CubとSRと

ただの日記

「どこにでもいそうな一人」

2020年05月28日 | 心の持ち様
2010.10/05 (Tue)

 私は、博打は言うまでもないことですが、麻雀、囲碁、将棋、みんな駄目、「呑む、打つ、○う」のどれも「ごめんなさい!」の朴念仁です。
 (酒は好きですが、これまた、恥ずかしくらいの少量で二日酔い、です)

 これ、と言ったものがないまま、「人間五十年」を過ぎてしばらく経ちます。誇れるものがない。
 僅かに(これまでにも書きましたが)、剣術を少しかじった、けど、掃いて捨てられる、程度の腕でしかありません。
 政治、経済、科学に藝術、等、まともなものは何一つ、なし。
 一応、国文学科に在籍していたものの、これも中途半端。

 年の功、というやつで雑多な知識が少しはあるものの、ほんの少し。その上、最近のものはほとんどありません。
 「ケータイ」でさえ、持ってない。勿論スマホだって持ってません。
 つまり、どこにでもいそうな中年男の一人、なわけです。

 で、御多分にもれず、「大して意味がないかな、いてもいなくても」と思っていました。
 自殺願望、じゃないんですよ。あまり存在価値がないんじゃないかな、と思っていた。

 それが、ちょっと考えが変わったんです。
 「どこにでもいそうな一人、の集まりが『国』、だったよ」と、気付かされた。

 今は休止中なんですが、「中韓を知りすぎた男」、というブログを、昨夏、知りました。
 このブログ主は会社の経営者なんだそうで、その、現場を通しての物の見方をブログに書かれているんですが、これがとても面白い。
 私の日記の初めの方で、一度書いたことがあるんですが、「あ、そうだったのか。そういわれてみると・・・」ということが満載でした。

 「観点を変える」ということを、教えられたような気がします。
 以前にも書いたと思いますが、たとえば出張でシナに行った。
 夕食を摂ろうと思った時、どうするか。

 毒入り餃子、廃水から採り出した食用油、農薬まみれの野菜、等の国です。
 夕食をどこで摂るか。或る意味、命懸け。

 普通の、ちょっとシナを知る者は、食事情も当然知っているから、ホテルのレストランで摂る。そうでなければ、有名な高級レストランで、摂る。こういった所なら安心だというわけです。当然高額です。でも、「代わりに安心を買えるのだから、高額なんて安いものだ。」そういう論法です。

 しかし、ブログ主は「私は外の安い屋台で食べる」、と言います。
 そして、「ちょっとシナを知る者」が、いかにも日本人で、考え方が甘いか、を教えてくれます。

 高級レストランは調理の現場が見えない。何をされているか全くわからない。はっきりしているのは「料金が高い」ということだけだ。
 対して、安い屋台は目の前で調理の様子が見える。妙なことをしていないか、監視できる。だから、却って安心だ、というわけです。
 
 料金が高ければ安心だ、と信じる。それを日本人は甘い、人が好い、というのです。勿論、見ているからと言って、安全だとは限らない。
 けれど、そこから先は自己責任。
 中韓相手に、論理など、ない。現実を直視せよ、ということです。そして、これは世界を相手、でも通用する。

 以前は、「高速道路をつかうというのは、お金で時間を買うということだ」と言われていました。新幹線しかり、飛行機しかり。
 その発想が「高ければ、安心して任せられる。欲求はお金で満たすことができる」という考え方につながっていることは間違いないでしょう。
 
 それはそれで、素晴らしいことです。高度な文明がある、ということです。
 けれども、だからと言って「逆もまた真なり」、とは限らないぞ、というのがブログ主の言うところで、確かに、そのとおりだ、と気付かされたのです。「現実を直視せよ」

 「どこにでもいそうな、何の変哲もない、一人の中年男」
 だから、「大して意味がないかな」となるのは大間違い。
 そのような者が、会社に沢山いるから会社が成り立ち、地域が成り立ち、国家が成り立っているのではないか。「現実を直視せよ」、です。

 リーダーの「指示」を理解し、「支持」して行動する。この能力を持っていることこそが、大事なのではないか。

 「国の在り方」も、そうです。
 私はこの日記で、よく「日本人の素晴らしさは『日本文化の素晴らしさを持っている』から、だけれど、日本文化は身につけようと努力しなければ自分のものにはならない」といったようなことを書いてきました。

 良いリーダーが必要なのは言うまでもない。
 けれど、その「良い」リーダーの指示を理解できるメンバーがいなければ、リーダーが、良いも悪いもない。
 「付いて行く」メンバー、でなく、「支持し、協力する」メンバーの力こそが大事なのだということです。一人ひとりが理解する能力があり、支持、協力をするから、こそ、世の中は成り立っているのではないか。

 ということは、リーダーが飛び抜けてすごいのではない。
 リーダーが飛び抜けて見えるのは、彼が「人知れず人並み以上の努力をし続けているから」、です。それは間違いない。
 けど、本当は、その「人知れず人並み以上の努力を続けている」ことを理解し、支持しようとする人が多くあるからこそ、「飛びぬけている」となるのではないでしょうか。
 「それも、リーダーとなる者の力じゃないか」と言われそうですが、そうじゃありません。
 支持し、協力する人間には、全て個々の自分の意志があり、自分の意志で協力するのですから。

 でも、リーダー云々と同時に、私自身は「何の変哲もない、どこにでもいそうな一人」、として、理解、支持、協力をしようとしているか。 「あまり存在価値がないんじゃないかな」なんて、ただの太平楽、なんじゃないか。
 「何の変哲もない、どこにでもいそうな一人」、が集まって国が成り立っているのに。

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筋の通った考え方だと思うんですけどね。

2020年05月28日 | 心の持ち様
2017.09/28 (Thu)

 「政界の一寸法師」、と自称していた荒井広幸氏のインタビュー記事です。
 形(なり)は小さいけれど、大敵にも臆することなく立ち向かい、たとえ絶体絶命の危機に陥っても、諦めず、最後まで戦う。
 政治家ですからね、大袈裟というか大言壮語はお手の物なんだろうけど、でも郵政解散に反対して後、自民党を除名され、「新党改革」を解党した責任を取って政界を引退、という辺りは、生き方として筋が通っている。「政界の一寸法師」は決して大言壮語ではない、と思います。

 その荒井氏が先日の産経新聞のインタビューでこんなことを喋ってました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【単刀直言】
荒井広幸・元新党改革代表
「安倍晋三首相は『国民の結束を問いたい』と言ったんです」
「北朝鮮危機前に総選挙は今しかない」

 実は安倍晋三首相が18日に米国に出発する前に電話で話したんです。長年の親友にして盟友である者として、臨時国会での衆院解散・総選挙への反対を進言するためです。
 私は
 「この時期の解散・総選挙は北朝鮮情勢への対応で政治空白を作るし、『もり・かけ(森友学園・加計学園問題)隠しだ』と批判される」
 とはっきり進言しました。

 私の言葉に首相はいらだつかなと思いましたが、意外に淡々としていました。
 そして私にこう言ったんです。
 「国際社会が圧力を強めない限り北朝鮮は核・ミサイルを放棄しないよ。対話と言いながら結局、時間稼ぎされて核・ミサイルがここまできてしまった。これから圧力をかけるしかない中で解散・総選挙をするのは今しかないんだ」
 「もり・かけ隠し解散」などと言われることについては
 「そういう批判は甘んじて受ける」
 と言いました。
 「これから大変な局面にどんどん進んでいくんだ。非常に困難な時なんだよ」
 とまで言うんですよ。

 首相は、自分を批判してきた人も、批判していない人も、すべての日本人を守ることを優先しているんです。大変なプレッシャーだと思います。「政治空白だ」「党利党略だ」などと他人に言われ、首相にその懸念を伝えたことは考えが浅かったと思います。今はそっくりそのまま野党にお返ししたいですね。

 今度の解散・総選挙はみんなで「日本を守るための壁」を作るような時間ではないでしょうか。
 10月18日から中国で共産党大会があります。11月上旬にはトランプ氏の来日があり、その後はアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議が控えています。
 この間に北朝鮮に対する国連安全保障理事会による追加制裁決議や、中国当局による北朝鮮の企業や個人所有の銀行口座を全面凍結したことの効果を見ることになります。
 北朝鮮が中国共産党大会に合わせてメンツを潰すようなことをしないかどうかは分かりませんが、9~10月の東アジア情勢は「小康状態」だと言えるのではないでしょうか。
 仮に最後に残るのが軍事的選択肢であっても、まだ時間を要する。米国は、国際社会に対して「ここまでやったけど北朝鮮は核を放棄する状況にない。次の段階にいかなくてはなりませんよ」と伝える責任があります。

 「解散は首相の保身だ」という批判に対してはこう答えたい。「憲法改正に必要な国会の3分の2の議席を持っているのに、それを投げ出して衆院選を打つんですよ。それは国民の命を守るという理由があるからです」とね。

 私は、昨年の参院選後に新党改革を解散したこともあり、この1年余り謹慎していました。ですが、有権者の一人として、いまの国会議論やマスコミ報道があまりに平面的過ぎると危機を感じ、口を開く決意をしました。
 福島出身の私が東日本大震災で得た教訓が2つあります。一つは「万が一は起こり得る」。もう一つは「日本人を救うのは日本人である」ということなんですよ。   (田北真樹子)

http://www.sankei.com/politics/news/170925/plt1709250002-n1.html
(転載了)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「この時期の解散・総選挙は北朝鮮情勢への対応で政治空白を作る」
 ことになると言ったら
 「~対話と言いながら結局、時間稼ぎされて核・ミサイルがここまできてしまった。これから圧力をかけるしかない中で解散・総選挙をするのは今しかないんだ」
 と言われた。
 「仮に最後に残るのが軍事的選択肢であっても、まだ時間を要する」。
 「解散は首相の保身」のためではない。「憲法改正に必要な国会の3分の2の議席を持っているのに、それを投げ出して衆院選を打つ」のは「国民の命を守るという理由があるから」だ。

 金正日の時、「もう核開発はしない」と約束して、原子炉(熱排気塔?)の一つを爆破処理したんでしたね、確か。何度もテレビで流れてたけど、記憶違いかな?
 あの時「あれはパフォーマンスでしかない。やめる筈がない」と言った人もいたけど、大方は、「とにかく、信じようじゃないか」と言っていたような・・・。

 保身のためなら解散して衆院選をやる必要なんてないわけです。国会の3分の2の議席を持っているんだから、解散しなければ100%、保身できる。それなのに、敢えて解散するのはなぜか。
 「一定の目途がついたら」と言って「(一定の目途がついたら)辞める」と思わせ、「(いつ)辞めるとは言ってない」とちゃぶ台返しをした何とか言う総理大臣とは、全く違う。

 野党の言う「大義」があるからこその解散なんだ、というのは当然すぎるくらい当然のこと。
 「大義」は、言うまでもなく「『国難』に対応するための方策を確保する」、ということ。
 「軍事的選択」という最後に残る最悪の手段を選択することになったとしても、それを実行するまでには時間がある。だから、この最悪の選択をする(かもしれない)間隙を縫って、「『国難』に対応するための方策を確保」するしかない。もう今しかない。

 「外に敵をつくって政治を行う、というやり方を日本は真似すべきではない」、みたいなことをテレビでコメンテーターが喋ってたけど、「ちょ、待てよ!」の世界です。敵をわざわざ作りましたか?あっちが勝手に盛り上がっているんでしょ?
 大体、朝鮮もチャイナも、「挑発」じゃなくってずっと「威嚇」ばかりしてきてるんですよ。
 「ほら、殴ってみろよ。ほらほら」というのが挑発。手を出させるためにする。
 「ゴㇽア!ぶっ〇すぞ、このやろう!」というのが威嚇。手を出させないためにする。
 威嚇することで手を出させない、相手を怯ませる。
 威嚇することで自らを励まし、国内の団結を図る。

 勿論、大義は他にもありますよ。でも、国の形(國體)が存続されてこそ、の「大義」ですからね。
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出掛けただけのことはある(五感)

2020年05月28日 | 日々の暮らし
2017.09/26 (Tue)

 「頼りないけど
頼るしかない」 (五感) から続き

 前日は気鬱な曇り空になって、目的を見失い、早々に帰宅。
 で、今度は明石海峡大橋(通称、明石大橋)を見に行く。

 明石大橋のたもとに「移情閣」がある。孫文が革命運動の資金集めのために日本にいた時、神戸の華僑が潜伏地として提供した別荘だ。
 すぐ近くに大橋の神戸側の橋脚があり、逆光が眩しい明石海峡の上、淡路島に向けて長大な橋が伸びている。先端は霞んで見えない。
 孫文は決して清廉な革命の士、ではなかった、というのが最近の定説になっている。日本に対し、老子の「怨以徳」を挙げて、「罪を追求しない」と言った蒋介石もそうだった。毛沢東に至っては言うまでもない。

 清廉な人ほど早々と失脚するか抹殺されるか、するのが世の常だ。「悪い奴ほどよく眠る」「憎まれっ子世に憚る」、だ。これで世の中が良くなる筈はない。
 そうなると、気が付けば「悪い奴ばかりが世の中を動かしている」ことになってくる。
 つまり、「世の中はひたすら悪くなるだけのもの」となるか。
 ここで
 「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが(チャーチル)」
 という箴言を思い出す。
 これには「逆説的に『だから民主主義が最高の政治だ』と言っているのだ」との説明がある。
 これと重ねると、「悪い奴ばかりが世の中を動かしている」ことが、「世の中はひたすら悪くなるだけのもの」という結論にはならないことが見えてくる。
 「悪い奴」の業績を並べ立て、流れの中でその軽重を問えば、見え方はまた変わってくる。例えば圧倒的支持を得ていた小泉政権は何を為したか。例えば中曽根長期政権は日本の発展にどんな寄与を?
 「国(国益)を思って」の発言か、「正義(或いは大義)を押し立てて」の発言か。(前者なら国が盛んになり、後者なら国民はそっぽを向く)

 明石海峡大橋ができて明石フェリーがなくなった。あの小さなフェリーに30分から一時間、辛抱強く待ってバイクで乗り込む。
 建設中も含めて、巨大な明石大橋を真上に見ながら、三十分かけて岩屋港に向かう。こんな途方もない大工事の進捗状況を間近で見ることができる。淡路ツーリングの大きな楽しみの一つだった。
 橋ができて乗船客は激減、フェリーは採算が取れず廃止となった。橋の通行料は高いし原付バイクは橋を渡れないから、と別のラインは存続しているけど、それより大きいバイクは乗船できない。待ち時間のなくなった便利さの代わりに、失ったものも多い、ということになる。けれど・・・・。

 明石海峡をまたぐ大橋を背景に移情閣が聳えている。
 これを見ていると、
 「それでも孫文がいなければ、今の東アジアの発展(良し悪しは別にして)はなかっただろう」
 「この橋が架けられなければ、今の淡路、四国の姿はない」
 と、感じる。
 損得だけで、善悪だけで、是非という基準だけで、物事を判定すると、「変化」は勿論のこと、人心の向上・発展は見えてこないだろう。

 明石大橋を間近で見ると、「太陽の塔」を見た時と同じく、「人間はこんなことだってできるんだ」、と実に単純な「やる気」みたいなものが湧いてくる。
 「大自然の中では人間なんてちっぽけだ」と、「諦観」や「悟り」のようなものを感じるより、生産的だろう。

 眩い海の照り返しと、中空にかかる大橋、眼前の移情閣。そんなものには目もくれない多くの釣り客。
 それらを見ながら、そんなことを思っていた。

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頼りないけど頼るしかない(五感)

2020年05月28日 | 日々の暮らし
2017.09/25 (Mon)

 台風が過ぎて、気が付いたら秋になっている。
 九月もあと一週間足らずで終わる。が、頭の中は稔りの秋、とはいかず鈍磨していくばかり。

 生野菜たる最新情報は、能く見ると意外に古かったりする。特にネット情報は、私のような日付をしっかり見ないおっちょこちょいは、二、三年前のものをつい昨日のことのような感じで流し読みしたりする。
 結果、時系列が無茶苦茶になり、秀吉軍が朝鮮の鉄砲隊の前に敗走する、という大喜劇が頭の中で展開されたりして・・・。いや、そんなにひどいことは無いように思ってはいるのだけれど・・・。
 温野菜に当たる、テレビや新聞による「批評」「評論」「概説」には、妙な着色や味付けが初めからしてあって、そんなものだと思って見るから、そうでない自然のままのものは妙に頼りなく、インパクトに欠ける。料理屋の食べ物は味が濃く、家のおかずは妙に頼りない味なのは同じ理由からなのかもしれない。

 というわけで、本当に新鮮で自然のものは、となると己の五感に頼るしかないわけだが、この五感、古いかもしれない生野菜や人工甘味料、着色料の総動員された濃い味付けの温野菜等に、知らず、慣らされていて、そのウソを見破る感覚を研いだことがないのが普通だろう。
 つまり、唯一、頼れる筈の舌(五感)も、実は些か以上に頼りない。それでも何かにつけて、本当ならその頼りない五感に頼るしかない。
 ならば、情報は取りに行こう。秋の空気の中で五感を研いでみよう。幸い今日も晴天だ。昨日失敗した秋を探しに、再び出てみよう。

・・・・なんてことを書いたのは、外に出るための口実です。言うまでもないことですが。
 とにかく、こんなに良い天気だと、家の中でじっとしているわけにはいかない。片雲の風の誘いは拒めない。

 だから昨日は北の方、青垣辺りまで行ってみようと思っていた。それが天気予報とは違って、空には薄雲がかかり、段々に日射しも弱くなり、いざ出ようとした時には気が滅入りそうな曇り空になってしまった。それでも出たんだけれど。
 秋風は吹き始めていても、ヘルメットのせいで走っている時にはあまり感じない。それよりも夏の名残の強い日射し、その最後の抵抗ばかり感じる、曇っているくせに。
 あまり面白くないので、早々と切り上げて、三時間余りのショートツーリングは呆気なく終わった。

 それで今日、また性懲りもなく、出かけた。何故って、今日は晴れている。
 出掛けないわけにはいかない!!


           (続く)


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ネット情報、新聞

2020年05月28日 | 心の持ち様
2017.09/21 (Thu)

 「情報は新鮮なものほど価値がある。そして、情報はネットでほぼ完璧に収集できる。」
 なんてことを、世間では言う。
 ネットを見ると、成る程、一日一回発行の新聞が載せているニュースを、そのまま転載したものが大半だから、新聞が手元に届くより早くネットで同じニュースが挙がる、なんてことは当たり前になった。
 時にはネットに転載された新聞のニュース記事をテレビ局が見つけ出して、細部まで調べてまとめ直した事を報道したりする。事実そのままで加工されておらず、その方が理解しやすい、なんてこともあり、それじゃ一体新聞って何なんだ、分かり易く説明するもんじゃないのかと疑問符がつけられることも多くなってきた。

 何しろ紙に記事として印刷されているわけだから、間違いなんかなさそうなものだけど、まあ「新聞(新しく見聞きした)」、というくらいだから、間違いだらけだ。
 実際、私の子供の頃は、「新聞の七割はウソ(或いは誤報道)」と言われていた。
 「まさか。新聞にウソは書いてないだろう。踏んだら叱られるくらい大事にされているのに」
 そう思っていたけど、小学生の時、地元で上級生が溺死した記事を新聞で見て、「七割はウソ(誤報)」という言葉がほぼ正しい評価だったと知る。正確には「七割」ではなく、八割以上、だったが。

 「それもしょうがない。地方の小さな記事は電話取材だけで書くんだから個人名や地名は誤字があって当然だろう。そうなると事件の経緯や人がどう思っているか、なんてまともに書ける筈がない」
 理屈で、そう捉え直せるようになったのは高校生になってからだったろうか。さらに、理屈ではなく、実感として分かるようになったのは仕事に就いてからだった。

 だが待てよ。新聞記事はそうだけれど、ネットの情報(或いは記事)はどうなんだ?ネットの情報は新聞記事の転載「だけ」か?
 新聞記事は見出しの後に本文が載る。ネット情報でも「~速報」などは見出しだけが表示され、見ようとしなければ本文は表示されない。
 ということは、必然的にその見出しは「惹句」の色合いを帯びてくる。羊頭狗肉な誇大広告の可能性は、新聞をはじめとする活字媒体の何倍、何十倍もある。
 ネット情報の「見出し」だけ見て、或いは本文の一部だけ流し見て、「分かった!」と、「収集すれば『まとめ』は簡単なこと」、と、してはいないだろうか。核心の感得(本質把握)は言うまでもなく、本質の「理解」でさえ実はできていないのではなかろうか。

 生野菜のつもりで新聞を読んでいた。それが実は生野菜を演出する「見出し」という加工が施されてあった。本文に至っては、事実と見紛うように、印象操作が為される文章術を以て書かれてあった。
 「そんなに生野菜、たくさんは食べられないしなぁ~」と思っていたら「なんだ、生野菜じゃなかったんだ。たくさんは食べられないと思ってたけど、そういうことだったのか。でも、少量だって加工されてたら舌がやられてしまうじゃないか」

 ということで、
 「事実が書かれている、と信じて新聞読んできたのに。色がついていたのか!じゃ、ネットの見出しだけでいいじゃないか」
 でも、
 「ネット情報は見出しだけが表示される」
 だから
 「必然的にその見出しは「惹句」の色合いを帯びてくる。羊頭狗肉な誇大広告の可能性は、新聞をはじめとする活字媒体の何倍、何十倍もある。」

 「あれはダメだからこれに」。「いや、これもダメだからそっちに」。
 大して考えもせずに全否定して次に乗り換える。いつまでこんな無駄なことしてるんだろう。

 そう思ってたら、昨晩「さんまのホンマでっか?」、みたいなタイトルの番組で、虫垂のことを「無用どころか有用以上の優れた臓器で、安易に切除すべきでない」と言っていた。
 「いつからそういわれるようになったん?」
 「ここ5、6年」。

 「盲腸だ。切る」、と言ってたのから「あれは盲腸ではない。虫垂だ。虫垂炎だ」、と言われるようになって、「人体に無駄なものは、ない。虫垂にもちゃんとした意味がある筈だ」となった。
 「だから、安易に切るべきではない」と聞くようになって、もう数十年になる。でも、「優れた臓器だから」、となったのは、「ここ5、6年」。
 「何やそれは!」と言ってしまうことは簡単だ。けど、「実は数十年かかって、ずっと研究が続けられていた」ということに着目することの方が大事なのではないか。

 「何でこの大変な時に解散なのか。今、ミサイルを向けられたら・・・」
 「あほか」と思う。「まだ核弾頭を完璧には作れない、取り付けるためにも開発が十分でない今」、しか、こちらの体制が作れないじゃないか。体制をつくるためには法整備をしなければならないのだから。

 生野菜も食べなきゃならない。でもそれだけじゃ足りないから、温野菜も食べなきゃ。
 けど、一番大事なのは、生野菜も温野菜も嫌々ながら仕方なしに食べるのではなく、感謝して美味しくいただくこと。
 初めから「そこ、筋張ってて不味いですから、バッサリと切り捨てましょう」、というのは「虫垂?要らん。切ってまえ」と同じ。

 ところで、五年ほど前、胆石のせいで胆嚢切り取ったんだけど・・・・。やっぱり数十年後、「胆嚢は優れた臓器だから~」なんてことになるのかな?
 ・・・・なんてこと言ったら、鬼が笑い死にするか・・・。

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