
 感情を基に、知識を己が教養として披歴する「天声人語」と、巻頭言を社説の一形態とする「産経抄」では、その名称からしてスタンスが全く違います。結果、産経の社説はアサヒのそれと比べてはるかに質が高い。感情が基になって言葉を弄ぶだけのアサヒの社説は論理性に欠ける。

 新聞の何たるかを福翁から教わった通りに展開しようとする産経。
 Wikiによると明治14年、政府の広報活動をすることを隠された目的として東京に進出したアサヒ。
 現在までの両社の在り様を見れば人柄ならぬ社柄が見えてきます。

 産經新聞の、自社関連広告満載の表面だけを見て
 「何だ。口だけか。結局、儲けたいんだな」
 と評するのは、だから実は当たらない。自社なりの正論を吐こうとすれば、社の方針と違うものを広告しにくくなるし、広告依頼も少なくなる。

 脱線しました。損得の話に戻ります。
 さて、でもこんなの、引き受けるか受けないか、は大方は新聞やテレビ、週刊誌等のメディア側の判断です。判断基準は、「損得」、です。
 「金がもうかる」、「取材がしやすくなる」等は「得」。
 「痛い目に遭う」、「取材拒否される」、「広告料が取れなくなる」等は「損」。
 「会社潰してやる」って脅された、本当に潰されたなら大損だけど、対立する組織に情報流したら、潰れるどころか大儲け、なんてこともある。
 逆にメディアが
 「これ、出されたら、オタク、困るんじゃないですかぃ?」
 なんてゆすりを働くこともある。
 ネタになるなら捏造だってする大新聞社だってあるでしょ?どことは言わないけど。

 セクハラ発言や、カラ出張問題をニュースとして採り上げるのは、他の何かから目をそらすためにやっていることですよね、おそらく。
 他のこと、って何だろう。

 となると、一番に思い出すのは、あれらの問題で全くマスメディアが採り上げなくなった事柄。
 「河野談話検証」。「日韓首脳会談」。 そして、「米軍慰安婦訴訟」

 意図的に隠そう(隠蔽、ですね)としている可能性はあります。
 けど、そこで「金が動いたか」「脅迫されたか」「交換条件だったか」「甘い汁か」などなど色んなことを考えないで、ただただ「反日メディア」「売国奴」で括って、「メディアだけが悪者だ」、って決めつけたってしょうがない。

 本当の問題はメディア独自の判断で、目を逸らさせようとしたのか、社外のどこかから指示があったのか否か、です。
 繰り返しますが、メディアは、儲かれば何でもします。
 先日のアサヒの広告欄の週刊誌広告伏字事件。大問題になったみたいで、すぐおさまりましたよね?不思議なことにアサヒのお詫びがでかでかと出た様子もないし、伏字にされた週刊誌側も裁判だ!と息巻いた様子もない。ブログで「あれはヤラセだ」とか「最初からそういう計画だった」と推測している方もありましたが、大体そんなところだったんでしょう。

 「メディアは、儲かれば何でもします。」
 だから「潰してしまえ」、だけじゃあしょうがない。そうそう簡単には潰れません。というより潰してはいけません。それでこそ民主主義の国だと世界は思います。
 それに反対のことを言うメディアもある、ということを世界中に知られることも大事なことです。以前に書いた「最大の敵は身近に置け」とも一脈相通ずるところがあります。

 さて。というわけで、
 NHKを初め、マスメディアを潰すのは容易ではない。乗っ取る方がまだましだ。
 でも、乗っ取るのだって容易ではない。
 では乗っ取らずとも言うことを聞かせられるようになればいいではないか。
 でも、言うことを聞かせるというのも容易ではない。
 
 ここで、発想の転換。量質転化なら何とかなるのではないか。
 「いうことを聞かせる」、という圧力方式は、料理じゃないんだから、人間には使わない方が良い。
 それは脅迫でなければ「洗脳」ということにしかならないんですからね。
 北風を吹かせて、力づくでコートを脱がさせようとしたって駄目。
 また、いつの間にか考えが変化しているという洗脳は、当人の心に障害を持たせることになるからダメ。

 じゃどうするかというと、主体的に考えを改めていく。これしかないでしょう。
 「主体思想」と書いたら「なに?チェジュ思想だと~っ?」って怒り出す人(チェジュ、ではなくチュジェですよ)がいるかもしれませんが、あれと一緒にしないように。
 「我思う。故に我あり」、です、誰も代わりに考えちゃくれませんし、自分の身の振り方、考え方なんて自分のことだから自分で、という「自由」は持つべきです。

 それで他人に、言うことを聞かせるには?
 「マスメディア」という「損得」でしか物事を考えない組織に、言うことを聞かせるには?
 それは膨大な量の視聴者、或いは購読者の意見伝達しかないでしょう。
 早い話が同じ観点からの意見表明です。Fax、手紙、メール、ブログ等々。

 単純に
 「私は日本人だから、よそからバカにされたり侵略されたりするのにはとても耐えられないんです。」
 これ以上の共通点を今のところ見つけ出すことができません。
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「そんなの基本だろ」、と言われてもね、知らないんだもの。

2020年05月12日 | 日々の暮らし
2014.07/07 (Mon)

 妙な言葉遣い、というのは、結構、話題になる。

 電話を掛けてきた相手に
 「どちら様でしょうか」
 と問うべきところを、慌ててメモを取ることにばかり気が向いて、ほんのちょっと言い間違えて
 「なに様・・・(でしょうか)?」

 言い間違えたんなら、上司から叱られて、自分も、
 「何でこんな言い間違えをしてしまったんだろう、オレって奴は。情けない!」
 なんて落ち込む。
 で、立ち直る努力も自分持ちだから、ヤケ酒飲んで一件落着。
 電話番なんかしたことなけりゃ、新入社員だって三年くらいまでは、こんな思いもよらないポカをやる。

 でも、
 「要は中身だし、そんな細かいこと、ごめんなさいで終わり!」
 って考えて生きて来た者は、
 「知らない自分より、細かいこと言う社会を改革すべき!」
 なんてことになるんですよね、往々にして。
  「オレは悪くない。こんな社会が悪いんだ!」
 ここが「謙虚から深化、発展」となるか「自己主張から社会批判へ」となるかの分かれ道。保守と革新の違いです。

 何気なく発した「問題発言」というのがしょっちゅう世間を賑わせています。
 今もそうですね、「早く結婚しろ」とか。「産めないのか」は捏造だったみたいですけどね。
 揚句に今度は「また自民が」、と採り上げられていたけど、何のことはない、四月の話。時系列が無茶苦茶です。

 何でもかんでも「問題だ~、もんだいだぁ~」とメディアは騒ぐ。
 それで衆目を惹き付ける。
 新聞だって雑誌だって売れれば儲かる、視聴率が上がれば番組が高く売れる、CM料がバンバン入ってくる。

 だから面白いとなったら、世間の顰蹙を買うまでしつこくやる。それぐらい品がないんです。
 でも、言い間違いや、知らずに間違えたことを言ってる、なんてこと、メディアだって、いや、メディアだからこそ山ほどやってるでしょう?「天皇家」なんて平気で言ってるじゃないですか。「天皇家」なんかないのに。
 メディアだって人間の集合体で、賛否両論ある、あの名コラム「天声人語」程の文章を書けるほどの人はそうそうはいない。その「天声人語」だって、日により、筆者によって出来不出来がある。

 で、何が言いたいかと言うと、
 「細かいことでつべこべ言うなよ。いっぺん言やあわかることはいっぺんにしとけよ」
 ということなんです。
 ただ、忘れた頃にまた思い出す。それでいいじゃないか、と。天災と同じです。
 「天災は忘れた頃にやってくる。だから『時々』思い出して気をつけよう」
 それでいいんじゃないでしょうか。

 犯罪でもないのに声紋鑑定までする、嘘と分かっているのに出張の記録を表にしてテレビで大写し。
 「おかしいですねぇ、特急が運休している時にも出張している」
 だから分かり切ってることでしょう?あのファビョル会見見たら。
 次の選挙で落とせばいいだけのことじゃないですか。

 いっぺん言やぁわかる。いっぺん聞きゃぁわかる。忘れそうな時期に思い出してみる。
 思い出せなくてまた失敗したら、また反省して「今度は気を付ける」。
 その繰り返しをして育ってきたんじゃないんですか?誰だって。

 「そんなの基本だろ」、と言われてもね、初めは誰も知らないんだもの。
 聞いて、それでも失敗して、又聞いて。
 それで社会って発展するものでしょう?

 その時に「社会が悪いんだ!」と発狂するのも、いつまでも「儲かるから」としつこくしつこく繰り返すメディアも、人としての誇り、ないんでしょうかねぇ~。

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保守であればあるほど改革は進む

2020年05月12日 | 日々の暮らし
2014.07/05 (Sat)

 見方は変わる。本人の心がけ次第で大きく変わる。
 事実は一つだけれど真実は無限にある。
 何故なら当人の品性、精神、境地等によって見えるもののそれぞれが、当人にとっての真実なのだから。卑しい心根のものには卑しい世界が展開され、ひねくれ者の前にはネジくれた世界が広がる。不平不満の塊には世の中は文句だらけ。
 だから(?)、日記が書けなくて困ってました。
 そこへ社報「靖國」の七月号が届きました。

 早速拝見。
 今月の寄稿文は合田道人(ごうだみちと)さんと仰る作家・歌手の方でした。
 「平和への礎を築いた神々~私にとっての靖國~」という題でした。
 いつものことながら、「靖國」は拝読していると、よく泣かされます。
 今回も、です。
 でも、今回は国のために命を捧げられた先輩方の話ではありません。
 その人の心の持ち様で、世の中はどんな風にでも開けるのだ、ということです。
 今回は特に長いので、本当に一部だけ転載をさせていただこうと思います。

 合田氏は、以前より、「みたままつり」の時期に行われる「奉納歌謡ショー」の構成・司会をされているのだそうです。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  「平和への礎を築いた神々~私にとっての靖國~」

          )

  教えられた神職たちの力

 今思い起こせば、最初のうち、私にとってここはひとつの仕事場であり靖國神社の存在は、戦争で亡くなった人が祀られる場所でしかなかった。
 どちらかといえば、世情のとおりに、”反戦”をイメージした歌謡ショーの構成を組み、集まってくれているお客様たちのために、無料で懐かしい歌を聴かせるのが役目だと信じていた。

 当然、大東亜戦争という呼称は、我々の時代に学校で教わるものではなかった。
 太平洋戦争であり、第二次世界大戦だったし、支那事変は日中戦争だった。満洲という地名も、放送では使えなかった。
 そして戦争で亡くなった人は、みな犠牲者だと思っていた。

 まだ当時は80代後半になっても元気だった塩まさるさんの「九段の母」の前奏にのせるイントロナレーションも、
 「万歳万歳と送り出し、お国のためとは言いながら、白木の箱で帰る息子を、心底喜ぶ母などはいるはずがありません。二度と戦争が起こらぬようにと願いを込めて、九段の母、86歳、塩まさるさんを迎えます」
 、などとやっていた気がする。

 さらに「さとうきび畑」の♪ざわわざわわ・・・をこの歌を最初に歌った田代美代子さんに歌ってもらったりした。
 これはこの世に生を受けたときに、その父親は沖縄戦で命を落としていたという女性が主人公の歌である。
 ♪お父さんどこにいるの・・・、♪お父さんて呼んでみたい・・・という歌詞である。その構成には当日まで誰も口を挟まなかったし意気揚々と私は舞台を進めていたのだ。

 そのあとの直会(なおらい)のときである。先輩歌手たちはひとりずつ社を後にしたのだが、まだ若かった私は最後まで残っていた。
 そのうち周囲には、靖國の当時の若手神職たちだけとなった。同年代の神職たちと直会を続け、盃を酌み交わしながらいろいろと話をした。そのときに、この神社のありかたを私は知った。いや、教えられたのである。

 私はこの場所に何をしに来たのだろうか?その根本を考えさせてくれた話だったと思う。
 自分で驚いたのは、ここで歌っているのは誰のためでもない、祀られている神様のために歌っていることに気付いたことかもしれない。
 奉納ショーなのだ。

 その奉納の神に向かって、
 「お国のためとは言いながら、白木の箱で帰る息子を、心底喜ぶ母などいるはずはありません・・・」
 でいいはずがない。
 まるで神々に向かって
 「あなたたちは、こんな場所に祀られずに帰ってこなきゃいけなかったんですよ。」
 とでも言っているようなものではないか。

 ♪神とまつられ もったいなさよ・・・と歌われる、神となった人々はどんな気持ちで戦いの場へ歩を進めていったのだろう。
 きっと母のため家族のため、ひいては日本のために自分が戦場に向かうことの必要性、勝利を得ることでの戦争の終結、そして平和への道。
 それは決して犠牲などではない。新しい世の中を作るための本当の気持ちだったに相違ないのではないか。
 そんなあたりまえのことを、いや一番大切なことを教えてくれたのがこの場所であり、今では親友になった神職たちだったのである。

 ある意味、私がその後「神社の謎」を書くきっかけを作ったのは、彼らの力だったかもしれない。それこそが導きだったと最近よく考える。
 私にとってここはまぎれもなく現在の平和への礎を築いてくれた人々への感謝の社なのである。

             (略)

 子供たちとあの「さとうきび畑」を一緒に歌った年があった。
 以前、田代美代子さんに歌ってもらったときは、戦争の悲惨さをあの場所で表現してほしいと思い歌ってもらった。
 お門違いも甚だしかったわけだが、子供たちの前では違う意味を持って歌った。
 それは幸せな平和を作り上げてくれた神々への感謝の”ざわわ”だったのである。
             (略)

 もしかしてあの直会で彼らが意見してくれなかったら、私はどう生きてきたのだろうか?
 彼らにとっても”お役目”を誕生させるための”お役目”が命じられていたのだろうか。
 ”みたままつり”の能楽堂の舞台の日が、今年も迫ってきた。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 これは「夕刻の備忘録」氏がいつも書かれていたことでした。
 保守とは、当たり前のことを淡々と、やることなのだ。
 淡々と誠実に取り組む毎日こそが大事なのだ。
 そこには不都合を社会のせいにする卑怯さはない。

 当たり前のことを当たり前に取り組む。そして一切手抜きはしない。
 お座なり、なおざりには決してしない。
 だからこそ工夫すべきことが見つかり、それを改善しようとすることになる。
 つまり保守であればあるほど、改革は進む、向上し続ける。

 逆に革命を、革新を標榜するものは、不都合を社会のせいにし、工夫すべき、改善すべきことを見つけようとせず、まず破壊、破棄を目指す。
 革新を望む者ほど、社会の恩恵を受けながら、社会を否定し、実行の伴わない革新を夢見る。

 その人の歴史を見れば、その人の考え方、在り方が分かるのだから、大まかな「彼の来し方」を見ればいいのではないか、と以前、書きました。
 「事実を見ることで事実を考える」
 のではありません。
 「事実を見ることで真実を読み取る」
 のです。
 その「真実」は、読み取る人の品性、精神、境地によって、無限にあります。

 では、社会に在って、社会の一員である我々は、「真実」をどのように読み取るか。
 品性も精神も境地も様々な我々だけれど、ただ一つ共通していることは、みんな「国」という社会に属しているということです。
 だったら、国を根っこにして考えるのが当然だし、それ抜きにして考えることなど、意味のないことだと言えるんじゃないでしょうか。つまり「世界市民」等笑止、ということです。国が初め、です。
 主権がある、選挙権がある云々のことではありません。

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軽率

2020年05月12日 | 心の持ち様
2013.10/02 (Wed)

 ちょっと脱線。

 「是々非々」を、ポイント制のポイントか、データ重視の各個別データと同じように、考える(というより、思っている)のが一般的になっています。
 
 けれど、ポイントやデータの合計が結論の掩護にはなっても、結論そのものにはならないように、是々非々の集約だって結論そのものにはならない筈です。

 なのに、一つの是、一つの非が結論そのものになったりしている。
 これは私がよく書いている「一事が万事」とは違います。
 「一事が万事」は「一事」を以て「万事」を推するのであって、「是々非々」は個々に完結しているのですから。

 「一人殺された。殺されたという事実は明らかなのだから、大虐殺はあったのだ」、というのはおかしいでしょう?


 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 (ここから転載です)

 しかし、ここで一つ注記しておきたい。
 民主党がこの国から消滅せんとしている今に至っても、まるで方向違いの方角を向いてなお、「売国奴」云々と主張し続けている人達がいる。
 そもそも「売国奴」とは人に属する言葉であって、行為に属するものではない。 「何々をしたから売国奴」「何々をしなかったから売国奴」というような話ではないのである。
 にも関わらず、「TPP交渉に参加したら売国奴」と叫ぶ人がいるようで、呆れているのである。

 「売国奴」と「愛国者」に関しては、何をやっても何をやらなくても、その評価は変わらないのである。それがこの二つの言葉が「究極の人物評価」である所以である。
 売国奴認定を受けた者は、少なくともその国に住む資格は無い。スパイならスパイらしく、自ら匿ってくれる国を求めて出て行って貰うしかない。

 売国奴は何をやっても売国奴であって、それがたまたま国に益することをしたところで、やはりその評価は変わらないのである。
 すなわち、売国奴に「是々非々の評価」など存在しない。是々非々が通用するくらいなら、それは元より売国奴などではない。精々が「人間のクズ」程度の話である。

 それが故に売国奴認定された者は、この国で生きる資格が無いのである。
 第一、スパイは何故にスパイであるか、如何にしてその仕事を達成するかといえば、「善いこともする」からである。見た目もスパイ、やることなすこと敵の工作員丸出しでは、如何なる仕事も為し得ないだろう。
 したがって、是々非々は通用しない。「彼奴もたまには善いことをするなあ」という感慨は有り得ないのである。

 同じことが「愛国者」にも言えよう。
 真に国を想う者は、周囲の雑音にも迷わされず、大所高所から国のために働き、そこに一命を賭ける。彼等は目先の反対、視野の狭い批判には目もくれず、国家の永遠の繁栄を願って邁進する。
 上辺だけを見て、やったやらないという目先のアクションだけを採り上げて、大騒ぎすることは決定的に間違っている。それが人間の信用というものである。

              (略)

 スパイ行為を完遂させるために主張する正しさに目を奪われて、「たまには善いことを言う」だとか、より単純に「見直した」だとか、善人丸出しに言っている人を見ると、その同じ口で、愛国者の辛辣さ、容赦無さに耐えきれず、愚痴を零すのだろうな、と容易に想像できる。

 第一次安倍内閣では、「靖國参拝を政治的に無効にする」ために、自らの参拝を明言しなかった。要するに、恒常的な参拝を可能にするために、敢えて焦らし作戦を採り、参拝に言及しなかったのである。
 すなわち、参拝をするために参拝をしなかったわけである。

 それに対して、自称保守派の評論家達が何と批判したか。
 「誰よりも酷い、信用させておいて裏切ったのだから、今までの誰よりも酷い」と叫ばんばかりに訴えた人物が、今なお重鎮を気取っている。それこそ安倍が感じたことだろう。こんな簡単な理窟も読めないのか、こんな仕掛けも見抜けずに何を騒いでいるのか。
 「誰よりも酷い」と嘆きたかったのは安倍の方である。彼等もまた、目に見える行為のみに引き摺られて、人間の本質を見ようとしない愚物である。 

              (略)

 その時々の行為に対して、全貌を知り得ない人間が、自分の尺度を頼りに是々非々を主張し、あれをすれば売国奴、これをしなければ売国奴と「行為の評価」に必死になっている姿には、呆れるばかりである。
 何故なら、そういう人達の主張は最終的に、事の成り行きとは無関係に、自分の気に入らない人間に向けて、自分の思いと異なる結果に対して、ただ「売国奴」と言いたいだけだからだ。

 そもそも「善いものは善い、悪いものは悪い、として選んでいけばいい」などと公言する人の、自分自身に対する「無限大の信頼」は一体何処から沸いてくるのか。
 どうして、自分が神をも凌ぐような「善悪の判断者」として君臨できると信じられるのか。

           (以下略)

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 さて、遂に10月1日。

 今夕、安倍総理は来春から消費税を8%に増税することを表明しました。
 これで安倍総理は売国奴認定されるわけですか?
 売国奴認定して、それからどうしますか?

 日本に残された時間は僅かになりました。「真の愛国者」の総理が出てくるまで、また毎年、総理を替え続けますか?
 運を天に任せて?


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集団的自衛権のミカタ

2020年05月12日 | 心の持ち様
2014.07/02 (Wed)

 今日の日記は当然、「集団的自衛権」で決まりでしょう! 

 ・・・・・・と思って、朝からテレビばかり見てたんですけどね。
 何しろ、「今日、集団的自衛権について閣議決定する」、って、みんな昨日から随分宣伝してましたからね。実際、今日は各局、朝も昼も夕方は当然、閣議決定の話題を挙げてました。

 で、夕方、6時から安倍総理の記者会見があったんですが、どんな内容かはもう粗方分かってたわけだし、何だか気が抜けてしまってました。
 いや、ちゃんと録画して、見ましたよ、NHK。でも、気が抜けて、のままで見ました。
 だって今日までに聞いた各局の番組でのコメントが、
 「大変だ、これは60年目の大転換なんですよ。それを改憲でなく政府の解釈を変えるだけ、みたいなやり方でいいのか!」
 、みたいなのがあるかと思えば
 「戦争をしたくないのに戦争をすることになるかもしれないんでしょ?」
 みたいなのとか、中には
 「アメリカの軍艦で日本人を護送する、なんてあり得ないことを言ってる」
 或いは
 「間違って発砲して、攻め込まれる可能性が高くなる」
 なんてのも。

 「96条を変えようとしたら反対が多くて諦めて閣議決定しようとしてるんだけど、こんな大事なことは正面から、九条から、しっかりと議論すべきでしょう。私は九条を変えることは大反対ですけど」というコメントも。
 ・・・? じゃ、ダメじゃん。
 「無防備でいれば、八方破れでいれば、(世界中が見ているから)相手が攻めて来れない」、なんて分かったようなことを言う人もいた。

 え?
 「お前も言ってなかったか?」
 って?
 言ってませんよ、そんなこと。
 確かに福沢諭吉は知り合いの軍学者に、「(遣えもしない大太刀を)これ見よがしに置くのはやめた方が良い」と言ってます。
 しかしそれは虚仮脅しをすると、却って自身に油断、隙ができるから、一層危険だ、ということです。何も丸腰でいろ、と言っているわけではない。
 刀は持っていて、下手なりにでもコツコツと稽古は続けて置くこと。軍学者たる者、そんなことは当たり前ではないか。それをせずに大拍子に生きるなら、命がいくつあっても足りないぞ、と。
 坂本竜馬を見てください。「もう、刀の時代じゃない」、と護身用に拳銃を持ってたけど、一太刀で斬殺されています。
 桂小五郎を見てください。練兵館の塾頭になるほどの腕を持ちながら、「逃げの小五郎」と揶揄されても戦わず生き延びて、新政府の巨頭になっている。

 伝家の宝刀は、いつでも抜けるように手入れをしておき、自身それを遣える腕を磨き続けてこそ「伝家の宝刀」、でしょう。飾るだけの宝刀、遣えない宝刀を持つことは却って危険度が高くなる。
 そして「伝家の宝刀は抜かぬもの。」
 いつでも抜けるようにして置くんであって、抜けない、んじゃない。針金なんかで鞘止めしちゃ、ダメなんです。

 国の「伝家の宝刀」は?国民の意志じゃないでしょうか。
 そして、それを十分に生かせる、工業力をはじめとする生産力(産業すべての)が、遣いこなす腕、です。そのごく一部が軍事力。
 ところがこれを「持っててもいけないし、遣ってもいけない。」
 そういうことになってる。それがおかしい。それが「侮日」に直結する。

 でも、現実には日本には軍事力があるし、自衛隊の練度も高い。
 だから、挑発はするけれど決して実弾は撃って来ない。

 取り敢えず解釈を変えて、
 「遣えるけど、『いざという時以外は』遣わない」
 と言えば、
 「『いざという時』って????」
 と他国は疑問を持つ。
 聞いて来たら答える。
 「それは秘密です」
 これを抑止力、って言うんでしょう。
 そしてダメ押しに
 「しかし我々は敗戦後、ただの一度も内戦、紛争を起こしていない。当然、外国への武力行使もない。これが誇りだ」
 、と言う。

 「いやいや。専守防衛で十分だ、やられたらやり返せるんだ」
 って言うけど、相手はやったら必ず言うでしょ?
 「ああ、これは事故だ。殺す気なんか、全くなかった」

 やられたんじゃない、事故なんだから、やり返せない。
 ・・・でしょ?

 そうして置いて、相手はまた、やるんですよ。
 「ああ、すまんすまん。ミサイルが誤作動起こしてしまったんだ。決して日本に核ミサイルを撃ち込もうなんて思ってなかった。トラスト、ミー」
 或いは
 「あまりの緊張に精神に異常をきたした者がボタンを押してしまったんだ。すぐに軍が逮捕し、処刑したから。ごめんね、ごめんね~!」
 やられたらやり返す、ってそういうことです。
 あの世に行ってるのに、やり返せないでしょう?
 そんなバカな、と言ったって、相手が「間違いだ、あれは事故だ」、と言い張っている限り、報復できない。何より死んだ人は生き返らない。

 集団的自衛権というのは「やられた、間(かん)、髪(はつ)を入れずやり返す」体制だから、「あ、ごめんごめん。あれは事故だ」と言い訳をする間もなく同盟国が反撃する。
 そういう建前になっていて、そういう建前になっていること自体が大事だ(抑止力になっている)、ということ。それがあるから、見え透いた嘘をついて言い逃れるなんてことができにくくなるということ。
 そういう駆け引きや、心理戦が重要であることを、マスメディアは本当に分からないのだ、なんて信じられますか? 

 「余命3年時事日記」にあった海底ケーブルソナーの話、あの機密情報資料が、民主党政権の時、大量に廃棄された。それが韓国経由でシナにわたり、解析が終了したと推測される時期と、シナ海軍の活動が急激に大人しくなった時期とが符合することを考えれば、そういうことが、そんなちょっとしたことこそが、多くの人命を左右するのだということがぼんやりとながら見えてきます。
 「戦争をしたくないのに戦争をすることになるかも」なんて心配は、全くの的外れ。 
 却ってその正反対です。「戦争をしたくないから集団的自衛権を!」



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