2010.10/05 (Tue)
私は、博打は言うまでもないことですが、麻雀、囲碁、将棋、みんな駄目、「呑む、打つ、○う」のどれも「ごめんなさい!」の朴念仁です。
(酒は好きですが、これまた、恥ずかしくらいの少量で二日酔い、です)
これ、と言ったものがないまま、「人間五十年」を過ぎてしばらく経ちます。誇れるものがない。
僅かに(これまでにも書きましたが)、剣術を少しかじった、けど、掃いて捨てられる、程度の腕でしかありません。
政治、経済、科学に藝術、等、まともなものは何一つ、なし。
一応、国文学科に在籍していたものの、これも中途半端。
年の功、というやつで雑多な知識が少しはあるものの、ほんの少し。その上、最近のものはほとんどありません。
「ケータイ」でさえ、持ってない。勿論スマホだって持ってません。
つまり、どこにでもいそうな中年男の一人、なわけです。
で、御多分にもれず、「大して意味がないかな、いてもいなくても」と思っていました。
自殺願望、じゃないんですよ。あまり存在価値がないんじゃないかな、と思っていた。
それが、ちょっと考えが変わったんです。
「どこにでもいそうな一人、の集まりが『国』、だったよ」と、気付かされた。
今は休止中なんですが、「中韓を知りすぎた男」、というブログを、昨夏、知りました。
このブログ主は会社の経営者なんだそうで、その、現場を通しての物の見方をブログに書かれているんですが、これがとても面白い。
私の日記の初めの方で、一度書いたことがあるんですが、「あ、そうだったのか。そういわれてみると・・・」ということが満載でした。
「観点を変える」ということを、教えられたような気がします。
以前にも書いたと思いますが、たとえば出張でシナに行った。
夕食を摂ろうと思った時、どうするか。
毒入り餃子、廃水から採り出した食用油、農薬まみれの野菜、等の国です。
夕食をどこで摂るか。或る意味、命懸け。
普通の、ちょっとシナを知る者は、食事情も当然知っているから、ホテルのレストランで摂る。そうでなければ、有名な高級レストランで、摂る。こういった所なら安心だというわけです。当然高額です。でも、「代わりに安心を買えるのだから、高額なんて安いものだ。」そういう論法です。
しかし、ブログ主は「私は外の安い屋台で食べる」、と言います。
そして、「ちょっとシナを知る者」が、いかにも日本人で、考え方が甘いか、を教えてくれます。
高級レストランは調理の現場が見えない。何をされているか全くわからない。はっきりしているのは「料金が高い」ということだけだ。
対して、安い屋台は目の前で調理の様子が見える。妙なことをしていないか、監視できる。だから、却って安心だ、というわけです。
料金が高ければ安心だ、と信じる。それを日本人は甘い、人が好い、というのです。勿論、見ているからと言って、安全だとは限らない。
けれど、そこから先は自己責任。
中韓相手に、論理など、ない。現実を直視せよ、ということです。そして、これは世界を相手、でも通用する。
以前は、「高速道路をつかうというのは、お金で時間を買うということだ」と言われていました。新幹線しかり、飛行機しかり。
その発想が「高ければ、安心して任せられる。欲求はお金で満たすことができる」という考え方につながっていることは間違いないでしょう。
それはそれで、素晴らしいことです。高度な文明がある、ということです。
けれども、だからと言って「逆もまた真なり」、とは限らないぞ、というのがブログ主の言うところで、確かに、そのとおりだ、と気付かされたのです。「現実を直視せよ」
「どこにでもいそうな、何の変哲もない、一人の中年男」
だから、「大して意味がないかな」となるのは大間違い。
そのような者が、会社に沢山いるから会社が成り立ち、地域が成り立ち、国家が成り立っているのではないか。「現実を直視せよ」、です。
リーダーの「指示」を理解し、「支持」して行動する。この能力を持っていることこそが、大事なのではないか。
「国の在り方」も、そうです。
私はこの日記で、よく「日本人の素晴らしさは『日本文化の素晴らしさを持っている』から、だけれど、日本文化は身につけようと努力しなければ自分のものにはならない」といったようなことを書いてきました。
良いリーダーが必要なのは言うまでもない。
けれど、その「良い」リーダーの指示を理解できるメンバーがいなければ、リーダーが、良いも悪いもない。
「付いて行く」メンバー、でなく、「支持し、協力する」メンバーの力こそが大事なのだということです。一人ひとりが理解する能力があり、支持、協力をするから、こそ、世の中は成り立っているのではないか。
ということは、リーダーが飛び抜けてすごいのではない。
リーダーが飛び抜けて見えるのは、彼が「人知れず人並み以上の努力をし続けているから」、です。それは間違いない。
けど、本当は、その「人知れず人並み以上の努力を続けている」ことを理解し、支持しようとする人が多くあるからこそ、「飛びぬけている」となるのではないでしょうか。
「それも、リーダーとなる者の力じゃないか」と言われそうですが、そうじゃありません。
支持し、協力する人間には、全て個々の自分の意志があり、自分の意志で協力するのですから。
私は、博打は言うまでもないことですが、麻雀、囲碁、将棋、みんな駄目、「呑む、打つ、○う」のどれも「ごめんなさい!」の朴念仁です。
(酒は好きですが、これまた、恥ずかしくらいの少量で二日酔い、です)
これ、と言ったものがないまま、「人間五十年」を過ぎてしばらく経ちます。誇れるものがない。
僅かに(これまでにも書きましたが)、剣術を少しかじった、けど、掃いて捨てられる、程度の腕でしかありません。
政治、経済、科学に藝術、等、まともなものは何一つ、なし。
一応、国文学科に在籍していたものの、これも中途半端。
年の功、というやつで雑多な知識が少しはあるものの、ほんの少し。その上、最近のものはほとんどありません。
「ケータイ」でさえ、持ってない。勿論スマホだって持ってません。
つまり、どこにでもいそうな中年男の一人、なわけです。
で、御多分にもれず、「大して意味がないかな、いてもいなくても」と思っていました。
自殺願望、じゃないんですよ。あまり存在価値がないんじゃないかな、と思っていた。
それが、ちょっと考えが変わったんです。
「どこにでもいそうな一人、の集まりが『国』、だったよ」と、気付かされた。
今は休止中なんですが、「中韓を知りすぎた男」、というブログを、昨夏、知りました。
このブログ主は会社の経営者なんだそうで、その、現場を通しての物の見方をブログに書かれているんですが、これがとても面白い。
私の日記の初めの方で、一度書いたことがあるんですが、「あ、そうだったのか。そういわれてみると・・・」ということが満載でした。
「観点を変える」ということを、教えられたような気がします。
以前にも書いたと思いますが、たとえば出張でシナに行った。
夕食を摂ろうと思った時、どうするか。
毒入り餃子、廃水から採り出した食用油、農薬まみれの野菜、等の国です。
夕食をどこで摂るか。或る意味、命懸け。
普通の、ちょっとシナを知る者は、食事情も当然知っているから、ホテルのレストランで摂る。そうでなければ、有名な高級レストランで、摂る。こういった所なら安心だというわけです。当然高額です。でも、「代わりに安心を買えるのだから、高額なんて安いものだ。」そういう論法です。
しかし、ブログ主は「私は外の安い屋台で食べる」、と言います。
そして、「ちょっとシナを知る者」が、いかにも日本人で、考え方が甘いか、を教えてくれます。
高級レストランは調理の現場が見えない。何をされているか全くわからない。はっきりしているのは「料金が高い」ということだけだ。
対して、安い屋台は目の前で調理の様子が見える。妙なことをしていないか、監視できる。だから、却って安心だ、というわけです。
料金が高ければ安心だ、と信じる。それを日本人は甘い、人が好い、というのです。勿論、見ているからと言って、安全だとは限らない。
けれど、そこから先は自己責任。
中韓相手に、論理など、ない。現実を直視せよ、ということです。そして、これは世界を相手、でも通用する。
以前は、「高速道路をつかうというのは、お金で時間を買うということだ」と言われていました。新幹線しかり、飛行機しかり。
その発想が「高ければ、安心して任せられる。欲求はお金で満たすことができる」という考え方につながっていることは間違いないでしょう。
それはそれで、素晴らしいことです。高度な文明がある、ということです。
けれども、だからと言って「逆もまた真なり」、とは限らないぞ、というのがブログ主の言うところで、確かに、そのとおりだ、と気付かされたのです。「現実を直視せよ」
「どこにでもいそうな、何の変哲もない、一人の中年男」
だから、「大して意味がないかな」となるのは大間違い。
そのような者が、会社に沢山いるから会社が成り立ち、地域が成り立ち、国家が成り立っているのではないか。「現実を直視せよ」、です。
リーダーの「指示」を理解し、「支持」して行動する。この能力を持っていることこそが、大事なのではないか。
「国の在り方」も、そうです。
私はこの日記で、よく「日本人の素晴らしさは『日本文化の素晴らしさを持っている』から、だけれど、日本文化は身につけようと努力しなければ自分のものにはならない」といったようなことを書いてきました。
良いリーダーが必要なのは言うまでもない。
けれど、その「良い」リーダーの指示を理解できるメンバーがいなければ、リーダーが、良いも悪いもない。
「付いて行く」メンバー、でなく、「支持し、協力する」メンバーの力こそが大事なのだということです。一人ひとりが理解する能力があり、支持、協力をするから、こそ、世の中は成り立っているのではないか。
ということは、リーダーが飛び抜けてすごいのではない。
リーダーが飛び抜けて見えるのは、彼が「人知れず人並み以上の努力をし続けているから」、です。それは間違いない。
けど、本当は、その「人知れず人並み以上の努力を続けている」ことを理解し、支持しようとする人が多くあるからこそ、「飛びぬけている」となるのではないでしょうか。
「それも、リーダーとなる者の力じゃないか」と言われそうですが、そうじゃありません。
支持し、協力する人間には、全て個々の自分の意志があり、自分の意志で協力するのですから。
でも、リーダー云々と同時に、私自身は「何の変哲もない、どこにでもいそうな一人」、として、理解、支持、協力をしようとしているか。 「あまり存在価値がないんじゃないかな」なんて、ただの太平楽、なんじゃないか。
「何の変哲もない、どこにでもいそうな一人」、が集まって国が成り立っているのに。