2013.09/30 (Mon)
これ、2010年2月3日の日記の部分転載が主になっています。
何故、そんな古い日記を転載するのか、って?
「是々非々」について考え続けてみたいからです。
初めは「是々非々の誤解」、ってつけようかと思ったんですが、まだそんなに言い切る程の考えもないので、まずは取り掛からなきゃ、ということで。
では、転載です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「人を見て、いいなあと思ったことは真似る、あれは良くないというところはまねしない。そうしていれば、悪くなるはずがない」なんて言いますけど、そう簡単にはできることじゃありません。
反対に、普通は「もっといいことを習いなさい!変なことばかり真似して!」と、父親にくっついて歩く男の子が、母親に叱られる。
これは子供に限ったことではありません。大人だってそうです。
「これが最高峰、究極の技である」といくら提示されたって、誰も真似しません。
「真似しない」んじゃなくて、「真似できない」んですね、ホントは。
「それ、話が飛んでる。次元が違うよ」と、ここまで書けば必ず突っ込まれるんですが、実は意外に、違ってない。
剣道を習ったことのある人ならご存知ですね、剣道には「日本剣道形」という太刀七本、小太刀三本の組み型があります。簡単そうに見えますがとても高度な技術で、なかなかまともに出来るものではありません。
それもそのはず、で本来は、武徳会教師となった各流儀最高の術者が、自流の最高の「型」を持ち寄ったからです。
つまり、諸流儀の精髄が十本。これを学べば、みんな日本一になれるわけです。
では、実際は?
竹刀を持っての稽古の中で、この剣道形が遣われることは、まず、ありません。
遣えないのです。
各流儀の最高の技(極意の技)というのは、それぞれの流儀が工夫をこらして修練を積み重ね、その結果つくり上げた集大成、最高傑作、なのです。
言い方を換えれば、何十年もかかって一途にその流儀だけを習ってきた、その証し。それが、その流儀の「極意の技」です。
海上に見える氷塊が「極意の技」ということです。海中には途方もなく大きい、山のような氷塊がある。長い熱心な修業がある。
そんな海上の氷塊だけを十個寄せて、海に浮かべたら十個分の高さになるか。ありえません。十個全部沈みます。
「良いこと」と言われるものの殆どは、それなりの習練、修練の結果、その人が
自身の力で手に入れたものです。
簡単には手に入らない、と感じるからこそ、そして、直感的にレベルの差が分るからこそ、「良いもの」と認定されます。
だから、「良いことだけを習って~」というのは道理上無理、です。
気持ちは大事なんですよ。
「悪いことも習え!」って言ってるんじゃないんです。
そうじゃなくて、良いことだけを習おうと、一所懸命に取り組んだって初めはうまくいく筈がない。(うまくいったとしたら、それは大して良いものじゃない。)
その時(うまくいかない時)に、この道理を知らないと「やっぱり、オレ、才能ないんだ」とか「いつ芽が出るか分からないし、これ以上迷惑かけられない」と途半ばにして無念のリタイア、となる。それを言いたいんです。
言葉遊びに見えそうになってきたので、実例を一つ二つ。
悪いところを倣ってしまう例。
私の習った師範代に聞いた話です。
(師範代が)子供の頃、一人で稽古をしていると、普段は顔をあわせることのない門人がやって来た。
会釈だけして稽古を続けていると、不意に「○○さんに習ったな」と言われる。
その通りなものだから、驚いて「はい」と応え、
「わかりますか?」と問うたら
「わかる。○○さんの悪いところばかり習っているからな」
「どうしたら良いんでしょう」と今度は私。
すると
「そりゃ、一人じゃなくて、二人、三人から習えばいい」。
「それなら、あまり悪くならないんですか?」
「いいや。それぞれの悪いところばかり習ってしまうよ」
「???」
昔の門人の話。
その門人は、とにかく神経が鈍いというか、センスがないというか、いくら教えてもちっともうまくならず、一年、二年と経つうちに、後から入った者にどんどん追い越されていく。怠けているどころか、その正反対。誰よりも稽古熱心で、とにかくひたむきに取組むんだが、やっぱり上手にならない。
さすがに、師範は気の毒に思い、
「人には向き不向き、ということがある。お前には剣術より槍術の方が向いているかもしれない。それだけの熱心さがあれば、必ず世に出られるぞ」
これ、2010年2月3日の日記の部分転載が主になっています。
何故、そんな古い日記を転載するのか、って?
「是々非々」について考え続けてみたいからです。
初めは「是々非々の誤解」、ってつけようかと思ったんですが、まだそんなに言い切る程の考えもないので、まずは取り掛からなきゃ、ということで。
では、転載です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「人を見て、いいなあと思ったことは真似る、あれは良くないというところはまねしない。そうしていれば、悪くなるはずがない」なんて言いますけど、そう簡単にはできることじゃありません。
反対に、普通は「もっといいことを習いなさい!変なことばかり真似して!」と、父親にくっついて歩く男の子が、母親に叱られる。
これは子供に限ったことではありません。大人だってそうです。
「これが最高峰、究極の技である」といくら提示されたって、誰も真似しません。
「真似しない」んじゃなくて、「真似できない」んですね、ホントは。
「それ、話が飛んでる。次元が違うよ」と、ここまで書けば必ず突っ込まれるんですが、実は意外に、違ってない。
剣道を習ったことのある人ならご存知ですね、剣道には「日本剣道形」という太刀七本、小太刀三本の組み型があります。簡単そうに見えますがとても高度な技術で、なかなかまともに出来るものではありません。
それもそのはず、で本来は、武徳会教師となった各流儀最高の術者が、自流の最高の「型」を持ち寄ったからです。
つまり、諸流儀の精髄が十本。これを学べば、みんな日本一になれるわけです。
では、実際は?
竹刀を持っての稽古の中で、この剣道形が遣われることは、まず、ありません。
遣えないのです。
各流儀の最高の技(極意の技)というのは、それぞれの流儀が工夫をこらして修練を積み重ね、その結果つくり上げた集大成、最高傑作、なのです。
言い方を換えれば、何十年もかかって一途にその流儀だけを習ってきた、その証し。それが、その流儀の「極意の技」です。
海上に見える氷塊が「極意の技」ということです。海中には途方もなく大きい、山のような氷塊がある。長い熱心な修業がある。
そんな海上の氷塊だけを十個寄せて、海に浮かべたら十個分の高さになるか。ありえません。十個全部沈みます。
「良いこと」と言われるものの殆どは、それなりの習練、修練の結果、その人が
自身の力で手に入れたものです。
簡単には手に入らない、と感じるからこそ、そして、直感的にレベルの差が分るからこそ、「良いもの」と認定されます。
だから、「良いことだけを習って~」というのは道理上無理、です。
気持ちは大事なんですよ。
「悪いことも習え!」って言ってるんじゃないんです。
そうじゃなくて、良いことだけを習おうと、一所懸命に取り組んだって初めはうまくいく筈がない。(うまくいったとしたら、それは大して良いものじゃない。)
その時(うまくいかない時)に、この道理を知らないと「やっぱり、オレ、才能ないんだ」とか「いつ芽が出るか分からないし、これ以上迷惑かけられない」と途半ばにして無念のリタイア、となる。それを言いたいんです。
言葉遊びに見えそうになってきたので、実例を一つ二つ。
悪いところを倣ってしまう例。
私の習った師範代に聞いた話です。
(師範代が)子供の頃、一人で稽古をしていると、普段は顔をあわせることのない門人がやって来た。
会釈だけして稽古を続けていると、不意に「○○さんに習ったな」と言われる。
その通りなものだから、驚いて「はい」と応え、
「わかりますか?」と問うたら
「わかる。○○さんの悪いところばかり習っているからな」
「どうしたら良いんでしょう」と今度は私。
すると
「そりゃ、一人じゃなくて、二人、三人から習えばいい」。
「それなら、あまり悪くならないんですか?」
「いいや。それぞれの悪いところばかり習ってしまうよ」
「???」
昔の門人の話。
その門人は、とにかく神経が鈍いというか、センスがないというか、いくら教えてもちっともうまくならず、一年、二年と経つうちに、後から入った者にどんどん追い越されていく。怠けているどころか、その正反対。誰よりも稽古熱心で、とにかくひたむきに取組むんだが、やっぱり上手にならない。
さすがに、師範は気の毒に思い、
「人には向き不向き、ということがある。お前には剣術より槍術の方が向いているかもしれない。それだけの熱心さがあれば、必ず世に出られるぞ」
と替え流を勧めた。その門人は黙って話を聞いていたが、頭一つ下げて何も言わず帰って行った。
次の稽古の日、師範が道場に出てみると、その門人が稽古をしている。
かわいそうなことをした、と思ってはいるが、話をしたことが分からなかったんだろうか、とまた前回のように稽古の後、その門人を呼んで諭した。
門人は、というと、同じくだんまりで、頭一つ下げて帰って行った。
次の稽古日も、その次もちっとも聞えた風がない。師範も終に腹を立てて叱りつけた。すると門人は、自分はここの道場以外で習う気はないから、とにかく居させてくれと頼み込む。
流儀の教えを信じて通っているのだから、と正論で以って頼みこむ門人に師範も、そこまで言うのならわかった、と稽古を続けさせる。
その後も相変わらずの状態が続いたが、いつか急に腕を上げ、門人の全てが一目置く師範代になった。
今、日本の優れた産業技術や、目新しい文化が、諸外国で人気です。日本ほどではないけれど、随分な短期間で実力をつける国もあります。
「日本から新幹線を買ったが、改良して、もっと早く走らせることができるようになった。もはや日本の技術力は、我が国の敵ではない。」
自信満々でこう言う国もすぐそばにあります。
良いこと、優れていることには、それなりの海面下の部分があるんです。海上の一部だけ真似したって、それはその場でしか通用しない。
ここまでは当たり前にできるけれど、目標に到達するのは、どんな分野でもそう簡単なことではありません。
しかし、「日本には何でもあるから」、と油断していれば、追い抜かれるのは一瞬、のことです。今の日本は先人がつくったのですから。
次の稽古の日、師範が道場に出てみると、その門人が稽古をしている。
かわいそうなことをした、と思ってはいるが、話をしたことが分からなかったんだろうか、とまた前回のように稽古の後、その門人を呼んで諭した。
門人は、というと、同じくだんまりで、頭一つ下げて帰って行った。
次の稽古日も、その次もちっとも聞えた風がない。師範も終に腹を立てて叱りつけた。すると門人は、自分はここの道場以外で習う気はないから、とにかく居させてくれと頼み込む。
流儀の教えを信じて通っているのだから、と正論で以って頼みこむ門人に師範も、そこまで言うのならわかった、と稽古を続けさせる。
その後も相変わらずの状態が続いたが、いつか急に腕を上げ、門人の全てが一目置く師範代になった。
今、日本の優れた産業技術や、目新しい文化が、諸外国で人気です。日本ほどではないけれど、随分な短期間で実力をつける国もあります。
「日本から新幹線を買ったが、改良して、もっと早く走らせることができるようになった。もはや日本の技術力は、我が国の敵ではない。」
自信満々でこう言う国もすぐそばにあります。
良いこと、優れていることには、それなりの海面下の部分があるんです。海上の一部だけ真似したって、それはその場でしか通用しない。
ここまでは当たり前にできるけれど、目標に到達するのは、どんな分野でもそう簡単なことではありません。
しかし、「日本には何でもあるから」、と油断していれば、追い抜かれるのは一瞬、のことです。今の日本は先人がつくったのですから。
「先人の業績」と「今の日本人」はイコールではありません。
(以下略)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「良いところはまねる。良くないことはマネしない」
でいれば、
「世の中は良くなる」
でも、実際は
「悪いところばかりマネをする」
「是は是、非は非とする」
そうすれば、
「世の中は分かり易くなる」
でも、実際は
「非の見直しで混沌として来る」
「良い」と「悪い」=「是」と「非」の関係。
世の中、まだ、そんな風に思っている人が多いんじゃないでしょうか。
「良い」と「悪い」は対立関係ではなく重層関係でしょう。
反対に
「是」と「非」は対立の色が濃い。
安易な文字の置き換え、簡略化、言葉の言い換え、喩えの乱用(濫用でなく)等で、考え方は簡単に捩じれます。
(以下略)
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「良いところはまねる。良くないことはマネしない」
でいれば、
「世の中は良くなる」
でも、実際は
「悪いところばかりマネをする」
「是は是、非は非とする」
そうすれば、
「世の中は分かり易くなる」
でも、実際は
「非の見直しで混沌として来る」
「良い」と「悪い」=「是」と「非」の関係。
世の中、まだ、そんな風に思っている人が多いんじゃないでしょうか。
「良い」と「悪い」は対立関係ではなく重層関係でしょう。
反対に
「是」と「非」は対立の色が濃い。
安易な文字の置き換え、簡略化、言葉の言い換え、喩えの乱用(濫用でなく)等で、考え方は簡単に捩じれます。