CubとSRと

ただの日記

「別に、新聞じゃなくたって・・・・」と思われるでしょうが。

2020年05月14日 | 重箱の隅
2014.08/03 (Sun)

 前回の日記で、「巻頭コラムで苛々していた」、と書き、「それなら読まなきゃいい」と一人で突っ込んでいたんですが。
 
 産経新聞にした。それで、苛々は解消した。
 けれど、です。何も3000円(田舎は朝刊だけだから安い)出してわざわざ新聞とらなくたって、産経は殆んどの記事はネットでただで見ることができるんです。
 アサヒや毎日は細かいでしょう?大半の記事は、購読料払わなけりゃネットで見ることもできない。できるのはその日の巻頭コラムと社説、それに一部の記事だけ。更に以前のものを見ようとすればこれだって購読料がかかる。
 産経は無料だ。なのになぜ??(令和になって、産経も有料記事が・・・・)

 これ、電子書籍と実際の本(堅牢本)との違い、と言ったらいいでしょうか。
 変な言い方ですが、本は、目だけでなく、耳、鼻、皮膚でも読むでしょう?
 目から入る活字(視覚)情報だけではなく、ページをめくる音、インクの匂い、本の質感等も重要な情報です。やはり高級な料理はプラスチックのトレーに盛られたんじゃ興趣は半減するんです。
 加えてどこかの国みたいにぐちゃぐちゃに掻き混ぜたり、床に食器を置かれたりしたんじゃ食う気もしなくなる。

 更に、以前麻生総理の吐いた名言、「新聞なんてものは眺めるくらいがちょうど良いんだ」という言葉の真意、です。
 新聞は大きな紙面に多くの記事が載せられている。
 重要な事項は大きな紙面で。そうでないものは小さな「ベタ記事」と言われる扱いで。注目してほしいものは「囲み」と呼ばれ、目立つようにしてある。
 一目で記事の軽重や質が分かるようになっている。

 つまり「まずは森を見る」、ということができる。その上で、必要に応じて個々の「木」、ならぬ「記事」を見る。
 「新聞なんてものは眺めるくらいがちょうど良いんだ」
 というのはそういうことです。

 また、記事内容によって文化面、社会面、経済面、娯楽面、と分けてあるから、見易い。
 紙面なら、開いた瞬間にこの辺りまでは掴める。けど、ネットでなら?
 開いた瞬間は言うまでもなく、読み終わった時だって、社の思う記事の軽重がどこまでつかめるでしょう。

 もう一つ大事なこと。ネットじゃ新聞の下の方、時には一面以上用いてやってる、あの「広告記事」が、ないでしょう?あれって、結構エネルギッシュなんですよね。あれで元気が出てくること、って多いと思うんです。

 迂闊でしたが、とってみて気が付いたこと。
 産経には「週刊朝日」や「サンデー毎日」の広告がないんですよね、当然かもしれないけど。代わりに「正論」や「Will」の広告がでかでかと載っている。
 それに、他紙の社説に関しての批評も載っている。

 というわけで、広告記事の一つ、として産経で初めて見た「交詢社」の広告記事。
 今回はそれを転載しようと思ってたんですが、またまた長くなりました。
 
 いきなり「深く、徹底して」、は無理だから、「まずは広く浅く」、です。
 その意味で新聞から入るのは良い。



 「森を眺めてみよう」ということで、「交詢社」の広告記事を次回。

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(置き換えではなく)普段の言葉で考える

2020年05月14日 | 心の持ち様
2014.07/31 (Thu)

 「いきなりキーボードに向かって、雨上がりの雨だれのようにポツリポツリと打ち込んでちゃいかん。考えが深まらんじゃないか」

 なんて殊勝に反省して(何度目だろう。覚えてない)、ノートに日記を書いてから、気付いたら既に一週間以上が過ぎている。

 思いついて、書こうと思うことはあっても、ものの5分も経たないうちに何を書こうと思っていたのか忘れてしまい、どうしても思い出せなくなってしまう。
 それどころか一時間も経てば、思い出そうとしたこと自体、忘れてしまう。
 我乍ら情けない。
 ここで「だから歳は取りたくないもんだ」と一言で終えることもできるんだけど、それを言っちゃあ、お仕舞です。
 と言うわけで、メモを録ることにした。(これも何度目だろう。覚えてない)
 気が付いたこと、思いついたことを短い言葉で書き留めて置く。

 「そのためのメモ帳、買いに行かなきゃ」、と買いに出ては忘れ、を数回繰り返した後、やっとのことで何とか手に入れた。
 で、メモをする。

 ところが、メモを見て「何を書きたかったんだろう???」・・・・・・・。
 でも、齢は取るばかりだから、「今が一番若いんだ」。
 一番若いんだから、今、できることをやるのがベストだ。
 メモを見て「何を書きたかったんだろう???」と思ってみる。呻吟しないで、追い込まないでもやもやと、その辺は年の功、言葉の周辺を彷徨しているうちに思い出してくることもたまには、ある。
 やはり「人間だもの」、齢は取る。取ってみるものです。誰でも思いつきで、或いは無意識のように考え、行動しているようでも、本当はそんなことない。
 ちゃんと考え、計画的に行動している。
 そして誰でも齢を取る程に論理的に「感情を発し、筋道のある思考、行動をする」ようになるものです。
 だから周辺を逍遥しているうちに、誰だって「何を書きたかったか」が、「考え」として見えて来るようになっていく。
 「齢は取りたくないもんだ」、でお終いにしてりゃ、こうはいかない。

 そんな風に「ああでもない」「こうでもない」と捏ね繰り回して文章を書いていると、直感だけだったのが筋道も少しずつ見え始める。
 そうなればなるほど、今度は「結論ってのはなかなか出て来ないものだな」と実感します。
 難しい言葉や外来語を多用して考えようとすると、その難解な語句や外来語の偉そうな雰囲気に負けてしまって、筋道を見る目が霞んでしまうから、結論らしいものが意外に簡単に見つかって、手応えもさほどではない。だから考えたことへの満足感、ってあまり、ない。

 けれど「ああでもない」「こうでもない」と能く使っている言葉を「捏ね繰り回していると、筋道が見え始める」。これは、いろんな考え方からの「枝道」が見えてくる、ということでもあります。
 その「枝道」から「本道」を見ると、本道の意外な形が見えてきたりする。
 それぞれの枝道に入っては戻り、を繰り返すことで、段々に強くなってくる思いがあります。
 それは「やっぱり『安易な切り捨ては、早計に過ぎる』、んじゃないかな?」ということです。
 「傷が深くならないうちに見切りをつける」
 「合理化のために人員を削減する」
 「能力主義」「成果主義の採用」
 等が、昨今の主流になって来ていますが、結果が全てである筈の商売の世界だって、日本の「商人の道」は「損得」より「信」の方を重視します。「その場の勝ち」より、「末永く勝ち続ける」ことを尊いとするからです。
 向上を目指すからこそ、「傷が深くならないうちに」という株屋のような考えは採らない。

 「今が一番若い」んだから、「今が一番賢い」なんて傲慢なこと思ってちゃ、先はない、でしょう。
 もっともっと、自分も世界も向上を望むべきだと思います。「今が一番若いんだから、まだ伸びしろがある!」、と。

 「切り捨てたって、本当の向上なんかない」、って、ナメック星出身の神様だって言ってます。
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謝らないぞ!オレだけじゃない。

2020年05月14日 | 心の持ち様
2014.08/06 (Wed)

 渡部亮次郎の「頂門の一針」3787より

 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 朝日の「慰安婦誤報」は確信犯的である
 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━

             杉浦 正章

  「国会は検証に乗り出すべきだ」
 
 一報道機関の誤報がこれほど国の信用を傷つけ、おとしめた例があっただろうか。
 誤報に基づき強制連行を詫びた河野談話が作られ、誤報に基づき「性的奴隷制度」と断定した国連報告が発表され、誤報に基づき慰安婦像が米国各地に建造されている。

 しかも朝日新聞の報道は意図的であり恣意的であり、故意に史実を曲げた誤報であった。

 その誤報を5日と6日の紙面で認めながら朝日はなお「自由を奪われた強制があった」などと主張、強制連行の本質を、慰安婦一般の問題にすり替えようとしている。
 まさに確信犯的誤報の実態を露呈していることになるが、「読者の皆様」への記事取り消しですむ話だろうか。

 国際的に取り返しのつかない問題に発展しており、青少年の日本国民としての自信喪失ダメージは大きい。

 自民党幹事長・石破茂が国会での検証を唱えているが、是非実現してもらいたい。国際的な発信も不可欠だ。

 大誤報の核心は2つある。1つは1982年から文筆家・吉田清治の「済州島で慰安婦狩りをした」とする生々しいねつ造記事を繰り返し16回にわたって報道してきたが「吉田氏の証言は虚偽だと判断し記事を取り消す」としたことだ。

 自民党総裁・安倍晋三が2012年の党首討論で「朝日の誤報が吉田清治という詐欺師のような男の本とともにまるで事実のように広がった」と指摘したとおりの結果となった。
 “詐欺師”に踊らされたか、分かっていて利用したかだが、これはあきらかに両方であろう。

 途中で“詐欺”と分かりながら32年間も訂正しないでおいたことからも明白だ。

 もう1つは、もともと関係のない工場などに動員された「女子挺身隊」を「慰安婦」と断定して繰り返し混同した記事を掲載したことだ。

 これについて朝日は、「当時は、慰安婦問題に関する研究が進んでおらず、記者が参考にした資料などにも慰安婦と挺身隊の混同がみられたことから、誤用した」と誤報の経緯を説明した。

 しかし歴史を少しでもかじった者なら女子挺身隊が勤労動員であり、「研究が進んでいる、いない」の問題ではないことが分かる。
 慰安婦に結びつかないことは誰でも分かる事であり、「挺身隊」という名前だけで卑しい想像を働かせた記者と、その記事の掲載を認めた編集幹部の意図的姿勢はまさに確信犯的である。

 こうして報道史上最大の誤報事件が確定したが、問題は読者へのおわびで済む領域を越えている。朝日の報道を真に受けた国益毀損の事態をどうするかだ。

 朝日は首相・宮沢喜一訪韓の直前に「挺身隊の名前で連行された女性は8万とも20万人ともいわれる」と報じたが、対韓外交に大きな影響を及ぼした。  宮沢内閣は浅慮にもまともに朝日の報道に乗ってしまったのだ。

 そして1993年の官房長官・河野洋平談話へとつながるのだ。
 河野談話は「強制連行は確認できない」が基調であったが、河野は愚かにも記者会見で強制連行の事実があったかと問われ、「そういう事実があった」と述べてしまったのだ。

 河野談話は先に政府が実施した検証により首相や大統領まで加担した「日韓合作」の“すりあわせ”があったことと、その隠ぺい工作が明らかになった。
 これにより河野談話は事実上空文化の傾向を強めたが、朝日の誤報は同談話が紛れもなく空文化することを物語っている。

 さらに朝日の誤報は96年の国連人権委員会のクマラスワミ報告にも引用された。無能な3流国際官僚で形成されている国連人権委員会のクマラスワミ特別報告者(スリランカ)は、報告書で、慰安婦制度が国際人道法に違反する「性的奴隷制」だと断定し、日本政府に「法的責任と道義的責任」があると主張したのだ。

 この見解は韓国の米国内でのプロパガンダに使われ、日本軍が慰安婦を強制連行しレイプし続けたかのような誤解が世界中に広がる原因となった。
 政府は国連に対して報告書撤回と陳謝を要求すべきである。
 高額な分担金を負担していながら、国連のロビー工作は昔からなっていない。

 石破が朝日の“誤報声明”について「非常な驚きを持って受け止める。
 いままでの報道は一体何であったのか」と指摘すると同時に「その検証は国益のためにも必要であり、検証を議会の場で行うことも必要」と述べている。

 野党は共産党などが慰安婦追及の先頭に立っていたが、論拠が崩れて追及どころではなくなった。民主党や次世代の党などにも朝日批判は強く、国会での検証で与野党がまとまる可能性もある。

 朝日新聞関係者を招致して問題の解明を国会中心に行う必要があろう。
 朝日は秘密保護法や集団的自衛権の行使をめぐっても無責任な“風評”報道を繰り返しており、慰安婦誤報はその編集方針の一角が現れたに過ぎない。

 国際社会に生じさせた誤解は甚大なものがあり、本当に反省するなら、国会の検証に協力し、国連や関係国に向かっても「おわびと訂正」を行うべきであろう。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 謝罪はしていません。
 論点をずらして自社の落ち度よりも「慰安婦に『された』人々の人権こそが守られるべきではないか」、と。その意味では、みんなが悪いんだ、と。

 敢えて8月5日に特集を組んだのも、翌日が「8月6日」だからということと関連しているのではないか、とさえ思います。
 実際これを大々的に採り上げた朝の情報番組はありませんでした。

 5日と6日、連続してということなので、明日から新聞、テレビ共に、このアサヒ新聞の姿勢に対する批判が多く挙がれば、河野氏をはじめとする関係者の国会招致が実現することになるでしょう。
 そう考えれば、この8月6日から15日という特別な時期に、この言われなき日本叩きについて考えるためにアサヒが声を挙げた。皮肉なことながら奇貨とすべきか、と思います。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 アサヒは反省なんかしてません。捏造だということも認めていません。
 自分等は飽く迄も
 「知らなかった」
 「資料が乏しい中で頑張って取り組んだ」
 「挺身隊を慰安婦と『誤用』したけど、誤報はしてない」
 「世間に研究者がほとんどいなかったんだから仕方がない」
 「他の社だって散々言っている(我が社だけではない)」
 等々、「反省はしている。が問題はそこではないだろう」
 と開き直ってさえいます。
 世論がアサヒ叩きをすることで、「張本人の河野洋平はどうしてるんだ」という公の批判の機運が盛り上がれば、自民党は動かざるを得なくなる。
 そうすることで、健全な世論が国政をも動かすのだ、ということを内外に発信することが日本を世界に知らしめる、戦後レジームからの脱却へ、狼煙を打ち上げることになるのではないでしょうか。


 自民党は
 「元官房長官を刑場に引き摺り出すことは仁義に悖る」
 、と思い、
 「体面を守らなければ支持率が急落する」
 と予想しています。
 実際その通りです、「国民」のみんながみんな、「従軍慰安婦なんてなかった」と思っているわけではないのですから。

 けれど、自民党の大半は
 「仁義より大義だろう。間違ったことを軽々しく認めた結果がいわれのない日本叩きなんだから」
 と思っています。
 ならば決定権は国民にあるのですから、仁義と大義、どちらを採れば国民が納得するか、を示せばよい。
 「大義!」となれば、鼻の利く自民党です、次世代の党、維新の会辺りに脚本を渡して、関係者の国会招致、すぐにやるんじゃないでしょうか。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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巻頭コラム(「天声人語」と「産経抄」)

2020年05月14日 | 心の持ち様
2014.08/02 (Sat)

 産経新聞を購読し始めてから早や八ヶ月が過ぎた。
 我が身の変化は、というとストレスが減った、ということが一番、だろうか。それまでは新聞を読むたびに苛々していた。
 新聞の第一面、新聞の顔、である巻頭コラムから、それは始まる。避けては通れない。
 「ならば、読まなきゃいい」?
 新聞の購読は私の一存では決められない。それで二十数年間、アサヒ新聞だった。

 毎朝、「天声人語」を読む。「天の声は人語を介して世間に伝わる」
 「アサヒの主張は天の声」、というわけだ。傲慢であり、尊大である。
 でも、それでいい。そのくらい自信と誇りを持って自社の主張をしなければ何が「社会の木鐸だ」ということになる。
 「その覚悟で、思いの丈を読者にぶつけよう。」それでこそ新聞社だ。
 ところが、そんな気宇壮大な題名をつけながら、「我が社はこう思う」ではなく、「~だと、~は主張する(我が社が言っているわけではない)」の繰り返しだ。虎の威を借る何とやら、だ。

 それに比べ、産經巻頭コラムの「産経抄」は生硬で、言いたいことは分かるが頑なに見えることもある。いや、生硬なのも、頑ななところもそれはそれでいい。が、もっと時間をかけて、言葉を選んだらいいのに、と思うことが多い。
 「こなれてない」「自家薬籠中のものになってない」のだから仕方がない、だから生硬な感じがするのだ。
 でも、それでこそ新聞の巻頭コラムだ、と思う。

 新聞の巻頭コラム、という特殊性を見なければ、随筆としてだけならば、当然と言ってもいいだろう、「産經抄」は「天声人語」には遠く及ばない。
 豊富な語彙を駆使して感情の変化を淡々とつづることに関しては、「天声人語」の右に出るものはない。
 だからだろう、学校、特に高校などでは起承転結の整った「天声人語」を随筆文の手本とし、時には大学の入試なんかにも使ったりする。
 ただ、繰り返すが巻頭コラムは特別な随筆であって、社説ではない。そこのところを勘違いしている読者は多い。

 随筆文は随筆文。社説等の論説文に必要なのは、理詰めの論理展開で読者の理性に訴えかける姿勢。対して、随筆文の展開は読者の情に、訴えかけるのである。だから同一視すべきではない。
 第一、起承転結、というのは唐詩の詩文構成の基本なのであって、他の文章、特に、絵を描かせる詩ではない、理詰めにも、また淡々とした情景描写にも使われる散文が、それに倣わなければならない、というものではない。
 更に新聞の特殊な随筆である巻頭コラムもそれを守らねばならぬ理由はない。

 随筆には随筆の役目がある。
 それは執筆子の真剣な眼差しで書かれた文が、読者の琴線を震わせることだ。
 新聞の巻頭コラムの場合は、その社の姿勢を表わすものであるから、真っ直ぐに読者の心に訴えかけ、社の姿勢への共鳴を読者に望むために書かれるべきだろう。

 つまり新聞だからと言って、巻頭コラムが事実情報である必要はない。論理展開も必要ない。
 社の姿勢を感性面から訴えかけ、読者にその「社の心意気」を感じてもらえたら、それでいいのではないか。

 ただ、捻じれていてはならない。偏向していてもならない。その新聞の顔、その新聞の姿勢、なのだから、捻じれたり偏向したりしていては、新聞そのものの気概を汚すことになる。
 巻頭コラムを読めば、その新聞の姿勢が分かる、矜持が分かる、ということでなければ信用なんかできない。そこで等身大のその新聞の姿を把握できなければ、読者は半信半疑にならざるを得ず、記事をまともに把握なんかできるわけがない。
 ネジくれた顔を持つ、偏向記事ばかりの新聞を、気概を以て書けるのか?ということだ。
 真っ直ぐに語りかけて来ない、半信半疑にならざるを得ない記事を、意気に感じて読めるのか?ということだ。

 「天声人語」は、時折り素晴らしい文を載せることがある。
 それが最初に書いた
 「豊富な語彙を駆使して感情の変化を淡々とつづる」
 ことに徹した時だ。
 そんな時は論理の展開まで見える。自然なコード進行のように言葉が連なって出て来るからだ。

 けれどそれは、飽く迄個人のことであって、当然ながら「社の姿勢をまっすぐに書いた」ものではない。
 もっと言えば、社の姿勢には全く関係がない、執筆子の個人的な真っ直ぐな思いが、まるで言霊に導かれるようにして吐露されたものだ。
 だからその場合、「天声人語」という名のコラムではあっても、中身は個人の随筆であり、アサヒ新聞の姿勢を表わしたものではない。「看板に偽りあり」、だ。「ゴジラ」のDVD買って来たら「コモドドラゴンとイモトアヤコの競走」だった、みたいなもんだ。

 そんな自社に関係のない「名随筆」を巻頭に掲げているということは、アサヒ新聞は読者に対し真正面から訴え掛ける気があるのか、社の姿勢への読者の共感を本当に望んでいるのか、などの疑問を読者に持たせることになる、とは思わないのだろうか。

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はるかに及ばぬ一日本人

2020年05月14日 | 心の持ち様
2014.07/30 (Wed)

 日本のことを、まるで外国人が言うように「この国」という。
 この表現の仕方自体はいつ頃からあったのかは知らないが、世間に広がったのには、司馬遼太郎の発言が大きく係わっていると思って間違いないだろう。
 温度、体温?親密度、だろうか、「我が国」と言わず、敢えて「この国」ということによって、何だか距離を取っているように見える。
 こういうことによって冷静・客観的に見ているような感じだけれど、見下す、とまではいかずとも、あまり温かみは感じない。

 政治家に必要なのは冷たい血だ、と言うけれど、小説家に必要なものであるとは言えまい。政治家は理想の社会をつくるために働くのだが、芸術家は理想の社会を描くために働くのだ。
 理を現実のものとするためには冷たい血が必要だが、その基となる絵を描くには熱い血が必要だ。
 そうなると、やはり政治家も、「この国」ではなく「我が国」、だろう。

 ここ数年耳障りになって来ている政治家の「この国」、という表現が、違和感なく聞けるのは、平沼議員くらいのものだろうか。あとは上滑りにしか見えない。言葉の「馬子にも衣装」だ、単なる「カッコつけ」だ。
 ついでながら、司馬遼太郎の名前は当然本名ではない。
 元々が兵庫県の三木の出身で「三木」と言うらしい。(戸籍では福田だったような・・・)
 三木城の合戦で鳥取のカツ江さんと同じく秀吉の兵糧攻めに遭い大阪に逃げ延びた敗残者の子孫なのだそうだ。
 これまた当然みたいなことなのだが、三木は別所氏で、だから三木に「三木」さんはいない。だから司馬もずっとそう思い込んでいたけれど、余りにも迂闊だったと、恥ずかしがっている。

 「司馬遼太郎」の「司馬」は「司馬遷」の司馬。「遼」は「遼(はる)か」、「太郎」は日本人の一般的な名前。
 「司馬遷」に「遼」かに及ばぬ「一日本人」と言う意味なのだという。
 勿論、司馬の謙遜だろう。その謙虚さで歴史を見たいということなのだろう、とは思う。
 しかし、それに重ねて「この国」という言葉を多用されると、氏の歴史の見方は日本人でありながら、日本を数十センチ乃至は数十メートル上から見下して
いるような温かみのないものかもしれないと思ってしまう。


 西村眞悟氏は日記でこんなことを書かれている。
  ↓
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

                   (略) 
 
 番組の冒頭、あの司馬さんが語った。
 「終戦の日、なんという馬鹿なことをしたのだろうかと思った」
 この「衝撃」が、小説家司馬遼太郎の「原点」であると彼は語り、NHKの番組も、この「原点」に基づいて流れていった。

 大東亜戦争ーなんという馬鹿なことーをしたのだろうか、というのが司馬遼太郎の小説の「原点」ならば、彼は、我々が現在、そこから脱却しなければ我が国家の存続を確保できないと思い定めている「戦後という時代」の代表的作家である。即ち、「国民的作家」だ。
 学生寮に住んでいた二十歳代の頃、司馬遼太郎の「龍馬が行く」や「坂の上の雲」また「国盗り物語」などをよく読んだ。
 三十歳代の後半に入った頃、馴染みになったキタ(大阪の繁華街)のスナックのカウンターに座っていると、顔見知りの初老の紳士が、「司馬遼太郎の、言うてること、だんだん鼻についてきたなあ」と言った。
 その人は、司馬遼太郎と同じ世代の方だった。私は、世代は違うが、「鼻についてきた」というその方の表現が実に適切だと思った。
 司馬さんと同じ世代は、陸軍士官学校でいえば、五十六、五十七および五十八期であろう。
 私の知っている陸士のこの期の人々は、岳父も含めて戦争のことは語らなかった。そして、司馬さんもNHKの番組で、戦争のことは語らなかったと言われていた。
 しかし、司馬さんは、実に、実に、よく語ったではないか。
 何しろ、「なんと馬鹿なことをした」=「敗戦の衝撃」が、小説家司馬さんの「原点」なんだから、必然的に彼の小説は、如何に「馬鹿なことをした」かを、繰り返し繰り返し、バッハの曲のように奏でることになる。
 それは、つまり、司馬さんと同世代の従軍兵士や戦死者が「馬鹿なことをしたなかで死んでいった」と繰り返すことに他ならない。
 スナックのカウンターで、司馬さんの同世代から、「鼻についてきた」と聞いたときから、自然に司馬さんの講演や評論に触れなくなった。そのうちに、我らはこの「国民的作家」を失った。

 とはいえ、司馬遼太郎は、私の二十歳代によく読んだ懐かしい小説家である。
 特に、三島由紀夫が市ヶ谷台で自決した翌日の毎日新聞朝刊に掲載されていた司馬遼太郎の評論の鋭さには舌を巻いた。抜群の力量であった。
 それで、NHKの放送があった翌日、本棚に司馬さんの随筆「ある運命について」があったので取り出して少し読んだ。
 冒頭の広瀬武夫を描いた司馬遼太郎独特の表現が「鼻につく」という表現を思い返させてくれて懐かしかった。
 「広瀬は単に存在したのではなく、濃厚に江戸期を背負っていた・・・それらが発酵し、さらにくだって明治中期までに成人したひとびとのなかでさえしばしばそれが蒸留されつづけていることを見出す。そのうちの一滴が広瀬であると思うと、彼の精神のひびきを伝える詩文は、すべて後世においてもはや再生されることはない。」
 
 次に、「旅順と日本の近代の愚かさ」という表題の随想。
 「日露戦争における旅順要塞の攻撃というのは、日本が西洋の思想と、知識でもってではなく肉体でもって激突した最初の体験といっていい。」というこれまた独特の表現で始まる。
 そして、続く。
 「軍人というものが戦争の専門家であるとすれば、なぜこんなばかな戦争指導をしたのか、いま考えても薄気味悪いほどの無能さというほかない。」
 これ以降は、読むのを止めた。読まなくとも分かる。

 なお、戦車隊の士官となった司馬遼太郎さんは、陸軍戦車学校に学んだ。その時の教官は、池田末男大佐だった。
 池田大佐は、司馬さんが「なんと馬鹿なことをした」と慨嘆した終戦時、千島最北端の占守島にいた。そして、池田大佐と彼が率いる六十四両の戦車を擁する戦車第十一聯隊には、司馬さんのように「慨嘆」に浸る暇はなかった。翌々日の八月十七日、ソビエト軍が約一万の兵力で占守島に武力侵攻してきたからである。
 池田末男大佐は、聯隊を率いて勇戦奮闘して戦死する。
 龍馬を描き、日露戦争における秋山好古を描いた作家である司馬遼太郎は、何故、終戦後に北の果ての孤島で敢闘した勇者、戦車学校の教官であり戦車第十一聯隊長池田末男大佐を描かなかったのか。
 これを司馬さんに聞いてみたい。

 これから、司馬遼太郎さんに関しては、「台湾紀行」をはじめとする「街道をゆく」シリーズだけを読み返してみようと思う。

                  (以下略)

        「ここ数日に感じ、また語ったこと」
                    
                  ~眞悟の時事通信より~

 http://www.n-shingo.com/cgibin/msgboard/msgboard.cgi?page...

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ここからは私の日記の再掲です。
     ↓
 大阪外語大蒙古語学科を出た三木青年は、「史記」を書いた司馬遷に、「遼(はるか)に及ばぬ日本の男子(太郎)」、という意味から、司馬遼太郎と名告って、小説を書く。
 「日本は、どこから、道を間違えたのか」、と。

 そして、日清戦争の時は、洋々たる希望を胸に生きていたけれど、日露戦争の辺りから、怪しくなったのではないか、と思い始める。
 軍神と讃えられた乃木将軍に、凡庸の将という評価を定着させたのは司馬遼太郎の力、と言っても良いかもしれない。
 かれは、いつも、人間の目より高いところから、人を見る。数十メートル高いところから、人の展開する歴史を見る。
 「我が国のかたち」ではなく、「この国のかたち」を見る。
 「この国のかたち」として、日本の過去、現在、未来を、そして、人間の関わり合いを掴もうとする。

 「岡目八目」、だ。確かに見える。だが、切実さは、ない。離れている分、体温の温もりが伝わらず、分かりにくい。
 「悲惨な戦争」を見て、感情的に反戦主義者になった風ではない。

 けれど、日本から一歩離れて(少しの高みから)見ることが、歴史を掴むことを可能にはしたものの、「さて、それでは、これからどうする」といった「熱情」は、生まれるべくもない。
 「この国」という言い方は、そういうことなのだ。冷静に、客観的に見ている雰囲気がある。
 「自国に対して劣等感を抱いてきた」、或いは「他国に対して申しわけないことを先祖がやって来た」、という意識を抱いてきた者は、無意識のうちに自国を客観視することをよしとする。「思い遣っている」わけだ。
 ただし、深層の話だ。当人は気がついてない。
 今、急激に「この国」、という評論家的姿勢の人が増えている。

 幾多の売国法案に危機を感じるのは、底流に「この国」と見る人の増大があるからだ。



 「この国」と「我が国」 その2   (2010年4月18日の日記より)
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