2014.07/08 (Tue)
前回は「社会批判に走る」のも、「儲かるからとしつこく下らないことを繰り返し報道する」のも、ホント、誇りはないのか、と書いて終わったんですが、このマスメディアの「儲かるから」の内訳は一体どんなことなんだろうということを考えてみました。
「儲かる」。損か得か。
最終的にはお金に換算できるかもしれないけれど、実際はそこまでいかなくて、「この方が都合がいいんじゃないか」、とか「こっちの方が後々有利だろう」という計算です。
何のことはない、どこにでもある「駆け引き」「やり取り」と同じ。それも、商取引の色が濃い。
だから、「情報は金になる、商売じゃないか」と割り切れば、報道して商品(新聞、雑誌、番組)などが売れることで儲かる、報道しないで商品を売らないことでこれまた儲かる。これは美味しい。
そこに目をつけて「そのニュース流さないでよ」と言われてお金を受け取る。
反対に、「これ、流さないでおきましょうか?」と取引を持ち掛ける。
「これ、宣伝してよ、それとなく」、でお金を受け取る。
反対に、「宣伝しましょうか?それとなく」、と持ち掛ける。
「流すなよ。分かってるだろうな」というのもあれば、「流せよ。分かってるだろうな」というのもある。
お金が動く場合もあれば、圧力(脅迫)がかかる場合もある。
脅しがかかるだけの場合もあれば、交換条件を提示される場合もある。
「社会の木鐸たれ」と言う言葉は
「正論を吐くのがメディアの仕事。圧力に屈しちゃいけない」
というのが本来の意味なんでしょうが、現実には自らに対し「損得勘定で動くな」と言い聞かせることでしょう。
しかし、それを実行すると何だかうすっぺらな建前だけのきれいごとばかり書いているように「見える」。
産経新聞なんかそうでしょう?巻頭言「産經抄」の奥行き、広がりなんか、「天声人語」の足元にも及ばない。
けど、「正論を吐こう」「社会の木鐸たらん」とすれば、生硬になり、薄っぺらにならざるを得ない。理性のみで書こうとするのですから。
感情を基に、知識を己が教養として披歴する「天声人語」と、巻頭言を社説の一形態とする「産経抄」では、その名称からしてスタンスが全く違います。結果、産経の社説はアサヒのそれと比べてはるかに質が高い。感情が基になって言葉を弄ぶだけのアサヒの社説は論理性に欠ける。
新聞の何たるかを福翁から教わった通りに展開しようとする産経。
Wikiによると明治14年、政府の広報活動をすることを隠された目的として東京に進出したアサヒ。
現在までの両社の在り様を見れば人柄ならぬ社柄が見えてきます。
産經新聞の、自社関連広告満載の表面だけを見て
「何だ。口だけか。結局、儲けたいんだな」
と評するのは、だから実は当たらない。自社なりの正論を吐こうとすれば、社の方針と違うものを広告しにくくなるし、広告依頼も少なくなる。
脱線しました。損得の話に戻ります。
さて、でもこんなの、引き受けるか受けないか、は大方は新聞やテレビ、週刊誌等のメディア側の判断です。判断基準は、「損得」、です。
「金がもうかる」、「取材がしやすくなる」等は「得」。
「痛い目に遭う」、「取材拒否される」、「広告料が取れなくなる」等は「損」。
「会社潰してやる」って脅された、本当に潰されたなら大損だけど、対立する組織に情報流したら、潰れるどころか大儲け、なんてこともある。
逆にメディアが
「これ、出されたら、オタク、困るんじゃないですかぃ?」
なんてゆすりを働くこともある。
ネタになるなら捏造だってする大新聞社だってあるでしょ?どことは言わないけど。
セクハラ発言や、カラ出張問題をニュースとして採り上げるのは、他の何かから目をそらすためにやっていることですよね、おそらく。
他のこと、って何だろう。
となると、一番に思い出すのは、あれらの問題で全くマスメディアが採り上げなくなった事柄。
「河野談話検証」。「日韓首脳会談」。 そして、「米軍慰安婦訴訟」
意図的に隠そう(隠蔽、ですね)としている可能性はあります。
けど、そこで「金が動いたか」「脅迫されたか」「交換条件だったか」「甘い汁か」などなど色んなことを考えないで、ただただ「反日メディア」「売国奴」で括って、「メディアだけが悪者だ」、って決めつけたってしょうがない。
本当の問題はメディア独自の判断で、目を逸らさせようとしたのか、社外のどこかから指示があったのか否か、です。
繰り返しますが、メディアは、儲かれば何でもします。
先日のアサヒの広告欄の週刊誌広告伏字事件。大問題になったみたいで、すぐおさまりましたよね?不思議なことにアサヒのお詫びがでかでかと出た様子もないし、伏字にされた週刊誌側も裁判だ!と息巻いた様子もない。ブログで「あれはヤラセだ」とか「最初からそういう計画だった」と推測している方もありましたが、大体そんなところだったんでしょう。
「メディアは、儲かれば何でもします。」
だから「潰してしまえ」、だけじゃあしょうがない。そうそう簡単には潰れません。というより潰してはいけません。それでこそ民主主義の国だと世界は思います。
それに反対のことを言うメディアもある、ということを世界中に知られることも大事なことです。以前に書いた「最大の敵は身近に置け」とも一脈相通ずるところがあります。
さて。というわけで、
NHKを初め、マスメディアを潰すのは容易ではない。乗っ取る方がまだましだ。
でも、乗っ取るのだって容易ではない。
では乗っ取らずとも言うことを聞かせられるようになればいいではないか。
でも、言うことを聞かせるというのも容易ではない。
ここで、発想の転換。量質転化なら何とかなるのではないか。
「いうことを聞かせる」、という圧力方式は、料理じゃないんだから、人間には使わない方が良い。
それは脅迫でなければ「洗脳」ということにしかならないんですからね。
北風を吹かせて、力づくでコートを脱がさせようとしたって駄目。
また、いつの間にか考えが変化しているという洗脳は、当人の心に障害を持たせることになるからダメ。
じゃどうするかというと、主体的に考えを改めていく。これしかないでしょう。
「主体思想」と書いたら「なに?チェジュ思想だと~っ?」って怒り出す人(チェジュ、ではなくチュジェですよ)がいるかもしれませんが、あれと一緒にしないように。
「我思う。故に我あり」、です、誰も代わりに考えちゃくれませんし、自分の身の振り方、考え方なんて自分のことだから自分で、という「自由」は持つべきです。
それで他人に、言うことを聞かせるには?
「マスメディア」という「損得」でしか物事を考えない組織に、言うことを聞かせるには?
それは膨大な量の視聴者、或いは購読者の意見伝達しかないでしょう。
早い話が同じ観点からの意見表明です。Fax、手紙、メール、ブログ等々。
単純に
「私は日本人だから、よそからバカにされたり侵略されたりするのにはとても耐えられないんです。」
これ以上の共通点を今のところ見つけ出すことができません。
前回は「社会批判に走る」のも、「儲かるからとしつこく下らないことを繰り返し報道する」のも、ホント、誇りはないのか、と書いて終わったんですが、このマスメディアの「儲かるから」の内訳は一体どんなことなんだろうということを考えてみました。
「儲かる」。損か得か。
最終的にはお金に換算できるかもしれないけれど、実際はそこまでいかなくて、「この方が都合がいいんじゃないか」、とか「こっちの方が後々有利だろう」という計算です。
何のことはない、どこにでもある「駆け引き」「やり取り」と同じ。それも、商取引の色が濃い。
だから、「情報は金になる、商売じゃないか」と割り切れば、報道して商品(新聞、雑誌、番組)などが売れることで儲かる、報道しないで商品を売らないことでこれまた儲かる。これは美味しい。
そこに目をつけて「そのニュース流さないでよ」と言われてお金を受け取る。
反対に、「これ、流さないでおきましょうか?」と取引を持ち掛ける。
「これ、宣伝してよ、それとなく」、でお金を受け取る。
反対に、「宣伝しましょうか?それとなく」、と持ち掛ける。
「流すなよ。分かってるだろうな」というのもあれば、「流せよ。分かってるだろうな」というのもある。
お金が動く場合もあれば、圧力(脅迫)がかかる場合もある。
脅しがかかるだけの場合もあれば、交換条件を提示される場合もある。
「社会の木鐸たれ」と言う言葉は
「正論を吐くのがメディアの仕事。圧力に屈しちゃいけない」
というのが本来の意味なんでしょうが、現実には自らに対し「損得勘定で動くな」と言い聞かせることでしょう。
しかし、それを実行すると何だかうすっぺらな建前だけのきれいごとばかり書いているように「見える」。
産経新聞なんかそうでしょう?巻頭言「産經抄」の奥行き、広がりなんか、「天声人語」の足元にも及ばない。
けど、「正論を吐こう」「社会の木鐸たらん」とすれば、生硬になり、薄っぺらにならざるを得ない。理性のみで書こうとするのですから。
感情を基に、知識を己が教養として披歴する「天声人語」と、巻頭言を社説の一形態とする「産経抄」では、その名称からしてスタンスが全く違います。結果、産経の社説はアサヒのそれと比べてはるかに質が高い。感情が基になって言葉を弄ぶだけのアサヒの社説は論理性に欠ける。
新聞の何たるかを福翁から教わった通りに展開しようとする産経。
Wikiによると明治14年、政府の広報活動をすることを隠された目的として東京に進出したアサヒ。
現在までの両社の在り様を見れば人柄ならぬ社柄が見えてきます。
産經新聞の、自社関連広告満載の表面だけを見て
「何だ。口だけか。結局、儲けたいんだな」
と評するのは、だから実は当たらない。自社なりの正論を吐こうとすれば、社の方針と違うものを広告しにくくなるし、広告依頼も少なくなる。
脱線しました。損得の話に戻ります。
さて、でもこんなの、引き受けるか受けないか、は大方は新聞やテレビ、週刊誌等のメディア側の判断です。判断基準は、「損得」、です。
「金がもうかる」、「取材がしやすくなる」等は「得」。
「痛い目に遭う」、「取材拒否される」、「広告料が取れなくなる」等は「損」。
「会社潰してやる」って脅された、本当に潰されたなら大損だけど、対立する組織に情報流したら、潰れるどころか大儲け、なんてこともある。
逆にメディアが
「これ、出されたら、オタク、困るんじゃないですかぃ?」
なんてゆすりを働くこともある。
ネタになるなら捏造だってする大新聞社だってあるでしょ?どことは言わないけど。
セクハラ発言や、カラ出張問題をニュースとして採り上げるのは、他の何かから目をそらすためにやっていることですよね、おそらく。
他のこと、って何だろう。
となると、一番に思い出すのは、あれらの問題で全くマスメディアが採り上げなくなった事柄。
「河野談話検証」。「日韓首脳会談」。 そして、「米軍慰安婦訴訟」
意図的に隠そう(隠蔽、ですね)としている可能性はあります。
けど、そこで「金が動いたか」「脅迫されたか」「交換条件だったか」「甘い汁か」などなど色んなことを考えないで、ただただ「反日メディア」「売国奴」で括って、「メディアだけが悪者だ」、って決めつけたってしょうがない。
本当の問題はメディア独自の判断で、目を逸らさせようとしたのか、社外のどこかから指示があったのか否か、です。
繰り返しますが、メディアは、儲かれば何でもします。
先日のアサヒの広告欄の週刊誌広告伏字事件。大問題になったみたいで、すぐおさまりましたよね?不思議なことにアサヒのお詫びがでかでかと出た様子もないし、伏字にされた週刊誌側も裁判だ!と息巻いた様子もない。ブログで「あれはヤラセだ」とか「最初からそういう計画だった」と推測している方もありましたが、大体そんなところだったんでしょう。
「メディアは、儲かれば何でもします。」
だから「潰してしまえ」、だけじゃあしょうがない。そうそう簡単には潰れません。というより潰してはいけません。それでこそ民主主義の国だと世界は思います。
それに反対のことを言うメディアもある、ということを世界中に知られることも大事なことです。以前に書いた「最大の敵は身近に置け」とも一脈相通ずるところがあります。
さて。というわけで、
NHKを初め、マスメディアを潰すのは容易ではない。乗っ取る方がまだましだ。
でも、乗っ取るのだって容易ではない。
では乗っ取らずとも言うことを聞かせられるようになればいいではないか。
でも、言うことを聞かせるというのも容易ではない。
ここで、発想の転換。量質転化なら何とかなるのではないか。
「いうことを聞かせる」、という圧力方式は、料理じゃないんだから、人間には使わない方が良い。
それは脅迫でなければ「洗脳」ということにしかならないんですからね。
北風を吹かせて、力づくでコートを脱がさせようとしたって駄目。
また、いつの間にか考えが変化しているという洗脳は、当人の心に障害を持たせることになるからダメ。
じゃどうするかというと、主体的に考えを改めていく。これしかないでしょう。
「主体思想」と書いたら「なに?チェジュ思想だと~っ?」って怒り出す人(チェジュ、ではなくチュジェですよ)がいるかもしれませんが、あれと一緒にしないように。
「我思う。故に我あり」、です、誰も代わりに考えちゃくれませんし、自分の身の振り方、考え方なんて自分のことだから自分で、という「自由」は持つべきです。
それで他人に、言うことを聞かせるには?
「マスメディア」という「損得」でしか物事を考えない組織に、言うことを聞かせるには?
それは膨大な量の視聴者、或いは購読者の意見伝達しかないでしょう。
早い話が同じ観点からの意見表明です。Fax、手紙、メール、ブログ等々。
単純に
「私は日本人だから、よそからバカにされたり侵略されたりするのにはとても耐えられないんです。」
これ以上の共通点を今のところ見つけ出すことができません。