CubとSRと

ただの日記

真相はかうだ!(旧仮名遣いにしてみました。あ、題名だけですよ)

2020年05月04日 | 重箱の隅
2012.09/10 (Mon)

 今朝のテレビではどの局も「オスプレイ配備反対集会に10万人が集まった」
 ということで、赤一色に染まった会場を映し出していました。

 「政府がちっとも分ってくれない」と涙ぐむ中年男性、
 「この青い空はアメリカの物でも日本の物でもない。沖縄のものだ!」
 と演説する大学生、
 「前回は黄色だったけど、今回は国にレッドカードだから、赤にした」
 という関係者。
 もう沖縄県民総出で、このままじゃ、もう沖縄は独立するしかない、といった雰囲気なんですが。


 昨日はこれ、書く気は全くなかったんです。
 というのも、東京からも記者が飛んで、地元のテレビ局の記者と一緒に開会前からリポートをしていたんですが、南国風というか、いかにも沖縄風というか、集まった人の前で沖縄ミュージックのライブが始まり、その賑やかなこと。

 「10万人集会」、なんてみんなまなじり決してピリピリした雰囲気の中で、暴動でも起きるんじゃないか、って雰囲気かと思ったら、リポートの間中、賑やかな三線の音と、「はいや、はっ、はっ!」という沖縄の合いの手が聞こえ、リポートが半分しか聞こえない。早い話がお祭りイベント状態。

 組合の動員は当然かかってるし、少年野球のチームは練習なしで来てるし、大学生なんかは日当三千円で集まっていたのもいるらしいし、何より台風で延期になったため、資金が足りず、カンパもしなければならなかった。
 集合のためのバスは無料。

 金官デモはドラム叩いて「げ~んぱつ、い~らない!」ってやってたから、へたすりゃ暴動が起きても不思議じゃないな、と思ってたけど、沖縄はちょっと違う。
 暴動よりも「ええじゃないか」が起こりそうだった。

 けど、両方とも勿論、そんなもの、起きてない。頭っからそんな緊張感はなかった。両方ともプロデューサーがいた、ということだろう。
 でも、テレビや新聞を見れば、暴動になりそうな報道ぶり。
 「市民の怒りだ。次は暴動が起きるかも」、みたいな。


 「狼魔人日記」の
 「恥の上塗り!『10万人集会』!」
 から部分転載です。
~~~~~~~~~~~~
 嘘の上塗りとは自分の嘘を正当化するため嘘の上にさらに嘘をつき、ますます辻褄が合わなくなることをいう。
 昨日の「似非県民大会」の参加人数。
 その主催者発表が嘘の上塗りの絶好の見本である。

 2007年9月、同じ宜野湾市の海浜公園で行われた「教科書検定意見の撤回を求める県民大会」(2007.9.29)。
 実際は3万人足らずの人数を「11万人」と桁外れの水増し発表してしまったた。
 「11万人」との整合性のため、実際は2万人足らずの人数を「10万2千人」と発表せざるを得なかった。(涙)
 これを嘘の上塗り、と世間では言う。

 いわゆる「11万人集会」の「11万人」が桁外れの捏造数字であることは、会場の収容スペースやその後の空中写真などの検証により証明されている。
 今時「11万人」を信じる人はよっぽどの情報音痴以外には考えられない。
 では今回の実際の参加者はどのくらいだったのか。
 現場取材をした本土新聞の記者2人の本音を聞いてみた。
 1万五千人から多くて2万人。
 大型集会の取材に経験のある2人の記者は多くて2万人が結論だった。
 沖縄の公安官関係に情報源を持つ惠隆之介氏によるとこうだ。

 シンクタンク「沖縄・尖閣を守る会」

   代表の惠です

  本日、沖縄列島各地で「オスプレィ配備反対県民集会」が開催されました。
  例のごとくNHKは本島宜野湾海浜公園で「10万人が集まった」と嘯いて
 おりますが、主催者内部発表3万人弱(自称「極秘」)、公安関係調査2万人
 超です。

         (略)

 筆者に本音を語った2人の本土紙記者の証言、惠氏による「警察発表」、それに◯◯◯ さんの分析が計らずも「多くて2万人」と符合している事実から、当日記は参加実数は「1万5千人~2万人」と結論つけておく。

 かくして「嘘の上塗り」は、「恥の上塗り」へと繋がっていく。



 ~狼魔人日記~

 「恥の上塗り!『10万人集会』!」


 http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925

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9月入学 ちょっと一言④ (我々が建てる)

2020年05月04日 | 重箱の隅
2012.02/01 (Wed)

 「学校をどこに建てるか」などと妙な題で、ぐだぐだと日記を書いてみましたが、どうも、これ、「教育が、生まれた時から十全に為され」たならば、今回の「9月入学について検討をする」ということ自体、起こり得ない問題なのではないか、という思いにつながるようです。

 「学校を建てる場所」というのは、一般的な人間の精神形成過程に合わせて決められるべきものです。
 そして、それは最終的に社会に参加する人間、それも優秀な人間を育てることと直結しています。
 「精神形成過程に合わせた教育内容」も、「精神形成過程に合わせた学校の立地場所」も、「精神形成過程に合わせた取り組みの時期」も、全て社会に参加する「より優秀な人間」を育成するために案出されています。

 繰り返しますが、教育というのは、言葉の分からない、生まれた瞬間から始まっています。
 「叱らなくても、叩かなくても、話せば分かる」、なんてことを言いますが、生まれたばかりの泣いている赤ん坊に、「話せば分かる」。
 それは、ない。
 「当たり前だ!」と怒られそうですけど。勿論、叱ったって、叩いたって駄目ですよ、当然。

 それでも(何も分からなくても)、我々人間は生まれた瞬間から「人間」として、処遇される。理解はおろか、初めは感情は言うまでもなく、その元となる「快・不快」さえ明らかではない。それでも人間として処遇される。
 ただただ「びっくり(驚駭)」するだけのところ(生まれた瞬間)から、既に教育は始まっている。「教え」「育む」ことは始まっている。
 感情が分化し、それと共に精神が発達する過程でも、「社会の中で感情は分化し、精神は発達すること」という条件の下に、「教育」はついて回る。

 叩かねばならない(覚えられない)時期もあります。
 怒鳴りつけねばならない時期もあります。
 強い口調で叱らねばならない時もあるし、優しく頷いてやらねばならない時期もある。成長の時期と場合によって応対を変えるのは当然で、「叱ってばかり」、「頭をなでてばかり」などという教育がある、としたら、それは人間相手ではない、と断言できるでしょう。
 「教え育む」と変化(発達、向上)するわけですから、同じ応対で良い訳はない。砥石で刃物を研ぐ時だって、荒砥だけで通すことはできません。ましてや相手は人間です。
 
 この社会に参加して、社会を維持・変化させる。そのため、我々は社会的存在であることから「人間」と言われます。
 社会があって、その中で、社会に参加する「人間」として育てられ(また、育ち)、更に重ねて、今度は社会を維持・運営し、更に重ねて発達(変化・変革)させていく。
 社会は人間を育て、その人間が、また社会を育てる(変化・発展させていく)。
 社会は、だから人間のものです。そうなると社会の運営・発展に於いて、人間の「意志」が重要であることは、言うまでもないことでしょう。

 そう考えていけば、大学の入学時期一つとっても、社会的意義(それもそれなりの「主体的な理由」を基とするもの)があって、でなければならない。「意志」が絡んでいなければならない。
 間違っても、浅墓な功利、打算、安易な妥協でもって、主体性なく、大勢に追随すべきではない。

 「大勢がそうだから」というのを主たる理由とするならば、それは日本という国家・文化・文明を蔑ろにすることになる。国を崩壊への道に進ませることになる。
 けっして法螺話ではありません。大げさな話でもありません。

 今、年金や消費税のことが話題になっていますが、根は一緒です。
 「大勢がそうだから」。「世界の大勢は年金がない」「大勢は消費税はもっと高い」

 我々は日本人です。
 日本のことは「世界の大勢」ではなく、我々日本人が決める。
 日本の社会は日本人である我々が変化、或いは発展させる。
 当たり前のことじゃありませんか。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ・・・ということで、今回、「緊急事態宣言」がなされ、更に一ヶ月程度それを延長されるにあたり、「いっそのこと、9月入学にしたら?」という意見が出てきたように聞いています。
 社会の構成、構造の中で重要な位置を占める学校教育を、「いっそのこと~」なんて発想で変更する、というのは・・・・。
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9月入学 ちょっと一言③ 学校をどこに建てるか

2020年05月04日 | 重箱の隅
2012.01/30 (Mon)

 「世界の大勢は9月である。だから、9月にすれば、国際化の中、優秀な人材が世界から日本に集まる。日本からの留学にも都合が良い。だから、9月にすれば、全て上手くいく。」
 大まかにはこんなことを書きました。
 でも、そんなのおかしい、とも書きました。

 日本の大学は我が国の若者を対象として、「優秀な人材を育成する」ためにあるのであって、外国から「優秀な人材を取り入れる」ためにあるのではない。
 それに、4月が一番便利だからという、それなりの理由があってのことだったんだから、単に「世界の大勢が」どうのこうの、というような主体性のないことで決めるなんて、最高学府の誇りはないのか?とも。

 それで、「学問の府なんだから」、目的を最初に立てなければ、ということで終わったものの、何だか本当に「学問とは何か」から見直すべきかも、と思い始め、続けて「措定してみる」という題で、「学問」という言葉を見直してみることにしました。

 賢い人は「そんなこといまさら言わなくたって」と思うかもしれないけれど、大概の国民は「何となく遣っている言葉」って多いものです。
 麻生前総理のように「みぞうゆう(未曾有)」「ふしゅう(踏襲)」などと言った読み間違いはいつまでも笑われますが、(あ、でも疾病を「しつびょう)と読んだ総理は笑われないな。何でかな?)、意味を間違って遣っていなければ、大きな問題にはならない。
 けど、意味を「何となく思い込んで」遣っているのは、笑われない分、とんでもない考え間違いを起こしたまま、ってこと、ありそうでしょう?
 「誠心誠意」とか「一生懸命」なんかはすっかり市民権を得てしまったけれど、元の言葉を知っていてこそ、考える時に使える。
 だから、一般的な色々な言葉で、意味が広く深くなっているものは、ひとまず考える時の役に立てるために、「措定」してみようじゃないか。そうしなければ、考えの道筋を探るのが曖昧なことになってしまう。そう思ったからです。
 考えるために言葉を使う。
 その言葉の意味を、いい加減に掴んでいたとしたら、まともな考えなんかできるわけがない。

 何より、「国勢」は国民が造るのです。
 国民全体の、頭の中身が高くならなければ、良い国を作るための役人も政治家も輩出できるわけがない。
 でしょう?役人も政治家も、我々国民の中から生まれるのですから。
 役人も政治家も「海外から取り入れた優秀な人材」、ではないのですから。
 ちょっと考えれば、誰だって納得できる筈のこと。


 ということで、長くなりましたが、今日はまた変な題名。
 「学校をどこに建てるか」

 大学は最高学府なんだから、「国の将来を切り拓く」、という誇り、自負心、向学心に向上心、それに功利、打算を超越した無私の心や使命感といったものがある筈です。いや、あるべきです。
 では、そこに至るまでの高校や中学校や小学校はどうなのか、どうあるべきなのか、なんてことを考えました。

 「孟母三遷の教え」、なんてのは、最近はどう捉えているんでしょうか。
 私の記憶にあるところでは、孟子のお母さんは大変な教育ママ、みたいな言われ方だったんですが、今のモンスターペアレントと基本は一緒かも知れません。ああ、鬼子母神も、ですね。
 こんなことを書くと、「何を言うか!」と怒鳴られるかも知れませんけど。
 でも、「我が子をちゃんと育てたい!」という一所懸命な気持ちは共通です。

 問題は、「ちゃんと」の中身です。そこに「社会(支え合い、助け合って生きる場)」の一員という気もちがあるかどうか、です。
 「人は社会(環境)の中に人間として生まれ、人間として育てられ、人間として参加(変革)する」のですから、社会を肯定する立場でなければ参加は許されません。それを受け入れない(社会規範に反対する)のなら、弾き出されるしかない。だから、鬼子母神もモンスターペアレントも社会は受け入れない(筈です)。
 孟子のお母さんは社会を肯定し、社会に参加できるように、と「一所懸命に」なって孟子を育てた。
 たった一人で獅子奮迅の活躍をしたのではなく「三遷」して、終に理想の環境を手に入れたわけです。
 勿論、そこから先も、「社会への働きかけ」よりも、一所懸命を見せることで、孟子自身に考えさせた。孟子の参加する社会は、孟子自身の働きかけで拓かねばならないからです。
 
 翻って日本はどうかというと、以前「子供の楽園」と題して書いたように、周囲の大人が、「子は宝」として、全面的に受け入れ、みんなで可愛がって育てることで、まず、社会に対する全面的な信頼感を育てる、ということを古くから当たり前のこととしてやって来た。
 結果、大人を信頼するのは当たり前、みんなで力を合わせて仕事をするのも当たり前、困っている人がいたら助けてあげて当たり前、などの、他国の人から見たら信じられないような国民性を持つ日本人が「作られて」きた。

 これもまた、「教育の成果」、です。

 そのような地域社会から「小学校」という新しい特殊な社会に入る。
 これまでの社会と違うのは大人が少ないこと。そして、非常に効率よく学ぶことのできる体制がつくられていること。
 その中で、大人はこれまでのような緩やかな要求ではなく、素早い対応と、要求に(完全に)適った答えを求めて来ます。ここで、初めて「ちゃんと聞く」ことを学び始めます。
 「厳しい」、とは思っても、真っ当に応えたなら、地域社会の大人と同じように笑顔で褒めてくれたり、丸をつけてくれたりする。初めは戸惑っても、すぐに同じく、自分を受け入れてくれる大人と分かり、そこに参加する自分を造りはじめる。

 学校を建てるのはどこが良いでしょうか。
 小学校は、新しい特殊な社会ですから、それ以外の社会のことまで学習するのは大変です。だから、繁華街や、役所等の大きな建物が立ち並ぶところはあまり良くない。できれば、郊外。百歩譲って住宅街ですが、ここは、大人の協力が必要です。
 安易に「世界の大勢に倣って9月入学を進めよう」とするのと、とりあえず「適当な空き地があったから、学校にしよう」という考えは、似たようなもの。

                     (続く)
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9月入学 ちょっと一言② 措定してみる

2020年05月04日 | 重箱の隅
2012.01/23 (Mon)

 「最高学府」である大学が、何故、あのような安易な理由で「9月入学」の検討を始めたのか。

 ということで、「夕刻の備忘録」氏のエントリーの紹介のつもりで書き始めたんですが、中途半端に長くなってしまい、何だか訳の分らない、と言うか、主客転倒したというか、いずれにせよ肝腎の備忘録氏の日記の抜粋もしない、みょうちきりんな日記を書いてしまいました。

 いくつかコメントをいただいてから、考えていました。
 何か、たとえ、ただのグダグダ日記でも、言いたいことをはっきりさせようとすれば、その文の中で重要な言葉、というのはちゃんと意味を明らかにしておかなければならない。
 で、最低限共通した意味の捉え方を、となると、やはり、本題に入る前に、「これは~です」という説明を、たとえ
 「煩雑だなあ、読み辛い」
 と思われるのが容易に想像できたとしてもやらなければならない、となりました。

 それで、「学問」が中心となったので、あの時は、
 「学問、学び問うことの先には、世界の向上・発展がある」
 とやったのですが、どうも、簡便に過ぎたのではないか。
 

 一昨年の2月、「学問という言葉」と題して日記を書いていました。
 それを、ここに転載しようと思います。
 こうやって、一つ一つの言葉の意味を措定する。それによって、考えの道筋をさぐる。
 「大学の教職員だから」、とか、「国家公務員だから」、と彼らの言を鵜呑みにするのでなく、
 「彼らだって、もしかしたら、そんなこと、考えてなかったかもしれない」
 くらいな気持ちで、まずは自分なりに言葉の意味を考えてみる。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 2011、2、20
 「学問」というのは、「学び」、「問う」ということです。
 「学び」、「問う」ことで、知識、考え方を吸収し、自身の理解能力を高め、物事を把握する力をつける。

 これで良いということはないのが学問です。
 あの名文句、
「一番じゃないと駄目なんですか」
の正反対。一番をめざしてやってこそ、学問というものは高みに上り、深みがわかる。

 一番をめざす、つまり、究極を求める。
 しかし、突き詰めれば、細分化し、枝分かれするのが学問です。その究極は「(その分野での)NO、1」です。
 「無限にあるNO、1の中の、(その分野での)NO、1」。
 それが「オンリー・ワン」、じゃないですか?

 論理的にみて、最初っから「オンリーワン」をめざしたら、中途半端なところにしか、いけません。無限にある到達点の、どれに焦点を絞るか、決められないからです。
 
 初めは学問を生涯の仕事とする熱意があるだけです。
 「発願(ほつがん)」「発心(ほっしん)」「初誓願」の段階では、素養も能力もないのが当たり前です。
 「素養」とは(もとになる)養われたもの、です。
 「能力」とは(物事を)能(よ)くする力、です。

 学問をする。学び問う事によって、素養ができ、そのことを無駄なく、的確に把握、処理する力(能力)ができる。

 いきなり、何だかどうでもいいような理屈をこねくりまわした、ように見えたかもしれません。

 「人を見たら泥棒と思え」、じゃありませんが、
 「やたらに何でも信じるものじゃない。疑ってかかれ」とか
 「疑うことが、学問には肝要である」とか言います。
 学校でも
 「そんなに簡単に納得しないで疑ってみることが大事だよ」
 「そう?それでいい?間違ってない?ラストチャンスだよ?」
なんて、生徒の早合点を注意したり、時には興味を持たせるために、「疑う」ことを勧めます。


 けれど、これ、おかしくないですか?
 「学問」というのは「学び問う」ことですよ?なぜ、「疑え」、なんですか?

 これが「戦後教育の根幹を成すもの」であり、戦後教育を受けた日本人の精神を歪めてしまった、具体的事例である、と言ったら、
「そんなあ!それ、いくら何でも被害妄想だよ。」
と言い切れますか?

 「学び、問うのだから、『問う』のは疑問があるからだろ?ほら、『問い』には『疑い』が入ってるじゃないか」

 もし、そう考えたとしたら、「疑問」という言葉の意味、それから目的を考えてみて下さい。
 「疑問」というのは、
「問題となる対象物を理解しようとしたけれど、一部引っ掛かるところがあって、どうしても理解(全体把握)できないんだけど。」という「解らない」
に関しての言葉です。目的は対象物の理解。そのために使われます。
対象物を肯定、或いは、受け容れるためのものでしょう?

 「疑い」はどうですか?
 正反対の意味になりませんか?

 ただ、日教組を、今回だけは、消極的にですが、同情の目で見ています。
 あまり真剣に考えず、小中学生のために、と、わかり易く平易な言葉を遣おうと心掛けた揚げ句、「疑問」という言葉を「疑う」という正反対の言葉に置き換えてしまった。
 「考える」という活動、生き方の根本に直接つながっている言葉による頭脳労働、のための「言葉」の間違った把握は、「考える」という活動を知らず歪めていったのです。
 
  「疑いを持て。」
  もう一度、この言葉の目指すところを考えてみるべきではないでしょうか。
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9月入学 ちょっと一言①

2020年05月04日 | 心の持ち様
 今回のコロナウィルス禍で、また9月入学案、(それも今度は学校全て)が涌いてきたようですね。それも前回の浅知恵をはるかに凌駕する場当たり的発想。
 8年前も大概だったけど、より劣化している。
 先日挙げたばかりですが、再々掲します。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「大学の9月入学を検討」の理由は?
 2012.01/20 (Fri)

 先日、「大学の入学を9月に」という報道がなされ、いくつかの番組でもそのことに関するニュースが特集的に組まれていました。
 何しろ東大で検討が始まった、ということですから、基本、何となし肯定的に見ている感がある。

 何でも、世界の大学で、4月入学、というのは僅かに3%なんだとか。
 それから、日本は明治の初期は9月入学だったのだが、年度の会計締め切りが3月であること。つまり、4月入学はそれに合わせただけだ、と。
 それに3月は田植えの準備、田植え等で忙しいから、人手がほしいということで4月になった(?)。

 こう言ってしまえば、「4月入学に何ら必然性はない。世界の大勢は9月である。だから、9月にすれば、国際化の中、優秀な人材が世界から日本に集まるから、9月にすれば、全て上手くいく。」
 となって、「まずは東大からだ。そうすれば国立大は右へ倣え、だ」となる。

 「なるほどねえ。さすが東大。ちゃんと最高学府のリーダーシップを取ってるなあ」
 なんて考えるんでしょうかね、今の日本人は。

 でも、おかしいですよ。
 確かに、4月入学に必然性なんかありません。それは9月入学に何ら必然性がないのと同じことです。言い方を換えれば、大学別に好き勝手に入学式、したっていいんです。
 勿論そんなバカなまねはしない。そんなことしたら、受験生は言うまでもなく、社会全体から猛反発が来る。入学試験に焦点を合わせて、高校も受験塾も予備校も受験生の家族も行動している。
 もっといえば、社会全体がその時のために社会の仕組みを特別につくっているんです。時期を合わせて入試をやり、入学をさせる、というのはそのためであること、今更言うまでもない。

 「4月が色々な面で、便利だ」。これが理由で4月にした。
 では、9月にする理由は?
 「世界の大勢は9月である」「9月にすれば、世界中から優秀な人材が集まる」「海外留学もしやすくなる」

 何だかおかしくないですか?
 「社会の仕組みとして都合がいいから4月にしていた」が、「世界の大勢が9月だから倣おう」「優秀な人材も入って来る」「海外留学も空白期間なしにできる」。

 「4月入学」には曲がりなりにも国として、理由がある。
 けど、9月入学のどこに、国は言うまでもなく「最高学府としての理由」、もっと言えば「誇り、自負心、向学心、探究心」があるのでしょうか。「大勢に倣う」ことのどこに「主体性」が、「意志」があるでしょうか。
 我が国は「独立国」、ですよ?優秀な人材を「(外国から)取り入れるため」、ではなく「育成するため」に、学校はあるのではないですか?そして、それは我が国の若者が本来の対象なのではないですか?

 大学は最高学府。学府とは「学問の府」、学問の中心地です。
 「学び問う」のは、公私何れからであっても、その先に社会の、世界の、向上・発展があるからです。
 だからこそ、社会は学問に敬意を表する。だからこそ、学生、学者は私利私欲からではなく、その先(社会への貢献)を、見つめようとする。
 一見どうでも良いようなことこそ、浅薄な功利、打算で 性急に判断すべきではないことは、ここ数年の「仕分け」と称する小刀細工で取り返しのつかないようなことをした、また、目先の甘言に釣られてとんでもない政党を与党にしてしまったことを思い出せば、容易に納得できることと思います。

 え?
 「与党を選んだのは『一見どうでも良いようなこと』、なんかじゃないぞ!」
 そうですか?
 テレビを見る限りでは、「誰がなったって一緒じゃない?」「自民党ダメだったけど、民主党も・・・ねえ」「民主党ダメだけど、自民党に戻ったって・・・」みたいなことばかり言ってませんか?


 夕刻の備忘録
 「秋入学は『大学のTPP問題』である」を読んで共感し、思ったことです。
 
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