CubとSRと

ただの日記

「倣うのは簡単」。・・・・・ほんと?

2020年05月11日 | 心の持ち様
2013.09/30 (Mon)

 これ、2010年2月3日の日記の部分転載が主になっています。
 何故、そんな古い日記を転載するのか、って?
 「是々非々」について考え続けてみたいからです。

 初めは「是々非々の誤解」、ってつけようかと思ったんですが、まだそんなに言い切る程の考えもないので、まずは取り掛からなきゃ、ということで。

 では、転載です。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 「人を見て、いいなあと思ったことは真似る、あれは良くないというところはまねしない。そうしていれば、悪くなるはずがない」なんて言いますけど、そう簡単にはできることじゃありません。
 反対に、普通は「もっといいことを習いなさい!変なことばかり真似して!」と、父親にくっついて歩く男の子が、母親に叱られる。
 これは子供に限ったことではありません。大人だってそうです。
 「これが最高峰、究極の技である」といくら提示されたって、誰も真似しません。
 「真似しない」んじゃなくて、「真似できない」んですね、ホントは。

 「それ、話が飛んでる。次元が違うよ」と、ここまで書けば必ず突っ込まれるんですが、実は意外に、違ってない。
 剣道を習ったことのある人ならご存知ですね、剣道には「日本剣道形」という太刀七本、小太刀三本の組み型があります。簡単そうに見えますがとても高度な技術で、なかなかまともに出来るものではありません。
 それもそのはず、で本来は、武徳会教師となった各流儀最高の術者が、自流の最高の「型」を持ち寄ったからです。
 つまり、諸流儀の精髄が十本。これを学べば、みんな日本一になれるわけです。

 では、実際は?
 竹刀を持っての稽古の中で、この剣道形が遣われることは、まず、ありません。
 遣えないのです。
 各流儀の最高の技(極意の技)というのは、それぞれの流儀が工夫をこらして修練を積み重ね、その結果つくり上げた集大成、最高傑作、なのです。
 言い方を換えれば、何十年もかかって一途にその流儀だけを習ってきた、その証し。それが、その流儀の「極意の技」です。
 
 海上に見える氷塊が「極意の技」ということです。海中には途方もなく大きい、山のような氷塊がある。長い熱心な修業がある。
 そんな海上の氷塊だけを十個寄せて、海に浮かべたら十個分の高さになるか。ありえません。十個全部沈みます。

 「良いこと」と言われるものの殆どは、それなりの習練、修練の結果、その人が
自身の力で手に入れたものです。
 簡単には手に入らない、と感じるからこそ、そして、直感的にレベルの差が分るからこそ、「良いもの」と認定されます。
 だから、「良いことだけを習って~」というのは道理上無理、です。
 気持ちは大事なんですよ。
 「悪いことも習え!」って言ってるんじゃないんです。

 そうじゃなくて、良いことだけを習おうと、一所懸命に取り組んだって初めはうまくいく筈がない。(うまくいったとしたら、それは大して良いものじゃない。)
 その時(うまくいかない時)に、この道理を知らないと「やっぱり、オレ、才能ないんだ」とか「いつ芽が出るか分からないし、これ以上迷惑かけられない」と途半ばにして無念のリタイア、となる。それを言いたいんです。

 言葉遊びに見えそうになってきたので、実例を一つ二つ。
 悪いところを倣ってしまう例。

 私の習った師範代に聞いた話です。
 (師範代が)子供の頃、一人で稽古をしていると、普段は顔をあわせることのない門人がやって来た。
 会釈だけして稽古を続けていると、不意に「○○さんに習ったな」と言われる。
 その通りなものだから、驚いて「はい」と応え、
 「わかりますか?」と問うたら
 「わかる。○○さんの悪いところばかり習っているからな」

 「どうしたら良いんでしょう」と今度は私。
 すると
 「そりゃ、一人じゃなくて、二人、三人から習えばいい」。
 「それなら、あまり悪くならないんですか?」
 「いいや。それぞれの悪いところばかり習ってしまうよ」
 「???」


 昔の門人の話。
 その門人は、とにかく神経が鈍いというか、センスがないというか、いくら教えてもちっともうまくならず、一年、二年と経つうちに、後から入った者にどんどん追い越されていく。怠けているどころか、その正反対。誰よりも稽古熱心で、とにかくひたむきに取組むんだが、やっぱり上手にならない。
 さすがに、師範は気の毒に思い、
「人には向き不向き、ということがある。お前には剣術より槍術の方が向いているかもしれない。それだけの熱心さがあれば、必ず世に出られるぞ」
 と替え流を勧めた。その門人は黙って話を聞いていたが、頭一つ下げて何も言わず帰って行った。
 
 次の稽古の日、師範が道場に出てみると、その門人が稽古をしている。
 かわいそうなことをした、と思ってはいるが、話をしたことが分からなかったんだろうか、とまた前回のように稽古の後、その門人を呼んで諭した。
 門人は、というと、同じくだんまりで、頭一つ下げて帰って行った。
 次の稽古日も、その次もちっとも聞えた風がない。師範も終に腹を立てて叱りつけた。すると門人は、自分はここの道場以外で習う気はないから、とにかく居させてくれと頼み込む。
 流儀の教えを信じて通っているのだから、と正論で以って頼みこむ門人に師範も、そこまで言うのならわかった、と稽古を続けさせる。

 その後も相変わらずの状態が続いたが、いつか急に腕を上げ、門人の全てが一目置く師範代になった。

 今、日本の優れた産業技術や、目新しい文化が、諸外国で人気です。日本ほどではないけれど、随分な短期間で実力をつける国もあります。
 「日本から新幹線を買ったが、改良して、もっと早く走らせることができるようになった。もはや日本の技術力は、我が国の敵ではない。」
 自信満々でこう言う国もすぐそばにあります。

 良いこと、優れていることには、それなりの海面下の部分があるんです。海上の一部だけ真似したって、それはその場でしか通用しない。
 ここまでは当たり前にできるけれど、目標に到達するのは、どんな分野でもそう簡単なことではありません。
 しかし、「日本には何でもあるから」、と油断していれば、追い抜かれるのは一瞬、のことです。今の日本は先人がつくったのですから。
 「先人の業績」と「今の日本人」はイコールではありません。

            (以下略)

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 「良いところはまねる。良くないことはマネしない」
 でいれば、
 「世の中は良くなる」
 でも、実際は
 「悪いところばかりマネをする」

 「是は是、非は非とする」
 そうすれば、
 「世の中は分かり易くなる」
 でも、実際は
 「非の見直しで混沌として来る」

 「良い」と「悪い」=「是」と「非」の関係。
 世の中、まだ、そんな風に思っている人が多いんじゃないでしょうか。
 「良い」と「悪い」は対立関係ではなく重層関係でしょう。
 反対に
 「是」と「非」は対立の色が濃い。

 安易な文字の置き換え、簡略化、言葉の言い換え、喩えの乱用(濫用でなく)等で、考え方は簡単に捩じれます。
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「正しいこと、言ってるじゃないか!」・・・・??それで済ませていいのか。

2020年05月11日 | 心の持ち様
2013.09/28 (Sat)

 最近「是々非々」についてばかり書いているような気がします。
 いくら書いても、ちっとも考えがまとまらないから、でしょうか。
 それとも、ここに大きな何かが隠れているからでしょうか。

 昔、国語の教科書か何かに「濫読の勧め」という題名の文章が載っていたように思います。
 「濫読」、という文字通り、手当たり次第に、思うが儘に本を読む。
 そうすることで幅広く雑多な知識や考え方が手に入り、それが柔軟で豊かな自身を形成していくことになるのだ、みたいなことが書かれていました。

 「情報化社会」、というのはもう数十年前から言われていたことです。
 いや、或る意味では江戸時代には既にそれを意識させるようなことが現実に行われていた。米相場なんかは山に登って、旗を振って連絡を取っていたそうですからね。アナログだってデジタルだって情報のやり取りの重要性を意識するようになれば立派に「情報化社会」です。あ、脱線しました。

 「情報が増々氾濫していく社会にあって、取捨選択は必要不可欠なことである」、なんて、だからずっと聞いて来ました。
 しかし、この「濫読のススメ」と「情報化社会の取捨選択」、肝腎なことに言及されてない。
 「濫読」をすれば、自然に「柔軟で豊かな自身を形成できる」。
 それ、ホントか?
 「情報の取捨選択」って、その基準は???
 知識を、情報を、寄せ集めれば人間は豊かになるのか。
 何でもかんでも貪るようにして手に入れていけば、それは豊かな人間性を作り出すことができるのか。それ、「顔なし」になるだけなんじゃないのか。

 「取捨選択」って、言うほど簡単にできることなんでしょうか。
 そりゃあ確かに、知識の取捨選択ってのは目に見えるものほどに難しくはない。滅多に着ない服だって、傷んでなければ、思い出があれば、なかなか捨てられない。
  けど、知識や考え方、なんてのは使わなければすぐに忘却の彼方に去ってしまう。捨てるのに時間はかからないし未練もない。
 双方に共通することは「取捨選択の基準」、「是々非々の意識」について何も説かれていないという事です。
 何を以て取捨選択の基準とするか。
 何を以て、是とし、非とするのか。そのことが全く書かれてない。
 一番大事なことなのに、そこのところは個々人の主体性に任せてある。

 「個々人の主体性に任せてある、っておかしいか?」おかしいですよ。
 大人も子供も同じ、ということですよ?個々人なんだから。
 たくさん本を読んだ者もそうでない者も同じ。個々人なんだから。
 長年勉強をしてきた者もそうでない者も同じ。
 分別のつく大人も、幼稚園児も同じ。
 何かおかしくはないですか。

 ここからは去年書いた日記です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ・「この件に関しては、評価できる」
 ・つい思ってしまう「是々非々」。(いつもは「一事が万事」と言ってるくせに)

 「ダメなものを排除して、良いものだけを抽出する」などという極めて困難な作業を、誰もが出来るように言っている段階で、その人間に信を置く必要は無い。

 自画自賛ながら、このことは何度も日記に書いて来ました。
①「取捨選択することが必要だ」とか
②「悪いことは習うな。良いことだけ真似をしろ」とか
③「外見に惑わされるな。要は中身だ」とか。
 こんなのできる筈もないことです。
 「取捨選択する」には、そのための「能力」が必要です。「能力」は自分で作るしかありません。なければ、師匠の指示に従うしかない。

 「悪いこと」とは、習練の過程で「必ず歩かねばならないところ」、の別名です。
 「良いところ」は、その支えの上にしか、存在しない。ということは良し悪しは取捨選択の判断基準にはならない。
 そして判断は「外見」からしか始まりません。わざと外見を悪く見せるのを、「奇手」と言います。初めから奇手で接してくる者を、信用なんかできません。
 奇手を用いる者は、正手を信用していません。だから、命のかかった場合にも奇手を用います。
 けれども、正攻法で中心を取り、全力でぶつかってくる者を、奇手が余裕を持って捌くことはできません。

   2012年8月26日
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七か月前、です。

2020年05月11日 | 心の持ち様
2013.09/23 (Mon)

 七か月前、世の中はTPPのことで大騒ぎだった。
 安倍総理が再度内閣を組織して数か月、でしかなかったのに。
 あれだけ「安倍総理待望論」みたいな意見が聞かれていたのに。
 もう
 「裏切られた」、「所詮アメリカのポチだ」、「岸信介の孫だからな」
 「新自由主義者だから」

 そして8月。
 言わずと知れた靖国参拝。8月15日に参拝するか否か。

 今は勿論、消費税。
 「増税を決断」したというニュースが最初に流れたのはいつだったろうか。
 どこのメディアだったろうか。
 おかしなことに、総理の周辺が言っている、とあるだけで総理自身の言はまだない。それなのに「増税を決断」「税制についての議論を指示」等のニュースが次々と出てくる。

 民主主義の国では総理はマジシャンみたいなものだ。大掛かりな仕掛けと、それを支える「サクラ」と、見事に騙されることを待ち望む人々こそが主役であって、総理は魔力なんか持っていない。
 だからこそ、「劇場型政治」などというものが出来たりした。エンターテインメントに徹して、百年の計はそっちのけだ。

 ところが今、「総理は魔力(実力)なんか持ってない」「与党議員なんてみんなサクラじゃないか」「騙してみろ。絶対にタネを見破ってやる。」

 バッカじゃなかろか。国政とマジックを一緒にしてどうする。そして何より「民主主義」をどこかに置き忘れて来ているんじゃないか。

 以下は七か月前の日記です。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  「情報に振り回される」   2013 02/21

 「日本人は政治についてあまり興味を持たない」
 「国政について何も知らず、話し合いもしないなんて考えられない」
 「だから、国民は一流なのに、政治は三流なんだ」

 よく聞きましたね、こんな評判。
 外国人、特に西洋人から見れば、日本人は「自国のことを全く知らないおバカさん」らしい。
 紛争の絶えないアラブ諸国では「何で政治について考えないのか?」、と不思議がってるフィフィさん。
 選挙権のない隣国にまで、「小日本なんかミサイルで粉砕せよ!」「尖閣に隕石落ちて、なくなれば良かった」・・・・って、これは違うか。
 でも、選挙権なくって、「愛国(無罪)」を叫ぶ人々と、「選ぶ人がいないから選挙に行かなかった」という日本人と・・・・・・。

 ところで、こんな論評はどうでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 世の中、知らないことが多い。また、知らないでいいことも多い。政治に関する問題は、その典型であろう。
 政治問題について、ことさら詳しくなる必要もない。政治に対する「意識の低さ」は、格別に非難される謂われもない。
 ましてや国民性云々と、外国人に言われる筋合いは全くない。
 何故なら、国民が政治に無関心であることは、その国の政治が上手く機能していることの、一つの証だからである。
 もちろん、独裁による圧政により、自由に話が出来ない、関心を持つことそれ自体が身に危険を及ぼす行為となるような国の場合、この限りではないが、誠に有難い話に、我々は世界中で最も「自由な国」で暮らしているのである。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 政治が上手くいっているのだから、無関心であっても我々日本人としては何も問題はないのだ、と書かれてあります。
 「そんなバカなことがあるか、もっと関心を持たなければ」。
 そう思いますよね?普通。
 でも、考えてみれば関心を持た「なければいけない」ものって、「~なければならない」「マスト」なものって、一体何でしょうか。
 そう思うと「はて?」、です。
 「~ねばならない」こと、というのは時と場合で変わります。
 「危急の際(緊急の際)」「必要なこと」「興味があること」等々。

 そうでない場合は「~ねばならない」、なんてない。早い話が休憩してればよい。
 それが証拠に、今、政治に関心が持たれている。
 内閣支持率が上昇を続けている、というのは、今それだけ「緊急の状態」になっている、ということでしょう?
 今、「日本っていいなぁ~」的なテレビ番組、ブログ、本が多くなっている、というのは、今それだけ「緊急の状態」になっている、ということでしょう?

 そう考えると、日本の歴史も知らず、現状だけを近視眼的な目で見て、言いたいこと言ってほしくはないやね。外国人は当然ながら、外国人もどきの目をした日本人にも。

 昔、ヘーシンク選手が「日本の柔道には技はあるけど、使い方が慣れてない」、と言った時、誰も反論できなかった。
 後に「それは全くの反対だ。日本の柔道は使い方の練習ばかりで、技がないのだ」、と論破したのは、柔道家ではなく、空手家だった。

 「必要に迫られて」「切羽詰って」という状態には、なかなかならないのが島国だ。
 戦後、そこを「必要以上」に気にするようにと、教育され、島国根性はひっくり返ってしまって、元に戻るのに往生している。
 そして、外国人もどきが「いつか来た道」、などと、備えた近視眼で群衆となり、象を評する。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 安倍内閣の支持率が史上最高と報じられようと、史上最低と報じられようと、それに一喜一憂する必要などない。設問の分からない問いに、聞いた方も聞かれた方も共に理解していないような問いに、興味を持つ必要など何処にもないのである。

 今は安倍政権の仕事振りを静かに見詰めながら、一定の結果が出るまで信頼して待つだけである。
 こういうことを書くと、直ぐに「盲目的な支持などカルト信者と同じだ」と言いたがる人が多い昨今であるが、そうした人は「無批判で盲目的支持など否定すべきである」ということを盲目的に信じているだけなのではないか。

 政治意識がどうのこうのと言うよりも、常識に照らして、信頼出来る人柄の政治家のその手腕に静かに期待する、そうした落ち着きを持った人だけが、「知らないことをやがて知るようになる」のである。
 信頼と批判を両天秤に右往左往しているようでは、何時まで経っても「常識」は身に付かない。50褒めたら、貶す50を探さずには居られないような弱い精神では、まさにマスコミの餌食になるだけである。
  
  
    「知らない者同士の世論調査」  
        
                     ~夕刻の備忘録より~

     http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-887.html

   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 「盲目的な支持などカルト信者と同じだ」と言いたがる人。
 「自民党になったんだ。安倍総理になったんだ。とにかく言いたいことはあるだろうけど、物事には順番・計画がある。文句を言わず、しばらく応援に努めよう」などと言うと「何を言うか。是は是、非は非だ。正しいことは正しい。間違いは間違いとはっきり言わねば」と言う人がいる。
 「で、その是なり、非は誰が決める?」と聞くと「俺が決める」。
 つまり、「今の自分のレベルが基準である」。
 ということは「私は神である」、ということだ。発展の兆しもない。
 そうした人は「無批判で盲目的支持など否定すべきである」ということを盲目的に信じているだけなのではないか。
 これが彼の基準だ、ということだ。これでは発展は、ないでしょう?

 ①何でも端から是非を決めることをしていては、却って向上は望めないのだということを考え、②いきなりのデジタル思考をやめ、また、③昔から言われていたステレオタイプの考え方を、捨てる。

 まずは「いちいち口をはさまず、最後まで話を聞きなさい!」ですかね。
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常識と風評は似ている。(まともに見るということ)

2020年05月11日 | 心の持ち様
2013.09/08 (Sun)

 随分前ですが、ひょんなことから

 「小6・中学社会  学校でまなびたい歴史」
  (小学校と中学校の歴史授業です。学習指導要領準拠、先人に感謝し国を愛する心情を育てる歴史です。)

 というブログに巡り合いました。

 長年、小学校の教師をして来られ、定年前は中学校でも歴史を教え、退職後も再就職という形(好評につき続演、というやつですね)で、小学生、中学生に歴史を教えて居られる齋藤武夫先生のブログです。

 「日本人が知ってはならない歴史」三部作を著わされた若狭和朋氏は、青春期の高校生に、日本の真実の姿を伝え、その生長に大きな刺激を与えて来られました。
 しかし、できることなら、小学生、中学生の中(うち)に「まともな」考え方を身に着けてほしい。
 「まともな」考え方。それは平静(冷静)でありながら、謙虚。そして日本に誇りを持って、国について考える姿勢、のことです。

 齋藤先生はこれまで、常にそのことを念頭に置いて教えて来られたようです。
 今回は最近行われた「自由民権運動」について、の授業の主旨をブログに挙げておられました。
 考えるチャンスをいただけたと思ったので、許可をいただき、その回の部分を全文掲載します。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  「自由民権運動の授業」

 2学期の初日は2年生2時間、1年生1時間でした。

 2年生は「自由民権運動」。
 戦後レジームの文科省教科書では、民権派が善玉で、藩閥政府は悪玉です。
 それはGHQ憲法が善玉で、大日本帝国憲法が悪玉だからです。

 しかし、それはわが国の歴史を偽るものです。

 彼らが共に「西洋列強と対等につきあえる国づくり」という目標を共有していたことは明らかだからです。
 憲法・議会・選挙という立憲政治の3本柱を打ち立てるという大方針も共有していました。
 五箇条のご誓文ですね。
 史実を記しているのはつくる会の教科書だけです!

 では対立点は何だったか?
 一日も早くやろう VS 時間をかけて誤りの無いようにやろう
でした。
 戦いは熾烈を極めましたが、西南戦争以後の「言論で戦う」という合意は大筋で守られました。

 10年後という国会開設の詔が出て、
板垣・大隈は政党を育てていく活動に、伊藤はプロシアに憲法を学びに旅立ちます。


  http://aokihumu.blog69.fc2.com/blog-entry-206.html

                       (転載了)
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 「戦後レジームの文科省教科書では、民権派が善玉で、藩閥政府は悪玉です。」

 確かにこう習いました。
 ものを知らないただのおっさんは、確かにこう習った。
 ここからは「大半の日本人はこう捉えただろう」、という話です。
 大方はそうだった。少なくとも私はそうだったという話ですので、そのつもりでご覧下さい。

 戦後教育を受けた者の大半はそうだったと思います。
 民権派は善玉だった。彼らは「一刻も早く、我々の自由民としての権利を認めて、以て、新しい政治を始めるべきだ」、と政府に働き掛けた。
 その勢いは性急な、しかし無視できない力を持っていた。

 そして、遂には民撰議院設立の建白書を出すまでになった。
 しかし、建白書を受けて選挙を行ったら、民権派が半数以上になるだろうことは明白。だから、政府は藩閥政治をやめず選挙を先延ばしに、し続けた。
 藩閥は政治を私し続けようとしたが、遂に国会を開設せざるを得なくなったため、伊藤博文が急遽、プロシアに行って、政府に都合の良いプロシアの憲法を持ってきて、真似て大日本帝国憲法をつくった、と。

 結局国会開設の時に公布された憲法は、藩閥政府がつくったものであり、数に勝る民権派の意見は採り入れられなかった。そういう風に習いました。
 私は、そう記憶しているのですが、いかがですか?

 でも、冷静に考えれば変ですよ。
 民撰議院設立の建白を受けて選挙を行ったのに、そして結果半数以上が民権派なのに、政府に一人の民撰議員も入らない、憲法制定に民権派の意見が全く反映されない、なんて。
 それを黙って指をくわえて見ている民権派の議員って一体何なんでしょう。 
 そんな役立たずの民撰議員なんて犬にでも食われてしまえ!と思います。
 板垣退助の教えを受けた者のみならず、民権運動の壮士のほとんどは元武士です。「言論でいくさをする」、と決めた人々です。蔑ろにされて、黙っている筈がない。
 なのに、どうもそういった気配がない。何故なんだろう。
 その答えがこのブログにありました。

1、《戦後レジームの文科省教科書では、民権派が善玉で、藩閥政府は悪玉です。》
2、《それはGHQ憲法が善玉で、大日本帝国憲法が悪玉だからです。》
3、《しかし、それはわが国の歴史を偽るものです。彼らが共に「西洋列強と対等につきあえる国づくり」という目標を共有していたことは明らかだからです。
 憲法・議会・選挙という立憲政治の3本柱を打ち立てるという大方針も共有していました。》

 民権派が善玉で、藩閥政府が悪玉、と言うのは、「GHQ憲法が善玉」ということが出発点となった論法だからです。
 敗戦でこれまでを否定された日本の、新しい「GHQ憲法」は善玉である。
 これまでを否定される日本の、「大日本帝国憲法」は、だから悪玉である。
 悪玉の「大日本帝国憲法」は、藩閥政府がつくったから、藩閥政府も悪玉である。
 藩閥政治に異論を唱えていた民権派は、だから善玉である。

 何とも早や、な論法です。後の世の価値基準で、過去を裁定する。ここには、「温故知新」や「稽古照今」の伝統に習う、学ぶ、といった謙虚さはありません。革命的、と言うべきでしょう、東京裁判(極東軍事裁判)と同じ発想です。
 新たな罪を設定して、判決をする。「平和に対する罪」、みたいなものですね。

 脱線しました。
 これ、底に流れているのは、「君主制」「天皇制」という考え方と同じです。
 「君主と国民は対立し、天皇と国民もまた同じである」という国の捉え方です。

 ところが齋藤先生は「それはわが国の歴史を偽るものです」と書かれています。
 「我が国では民権派と藩閥政府は対立なんかしていない。」
 それどころか
 「西洋列強と対等につきあえる国づくり」という目標を共有していた」
 ことは明らかであり、
 「立憲政治の3本柱を打ち立てるという大方針も共有してい」た
 と書かれています。

 目標も、方針も一致していた、と言うより、「共有」していたのに、何故「対立していた」「善玉悪玉」と教えられたのか。

 「ここにGHQの巧みさがあり、それを見事に我が物としたコミンテルンの手腕がある」、なんてことをいきなり言い出せば、「おいおい、大丈夫か?陰謀説も大概にしろよ」、なんて言われるんでしょうけどね。

 少なくとも、「平静(冷静)でありながら、謙虚。そして日本に誇りを持って、国について考える姿勢」、で考えたら、常識だと思ってきたことが、全く論理的でない、ほとんど風評のような学説であったりする。
 「後の世の価値基準で、過去を裁定する」、という歴史・伝統等の価値を蔑にするような無茶苦茶はしないようにこれからもよく考えなければ、と思います。
 
 それにしても、せめて中学生の頃には、こういう姿勢、考え方、を普通にできるようになったらなぁ、と。
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同じ道を辿る国同士

2020年05月11日 | 重箱の隅
2013.09/05 (Thu)

 「宮崎正弘の国際ニュース・早読み(本当にやばいゾ、中国の銀行)」
                   2013/09/05 (木)
 からなんですが、記事ではなく、今日は氏の書評を転載しようと思います。

 で、その前にその一部を御覧ください。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

                (略)
 「日本と台湾が『運命共同体』であるという理由」を次のように列挙している。

 第一に尖閣を中国に軍事的に脅かされる日本と、軍事的に飲み込まれようとしている台湾の安全保障上の危機が連動していること。

 第二にお互いが『占領憲法』をいただきながら国内の売国奴らによって妨害され自主憲法の制定がすすまない境遇も似ている。日本の占領憲法はGHQがおしつけたが、台湾の現行憲法は外来政権がもたらし、ともに国家の前途を暗くしている。

 第三は軍隊の存在がアメリカの補完部隊という位置づけが共通している。
 しかし台湾のほうに日本精神が高く残っており、独立精神は旺盛である。日本はまだ去勢された中性男子のように、日本は中国の属国に甘んじたほうが幸せというアホがなんと駐北京大使となる体たらくだった。

 しかし庶民は異なる反応を示し、民間交流は盛んである。姉妹都市も増え、台湾からの旅行者は中国より多い(人口13億と2300万の国で、台湾からの観光客のほうが多いということは、ひとりあたりに直すと数百倍の親日度になるだろう)。
                (以下略)
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 こんな風に解釈したんですが。

 台湾と日本は、手を組んで生きなければシナにやられてしまう。
 けれど我々は台湾が非常に親日的だということや、温和な人が多いという、言わば感性の部分で好感を持ち、受け入れているところが大きいのではないだろうか。
 しかし、国際関係にあっては感性と表裏の国家間のこと(外交面)でも、納得し協力し合わねばならない。それが「運命共同体」という言葉で描かれている。

 尖閣諸島を取られたら、日本周辺の海は、太平洋への扉を手にしたシナの思い通りになる。それは日本が海上封鎖されるに等しいことだ。
 周近平は「太平洋は米支で折半」と言い放った。だが、その本心は本当に太平洋にあるのか?「まずは周辺、大陸棚を抑えて、それから~」と考えるのは自明の理ではないか。
 尖閣を取れば台湾の漁民が押し寄せる。そうさせて台湾の民意をシナに傾けさせる。「これまでと同じく生活できる。香港を見よ」、と。
 日本と分断することによって、台湾を「平和裡に」一省にできる。
 台湾と日本は利害が一致している。だから、「運命共同体」。

 「占領憲法」が、ともに国家の前途を暗くしている。
 「喉元過ぎれば熱さを忘れる」暢気な国民性の者同士、互いを意識すれば憲法も・・・・。

 両国とも、軍隊はアメリカの補完部隊だけれど、当然のことながら(!)台湾の方に「日本精神が高く残っており、独立精神は旺盛」。
 「日本よりも日本らしい。」
 日本人としては些か以上にショックだけれど、これまた当然のことでしょう。
 台湾は日本に捨てられたと思い、そこにやってきた軍隊はボロボロの乞食のようになった国民党軍であって、その国民党軍に蹂躙されて今があるわけですから。
 日本は、「敗戦国である」以上に、全てを否定され続ける、特に国の歴史を否定され続ける状態が、今も続いているのですから。日本精神も独立精神も否定され続けてきたのですから。
 「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのもみんな日本が悪いから」・・・?そんな理屈ありますか?
 でも、「米を食ってたから、戦争に負けた」「漢字書いてたから戦争に負けた」「日本語しか喋れないから戦争に・・・」

 でも、見れば思い出します。だからこそ「運命共同体」。
 両国共、地球上から消滅するわけにはいきません。

 では、ここから以降、書評の全文です。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 尖閣諸島奪取と台湾攻撃はセット。日台は中国脅威論を共有
  日本にとって台湾ほど大切な国があろうか、諄々とユーモラスに説諭

  ♪
  加瀬英明『日本と台湾――なぜ、両国は運命共同体なのか』
                      (祥伝社新書)

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

 台湾が中国の一部でないことは火を見るよりも明らかである。事実上、台湾は一個の独立国家である。
 しかし世界的に孤立し、国際社会ではあたかも存在しないように扱われている。中国の政治謀略が成功した例である。
 日本のとった台湾への仕打ちは忘恩的で冷酷だった。
 田中角栄外交の大失敗は日本の外交史に汚点を残した。米国はニクソン訪中後もすぐに北京とは国交を回復してはおらず、ようやくカーター政権になって、「台湾関係法」を制定したうえで、北京と結んだ。
 このため台湾は中国の魔手に直接脅かされることになる。

 著者の加瀬英明氏は台湾へ渡航すること五十回、大の台湾贔屓だが、観察は冷静かつ客観的である。そのうえ外交論文でも、ユーモラスな文章を駆使されるので、深刻な事案もときに滑稽に、あるいはなぁんだ、そんなことか、と思うほどに輻輳した事情が簡潔に解きほぐされる。

 日本と台湾が『運命共同体』というのが本書の肯綮だが、理由を次のように列挙している。
 第一に尖閣を中国に軍事的に脅かされる日本と、軍事的に飲み込まれようとしている台湾の安全保障上の危機が連動していること。
 第二にお互いが『占領憲法』をいただきながら国内の売国奴らによって妨害され自主憲法の制定がすすまない境遇も似ている。
 日本の占領憲法はGHQがおしつけたが、台湾の現行憲法は外来政権がもたらし、ともに国家の前途を暗くしている。
 第三は軍隊の存在がアメリカの補完部隊という位置づけが共通している。
 しかし台湾のほうに日本精神が高く残っており、独立精神は旺盛である。
 日本はまだ去勢された中性男子のように、日本は中国の属国に甘んじたほうが幸せというアホがなんと駐北京大使となる体たらくだった。
 しかし庶民は異なる反応を示し、民間交流は盛んである。
 姉妹都市も増え、台湾からの旅行者は中国より多い(人口13億と2300万の国で、台湾からの観光客のほうが多いということは、ひとりあたりに直すと数百倍の親日度になるだろう)。

 個人的なことを付け加えると評者(宮崎)と著者は四十数年の交友関係、加瀬さんは兄貴分である。
 最初にふたりで台湾へ取材に行ったのは1973年、雑誌『浪曼』で、「日華断交一年の悔恨」という特集号のためだった。以後、台北のホテルで、居酒屋でばったりという体験が二回ほどある。

 ともにお世話になった『美しい日本語を台湾に残す運動』の友愛グループも、最初の訪問時、藤島泰輔氏から紹介を受けた陳燦暉氏との出会いからで、そのことも本書では語られている。
 台湾独立運動のカリスマ膨明敏の台湾脱出については、台湾で当時かかわったアメリカ人の回想がでたので、加瀬氏は、それに準拠されているが、パスポート写真の張り替えのため台湾へ潜り込んだ日本人を「K」とされている。おそらく、アメリカ人の原書がまだ匿名だからであろう。
 しかし日本ではとうに宗像隆幸氏らの著作で本名がでており、しかも数年前に、そのすりかえの役を果たした日本人が訪台して当該膨明敏とにっこり会見、その模様も実名入りで大きな写真とともに自由時報が報道した。

 あまりにも身近で郷愁の強い台湾を独特のタッチで描いた本ゆえに精神的安堵を覚える箇所も多く、すらすらと読めた。台湾が大好きな人、李登輝総統ファン、必読である。

 宮崎正弘の国際ニュース・早読み(本当にやばいゾ、中国の銀行)
 有)宮崎正弘事務所 [メルマ!:00045206]
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